女王の商人
九章 貴族と商人 10−3
レイスティア侯爵家が訪れてからというもの、アレクシスの胸には、他人には説明し難い、漠然とした不安が渦巻いていた。
(この屋敷、否、この侯爵家の人々は、何かが妙だ……)
病を患い、客人の前に一切、姿を現さない現当主クリストファーも。
何年も社交の表舞台から遠ざかっていたというのに、急に家宝である『女神の血』をオークションにかけると言い出した、侯爵夫人のリーディア。先王の妹姫。
また息子であるコンラッドも、穏やかで紳士的な人物であることは察せられるものの、どこか不安そうというか、そわそわ、落ち着かないような目をしている。
どこがどうとは言えないものの、消しがたい違和感がそこにはあった。
これが、ただの高貴なる人々の気まぐれとは思えない、裏があるような気が。そして、武人としての、アレクシスの磨かれた勘が、それは余り良からぬものであると、胸の内で警鐘を鳴らしている。
それと同時に、やや様子のおかしい、シアのことも気がかりだった。
本人はそれを隠しているつもりだろうが、侯爵家の門をくぐってから、どこか上の空というか、心ここに在らずというか……一言でいえば、危なっかしい。
シアは女王陛下の名代として、このレイスティア侯爵家を訪れた。そのはずだ。
そのはずであるのに、彼女を取り巻く雰囲気は、どこか妙だ。
純粋な初対面のはずなのに、何故かシアを凝視する、当主の息子コンラッドの目には、強い驚愕の色があった。
何故、どうして、とでも言いたげな。
まるで、何らかの運命の糸に導かれるように、シアがこのレイスティア侯爵家を訪れることが、あらかじめ定められていたことのようだ。
何らかの秘め事がありそうな、レイスティア侯爵家の面々。
彼らがシアに向ける目線に、何故か嫌な予感がした。
「お客さま、紅茶のお代わりは如何ですか?」
「ああ、いただこう」
凛々しい見た目の騎士を相手に、レイスティア侯爵家に仕える、栗毛の若いメイドは、かすかに頬を染めていた。
日頃、心を病んだ奥方付きの娘にとって、このようなハレの場は、ほとんど記憶にない。少しぐらい浮かれても、許されることだろう。
お代わりは、と控えめに尋ねてきた彼女に、アレクシスは「ありがとう」と応じて、空になったティーカップを手渡す。
恭しく受け取ったそれを、銀の盆にのせたメイドは、楚々とした足取りで、テーブルとテーブルの隙間、談笑する招待客の波を巧みにすり抜けていく。
それは、当主の息子であるコンラッドが、オークションに向けて、情報交換したいであろう、客人たちの為にと特別に設けた、アフタヌーンティーの時間だ。
食べたり、飲んだり、喋ったりに忙しい客人たちとは対照的に、給仕のメイドたちは一切の無駄口を叩かず、又、豪勢な菓子を運んだり、紅茶を淹れたりする手を休めることもなく、さながら、黒子のように完璧に、己らの仕事に徹していた。
大勢の使用人達の、完璧すぎるそれは、ともすれば人間らしい温かみを欠いているようであったが、オークション目的の客人たちに、さすがは、これこそ王家に連なる名門、レイスティア侯爵家よ、と思わせることには、成功していた。
同じ貴族の地位を抱いていても、アレクシスのように、田舎育ちの無骨ものには、いささか眩しくさえある。
否、己が指一本動かさずとも、使用人たちが万事滞りなく、全てを整えてくれる状況は、むずかゆくさえあった。
従僕のセドリックは聡明かつ、器用な男で、アレクシスが幼少のみぎりより、日常の生活や学問に至るまで、何くれとなく力を貸してくれたが、何も出来ない貴族のバカ息子にはなってくれるなという父母の方針から、アレクシスは身の回りのことを、他人に任せたことはない。
しかしながら、時代の流れと共に、大半の貴族が力を失いつつある中で、かえって、その存在を増す貴族の中の貴族として、高貴なる血統を誇示する者らにとっては、そういう考え方など、おそらく理解の外に違いなかった。
彼らにとって、世界はふたつの人種に分けられている。
仕えられる者と、それに仕える者。
貴族と、平民。
その溝は深く、永遠に交わることはないのだと。
