女王の商人
九章 貴族と商人 10−8
混乱のるつぼとなり、あたふたと騒めくばかりの招待客たちは、叫ぶ喪服の貴婦人を止めることも、怪我を負ったシアやアレクシスに、近寄ることも出来ずにいた。気が利いた客がひとり、従僕に医者を呼びに走らせたくらいだ。それ以外は唯、舞台の観客のように、呆然と立ち尽くすばかり。
ホールの中心で、倒れたアレクシスを抱きしめるようにしながら、はらはらと儚げに涙を零すシアは、何か犯し難いような静謐さに包まれていて、何人たりとも彼らの間に入れないようだ。
「この……泥棒猫っ」
シアの目が己に向けられていないことに怒ったのか、黒い喪服の貴婦人は、白い頬を紅潮させ、まるで駄々っ子のように握り拳を振り上げた。彼女もまた、泣いていた。
そう、リーディアはずっと、こうしたかったのだ。愛する夫を奪われた怒りを、死に勝る苦しみを、誰かにぶつけたくて、直接、その女を怒鳴ってやりたくて、たまらなかった。けれど、それは出来なかった。
王の娘という生まれ故に、王妹の矜持ゆえに、何より、レイスティア侯爵家の奥方としての誇りと立場が、夫を返して、と叫ぶのを許さなかった。高貴なる身分も、血筋も何もない平民の女に、膝をついて、クリストファーさまを返して、大切な人なの、と懇願することが出来なかった。どうしても。
地位も名誉も富も、本当はそんなもの、どうでも良かったのに。最初から、欲しいのは、ただ一つだけだったのに。
「リーディア様、愛する御方と共に、どうかお幸せに」
「我らの愛する王女殿下」
「お幸せであってください、誰よりも。貴女は国民の憧れなのだから」
……言えなかった。絶対に。不幸であるなどと、夫に愛されていないなどと。
貴女は幸福なる王女。国民の希望、娘たちの憧れ、我らが愛する姫君。
しあわせに、しあわせに、しあわせに。
誰よりも何よりも、幸福であれ。民から寄せられる期待はいつしか、重しや軛となり、どう足掻いても取れなくなった。笑わなければ。笑わなければ。わたくしは、幸福であり続けなければならない。ずっと、そう言われてきたのだもの。誰も、誰一人として、わたくしに不幸を求めなかった。
……でも。
幸せって、何かしら?
わたくしは、何をもって、幸福というの?身分も富も美貌も、何もかも持ち合わせていたのに、王女であるわたくしは、ちっとも満たされていなかった。
――ひらり、空色のリボンが風に舞った。
「……あ、」
「王女様のおリボンが……」
枝にまきついたリボンを取ってくれたのは、背が高く、聡明そうな貴公子だった。
咄嗟のことで、ろくに礼も言えなかったと嘆くリーディアに、侍女が教えてくれたのは、彼がレイスティア侯爵家の跡継ぎであるということと、クリストファーという名だった。
「クリストファーさま……」
一目惚れだった。
何もかも与えられて、何も欲したことのない王女が、ただ一つ、己から欲しがったのは、彼の人の心だった。けれど。
「クリストファーさま、抱いてください。貴方のお子です」
赤子を抱えて、歩み寄ったリーディアに、クリストファーはどこか寂し気に微笑む。
愛しています。
何でもしますから、どうかあいしてください。
「貴女のことは大切だ、リーディア王女殿下」
付け加えられた、王女殿下、というのが、レイスティア侯爵家の当主としての責から出たものだということは、わかっていた。
その時、リーディアは悟ったのだ。
どれほど愛しても、男の子を産んでも、生涯、夫に愛されることはないのだと。泣いた。涙が枯れ果てるほどに泣いた。
「クリストファーさま、クリストファーさまぁぁぁ……!」
――カツカツ。
大広間の扉の方から、杖の音がした。
背中から聞こえたそれは、だんだんと近寄ってくる。
「もう良いのだよ、リーディア」
収拾のつかなくなった大広間に響いたのは、全てを赦すような、穏やかな声だった。
痩せた老年の男が、執事に支えられるようにしながら、杖をつき、一歩、一歩、こちらに歩み寄ってくる。
招待客の中から、クリストファーさまだ、レイスティア侯爵……と囁くような声がもれた。十数年もの間、社交界に姿を現さなかったとはいえ、在りし日、社交界一の貴公子とも謳われたその男のことを、記憶に留めている者は多かったのだ。
杖をつき、心元ない足取りは、堂々とは程遠かった、執事の介助がなければ、歩を進めることさえ困難であろう。
しかし、それでもなお、老人の歩みには堂々、という枕詞が似合った。気品があり、柔らかでありながら、その凛然とした面持ちは、周囲の目を惹きつけた。
あなた、リーディアが目を見張る。
エステルを襲った刃を、身をていして庇って以来、半ば寝たきりとなった夫が、人の手を借りながらとはいえ、こんな風に歩いているのを見るのは、数年ぶりだった。
「もう終わりにしよう、リーディア」
「あなた……クリストファーさま……」
穏やかな口調で、妻を諫めた老人は、老いた妻の手を握り、もういいのだという風に首を横に振った。
