女王の商人

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  九章  貴族と商人 10−5    

 ――レイスティア侯爵家の至宝・ルビー『女神の血』。
 アルゼンタール王国でも屈指の名門と呼ばれる、レイスティア侯爵家。
 侯爵家の初代は、王の姉を娶ったといい、先王の御世には王妹リーディアも又、彼の侯爵家へと降嫁した。
 武勇ともに優れた人材を多く送り出しており、王家とも縁戚関係にある、レイスティア侯爵家が家紋でもある、素晴らしい一角獣の指輪を所持としている事は有名だが、もう一つ、彼の家の名声を高めたものがあるとすれば、それは『女神の血』と呼ばれる希少なルビーである。

 親指の爪先ほどもあるであろうそれは、血を思わせる濃い紅も素晴らしく、まさに至宝と呼ぶに相応しい。権力者の元を渡り歩き、その魔性めいた美しさにより、争い血も流されたという曰くつきだ。
 四代前の当主が『女神の血』を手にしてからというもの、レイスティア侯爵家はそれを家宝として、代々、受け継いできた。
 本来、それは当代の当主クリストファーより、息子であるコンラッドに受け継がれるはずだった。
 しかし、社交界で、レイスティア侯爵家が『女神の血』を手放すことに決め、それを競売にかけようとしているという噂が、まことしやかに囁かれるようになったのは、はや半年ほど前の事である。
 貴族が宝石を収集するのは、美しいものへの執着や、家の力を示すため、社交界への見栄もあろうが、何らかの事情で財産を失い、家が傾いた時に売り払えるというのも大きい。
 戦争で亡命する際に懐に忍ばせておけば、何処の国でも生き伸びる糧になる。
 しかしながら、それはあくまで非常事態の話である。
 希少な美術品や宝石を手放すことは、それ即ち、没落とみなされるが故、高位の貴族であればあるほど、誇りを汚されることを嫌う。
 ましてや、レイスティア侯爵家にとって、『女神の血』は先祖代々、守り抜いてきた特別な存在だ
 そのような大切なものを手放すなど、事業に失敗したなど明確な理由がなければ、有り得ないことだ。侯爵家とあろうものが没落したものよ、と社交界で、後ろ指を指されることにもなりかねないのだから。
 しかし、レイスティア侯爵家を訪れてからというもの、シアら競売の参加者へのもてなしは、実に礼儀正しく、手厚いものであった。次期当主であるコンラッド自らが、ゲストたちに気を配り、歓待を尽くしている。
 侯爵夫人リーディアの存在は、いささか異様であるものの、家が没落していたり、経済的に困窮しているという雰囲気は皆無だ。
 

