女王の商人
美酒と商人2−2
――聖剣に相応しい騎士であれ。それが王剣ハイライン家に課せられた使命だった。
今は亡きハイライン伯爵――カーティス=ロア=ハイラインが、息子のアレクシスに言うことは、いつも決まっていた。昼夜を問わず、低く重々しい声で喋る父の姿は、亡くなってから三年もの月日が流れた今でも、アレクシスは鮮明に思い出せる。
その低く威厳のある声で、父はいつも「アレクシスよ……」と名を呼んで、言葉を続けた。
「――聖剣オルバートに、相応しい騎士であれ」
「――王剣ハイラインの名に、恥じぬ剣士であれ」
精悍だった若き日も、病を得て剣を握れなくなった時も、父のその口癖は変わらなかった。それを、息子のアレクシスはいつも黙って聞いていた。父が元気な時は、椅子に座って。また父が病に倒れてからは、寝台の横に立って。ずっと。
それは、父が息を引き取る間際まで変わらなかった。
「良いか?アレクシスよ……」
寝台の横たわった父は、震える声で息子の名を呼んだ。
「父上……」
「王剣ハイラインに……相応しい騎士になるのだぞ……それと、頼む……」
苦しげに言うと、父は枯れ木のように痩せ衰えた手を、アレクシスの方に伸ばした。
「……はい。父上」
その手を握り返したアレクシスは、痩せ細った父の腕に、寂しさと悲しさを覚えずにはいられなかった。かつて力強く剣を振るった肉体は、今は重い病魔に侵されて、最後にはわずかに残った命の炎さえも奪われようとしている。
アレクシスは何も言えずに、黙って父の手を握っていた。
「頼むぞ……アレクシス……お願いだ……」
意識が朦朧としているだろう父は、虚空に手を伸ばして呻くように言った。
「聖剣を……聖剣オルバートを頼む……聖剣を……」
それが、父と交わした最期の言葉になった。
「――若様。お茶をお持ちしました。入ってもよろしいですか?」
呼びかけと共に部屋の扉をノックされ、黒髪の青年――アレクシス=ロア=ハイラインは顔を上げた。その手には、シアと同じ薔薇の封筒が握られている。
「ああ」
アレクシスが返事をすると、ティ―ポットを持った青年が部屋に入ってくる。
「ありがとう。セドリック」
セドリック――アレクシスがそう呼びかけたのは、彼と同じ年くらいの若い男だった。
肩で切りそろえた金髪に、落ち着いた緑の瞳とメガネ。かっちりとした黒い服が、真面目そうな顔立ちによく似合っている。陶器のティーポットをのせた重い銀の盆を片手で持ってさえ、少しも揺るがぬ姿勢が、青年が熟練の使用人であることを証明していた。
名を、セドリック=ローウェン。
ハイライン伯爵家の執事を父に持つ、アレクシスの従者である。
セドリックはにっこりと微笑むと、アレクシスの前にティーカップを置く。
「本日は、東のムメイのより仕入れました茶で、リョクチャでございます。若様のお気に召せばよろしいのですが」
そう言われたアレクシスは、うすい緑色をした茶を口に含んだ。
「……美味いな」
アレクシスの賛辞に、セドリックは満面の笑みを浮かべる。
「それは何より。若様のために、美味しい茶葉を求めて、必死に市場を走り回った甲斐がありました……ああ、そのリョクチャなのですが、ムメイの旅人に聞いたところワガシという菓子が、よく合うそうなのです。せっかくなので、今度つくってみようと思います!」
満足そうに言うセドリックに、アレクシスはすまなさそうな表情で言った。
「すまないな。セドリック。メイドを一人も連れてこなかったばかりに、何から何までお前にやらせてしまって……」
主人の言葉に、セドリックは大仰な仕草でぶんぶんと首を横に振った。
「とんでもございません!若様のお世話をさせていただくことに、このセドリックなんの不満もございません。こうして、おそばで仕えさせていただくことこそが、無上の喜びでございます!不肖このセドリック、敬愛する若様のためならば、たとえ人生を捧げても一片の悔いもございません!」
「そ、そうか。ありがとう。セドリック」
鼻息荒く言いきる従者に、アレクシスはうなずいた。
「当然です!」
このセドリック、忠義者といえば聞こえが良いが、実のところ主君バカな男であった。
「……ふぅ」
ため息をついたアレクシスに、セドリックが首をかしげる。
「どうかなさいましたか?若様」
「いや、少し父上のことを思い出していたんだ……」
「旦那さまの……もう三年になりますか」