リーディアは惚けた表情で、でも、夫に手を握られたことで、少し安堵したような、先ほどまでの狂気じみたものが薄れ、何か憑き物が落ちたような様子であった。
――いいの?終わりにしてもいいの。憎むことはもう、疲れたわ。
リーディアは、愛憎ゆえの狂気に蝕まれるまでは、普通の女だった。民の幸福と、愛する人に愛されたいと願うだけの、ささやかな願いを抱く娘であった。憎むことに疲れ果てた女は、もう静かに舞台をおりたかった。
さあ、と夫に促されたリーディアは、よろよろとした足つきで立ち上がり、長年、侯爵家に仕えた老執事に脇を支えられながら、扉の側へと歩き去っていった。
「ねえ、疲れたわ。少し休みたいの」
いやいやと駄々をこねる老婦人を、執事が子供を諭すように、優しくなだめる。
「ええ、奥様はしばしお休みになられた方が、よろしゅうございますよ。あとは全て、旦那様がよきように取り計らってくださいます」
「クリストファーさまが……?」
「ええ、安心なさいませ」
「そう、それなら安心ね。だって、
――わたくしの旦那様ですもの」
心底安心したように、うなずくリーディアは、どこか誇らしげで、昔日、純粋に夫を慕っていた頃を、束の間、思い出したようであった。
――あの御方を愛しているの。だから、クリストファーさまの妻になりたいわ。
妻が執事と共に出て行くのを見届けると、クリストファーはようやく駆けつけた医者に、アレクシスとシアの手当てを頼んだ。
重傷のアレクシスはともかく、かすり傷程度のシアは、それを固辞したが、いいからと強引に押し切られる。
クリストファーの行動は、何年もの間、寝台から起きあがれなかったとは思えぬほど、迅速であった。
いまだ呆然とした態の、息子のコンラッドを叱咤し、競売の中止と、招待客たちに詫びて、また改めて機会をもうけるから、いったんは屋敷を引き上げてもらうように指示を出す。
せっかく来たというのにと、大人気なくも渋るゲストには、クリストファーが自ら、申し訳ないと頭を垂れる。
老いたとはいえ、かつては宮廷にその人ありと謡われた、レイスティア侯爵にそうまでされてはと、招待客たち達も顔を見合わせ、野次馬根性を恥じ入るように、そそくさと帰り支度をする。
名門当主の一言には、それだけの重みがあった。
招待客たちがじょじょに引き上げていくのを横目で見ながら、クリストファーは「コンラッド」と息子の名を呼んだ。
「お前は、リーディアに付き添っていてあげなさい。まだ混乱して、心細いだろうから」
「父上、しかし……」
コンラッドは躊躇した。
母親の事は気がかりであったが、父のクリストファーとて、何年もの間、寝たきりで、本来なら、病床にいるべき人なのだ。
いくら精力的に動いているといっても、この混乱した状態で、父に全てを任せていいものか……。
そんなコンラッドの迷いを見透かしたように、クリストファーは微かに口角を上げた。
「案ずるな。老いた身とはいえ、当主の務めを果たすことぐらいは出来る。お前は、息子としての務めを果たしなさい」
穏やかながら、反論を許さない物言いに、コンラッドも腹を括ったのだろう。
はっ、と短く応じると、母と執事の背中を追いかけた。
バタバタと慌ただしく招待客たちが去り、コンラッドもホールを出て行った後、先ほどまでの賑わいが嘘のように、ダンスホールには、シアとアレクシス、杖をついたクリストファーだけが残された。
「……怖い思いをさせたね。妻が本当に申し訳ないことをした」
医者が駆けつけてくるまでの間、クリストファーは心底、悔いるような表情で、そう、シアとアレクシスに詫びた。
シアが大怪我でも負ってしまっていたら、危うく、天国にいるアリシアにもエステルにも、顔向け出来ないことになるところだった。良い恋人でも、良い父でもなかったが、それでも彼女たちは許してくれているだろうか。
クリストファーは、涙で目を潤ませたシアをじっと見つめる。
やはり、祖母のアリシアにも、母のエステルにも、とてもよく似ていた。
彼の瞼の裏に残っているのは、屋敷を飛び出すまでの、少女時代のエステルだけだ。彼女が、どんな大人の女性になったのかは知らない。きっと、美しく、優しく、娘を愛した母であったのだろう。
シアの素直さは、周囲な愛情に包み込まれて育ってあろうことが、伝わってくる。
エステルは優しい娘だった。
不憫で、愛情に飢えてはいたけれども、それを人に惜しみなく与えることを知っていた、聡い子だった。
おそらく、自分が得られなかった愛情の分まで、娘には惜しみなく愛を注いだのだ。
母を母と呼べても、父を父とは呼べない、不憫な身の上の子であったけれども……エステル、きみは幸せだったかい?
「あの……?」
シアが小首を傾げる。
クリストファーは目を細め、柔く微笑った。
決まっている。
きっと、幸せだったのだろう。愛する男と結ばれて、このように良い娘を授かったのだから。
あの娘の長いとは言えない人生には、幸福な瞬間が沢山あったのだと。
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