女王の商人

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  九章  貴族と商人 10−7  

 巨大なシャンデリアが天井から落下する瞬間、シアは迫りくる命の危険を目前にしながら、逃げることが出来なかった。
 女王の商人になってから今まで、シアは相棒であるアレクシスと協力して、幾度となく危機を乗り越えてきた。悪魔信仰の村人に襲われたことも、犯罪組織の長に監禁されたこともある。けれど、その経験をもってしても、最大の危機を前にして、彼女は無力だった。青い瞳が、驚愕に見開かれる。誰のものともしれない、絹を裂くような悲鳴。
 その時、大広間にいた客たちの脳裏に、折れそうに華奢な少女が、巨大なシャンデリアの下敷きになり、圧死する映像がよぎった。
 砕け散る硝子。狂乱の声。床一面に広がる、おびただしい鮮血。無残にも押し潰された、少女の亡骸。
 思い浮かんだそれのおぞましさに、母の凶行に呆然としていたコンラッドは慄然とする。
 そして、その想像は現実のものとなると思われた。ただ一人の男を除いて。
「……シアっ!」
 頭で考えるより先に、その場にいた誰よりも早く、アレクシスは動いていた。シャンデリアの下敷きになろうとするシアに、歯を食いしばり、必死に手を伸ばす。
 それが大切な彼女であったからこそ、命がけで助けようとしたのだと言う者もいたが、シアはそれを後に一笑する。シャンデリアの下敷きになろうとするのが、例えシアでなかったとしても、アレクシスは助けようと手を伸ばしたであろうと。
我が身を顧みず、命がけで弱き者を助けんとする。騎士道を貫く者。それこそが、王剣ハイラインの誉れであり、何よりアレクシス=ロア=ハイラインという男なのだから。だから。
「逃げ……っ」
 シアの足は凍り付いたように、その場に立ちすくんだ。逃げなければ、死ぬとわかっているのに動けない。
 刹那、彼女の瞳に映ったのは、己に向かって必死の形相で手を伸ばす、アレクシスの姿だった。
『――シア』
 懐かしい声がした。
 儚げで、ふわりと柔らかく微笑む、優しい母。
 重い血筋を背負いながら、でも、誰よりも娘を愛してくれた人だった。
『まだ、こちらに来ては駄目よ』
 首を横に振ると、エステルは菫色の瞳を細めて、嬉しそうに言った。
『良かったわ、貴女が優しい人に出逢えて』
 母さま……?
 最後に見えたのは、慈愛に満ちた笑顔だった。
 幼かったあの日と同じ、娘を愛する母の。
「おい、大丈夫か!しっかり……っ!」
 耳元でのザワザワとした喧騒に、シアはけぶる銀の睫毛を上げ、焦点の定まらない瞳で、周囲を見つめた。
 視界がブレて、目に映る景色はぼんやりしている。
 招待客たちが、慌てた様子で立ち尽くし、ザワザワと場がざわめいている。「早く医者を……っ」と、コンラッドが叫ぶ声が聞こえた。
 医者……?自分は、生きているのだろうか。
 シャンデリアの下敷きになりかけたことは、覚えている。どうやってかわからないが、助かった……?
 その時、床にポツポツと散る赤いものに気づいた。血?
 怪我をしているのだろうか、それにしては、痛みがない。ゆっくりと指を動かしても、きちんと感触がある。
「シ……ア……」
 そうだ。
 シャンデリアに押しつぶされそうになったあの瞬間、手を伸ばしてくれたのは、誰だっただろう。
 身をていして、シアを庇ってくれたのは。
 アレクシス……アレクシスだ!
「無事か……?」
 自分の身を犠牲にして、シアを庇ったアレクシスの額からは、幾筋もの血が流れていた。騎士服やマントの上には、無数の砕け散ったガラス片が広がっている。シャンデリアはアレクシスのマントの半分を、下敷きにしている。
 あと、ほんの少しでもズレていたら、命はなかっただろう。 
 文字通り、己の命を懸けて、シアを助けてくれたのだ。
「……良かった」
 怪我を負い、血を流しながら、アレクシスは安堵したように、ふっと眉間の皺を緩めた。
 シアの頬を傷だらけの掌が、いとおしむように撫でる。
 大切な大切な宝物を守り抜いたように、アレクシスは柔く、満足気に微笑んだ。
「シアが無事で良かった」
 零れ落ちた一言は、慈雨のように、シアの心を満たしていく。
 己が怪我をしているにも関わらず、彼女の無事を何よりも喜んでくれる。そういう男だ。そういう男なのだ。だから、シアはアレクシスが好きだった。誰よりも、何よりも。
「アレク……」
 しゃくりあげた嗚咽は、言葉にならなかった。
 傷だらけのアレクシスの手を、シアは両手で包んで、言葉にならない嗚咽を繰り返す。
 何で、この人はいつも、我が身を犠牲にしてでも、人を守ろうとするのだろう。騎士だから?どんな風に育てば、この人みたいに強くなれるのだろうか。
「なんで、どうして、」
 アレクシスはただ困ったように、シアの手を握り返すだけだった。
 熱が伝わる。
 生きているぬくもりが、愛おしい。
「何故……」
 呆然と立ち尽くす招待客の中から、リーディアがよろよろと進み出てくる。
 壊れたシャンデリアの横で、手を繋ぐシアとアレクシスを見下ろし、泣き笑いように顔を歪めた。
 親とはぐれ、途方に暮れた子供のような、いっそ無垢とさえ呼べる表情で。
「どうして……」
 いつもいつも、守られるのは私じゃなくて、彼女なの?わたくしの方が、クリストファーさまのことを愛しているのに、あの美貌だけが取り柄の女よりも、ずっとずっと。
 あの女は何度でも蘇ってくる。いつも同じ顔で、若さだけを取り戻して。母子なんかであるものか。返してよ。返して。わたくしの夫を、愛しい人を返して。
 両手で顔を覆って、黒い喪服の貴婦人は叫んだ。
「何故、何故、あなたはいつも守られるの!汚らわしい泥棒猫の癖に!」
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