「ああ。もう三年になるのか。月日が流れるのは、早いな」
最後の騎士。
アレクシスの父――カーティス=ロア=ハイラインは、そう呼ばれていた。
実際に、そう呼ばれるに相応しい人であったと、アレクシスも思う。
騎士道というものが廃れて、貴族が衰退した今の時代。
勇猛な騎士たちが剣を振るって、戦場を駆け巡った時代のことなど、今は物語の中でしか語られることがない。平民が政治の中心となり、武よりも金が物を言う世の中で、騎士道などは過去の栄光となりつつあることを、父は死ぬまで絶対に認めようとはしなかった。
王剣のハイライン。
初代の当主シリウスが、国王より聖剣オルバートを賜って以来、ハイライン伯爵家はそう称されるようになった。
騎士の中の騎士。
そう称賛されて、社交界の華であった時代もあるという。今はもう、昔の話だが。
「アレクシス様……」
「もし父上が生きておられたなら、今の現状になんと言われただろう?」
アレクシスは、感慨深げに言う。
王剣ハイライン。
聖剣の守護者。
騎士の中の騎士。
そうアルゼンタールの民から称賛されて、ハイライン伯爵家が繁栄したのは、遥か昔の話である。
没落貴族。
今のハイライン伯爵家の実情は、それである。もともとは、戦場での騎士の武勲によって栄えた家柄なのだ。平和な時代にあっては、悲しいほどに無力である。
いや、それでも細々と暮らしていくならば、どうにかなったはずだった。
先祖伝来の領地や屋敷もあれば、それによる収入もあり、代々ハイライン家に仕えてくれた優秀な使用人たちもいた。過度な贅沢さえしなければ、何不自由なく暮らしていけるはずだったのだ。貴族の衰退という、時代の変化さえなければ。
五十年も前に、この国の政治の中心は貴族から、議会制による平民の手にゆだねられた。
一部の上手く立ち回った者たちを除いて、貴族たちの多くは力を失い、没落への道を歩み始めることになった。ハイライン伯爵家も、その一つに過ぎない。
おまけに先々代のハイライン伯爵、つまりアレクシスの祖父は、かなりの浪費家であった。
剣士としては一流であった人だが、酒を好み美食を好み美女を好み、とにかく湯水の如く金を使い続けたのだという。金が足りなくなると、先祖伝来の美術品も売り払った末に、最後には親類に借金を繰り返すようになったと聞いている。
そして、そのツケは祖父の死後、アレクシスの父・カーティスに回ってきた。
全てにおいて奔放であった祖父に反発して、厳格で真面目な性格であった父は、節約を好み借金の解消に努めた。自分はもちろんのこと、妻や息子にも贅沢を禁じて、ついには使用人の数まで減らした。だが、それでも家の没落に歯止めをかけることは出来なかった。
そんなハイライン家の事情を思い出してか、セドリックがうるっと瞳を潤ませる。
「ううっ……若様!セドリックは悲しゅうございます!本来ならば、騎士団長にもなれる身分のハイライン伯爵家の嫡子が、なにゆえに商人風情の護衛などっ!今は亡き旦那さまがお聞きになれば、どれほど嘆かれることか……」
そう言うとセドリックは、目元にハンカチをあてた。
「落ち着け。セドリック。俺は別に不満を持ってはいない。恐れ多くも女王陛下のご命令だ。文句を言うのは不敬にあたる、と父上なら言っただろうな」
自嘲気味に言うと、アレクシスは肩をすくめた。
父が亡くなった後、ハイライン伯爵家の没落には拍車がかかった。
三年前には、嫡子であるアレクシスでも十五歳の子供に過ぎなかったし、未亡人となった母と二人で途方に暮れていたと言ってもいい。
借金こそ何とか返し終わったものの、先祖伝来の美術品の大半は売り払っていたし、領地の収入もさほど多くはない。屋敷の維持や使用人の給与の他に、領民のために使う様々な経費などを考えると、アレクシスたちの手元にはわずかな金額すら残らない。
それすらも、貴族が衰退していく時代にあっては、いつまで持つか疑問と言わざるおえない。
そんな時だった。王宮からの使者が、ハイライン伯爵家を訪れたのは。
「――女王の商人の騎士をおやりになる気はありません?アレクシスさま」
エミーリア女王陛下付きの女官で、ルノア=オルゼットと名乗った女性は、そうアレクシスに尋ねた。
「もちろん、引き受けていただければ、相応の報酬は用意すると女王陛下は仰せです」
「それは……」
アレクシスは即答できなかった。