「……あれが、リーブル商会の一人娘のシア=リーブルか……噂通り、若いな。まだ少女じゃないか」
ひそひそ。
「おぉ、伝説の商人、エドワード=リーブルの孫娘か。話には聞いていたが、実に目の保養になる美少女だな。子供であの美貌は、末恐ろしい」
ため息ひとつ。
「はてさて、ただのお綺麗なお嬢さまか、あるいは獅子の子は獅子か……面白い。お手並み拝見といこうじゃないですか」
狡猾な蛇が、舌なめずりをしている。
アレクシスとテーブルを同じくしていたのは、このオークションを狙ってきた百戦錬磨の商人達だった。
シアのうわさ話をしているものの、同席の騎士が彼女の相棒だとは、気づいていないらしい。
やあ、だの、ああ、だの知己らしい挨拶を交わす彼らの間に挟まれた騎士は、少しばかり部外者じみた居心地の悪さを味わう。
一見すると、身なりの良い温和な紳士、一皮むけば、中身は油断のならない商人達は、至宝『女神の血』を狙うライバルたちを蹴落とさんと、先ほどから、腹の探り合いともいうべき、油断のならない会話を続けていた。
商人達の視線は、さながら吸い寄せられるように、一人の少女へと向かっていた。
彼らの注目を一身に集めるのは、リーブル商会の跡取り娘、シア=リーブル。
立場上、人に注目されるのは慣れているのか、シアといえば、あちらこちらから向けられる熱い目線に動じるでもなく、すました顔でケーキをフォークで切り分けている。
楚々とした仕草や、伏せられた長い睫毛、何かを憂うような眼差しは、儚げな深窓の姫君のようで、半分くらいサギである。ゴクリ、生唾を呑みこむ音がした。
そのうち、ひとりの勇気ある若き商人が、先陣を切って、彼女に歩み寄っていく。
シアは銀の睫毛を震わせると、ふっ、と唇を緩め、余裕ある微笑を浮かべた。
愛想が良く、されど、下手に出て媚びることはなく、自信ありげな顔つきは、どこか彼女の祖父エドワード=リーブルを連想させた。
さて、リーブル商会の跡取り娘の器を試してやろう、とどこか不遜な気持ちを持っていた商人の男も、その微笑に魅入られて、出鼻を挫かれたようだ。
「あの、」
「まあ、貴方さまは……新進気鋭のマッセル商会の御曹司、アルフォンスさまですねっ!わたくし、リーブル商会の長・クラフトの娘、シア=リーブルと申します。このような場所でお会いできて、光栄ですわ!」
両の掌を合わせ、青い瞳をキラキラとさせるシアに、的確にその立場を言い当てられた、 アルフォンスという若い商人は、満更でもなさそうであった。
とびっきりの美少女が、頬を紅潮させて、こんな立派な方とお会いできて嬉しい、というように振る舞ってくれれば、どんな男とて、悪い気はしないであろう。そうでなくても、相手が自分のことを知っていてくれて、尚且つ、尊敬の態度で、一目置いてくれるとなれば、悪意を持ち続ける方が難しい。
つまりは、相手の思惑に乗るように見せた、シアの作戦勝ちということだ。
案の定、その商人もころりと彼女の味方に様変わりした。
すっかり骨抜きにされた様子の商人に、周りの者たちも興味を引かれたのか、我も我もとシアの傍に歩み寄っては、口ぐちに話しかけだした。
もともと、アルゼンタール国内で絶大な力を持つ、リーブル商会と懇意になりたいと切望する者は多いのだ。ある意味で、これは絶好のチャンスだった。
お父上のクラフト殿には、いつか大変お世話になって……うんぬん、いやあ、こんなに可愛らしいお嬢さんがいらっしゃるのとは、知らなかった。などなど。
先ほどまで、警戒心をむき出しにしていた商人たちが、さも親しげに話しかけてくるのを、シアは笑顔を絶やさず、興味深そうに耳を傾けていた。
だてに、幼い時からリーブル商会の、たった一人の跡取り娘として、英才教育を受けてきたわけではない。
小難しい理屈を抜きにしても、人を惹きつけ、己の味方につける魅力は、人の上に立つ者として、必要不可欠なものだ。
それは、普段、アレクシスが目にする、じゃじゃ馬なシアとは少し違っていた。
よく笑い、すぐに感情を表に出し、どこまでも自然で素直な彼女と、商人として計算高さと、冷静な判断力で振る舞うシアは、似ているようで、対極にあるもの。
