女王の商人

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  九章  貴族と商人 10−12    

「ただいまー」
 リーブル商会の扉を開けると、シアはいつも通り、何事もなかったような明るい声で挨拶した。家に帰ってくると、何とも言えない安心感がある。
「おかえりなさい、シアお嬢さん!」
 倉庫と行き来しながら荷物を運んだり、帳簿の整理をしていたり、忙しそうに働いていた商会の面々は、シアの顔を見ると、笑顔でおかえりなさい、と声をかけてくる。
 エルト、アルト、カルトの見習い三つ子もいた。
 ソファーでは、祖父のエドワードが俯くふりをしながら、ふがふがと居眠りをしている。
 いつもの光景。切ない程に変わらない、何よりも愛おしいそれ。
 雑然としていて、ガヤガヤ騒がしくて、何もかも整っていて、冷ややかさえ感じたレイスティア侯爵家とは雲泥の差だ。けれども、シアにとっては我が家だ。他の何処に行くよりも、ずっと此処に居たい、と切に思う。
 いや、違う。シアは此処にこそいるべきなのだ。
 女王陛下の商人としての誇りが、いまだ未熟なこの身にあるならば。
 商会のカウンターには、クラフトが座り、部下に何事か指示を出していた。
 シアの姿を認めると、刹那、瞠目し、垂れた眼じりがさらに下がる。
「おかえり、シア」
 創業者であるエドワード=リーブルのように、圧倒的なカリスマ性に恵まれているわけではない。ただ柔軟で、人を受け入れる器が、とてつもなく大きい。それが、リーブル商会二代目、クラフト=リーブルの才だ。
 その性質に、母、深い孤独を抱えたエステルも、また救われたのだろう。
 居眠りをしているように見えたエドワードが、ちょいちょいと瞼に下がりつつあった帽子をずらして、「シア、おめえさん……これで良かったのか?」と、やや改まった口調で問う。
 レイスティア侯爵家で、どのような話を持ち掛けられたのか、エドワードには想像がつくのだろう。貴族と関わり、そちらで生きていく道もあっただろう。だが、シアはそれを選ばなかった。
 何の後悔もない顔つきで、仲間の元へ、リーブル商会へと戻ってきた。
 祖父の問い掛けに、シアは誇らしげに胸を張った。あたしは。
「あたしは、商人だから。――クラフトの娘、エドワードの孫、それでいいの」
 シアの出した答えに、クラフトは微笑んでうなずき、エドワードがふんと鼻を鳴らした。それが、ほんの少し鼻声に聞こえたのは、きっとシアの気のせいではないだろう。――あたしは、女王陛下の商人なのだ。
「そう、それでこそ僕の、リーブル商会の娘だ」
 クラフトはうなずくと、シアの方へと歩み寄って来て、一通の手紙を手渡した。
「君に女王陛下からご伝言だよ、明日、アレクシス君と共に、王城へ来るようにと」

 ――女王陛下から、登城せよとの命令。
 その時は突然、訪れた。
「女王陛下から……?わかったわ」
 レイスティア侯爵家での一件では、シアやアレクシスが困った立場にならぬようにと、クリストファーが自ら、女王陛下に書簡を送ってくれたということだった。ただ、それとは別に、直接、報告に上がらねばならないのは勿論だ。
 ただ、それだけではないような、不思議な予感がした。
 翌日のことを思いながら、シアは寝台へともぐりこんだ。


 次の日の朝、シアはリタ、ニーナ、ベリンダたちに手伝ってもらいながら、身支度を整えた。ラベンダー色、襟と裾にフリルのついた、清楚な印象のドレス。
 それは、母が若い頃に身に纏っていたものである。
 母がことのほか愛していたドレスは、優しく娘を包んでくれる気がした。
 銀髪を結い上げると、仕上げに、花弁の如き唇に紅を引いて、シアはアレクシスの待つ馬車へと向かった。
 
 王城に到着したシアとアレクシスが御前に進み出ると、エミーリア女王陛下はいつも通り、くつろいだ様子だった。
 我らが女王陛下、アルゼンタールが誇る大輪の華は、相変わらず、威厳があって美しく、神々しい。
 しかし、シアと目が合うと、整った眉を寄せ、ごめんなさい、と真摯に詫びた。
「クリストファーおじ様から聞いたわ。リーディア叔母様が、迷惑をかけたわね。あなた方はどれほど怖かったことか……あの後、コンラッドからもわたくしの浅慮を、よくよく叱られたわ」
 この国において、並ぶもののない玉座に在りながら、自らに非があると思えば、どのような身分の者にも真摯に詫びられるのが、エミーリア陛下の美徳であり、民に慕われる由縁である。
 貴族社会において、血筋と権威を振りかざし、そういった事が出来ない者も、アレクシスは何人も見てきた。
 いいえ、とシアは首を横に振る。
「真実を知れたこと……レイスティア侯爵家の方々が、長年の苦しみから少しでも解放されたならば、あれは必要なことだったのかと思います」
 いつも哀しみを抱えていた、優しい母。
 暴かれた真実は、シアにとって悲しいものではあったけれど、それでも知れてよかったと、今は思っている。
 シアの言葉はやや予想外であったのか、エミーリアは小さくため息めいたものを零した後、「惜しいわね、貴女のそういうところが、何よりも手放したくないと思うのだけど」と、独り言のように続けた。
 しかし、エミーリアは王冠の重さに負けぬ、強靭な意思を備えた女であった。一呼吸おいたあと、
「シア=リーブル、アレクシス=ロア=ハイライン、今日、あなた達を王城に呼んだのは、一言、謝りたかったというのもあるけれど……もう一つ、告げるべきことがあったからよ」
と、言葉を重ねる。
「告げるべきこと……でございますか?」
 改まった口調に、何かを感じたのだろう。アレクシスが咄嗟に、居住まいをただす。
 そう。
 小麦色の肌、組んだ美脚が、辛子色のドレスの裾からチラリとのぞく。何とも言えぬ艶やかな笑みを浮かべると、エミーリアはパタリと、持っていたレースの扇子を閉じた。
「シア、もう一年近く前になるはね、貴女を女王の商人として任命した日の事は覚えている?」

