女王の商人

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  九章  貴族と商人 10−4    


 レイスティア候爵家の当主、クリストファーは若き日、身分違いの恋をした。
 貴族と平民。
 身分違い故に、決して許されざるその恋は、身命を賭しても惜しくないほど、すでに老境の男にとって、一生に一度の恋だった。
 クリストファーが、シアの祖母、エステルの母にあたるアリシアに出会ったのは、何十年も前、彼がまだ若君と呼ばれる、気楽な立場の頃だった。


「……何をしている?」
 十一歳のクリストファーが空を仰ぎ見ると、たわわに実る赤い果実、侯爵家の立派な林檎の木には、一人の少女がよじ登っていた。メイド服の濃紺のスカート、揺れるペチコートの下から見える素足が、妙に艶めかしく、目の毒な気がして、少年はさりげなく目を逸らす。
 それよりも、クリストファーと同じか、ひとつ年上だったはずの彼女が、木登りという歳でもないだろうに、そんなお転婆をしている理由の方が気になった。
「いえ、執事殿に屋敷の窓拭きを命じられたので……わかりますでしょ?坊ちゃん。どうせなら高い場所から綺麗に拭きたいじゃないですか……ついでに、林檎をひとつふたつ、役得としていただこうかと」
 窓ふきのために、はしごではなく木によじ登る彼女の、明後日な思考に眩暈を覚えつつも、危険だから、さっさと降りてくるように、クリストファーは命じる。
「窓拭きの件は、僕から執事に行っておくから、早く降りてくるんだ。アリシア。その高さから落ちたらと思うと、気が気じゃない」
「えー、ここ意外と眺めが良いんですよ。坊ちゃんも、ご一緒にいかがですか?」
「登らないよっ!良いから、強風でもふいたらどうするんだ!」
「えー、林檎は?」
「っ、あげるよ!幾つでももってけ、泥棒!」
 やけくそに叫んだクリストファーに、アリシアは我が意得たりにニヤリと笑い、いそいそと、色つやの良い林檎の実を物色すると、大事そうにフリルのエプロンにくるむ。
 そのまま、するすると木の幹を伝っておりようとするが、途中でずるっと足をすべらして、その身が宙に踊った。
「うわああああああああ!」
 あわをくったクリストファーが咄嗟に身を乗り出すと、少女の身体は木の枝で上手くクッションのように跳ねて、奇跡的にもゆるやかに、地面に着地した。
……重さで潰れた、クリストファーの上にと。
アリシアを文字通り、身体を張って救った少年は、目をぐるぐると回しながら、潰れた蛙のようなうめき声を上げた。
「うぐっ、」
 うぐぐ、と苦し気に呻くクリストファーの腹の上で、アリシアは目を丸くすると、ふるり首を振り、陽光を受け、繊細に輝く銀の髪を揺らした。ネジの一本飛んでいる性格とは裏腹に、思わず目を奪われるような、麗姿である。
「あー、ちょっと着地失敗しちゃいましたねぇ……」
 能天気にほわーんと笑う少女に、クリストファーは「くそっ」と心中で毒づいた。己のものとは違う、柔らかな身体の重み、「坊ちゃん、すみません。お怪我はないですかぁ?」と顔を覗き込んでくる、紫の瞳は零れ落ちそうなほどに大きくて、ふるりと揺れる胸元は目に毒だ。ようするに、可愛くて可愛くて仕方なくて、頭のネジが一本飛んでいるのは重々、承知の上で、それでも大好きなのだ。
 何より、王家とも深い縁のある、名門貴族の息子であるクリストファーに、こんな遠慮のない物言いをするのは、アリシアくらいのものだ。
 彼女は、七つの歳に下働きとして、レイスティア侯爵家にやってきた。
 両親を亡くし、侯爵家で洗濯女をしていた叔母に引き取られたのだ。その叔母も数年前に亡くなり、いまや天涯孤独と言っていい身の上だが、アリシアは必要以上に悲観するでもなく、ぽわわん、と柔らかな空気を身に纏っている。
 アリシアが屋敷に引き取られた時、侯爵家の次期当主であり、執事や大勢のメイドにかしずかれるクリストファーは、また使用人の子供がひとり増えるだけだと思い、気にしなかった。
 クリストファーの周りは年の離れた大人ばかりで、子供の友達がいない子供であったので。遊び相手として連れてこられた貴族の子弟も、どこか親同士の身分を気にしてか、距離があった。レイスティア候爵家の跡取りに気に入られるようにしろ、最低でも嫌われてはならない。カード遊びをすれば、相手は勝ちをわざと譲るような真似さえした。仕方ないのだと、そういうものなのだと、クリストファーは思っていた。だけども。