しかし、それも、また彼女の一部分であると、アレクシスは理解している。
己のような無骨な武人と同じ、愚直なまでの正直さでは、商人として、また将来のリーブル商会を背負う者として、やってはいけまい。
そう、シアは正しく、彼女の果たすべき役割を理解しているだけだ。
その揺らがぬ矜持こそ、彼女をただの小娘ではなく、伝説の商人エドワードの後継者、シア=リーブルたらしめている所以である。
ただ、大勢の商人に囲まれるシアとうめられない距離を感じ、ほんの少しだけ寂しいと思ってしまうのは、きっと、己の弱さであり、また度し難い幼さなのであろうと、アレクシスは小さく息を吐く。
そんな輝かしいシアの姿を、未練がましく見ているのも女々しいと感じ、アレクシスは顔を背けると、少しばかり冷めてしまった紅茶をすする。
セドリックの淹れてくれるものには及ばないが、上質な紅茶特有の、嫌味のない香りが鼻先をくすぐった。
「失礼、貴方は、ハイライン伯爵の縁者かな?」
急に背後から話しかけられて、思わず、心臓が跳ねる。
アレクシスは平静を装い、ゆっくりと後ろを振り返ると、声の主の顔を見る。
其処に立ち、にこやかにほほ笑んでいたのは、当主の息子コンラッドだった。
優しげで整った顔立ち、華美ではないが、仕立ての良い服装。
生まれついての気品や、鷹揚な物腰は、どこか従妹であるエミーリア女王陛下の面影が感じられる。もちろん、顔のつくりは、彼の母である侯爵夫人ともよく似ていた。
従兄として、幼き日の女王陛下の守り役を任され、誠実かつ、穏やかな性格から、亡き先王陛下の信頼も厚かったというのも、頷ける。
先ほど、シアを見る尋常ならざる目つきから、どこか怪しいと烙印を押したものの、こうして穏やかに話しかけてくるコンラッドは、とても感じが良く、聡明で紳士的な人物に思え、信頼するべきか否や、アレクシスは判断に迷った。
「はい。わたくしの名は、アレクシスと申します。ハイライン伯爵の長子です」
やや戸惑いつつも名乗った黒髪の青年の顔を、じっくりと眺めて、コンラッドは感慨深げに目を細めた。
「やはり……ハイライン伯爵のご子息であらせられるか。凛々しい顔つきが、若き日のあの方にそっくりだ。アレクシス殿、もう二十年以上前になるのかな、あなたの父上が勉学の為、王都で暮らしておられた際には、何かと世話になった」
コンラッドの口振りは、亡き人への敬意に満ちており、どういう関係かはわからぬが、彼の人と親しい間柄であったことが察せられた。
自然、アレクシスの警戒心も緩み、目元が和む。
「ええ、若い時の父と似ているとは、よく言われます。お会いできて、光栄です。コンラッド殿、亡き父も喜ぶことでしょう」
まっすぐに伸びゆく若木のような、すがすがしい物腰の青年に、コンラッドもまた笑みを深くした。
「あなたの父上は、真実の騎士だった。優れた剣技はもちろん、精神も肉体も鍛錬を怠らず、身分の貴賤を問わず人を助けた、本物の武人であったよ……お互いの立場上、共に在れた時間は短かったが、あなたの父上を友と呼べたことは、私の幸運だった」
「……ありがとうございます。父はまこと、善き友に恵まれた、幸せな人でした」
アレクシスは心からそう言い、コンラッドの誠意に応えた。
廃れつつある騎士道にこだわり、その頑固で、真正直すぎる性格から、衝突も多く、気安い友は多いとは言えない父だったが、数少なくとも善き理解者に恵まれたことは、きっと幸せだっただろうと思う。
なんだか不思議な気もするが、亡き父にも、アレクシスと同じ若き日があり、彼の知らぬひととひととの繋がりが、沢山あるのだ。このコンラッドも、そのひとりであったということなのだろう。
偶然の出会いがもたらした、貴重な会話を交わしていると、場違いのようで、重苦しかった空気が薄らいでいく。
アレクシスは束の間、コンラッドの語る亡き父の思い出に浸り、時間を忘れた。
そうこうしているうちに気が付くと、ほんの少し前まで、大勢の商人たちに囲まれていたはずのシアは、どこかに姿を消していた。
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