 
 今宵も、レイスティア侯爵家では、『女神の血』を求めて集まった、競売の客らをもてなす為のパーティが開催されていた。
 さすがは名門の侯爵家らしい、壮麗さと風格を備えたダンスホールは、天井から見事なシャンデリアが垂れ下がり、星のしずくもかくやという輝きを振りまいている。
 南の海をイメージしたという、高貴なロイヤルブルーの壁紙、純白の柱。
 奥にしつらえられた金と大粒の真珠で飾られた台座には、岩に横たわりくつろぐ、黄金の人魚姫の像があり、まるで海の底の宮殿にいるようだ。
 しゅわしゅわと弾ける金色のシャンパンや、葡萄酒のグラスを持ったメイドや給仕が、洗練された所作で、各テーブルを回る。
 着飾った競売の客たちも、地位がある者が多く、侯爵家のパーティに相応しいよう、きちんとドレスアップしていた。
 特に招待客の伴侶、赤、青、黄、紫、色あざやかなドレスに身を包んだ貴婦人たちは、さながら、ひらひらと優雅に尾やヒレを振りながら、温暖な海を泳ぎ回る魚のようだ。
 テーブルの上にのせられた料理も又、侯爵家の料理人が腕によりをかけただけあって、たいへんな豪華さだ。
 氷を削って作られた精緻な帆船の上に、海老や貝を盛り付けたもの。思わず、触れたくなるような氷細工の見事さに、ゲストらから感嘆の声がもれる。
 ローストビーフやら、子羊の丸焼きやらを、料理人が皿に切り分けて、グレイビーソースをかけ、マッシュポテトやグラッセと共に招待客へと振る舞う。
 そのように目にも美しい豪勢な料理の数々に、ゲストらは舌鼓を打った。
 古今東西の名酒。侯爵家の秘蔵のワインも振る舞われて、小太りな紳士は顔を赤くし、これから始まるオークションへの期待や高揚感もあって、えらく上機嫌だ。
 そんな豪華なパーティの中で、チラチラと人々の視線を集める少女がいた。シアだ。
 コルセットできゅっと締め上げた、腰回りの大きなリボンが印象的な、深緑のドレス。きらきらと輝く銀の髪を少し大人っぽく結い上げ、細い首につたうおくれ毛が何とも艶っぽい。
 装飾品はごくごく控えめに、純白の真珠の耳飾りのみ。
 派手に着飾った貴婦人たちの中で、その潔い上品さは、かえって際立っていた。
 シアをリーブル商会の跡取り娘と知ってか知らずか、声をかけてくる招待客たちを相手にしながら、彼女はひとり、頭の中で考えをめぐらせていた。
 この贅を尽くした歓待ぶりを目にすれば、レイスティア侯爵家が、没落などとは無縁であることが容易にわかる。
 『女神の血』を手放すというのは、一体、どのような目的なのだろうか。目的の見えない不気味さが、彼女は不安であった。
 シアの疑惑とは裏腹に、パーティはどこまでも華やかだ。
 当主代理のコンラッドが手配したであろう楽団が、奏でる曲調を変えて、ダンスへと誘導する。
 気分が明るくなるような、ワルツ。
 オークションが始まる前までの、しばしの余興のつもりらしい。
「――シア」
 主催者であるコンラッドと軽く会話をしていたアレクシスが、シャンパングラスを片手に、相棒であるシアの傍に戻ってきた。
 アレクシスの装いは、いつもと同じ、黒を基調とした騎士服であった。
 袖口の銀のラインが唯一の装飾と言っていい、華美を排除した服装が彼らしい。
 何かと気がつく従僕のセドリックが居るときはともかく、己の身を飾ることには、ほぼ興味がない男なのだ。
 しかし、そうであっても、引き締まった長身で、きりりと精悍な顔をしたアレクシスは、 意識せずとも人目を惹いた。シアのように、パッと目につく華やかさではないものの、古き血が持つ気品というべきか、そういったものが滲み出ている。
 曲の流れが変わったことを察したアレクシスは、めずらしくパーティの華やいだ空気にあてられたのか、ふ、とやわい微笑を浮かべると、姫君に傅く騎士のように、片手を差し出す。
「美しいお嬢さん、一曲、踊って頂けますか?」
 憐れな男に、ひとかけらの慈悲を、と、まるでディークのような軽口に、シアはやれやれと肩をすくめると、わざと胸を反らして「よろしくてよ」と、おどけてみせた。
 この侯爵家を訪れてからというもの、どことなく沈み込んだ様子の彼女に対する、それが彼なりの不器用な気遣いだとわかっていた。
 アレクシスにエスコートされながら、シアは紳士淑女が踊るホールの中心へと、歩いていった。
 ちらりと後ろを振り返ると、主催のコンラッドが、招待客たちに囲まれていた。
 いまだ独身であるコンラッドは、権門の出に加えて、頭脳、人柄、容姿と三拍子そろった社交界有数の男性であり、話の輪の中には、美しく装った女性たちも多くいる。
 エミーリア女王陛下の信頼も厚い、穏やかな人柄で知られる次期当主は、招待客たちの会話に丁寧に耳を傾け、時折、グラスを傾けながら、相槌を打っていた。
 贅を尽くした、華やかな宴を楽しみながらも、いつオークションが始まるのか、皆、気が気でないのだろう。
 どこか気もそぞろというべきか、タイミングをはかっているようだった。
 シアは視線を前にも戻すと、アレクシスのリードでワルツを踊りだした。
 貴族の嗜みとして、ダンスの心得がある青年のリードは巧みで、安定している。少女は不安を打ち消すために、蝶のように軽やかなステップを踏む。深緑の裾がひらひらと、花びらのように揺れていた。

 楽団の演奏が終わる寸前、リンゴーンと唐突にベルが鳴り響いた。
 ダンスホールの片隅にある飾り時計が、鳴ったのだ。
 その鐘の音を合図にしたように、踊り階段から、黒いドレスを纏った貴婦人が姿を現す。途端、招待客の間から、リーディア王女殿下だ、侯爵夫人、という声がさざなみのように広がった。
 母の姿を認めたコンラッドは目を細め、やや複雑そうな面で「母上……」と小さく呟く。
 レースをふんだんに使った漆黒のドレスを纏った貴婦人は、老いてなお美しかった。
 かつて、王国一の美貌を誇った姫君は、数十年もの間、積み重ねてきた憂いを取り去ったように、赤い紅を引いた唇をゆるめ、嫣然と微笑んでいる。
 背中にあった重石をおろしたように、その足取りは軽やかで、どこかすがすがしいものである。
 息子であるコンラッドさえも殆ど見た事のない、そんな愉し気な表情であった。
 客たちの視線を浴びながら、リーディアはゆっくりとした足取りで、踊り階段をおりる。
 黒いドレスの貴婦人は、ホールにおり立つと、ふたたび口角を上げた。
 血が繋がっているから当然とはいえ、その横顔は、どこかエミーリア陛下とも似ており、 女王めいた風格さえ感じられる。
 その瞬間、リーディアは侯爵家に君臨する女王であり、招待客は頭を垂れる臣民であった。
「さあ、」
 黒いドレスの貴婦人は、嬉しそうに告げた。
「今宵、オークションを始めましょう」
――と。
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