「クリストファー坊ちゃま、今度から屋敷に奉公に上がらせていただきます。わたくしの姪です……ほら、ご挨拶なさい」
 叔母に手を引かれ、クリストファーの前に出てきた女の子は、繊細に輝く銀の髪をした、まるでお人形のような美貌だった。
 白く透けるような肌、薔薇色の頬、きらきらと輝く大きな瞳、何処を取っても非の打ちどころがないアリシアは、少し冷たそうにすら見えた。じーっとクリストファーを見つめたアリシアは、小さいですね、と呟いた。
 六つのクリストファーは、アリシアよりだいぶ小柄だった。
「クリストファー坊ちゃま、小さいですね。私よりもお可愛らしいです」
「ちょ、アリシア、あなたって娘は、いきなり何を言いだすの!失礼でしょうっ!」
 いきなり呆気に取られるような事を言いだした姪に、叔母が慌てふためく。クリストファーはポカンとしつつも、同時になんだか愉快になり、思わず笑ってしまった。自分の周りに、遠慮なくそんなことを言う子供は、今まで誰もいなかったので。
「僕は、クリストファー。きみの名前は?」
 首を少し傾けて、綺麗な銀の髪を揺らすと、女の子は答えた。
「アリシアと申します。クリストファー坊ちゃま」
 それが、クリストファーとアリシア、シアの祖父と祖母の出会いだった。
 
 幼すぎて自覚はなかったが、それは初恋であり、クリストファーにとっては生涯、唯の一度の恋であった。

 子供の頃は少々、目をつぶり、見逃された身分の差も、お互いが年頃になるにつれて、厳格なものになる。
 幼少のみぎりは、さながら仲睦まじい姉弟のように戯れていた、クリストファーとアリシアだが、アリシアが初潮を迎えた頃に傍仕えから外されて、クリストファーの周りには、行儀見習いなどの名目で、年頃の良家の令嬢が集められるようになった。
 正妻か、叶わぬまでも第二夫人にという考えであったのだろう。
 選び抜かれた令嬢たちは、皆、愛らしく、クリストファーに従順で、大貴族の妻となる素養を備えていた。だが、それだけであった。アリシアと出会った時のように、クリストファーの心が揺れることもなければ、新鮮な驚きを与えてくれることもなかった。
 同時に、その頃には己とアリシアの間には、貴族と平民という決して越えられぬ身分の差が、高い壁となって立ちふさがり、絶対に結ばれることはないのだとわかっていた。
 親の命で来ているらしい令嬢たちに、クリストファーは努めて紳士的に、優しく振る舞うようにした。
 見目も良く、優しいクリストファーに、本気で恋する少女も多かったが、やや年嵩の聡明な少女には、それは彼なりの礼儀に過ぎぬと見抜かれていたようだ。
 四六時中、取り巻きの少女たちに囲まれる窮屈さに、息が詰まりそうになった時、クリストファーは屋敷のどこかに隠れて、ささやかな雲隠れをすることがあった。
「クリストファー坊ちゃま……?」
 屋敷の裏手で、メイドの制服もだいぶ板についてきたアリシアに出会ったクリストファーは、「アリシア、それを貸して」と、彼女が持つ洗濯籠の中にあったシーツを指差した。
 頭からすっぽりとシーツをかぶると、身をかがめて、窓枠の下に身を隠す。
 じきにパタパタと軽やかな、少女特有の足音がした。
「クリストファーさま、どちらに行かれたのかしら?」
「そうよね、もうすぐお茶の時間なのに」
 鈴を鳴らすような可憐な喋り声のあと、足音が遠ざかっていくのを確認し、シーツに隠れたクリストファーは、ほっと胸を撫で下ろした。
「助かったよ、アリシア」
 かぶりもののシーツを取って、クリストファーはアリシアを見上げた。
「いいえ、クリストファー坊ちゃまは大変ですね」
 あくまでも、のほほんとした物言いの中に、彼女なりの心配を感じて、クリストファーは苦笑した。
「仕方ないんだよ。これが、レイスティア侯爵家の、いや、貴族に生まれた者の務めだから」
 アリシアは「そういうものですか」と、変わらず淡々とした様子でうなずくと、草の上に腰を下ろし、クリストファーにそっと寄り添った。 
 何か言葉をもって慰めるわけでも、嘘でも、クリストファーの立場を気にしない素振りもしない。
