女王の商人

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  美酒と商人2−4  

 ――母は、美しい人だった。

 シアの母親――エステルは、シアが六歳の年に病で帰らぬ人となった。今から、もう十年も前のことだ。
 生来、病弱な人ではあったが、実の娘であるシアの目から見ても、エステルは美しい人だった。
 娘と同じ白銀の髪に、夢見るようなスミレ色の瞳。それに加えて、ほっそりした肢体と陶器のような肌もあって、エステルは実に儚げな美貌の持ち主だった。触れれば壊れてしまいそうな、繊細な美女。
 そんな風に、誰もが認める美貌の持ち主だったにも関わらず、エステル自身は控え目で大人しい性格をしていた。母が大声で怒鳴ったり、人前で怒っている姿を、実の娘であるシアさえも一度も目にしたことがない。代わりに、その繊細で優しい性格を現すような、ふんわりとした微笑みを浮かべているのが常だった。
 そんな母が、幼いシアにとっては自慢だった。
 その柔らかな手で頭を撫でられることと、子守唄を歌ってくれる優しい声が、シアは何より好きだった。
「……シア」
 その優しい声で、エステルは娘に語りかける。
「お願いだから、約束を守ってね……」
 若い母親は心配そうな顔で、幼い娘に繰り返し同じことを言う。幾度も、幾度も。
「――お願いだから、貴族の方に近寄らないで。シア」
 幼いシアの肩に手を置いて、エステルは青ざめた顔で言う。その置かれた両手のかすかな震えと、立てられた爪の痛みが、母の真剣な気持ちを伝えてきて、シアは何も言うことが出来なかった。
 貴族に決して、近づいてはならない。
 エステルは幾度も幾度も、幼い娘にそういい続けた。まだその言葉の意味すらわからない時から、懇願するように。繰り返し、繰り返し。
 そんな母の態度を、幼いなりに不思議に思いつつも、シアがその理由を問うことはなかった。シアに語りかけるエステルの態度が、あまりにも真剣で必死だったからだ。穏やかで優しくて、少しボーっとした性格の母だったが、その言葉を言う時だけは、いつも泣きそうな顔をしていた。
「母さま……」
 エステルはシアの小さな体を、ぎゅうと強く抱きしめる。決して離さないという風に、強く強く。そのスミレ色の瞳はうるんでいて、今にも涙がこぼれそうだった。背中に深くくいこむ母の爪の痛みに、シアはぎゅっと眉を寄せる。
 母は何かを恐れていた。幼いシアの目から見ても、それは明らかだった。
 ただ、何を恐れているのか察するには、シアはまだ幼すぎた。その理由を聞くことも、青ざめた母の表情を見ていると、結局は一度も口にすることが出来なかった。
 ただ黙って、シアも母の背中に手を回して、ぎゅううと強く抱きしめ返した。安心して欲しいという、願いをこめて。お願いだから、泣かないで。
「――安心して。母さま。シアが貴族の方に近寄らなきゃ良いんでしょ?簡単だよ」
 だから泣かないで、と幼い少女は母親を励ます。
「ありがとう。シアは良い子ね……」
 ポトリ、とエステルのスミレ色の瞳からつたった涙が、幼い娘の手元をぬらした。シアは焦ったように手を伸ばし、母の陶器のような白い肌をつたう涙をとめようと、手でゴシゴシとこすった。
 泣かないで、母さま。
 そう言い続ける健気な娘の姿に、泣いていたエステルも、顔をあげて娘の頭を優しく撫でた。その儚げで優しい母の微笑みが、シアは大好きだったし、この優しい母を守りたかった。
「シアは、本当に優しい子ね……」
 最愛の母に褒められたことが嬉しくて、シアはえへへと無邪気な笑みを浮かべる。
「――ねぇ、シア。お願いだから、あの方にだけは近寄らないでね。あの方にだけは。黒いドレスの貴婦人だけは……」
 それから一年後、二十三歳の若さでエステルは世を去った。その言葉の真意を、最期まで語らぬままで。
「母さま……」
 窓から差しこんでくる光に眩しさを感じて、シアは目を覚ました。
「んんぅ……」
 ふわあっ、と大きなあくびをした後、シアはうーっと唸りながら伸びをする。パチパチと瞬きした青い瞳は、ぼんやりとして寝ぼけ眼だ。それから、また「ふわあっ」とあくび。コキコキと首を左右に動かし、眠そうな顔で目元を手でこする。
 なんとも乙女らしくない目覚めだが、人よりも朝が弱いシアにとっては、これは毎日の習慣と言ってもいい。
 早起きは三レアンの得。
 その先人達の言葉を知らないわけではないが、こればっかりは自分でどうにもならないのだ。
 これから、寝ぼけ眼をこすりつつ顔を洗った後、ダラダラと寝巻きから洋服に着替えて、一階に降りて行ってメイド三人娘の誰かが作ってくれた朝食を家族と一緒に食べる。そしてトーストをかじりながら、父親や祖父と今日の仕事の打ち合わせをし、コーヒーをすすりながら今日の新聞に目を通す。それが、毎朝のシアの習慣だった。
 今日も同じ行動をとるつもりだったのだが――
「何か落ち着かないなぁ。大事なことを忘れているような……」
 そう呟いて、うーんと首をかしげたシアは、ふと部屋の隅に置かれた時計に目をやった。時刻は、午前九時。それを見たシアの顔から、サーっと血の気が引いて行く。忘れてた。すっかり忘れてた。忘れてたあああ!
「遅刻だあああああっ!」
 シアは頭を抱えて、絶叫した。
 今日は女王陛下の命で、幻の美酒とまで言われるロズベリー酒を買うために、ロセルの町に行く日だった。
 そのために、アレクシスと待ち合わせの約束をしていたのだ。そう、九時十分に屋敷の前で。それなのに、シアは今、寝巻き姿で着替えてすらいない。これは、どう考えたとしても、まずい状況である。
「うぎゃあ――っ!」
 年頃の乙女らしくもない怪獣のような雄叫びをあげつつ、シアは寝巻きをぽいっと乱暴に脱ぎ捨て、鬼気迫る表情でドレスに着替えた。それから床に転がしてあった旅行鞄を拾い上げると、ドドドッと一階への階段を二段飛ばしで駆け下りる。むしろ、下りるというよりも、落ちるという表現の方がピッタリくるような勢いだった。
「間に合わないいいいっ!」
 その騒ぎを聞きつけてか、父のクラフトや祖父のエドワードも、リビングから顔を出した。
「おはよう!シア。もう行くのかい?この最愛の父へのお土産を忘れないでくれよ!昔は、可愛かった我が娘よ」
「誰が、昔は可愛かっただってえええっ!この前、さんざん騙してくれた恨みを、あたしはまだ忘れてないぞおおっ!お土産どころか、ちり紙一枚だって、父さんにあげるには惜しいわっ!この狸親父めええっ!」
 ハハハッ、と馬鹿みたいに高笑いするクラフトを、シアは旅行鞄の角でガツンッ、と思いっきりどついた。
「のおおおおおっ!痛いじゃないか!昔は、優しかった気もする我が娘よ」
「優しかった気もするって、褒め言葉のつもりかっ!どう見ても、自業自得でしょーが!」
 のおおおおっ、と奇怪な声をあげながら床を転がる父に、シアは白い目を向ける。そんな哀れな息子の様子に、エドワードは同情したような目をして、クラフトの肩をポンポンと叩いた。
「おいおいっ、クラフト。おめぇ、プレイボーイを気取ってる癖に、女の扱いはまだまだみたいだなあ。女を口説くにゃ、それなりの技術がいるんだよ。なあ?シア」
「……何よ?」
 胡乱な視線を向けてくる孫に、祖父はグッと親指を立てた。
「お前がロセルの街に行ってる間、俺は娼館の別嬪さんたちと楽しく遊んでるから、安心して行ってこい!あっ、それと俺への土産は酒で頼むわ!可愛い孫よ」
 芝居がかった仕草でウィンクしてくるエドワードに、シアの短い堪忍袋がブチッと無残な音と共に切れた。
「安心できるかあああっ!この狸親父と色ボケ爺があああっ!」
 ぎゃーぎゃーと吠えるシアの頭からは、今朝みた亡き母の夢のことや、待ち合わせているアレクシスのことさえも、綺麗サッパリ吹き飛んでいた。
 
