女王の商人

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  九章  貴族と商人 10−6  

 競売を提案した張本人であり、今宵の主役ともいうべき、侯爵夫人リーディアの登場によって、会場の緊張感は一気に高まり、厳かな雰囲気に包まれた。
 秘宝『女神の血』を欲するゲストたちは、興奮に胸を昂らせ、オークションの開幕を愉しんでいるようだ。
 艶のある漆黒のドレスに身を包んだ侯爵夫人は、息子であるコンラッドに手を引かれて、粛々とした足取りで、ホールの中央へと進み出た。王族であるだけあって、その立ち居振る舞いは実に優雅であり、犯しがたい気品があった。
 彼女の一挙手一投足に、招待客たちは固唾をのんで注目する。
 ホールの中央には、従僕たちの手によって、いつの間にか白亜のテーブルが運び込まれており、その上には、磨き抜かれた黒檀の箱が、うやうやしく鎮座している。
 リーディアはにこりと微笑むと、「さあ、お待たせいたしました。当家の『女神の血』をとくとご覧あそばせ」と、黒い手袋をはめた手で勿体ぶるように、ゆっくりと箱を開けた。
 白い腕、黒い手袋、紅い唇、何もかもがゾッと鳥肌が立つほどに、鮮やかだ。
 ――黒檀の箱の中に収められていたのは、親指の先ほどある見事なルビーであった。
 『女神の血』、その名に恥じない、どこまでも深みのある真紅の宝石。
 今にも吸い込まれそうな、その美しい輝きは、時の権力者たちが、争ってまで手に入れようとしたというのも、さもありなん。
 思わず魅入られたように、ホールにいた客たちは、しん、と水を打ったように静まり返った。
 欲しい。
 欲しい。
 欲しい!
 この輝きを、この美しさを、永遠にも似た何かを……!
 美しすぎるものは、人を、時に人生をも狂わせる。
 そんな人々の欲望さえもすべてを呑みこんで、レイスティア侯爵家の秘宝『女神の血』はあくまでも、燦然とした輝きを放っている。
 大商会リーブルの跡取り娘であり、宝石に関してもそれ相応に目の肥えたシアも、そのまばゆいばかりの輝きには、刹那、目を奪われた。リーブル商会でも希少な宝石を扱うことは少なくないが、ここまで見事なルビーを目にするのは、初めてだ。
 流石は、名門レイスティア侯爵家が誇る家宝である。
 これが欲しい。
 手に入れたい。
 より優れたものを手に入れたいと思うのは、商人としての本能だろうか。
 ごくっ、と唾を飲み込む。
 普段、心の奥底に押し込めている欲望を引きずり出すようなそれが、どこか恐ろしかった。
 一方、隣にいたアレクシスの方はといえば、披露されたルビーに目を見開いたものの、そう感動した様子でもなかった。鍛えた武人の勘を持つ青年にとって、その妖しい美しさは、むしろ禍々しいものとして映ったようだ。
 競売の参加者が皆、宝石に目を奪われる中で、宝石を披露した侯爵夫人リーディアだけが、違うものを見つめていた。
 銀の髪、人形のように整った面立ち、儚げな雰囲気の美少女。リーディアの瞳には、ただひとり、シア=リーブルしか映っていなかった。
 彼女の容姿は、祖母のアリシアにも、母であるエステルにも瓜二つと言っていいほどによく似通っていた。それは、リーディアにとって、憎い恋敵でも、欲して止まなかった夫の心を独占し続けた女の顔でもある。泥棒猫。
 ――見ぃつけた。
 黒いドレスの貴婦人。
 エステルが娘のシアと出会うことを恐れ、何よりも会わせることを恐れた人物との、子供の時から数年ぶりの再会であった。
 娘らしく成長したシアと、亡きアリシア、そして、エステルの面影が重なり、リーディアの中では、最早、同じ人物のような錯覚を起こしていた。
 夫の愛を取り戻さなくては、この女が生きている限り、わたくしの欲しいものは決して手に入らない。そう、正しい。過ちは正されなくてはならない。一角獣の指輪は、本来、わたくしの、わたくしのコンラッドへと受け継がれるべきものだったのだから。
 わたくしの名は、リーディア。この国を統べる王の娘。レイスティア侯爵家の女主人。何より、クリストファー様の妻。
 家宝である指輪を、泥棒猫に奪われたものを、正統なる後継者の元へ取り返すことが大事?――いいえ、そんなものは最初からいらなかったのかもしれない。わたくしは、王女。地位も富も名声も美貌も、すべてを持って生まれた女。ただ、愛だけが手に入らなかった。最も欲しく、他の何を投げうってでも欲しかったそれが。
 でも、それも今日で終わりだ。
 終わらせましょう、全てを。わたくしの長い苦しみも、長すぎる片恋も、全て。