 アリシアは良くも悪くも、正直な娘だ。よくいる貴族の定型のように、虚飾で見栄を張ることもなければ、お世辞や媚びを振りまくこともない。
 それでも、その歯に着せぬ物言いと、のちに孫娘のシアに受け継がれたであろう、真っ直ぐな気性を、クリストファーは何より好ましく思っていた。
 レイスティア侯爵家の妻となる娘、クリストファーの未来の花嫁選びは、それこそ生まれた頃から始まっていたにも関わらず、なかなか決まらなかった。
 候補者が多すぎたこともあるし、レイスティア侯爵家の奥方ともなれば、容貌、性格、由緒正しい血筋、全てを兼ね備えていなければと、父母がえり好みをしたこともあり、なおかつ釣り合いの取れる家柄、年の近い令嬢となると、そうそう簡単には見つからなかったからだ。
 そんな長年にわたるクリストファーの花嫁選びに、決着がついたのは、彼が十六才の時だった。
 国王陛下の掌中の玉、月光の真珠、アルゼンタール一の美貌とも謡われる、リーディア王女と婚約することになったからである。
 リーディアは、王太子と同じく正室腹であり、他国までその名を知られた王妃譲りの美貌と、素直で愛くるしい性格から、国王のお気に入りの娘であった。
 婚約した際、御年十四。
 貴族の中でも屈指の名門であるレイスティア侯爵家の子息・クリストファーとの婚約は、政治的な思惑はあれども、王太子との生誕祝いの席で、凛々しく、見目麗しいクリストファーに一目惚れをした王女が、娘には甘い父王にどうしてもと我儘を言い、婚約までこぎつけたというのが実際のところであった。
 誇り高き一角獣を守護とするレイスティア侯爵家の貴公子と、皆から愛される王女リーディアの婚約は、複雑な政治はさておいて、国民に喜ばしいものとして受け止められた。
 しかし、当の本人であるクリストファーの心中は複雑であった。
 貴族に生まれた者の定めとして、いつかは己の意思に関係なく、然るべき妻を迎えなければならないことは理解していた。
 高貴なる血筋を持ち、侯爵家の世継ぎを産んでくれる女性を。だが……
 皆が美しいと誉めそやすリーディア王女と会っても、クリストファーの心は動かなかった。
 よく手入れのされた髪や肌、重い荷物など持ったこともないであろう華奢な腕、絹の手袋に守られた、すべらかな掌。何もかも、夢のように美しい、天使のようなお姫さま。
 しかし、クリストファーにとっては、日に焼けることも厭わず走り回り、洗濯で荒れた手をしたアリシアの方が、よほど魅力的に映ったのだ。
 アリシアが野に咲く名もなき花だとするならば、リーディア王女は、硝子の温室で大切に育てられた薔薇であった。雨にも風にもあてず、真綿で包むようにして。
 そして、それはクリストファーも同じであった。彼も又、貴族の義務と価値観から、逃れられていない。
 己に一目惚れをしたというリーディア王女の、純粋な好意は微笑ましく、愛らしいと評判の微笑みは、クリストファーにとっても、決して、悪い感情を抱くものではなかった。だが、それだけだった。
 リーディア王女は、美しい。
 王女は可憐で、愛らしい。
 でも、それだけだった。
 美しいとは思う、でも、アリシアに向けるように、いとしいとは思えなかった。それが全てだった。
 婚約時に抱いた印象は、残念ながら結婚しても、大きく変わることはなかった。
 自分を好いて、純粋に慕ってくれる妻、リーディアを愛せないことに、重い罪悪感を覚えつつも、幼少時から想いを寄せるアリシアへの思慕も、最早、抑えようとしても抑えきれるものではなかった。
 そうして、ある日、クリストファーは禁断とも言うべき一言を口にしてしまう。
 一介のメイドとして働きながら、最早、その秀でた美しさは隠しようもなくなったアリシアの手を取り、跪くと、「慈悲を与えてくれないか」と、乞うた。
 アリシアはしばし躊躇うような沈黙の後、見た事もないような憂いを帯びた瞳で、クリストファーを見つめ、そっと瞼を下ろした。
 それが、レイスティア侯爵家を長年、支配する、悲劇の始まりであったのだろうか。
 クリストファーは、妻としてリーディアを尊重しつつも、ひっそりとアリシアと愛を育んだ。
 そんな危うい均衡を保つような三人の関係は、数年に渡り続いたが、正妻のリーディアの懐妊が、ひとつの変化をもたらした。
「クリストファーさま、クリストファーさま……っ」