 一方、その頃、アレクシスは――
「どうぞ。南方から仕入れた紅茶でございます」
 リーブル家の応接間。
 大商人の屋敷らしく豪華に、だがセンス良く整えられた部屋の中央のテーブルには、一人の青年が腰かけていた。リーブル家のメイドであるべリンダが、しずしずと青年の前に紅茶のカップを置く。心なしか、その瞳はうっとりとしており、頬はうっすらと紅く染まっていた。
「ありがとう」
礼を言った彼が紅茶に口をつけたのを見届けて、後ろに控えていたメイドのリタが、彼に声をかけた。
「お口に合いますか?アレクシスさま」
「ああ。香りの良い上質な茶葉だな。ただ、それより……」
 青年――アレクシスはうなづいた後、ちらり、と複雑な視線を扉の外へ向ける。
 視線の先の廊下からは、ぎゃーぎゃーという叫び声や、シアが旅行鞄を振りまわす音などが、ひっきりなしに響いていた。その騒がしさにアレクシスは不安を抱くが、三人のメイドたちはまるで何事もないかのように、平然とした顔をしている。
 彼はハアとため息をつくと、リタに問いかけた。
「……アレを止めなくて良いのか?」
 アレクシスの問いに、リタはにっこりと微笑んで言い切った。
「慣れてますから!」
「……そうか」
 それ以上、何も言えなくなったアレクシスに、メイドの二―ナが苦笑しながら言葉を続ける。
「大旦那さまも、旦那さまも、シアお嬢さまが可愛くて仕方ないんですよ。今は亡き奥さまの忘れ形見でいらっしゃいますから」
「奥方は亡くなられているのか……」
「ええ。もう十年も前に」
「そうか……」
 アレクシスは同情するように、目を伏せた。
 父を亡くした時の悲しみを思い出す。愛する肉親を亡くした悲しみは、年月を経ても癒えることがない。ましてや、幼くして母を亡くしたシアは辛かったことだろう。それを考えると、胸が痛んだ。
 そんな憂い顔のアレクシスを、メイドたちが熱っぽい瞳で見つめる。
 (ううーん。ホント男前な人だなあ。目の保養。目の保養……)
 (うふふ。このティーカップ、売ったら良い値段がつきそうです)
 (ふふ。こんなチャンスは滅多にないわ!玉の輿!頑張れ私!)
 などと思っていることを、アレクシスは知る由もない。
 
 結局、リーブル商会の馬車が王都を出立したのは、それからしばらくしてからのことだった。

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