――「よく来てくれたわね。シア=リーブル」
 麗しの女王陛下は、そう言って花のように微笑んだ。――ああ。なんとうつくしい。

「もちろんでございます」
 忘れるはずもない。
 荘厳華麗な謁見の間、星のようなシャンデリア、金細工の玉座に座すわ、美しい女王。一年前のあの日、シアの女王の商人としての日々が始まったのだ。
 そして、アレクシスと出逢った。
「嬉しいわ。では……あの時、口にした約束と、その期限の事も覚えているかしら?貴方を銀貨の商人から、金貨の商人へと上げる約束を。私の商人となって働いてくれる期間は、ちょうど一年だったわね」
 エミーリアの言葉に、シアはハッと目を見開いて、そうだったと思い出した。
 女王陛下の望みを叶えるため、アレクシスと共に泣いたり、笑ったり、出会いや別れ、時には危険な目に合ったり、様々な困難を乗り越えて……ずっと、こんな日が続いていくような気がしていた。一年前のあの日は、そんな事、想像もしなかったというのに。


「商人?女の?」

「――だからなに?ここは女王陛下の国でしょう?」
 (やっぱり貴族なんて嫌いだっ!)
 青年は漆黒の瞳をシアに向けると、低く堂々とした声で名乗った。
「――俺の名は、アレクシス=ロア=ハイライン。王剣の騎士だ」
 

 出逢った時は、貴族らしく嫌な奴だと思った。
 女王の商人としての一年間の役目を終えるまで、仕方なく相棒と認めただけだった。アレクシスのことを、仲間としても、人としても、こんな風に大切に思うようになるなんて、自分でも全く思っていなかった。今では――大好きなひと。
 そして、玉座のエミーリアを、シアは仰ぎ見る。
 麗しき我らの女王陛下、この御方の為に働けることは、シアの喜びであった。どんな無理難題や、困難に巻き込まれても、投げ出そうと思ったことはなかった。それは、シアが心から、この国の民として、女王陛下を敬慕していたからだ。我らの、我らの女王陛下。アルゼンタールが誇る大輪の薔薇、女王陛下こそが象徴であり、この国の平和そのものなのだ。
 ――振り返れば、夢のような日々であった。
 それも、もうすぐ終わる。
 たとえ、終わらせたくなくとも……物事には始まりがあれば、必ず、終わりがある。
 良い事も悪いこともあった日々を振り返り、シアが束の間、回想に浸っていると、女王陛下は「アレクシス、貴方も」と傍らの騎士に声をかけた。
「一年もの長い間、よく務めを果たしてくれました。兼ねてから話していた通り、騎士団への推薦状を書きましょう」
 女王陛下直々に、近衛騎士団への推薦状を書くというエミーリアの言葉は、騎士としてこの上ない誉れなはずだが、アレクシスは浮かれるでもなく、粛々と「女王陛下の御心に添う事こそ、騎士の本懐なればこそ」と、頭を垂れた。
「いいえ、貴方は立派に役目を果たしてくれました。アレクシス、貴方に頼んでよかった。王剣ハイライン……貴方のご先祖様に聖剣オルバートを預けたのは、正しかったと思うわ」
 王剣の名を抱く、ハイライン伯爵家。
 騎士の中の騎士とも称され、王家から聖剣オルバートを賜った、その血筋はアレクシスにとって誇りであるはずなのに、女王陛下の言にアレクシスは刹那、眉根を寄せ、何か強い痛みを堪えるように唇を引き結ぶ。
「……未熟なる身なれば、勿体ないお言葉です」
 アレクシスは一度目を閉じると、言葉少なにそう応じるに留めた。その複雑な胸中を、一切明かすことなく。
「話はこれで終わりよ。色々と手続きはあるけれど、一月後までには貴方たちの推薦状を用意するわ……それとは別に、シア、アレクシス、貴方たちは本当によく働いてくれたから、わたくしからの褒美も与えましょう」
 敬愛する女王陛下からのお言葉、どれも光栄な話であるはずなのに、アレクシスの顔色は相変わらず、冴えない。
 隣にいるシアも、そのことが気にかかり、笑顔で礼を口にしながらも、その実、手放しに喜ぶことが出来なかった。
 それぐらいアレクシスの様子は、妙であった。
 女王陛下も、もしかしたら違和感を覚えていたのかもしれないが、そこを深く追求することなく、エミーリアの政務の予定に合わせて、その場はお開きとなった。