領地を長く離れることに、伯爵家の嫡子としてためらいを感じたのもあるし、聡明だが病弱な母を一人で残していくのも不安だったからだ。
しかし、このままではハイライン伯爵家の経済が破綻するのは、時間の問題だとアレクシスには思えた。王剣ハイラインの名を継ぐ者として、どうするべきなのか。
「いかがですか?」
再度の女官の問いに、アレクシスはうなずいた。
「女王陛下のご命令とあれば、謹んでお受けいたします」
アレクシスは覚悟を決めた。
そうして、しぶる母やメイドたちを説得し、セドリック一人を共として王都ベルカルンの別邸へと引っ越したのである。
そういう事情であるから、今更だれの護衛であろうとも、文句を言うつもりはない。本音を言えば、仕事を共にする相手が貴族であろうと商人であろうと、アレクシスは特に興味がなかった。どんな相手と組んだとしても、自分のすべきことは変わらないのだから。
王剣の騎士としては、女王陛下の命を忠実に果たすのみだ。
アレクシスはそう割り切っていたのだが、セドリックはそうはいかないらしく、不満そうに顔をしかめていた。
「ですが、若様。どこぞの姫君ならばともかく、ハイライン伯爵家の嫡子自ら、商人の護衛など……しかも、その商人――シア=リーブルでしたか?女で、しかも十六歳の小娘らしいではないですか。世が世なら、身分違いも良いところです」
「……相変わらず、セドリックは商人を毛嫌いしているな。母上の影響か?」
アレクシスが、やや呆れたように言う。
「ええ。もちろんでございます。奥様のお言葉ではございませぬが、誇りよりも金を重んじる輩など、信頼できたものではございません」
「……そうとも限らないと思うが」
ハイライン伯爵家の使用人たちは、なぜか商人を毛嫌いしている。
なぜかと言えば、アレクシスの母であるルイーズの影響によるものだ。
ルイーズは聡明な女性なのだが、なぜか商人を毛嫌いしていて、決して自分では関わろうとしとはしない。その理由を、アレクシスも聞いたことがないのだが。女主人のルイーズがそうであるものだから、自然と屋敷の使用人たちも、少数の商人としか付き合わなくなった。
(どうして母上は、商人を嫌っていらっしゃるのだろう?)
聡明な母の不思議な頑固さに、アレクシスも疑問を覚えてはいるのだが、ルイーズが決して喋らないゆえにそのままだ。
「とにかく、私は嘆かわしくてなりません!幼少時から大切に大切に、宝物のようにお仕えしてきた若様が、商人の小娘の護衛など!不釣合いも良いところです!若様のような騎士に守られるべきなのは、貴族の姫君で美しく教養があり物静かで、思いやりがあり……」
「……わかったから、そのへんで良いだろう。セドリック」
放っておくと、延々と喋り続けそうな従者を、アレクシスは黙らせた。
別に、恋人や花嫁を探しているわけでもあるまいし、女王の商人がどのような娘であろうとアレクシスは興味がなかった。もちろん付き合いやすいに越したことはないが、どうせ女王陛下に命じられた一年間の付き合いでしかない。
だから、シア=リーブルに会うまで、どのような娘かも気にしていなかったのだが……。
(シア=リーブルか。変わった娘だったな)
食い逃げ犯を捕まえた時で出会った娘のことを、アレクシスは思い出した。
すべての面において、アレクシスが出会ったことのないタイプの娘だった。
あれほどポンポンと、言いたい放題に言われたのも初めてなら、面と向かって怒鳴られたのも初めてだった。父が存命だった頃に出入りした社交界では、ああいうご令嬢は一人も見たことがない。どの令嬢も男の前では、楚々とした微笑みを浮かべていたというのに。
だが、不思議と言いたい放題に言われても、それほど不快ではなかった気もするのだが。
(……しかし、上手く仲間としてやっていけるのか?)
とにかく、これからのことを考えると、アレクシスは一抹の不安を感じずにいられなかった。
「若様。それはそうと、そろそろ出発のお時間でございます」
セドリックは置時計を見て、そうアレクシスに声をかけた。
たとえ話に熱中していても、セドリックの仕事に落ち度はない。
アレクシスはうなづくと、薔薇の封筒を持って立ち上がった。
「ああ。では、王城に行って来る」
こうして、王剣の騎士もまた商人と同じように、女王陛下のお茶会へと向かったのである。
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