 日頃、大人しく、声を荒げることなどほとんどないリーディアに、弾んだ声で名を呼ばれたクリストファーは「リーディア?」と首を傾げた。
 頬を上気させたリーディアは、嫁いで数年、二十歳を超えたというのに、いまだ少女のような、あどけなさを残している。花開いた蕾、息を呑むような美貌と、それはいっそ不釣り合いですらあった。
 初恋をそのまま引きずったように、何年たっても夫であるクリストファーに、リーディアは恋をし続けている。
 妻ははにかむように、夫に微笑みかけると、まだ膨らんでいない腹に、命の宿ったそれにいとおしそうに、そっと手をあてた。
「子供が出来たの。今日、お医者様が間違いないと」
 己の子供が出来た、それを聞いた瞬間、クリストファーの心中によぎった想いを、何と表現すればいいのだろう。己の血を受け継ぐ、子供の誕生は喜ぶべきことであるはずだった。 愛すべき妻であるリーディアの、王族の血を濃く引く、この上ない血筋に生まれる子。
 男児であれば、レイスティア侯爵家の嫡子の誕生は、一族全ての者にとって悲願であるはずだ。
 しかし、父親として恥ずべき感情と自覚しながら、クリストファーは一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、思ってしまった。これが、アリシアとの間の子であれば、と。
 愛する女の子供であれば、どんなに幸福だろう。
 喜びと葛藤と、複雑な思いを抱えたクリストファーの表情に、何かを察したのだろう。
 リーディアは柳眉を寄せ、美しい顔に曇りがよぎる。
「クリストファーさま……?」
 ――嬉しくはないのですか?
 不安げな表情を浮かべたリーディアに、クリストファーは優しく微笑むと、貴族の夫の義務を果たそうと、妻の腹に手をあてた。
「嬉しいよ。元気な子を産んで、リーディア」
 月が満ちて、アリシアは元気な男児を産んだ。
 クリストファーがつけた名は、コンラッド。
 王妹を母に持つ、レイスティア侯爵家が待ち望んだ跡取りの誕生である。
 侯爵家には、連日、誕生祝いが届けられて、王宮からは金や宝石で飾られた木馬が贈られた。祝福の声、それは、光あふれるそれは、侯爵家においても最も輝かしい日々であっただろう。
 その数年後、侯爵家の片隅で、ひっそりとアリシアが女児を産んだ。母がつけた名を、エステル。後のシアの母である。
 誰に祝福されることもなく、アリシアは弱弱しい産声をあげた我が子を、守るように抱きしめた。銀の睫毛がふるえ、頬を一滴の涙が伝った。

 クリストファー、アリシア、リーディアの歪な関係は、アリシアが病で亡くなる、その日まで続いた。
 正妻に遠慮し、日陰の身であるアリシアを不憫に思いつつも、クリストファーは初恋の娘を手放すことが出来なかったのだ。
 リーディアは最愛の夫の愛人であるアリシアを憎み、また貴族でもない下賤の身と蔑んだが、アリシアはどんな仕打ちを受けても、一度として声を荒げることも、またクリストファーの庇護にすがるような真似もしなかったので、正妻であっても追い出すことは出来なかった。
 ――それを強かな女の処世術というものもいたが、たぶん違ったのだろう。
 アリシアにとっては、クリストファーはいつまでも寂しがりやの子供で、家名の重みに必死に耐えていて、その子が手を伸ばすから、繋いであげなくてはと思ったのだ。
 針のむしろと呼ぶべき侯爵家を出て、市井で生きた方がよっぽど楽だったろうけど、彼女はクリストファーの傍に居ることを選んだのだ。

 アリシアの産んだ娘が成長し、少女と呼ばれる年齢になった頃、肺の病を患ったアリシアは、苦しむことなく、この世を去った。
 母を喪ったエステルは、唯一の心の拠り所であった母を亡くし、妾の子である故に侯爵家に居場所もなく、正妻であるリーディアからは敵の子と疎まれ、ひっそりと息をひそめるようにして日々を過ごしていた。
 そんなアリシアを不憫に思ったクリストファーは、生涯最大の過ちを犯した。
 母を亡くし、後ろ盾もない娘を憐れに思うあまり、レイスティア家の家宝である指輪を渡したのだ。
 一角獣の紋章が描かれた、銀の指輪。
 今にも駆け出さんばかりの麗々しいユニコーンの周りには、星のように煌めくサファイアの欠片が幾つも埋め込まれており、さながら星々の平原を翔るようだ。