「アレクシス、アレクシス……ちょっと、本当に大丈夫?」
 王城から馬車を走らせ、市街に出てなお、シアの再三の呼びかけも耳に入らぬほど、アレクシスは上の空であった。
 何度、名前を呼んでも碌な反応を返さぬ青年に、シアは怒りよりも先に、心配になる。
 出会ってから今まで、ここまで心ここに在らずといった態のアレクシスを目にするのは、初めてであった。生来、生真面目すぎるほどに生真面目で、人に対し、いい加減な態度を取る男ではない。
 一体、全体、どうしたのかとシアが不安に駆られるのも、止む無きことであった。
「あぁ……」
 返事も又、感情のこもらぬものであった。
 そんな生返事に、シアは肩をすくめると、とりあえず食事でもしようと、御者に最近できた、王都で評判のレストランへと案内を頼む。
 その店は、もともとリーブル商会の食堂で修行していた料理人の店で、三つ子の行きつけでもあった。
 シアが魚介のクリームソースがかかったオムレツに舌鼓を打ち、爽やかなミント風味の、一口シャーベットで口直しをしている間も、アレクシスはずっと無言で、何かを深く考え込むような、そんな難しい表情をしていた。
 良家の出身らしい嫌味なぐらい完璧なマナーで、食事を進めながらも、青年の顔は美味を楽しむ者のそれではない。
 シアがデザートとして、五つ目のケーキを軽く平らげた辺りで、アレクシスは伏せていた面を上げると、「話がある」と意を決したように切り出した。
「この後、時間はあるか?シア……話したいことがある」
 もぐもぐと食べていた口元をハンカチでぬぐうと、シアは「なんの話?まぁ、いいわ」と、うなずいた。
 アレクシスの真剣さを見るに、どれほど深刻な話かと怖くもあったが、自分に話してくれるという信頼こそが嬉しくもあった。
 レストランを出た後、なるべく人の目につかない場所がいいという事で、足早に歩いて、路地裏へと入る。
 行き止まりの壁が迫ったところで、アレクシスの背中について歩いていたシアも、通行人もいないし、もういいだろうと、その真意を尋ねた。
「何なの、話したいことって?」
 アレクシスはピタリと壁際で立ち止まると、シアの方を振り返った。
 漆黒の、息を呑むような真剣な眼差しで、見つめられる。
 すっと通った鼻筋、切れ長の瞳、端整な顔立ちは、何とも言えぬ迫力がある。シアは思わず、恥ずかしくなって俯き、やや視線を外した。気のせいか、頬が熱を持っている気がする。
「シア……」
 アレクシスが手を伸ばしてくる。
 シアは反射的に壁際に追い詰められて、身長差からアレクシスを仰ぎ見るような姿勢になった。見ようによっては、男に迫られているという雰囲気だ。自然、シアの鼓動も高まる。恋人、というには微妙な関係の異性に、そんなことをされれば、意識するなという方が無理だ。
「ちょ、アレクシ……」
 シアが戸惑うような声を上げるのもおかまいなしに、アレクシスは彼女の耳元に唇を寄せる。吐息がかかる。それ以上は駄目―!!と、彼女が叫ぼうとした瞬間だった。
「ないんだ……」
 今まで聞いたこともないような、頼りない声でアレクシスが囁く。
 まるで、迷子の子供のような、半ば泣きそうな声音だった。
「え……」
「我がハイライン伯爵家には、王家から賜った聖剣オルバートは無いんだ。俺が生まれる前に、行方知れずになってしまって……」
 アレクシスの口から告げられた事実に、シアは我が耳を疑った。
 そんな馬鹿な。ハイライン伯爵家が、聖剣オルバートを所持していないなど。王家から賜ったものを紛失したなど、不敬罪に問われかねない。王剣ハイライン、その名が誉れであればこそ、騎士の青年にとって、絶対に知られたくないことだっただろう。

 アレクシス、どうか頼む……聖剣オルバートを、失われたあれを、取り戻してくれ……あれを救ってやってくれ……息子よ。どうか。
 最後の騎士たる者、そう称された父の遺言は、片時もアレクシスの耳から離れることなく。

「シア、頼む。どうか、聖剣オルバートの行方を、一緒に探してくれないか?」
 
 微かに震える肩。
 いつも凛とした青年の、そんな姿を見るのは、シアは初めてだった。けれども。
 この青年の剣は、いつもシアを守り、共に戦ってくれた。だから、答えは最初から決まっている。
 アレクシスの懇願に、シアは戸惑いを振り払うと、力強い笑みを浮かべた。自分とは違う、剣を握る無骨な手を、包むように握り締める。
「当り前じゃない。あたしたちは相棒でしょ」
――と。
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