「さあ、今宵、どなたが女神の血を手に入れられるのかしら?」
 リーディアの台詞が、オークションの皮きりだった。
 『女神の血』に魅入られた招待客たちは、我こそはという思いが強いのか、次々と手を上げ希望の価格を口にする。
 母の希望で司会を務めることになったコンラッドは、混乱を避けようとしてか、挙手をしたゲストを順番に指名していく。
「二千万レアン」
 某有名商会の若い跡取り息子が、やや控えめに言えば、さる貴族の男が平民には負けてはならぬと声を張り上げる。
「いや、わしは三千出す」
「五千」
「六千」
 会場の熱気や高揚感が後押ししてか、競売の価格はぐんぐんと吊り上がっていく。熱狂。
『女神の血』が持つ魔力なのか、正気と狂気の境のような、どこか危うい空気が漂っていた。
 声を張り上げる客たちを、ゆったりとした微笑みで見守る、リーディア。
 彼女の瞳は、先ほどと変わらず、ただ真っ直ぐにシアだけを映している。まるで、世界に己とシアだけしか存在しないかのように、値段を叫ぶ競売の客たちは、一顧だにしていなかった。
 しかしながら、吊り上がっていく『女神の血』の値段にハラハラしているシアは、周りを大勢の客たちに囲まれていることもあり、黒いドレスの貴婦人の異様とも言える視線に、気がついていなかった。
 他のオークションの参加者とは異なり、シアがこの屋敷を訪れたのは、女王陛下たっての希望である。
 敬愛する、エミーリア女王陛下の為にも、また女王の商人としての誇りにかけても、『女神の血』は絶対に落札せねばならない。ひいては、それが麗しの女王陛下の意思に添うことになるだろう。
 女王陛下の命とあって、資金の面で不安がないとはいえど、このままいったら、ある程度の覚悟はしていたとはいえ、とんでもない金額になるのではないだろうか?
 しかし、どこかで手は上げなくてはならない。
 落札できるかどうか、否、しなければならないのだから。
 そうこう悩んでいる間にも、競争相手のオークションの客たちは、値段を吊り上げていく。
 シアはきっと顔を引き締めると、覚悟を決めて、片手を上げた。
 そんな彼女の様子を見ていたリーディアが、微かに口角を緩めた。
 母がそんな風に微笑むのは、近年、めずらしいことであったからか、コンラッドは「母上、何か?」とやや不審げに問う。
 息子の問い掛けに、喪服にも似た黒いドレスを纏った貴婦人は、ゆったりと首を横に振る。
「何でもないわ、何でもないのよ……」
 母の答えに、コンラッドはそうですか、とうなずくよりなかった。
 後に、その判断を、コンラッドは深く後悔することとなる。
 異母妹・エステルに、詫びても詫びきれないことをしたと。
 もし、この時、母の考えていることがわかれば、これから起こる悲劇を未然に防ぐことが出来ただろうかと。
 それとも、わかっていたところで、己は何も出来ず、結果は変わらなかっただろうか、と。
「六千……」
 シアが踏み出し、落札の為の声を上げようとした時、ふ、と頭上に影が差した。
 彼女は驚いて、頭上を仰ぐ。
 大きなシャンデリアが、ぐらぐらと揺れて……え?
 誰のものともわからぬ、悲鳴が上がった。
「……危ないっ!」
 アレクシスが怒鳴る。
 シャンデリアが天井から落下し、華奢なシアを押し潰さんと、彼女の身体に迫った。
 思わず、目を瞑る。間に合わない。
 意識が暗転する。
 声にならない悲鳴。
 飛び散る血。
 赤、赤、赤。
 死んだの、ふふふ、と場違いな童女のような笑い声がした。
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