 それは、代々、レイスティア侯爵家の当主から、奥方、そして、子供へと受け継がれてきた由緒あるものだ。
 何故、そんな行動を取ってしまったのか、クリストファー自身もよくわからない。本来なら、リーディアからコンラッドに受け継がれるべきそれを、エステルの指にはめてしまったのは、亡きアリシアへの想い故か、ただの執着なのか。
 指輪を贈られたエステルは、喜ぶよりも先に、呆然とした様子で、信じられないといった目で、父とは呼べないクリストファーを見つめる。
 やがて、その菫色の瞳が潤んで、少女は青ざめた面を両手でおおうと、いやいやというように首を横に振った。
「これは……いただけません、旦那様」
「何故?」
「これは、奥方様のものです。日陰の身である母でも、その子である私でもなく」
 エステルは、まともな教育を受けたわけではなかったが、聡い娘であった。哀しいほどに。父の愛情が、己に向けられてはいけないことを、誰よりもよく知っていた。
「クリストファーさま、何をしているの……?」
 振り返ると、そこにはリーディアが立っていた。
「教えてください、何をしているの?何故……その娘に、家宝である指輪を」
 初恋の相手である夫に、妻として尊重はされても、愛されていないことを知りながら、正妻である誇りだけが、リーディアの生きる理由であった。だが、それは、クリストファーがエステルに指輪を贈ったことで、脆くも崩れ去る。夫の心が何処にあるか、恋敵の女が死んだ今も、嫌というほどに思い知らされたからだ。
 貴方を愛することが私の誇り、私のすべて、でも……
「愛していたのに、わたくしは、クリストファーさまだけを愛していたのに……」
 ボロボロと幼女のように、リーディアは涙を流す。
 二十年余りの間、我慢し続けたことが溢れたのだろう。
 愛していたのに、愛していたのに、これほど愛していたのに、何故、愛を返してくれないの。
 アイと狂気。
 それが、きっと、リーディアが心を壊した瞬間だった。
 涙を流しながら、それでも、ふふふ、と童女のようにリーディアは笑った。永遠に私のものにならないのなら、いっそ、何もかも壊してしまえばいいの。
 壁に飾られていた宝飾品の短剣を手に取り、リーディアはふらふらと幽鬼のような足取りで、エステルへと向かった。
「……危ないっ!」
 クリストファーが娘を庇おうと、とっさに短剣を振りかざした妻の前に、飛び出す。短剣が肩と首の間に刺さり、男の意識が遠のいた。
 青ざめた顔で、細い悲鳴を上げるエステルに、動かない唇で告げる。逃げろ。逃げるんだ。
 ためらうような娘の手を押す、彼女は弾かれたように部屋を飛び出すと、降りしきる激しい雨の中、屋敷から走り去った。それっきり、彼女は後ろを振り向かず、レイスティア侯爵家に戻ることもなかった。
 そうして、屋敷を飛び出したエステルは、シアの父、クラフト=リーブルと出会ったのだ。


 
「失礼します……」
 シアは遠慮がちに、一角獣の紋章が描かれた扉を開ける。そぅ、と顔をのぞかせた少女に、寝たきりのクリストファーは、「やあ、お嬢さん」と相好を崩した。
 切なくも、苦しく、輝かしかった青年の時はとうに過ぎ去り、次なる世代へと時代は移り変わろうとしていることを、彼は感じる。
 しびれて、よく動かぬ手足。
 妻に刺されたクリストファーは、医師たちの懸命な治療によって、何とか一命はとりとめたものの、人の手助けを受けなければ、まともに日常生活が送れない身体になった。
 あの時のことを、後悔してはいない。エステルが無事で良かったと思う。ただ、自分の至らなさが、守るべきものを壊してしまったことが、ひどく哀しい。
「クリストファーさん……」
 寝台に横たわる、穏やかで優しい目をした老人、シアの母と深い繋がりがあるであろうその人が、とても寂しそうなことに、シアは胸を痛めた。
 クリストファーが、けほっ、と小さく咳き込む。
 いたわるように、彼女が優しく背中をさすると、クリストファーは少し驚いた様子で、次いで目を細めた。
「あの娘には、気の毒なことをした」
 ぽつりと呟かれたそれが、クリストファーが十数年も抱え続けた、いまは亡き娘への罪悪感であった。
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