女王の商人

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  美酒と商人2−5  

 ロセルというのは、アルゼンタール王国の東に位置する小さな町だ。
 王都ベルカルンからもやや離れており、幻の美酒と言われるロズベリー酒以外には、これといった名物もない平凡な田舎町である。
 そんな町であるので、商人として国内のいろいろな場所に行ってきたシアでも、まだ足を踏み入れたことがない。しかし、リーブル商会の先輩商人たちに聞いたところによれば、町の人々は親切で、のんびりした良い町だという。
 そんな評判を聞いていたので、シアはロセルの町を訪れるのを、心から楽しみにしていた。
 シアは町から町を渡り歩く行商人ほどではないが、旅が好きだ。
 商談をするために、父や祖父のお供で国外に出ることも多いが、それを最も楽しみにしているのは、彼女だろう。旅先で新しいものを見て、その土地の人々と交流し、友人が出来ることもある。そして、それが商売に生きることもあるのだ。
 そう考えると、王都ベルカルンからロセルの町まで、馬車で七時間の道のりも苦ではなかった。まあ、ガタガタと揺れる馬車で腰や尻が痛くなるのは避けられないが。
 そんな風に、ワクワクした気持ちでいたシアだったが、ふと隣に座る男を見て眉をひそめた。
 (はああ。だけど、この男と一緒じゃねぇ……)
 馬車の中、隣に座ったアレクシスといえば、先ほどから面白みのない無表情で正面を見据えている。外の移り行く景色を見るでもなく、かといって喋るでもなく、微動だにしない。
 不自然なほどの沈黙。
 それも、王都を出てから六時間以上。
 すでに気まずいという域を、だいぶ通り越している。
 (うう。でも、絶対にあたしから喋りかけたりするもんか!)
 むしろ、こうなれば意地である。
 シアは固く決意すると、先ほどから人形のように動かないアレクシスを睨んだ。相手には全く伝わらないことは百も承知だったが、そうせずにいられない気分だったのだ。貴族なんか大嫌い!女王陛下の命でなければ、絶対に一緒に仕事なんかしないのに……。
 (……あれ?)
 そう考えた瞬間、シアはズキンッと鈍い頭痛を感じた。
『――お願いだから、貴族の方に近寄らないで。シア』
 貴族に近寄ってはならない。そう言ったのは、誰だったのだろう?父ではない。祖父でもない気がする。この悲しい声は誰だ……。
『――ねぇ、シア。お願いだから、あの方にだけは近寄らないでね。あの方にだけは。黒いドレスの貴婦人だけは……』
 決して、貴族に近寄ってはならない。それは破ってはならない約束。黒いドレスの貴婦人……。
『約束よ』
 哀しい声で、そう言ったのは誰なのだろう?
「……大丈夫か?シア」
 自分の世界にひたっていたシアを、低い声が現実へと呼び戻した。
「え?」
 顔を上げた時、目が合ったのは漆黒の瞳。
「顔色が悪いが……」
 そう言ったアレクシスの顔は、気遣わしげだった。
 どうやら、本心からシアの身を案じてくれているようだ。
 そんなアレクシスの態度に、シアの胸はチクリッと針で刺したように痛む。そんな親切な言葉を、自分にかけないで欲しい。自分は貴族なんて大嫌いなんだから、そんな友人のような言葉など不要なのだ。むしろ、最初に出会った時のように、嫌な態度を貫いてくれた方が、百万倍マシである。だから――
 (そんな心配そうな目をしないで!こっちは、貴族なんて大嫌いなんだからっ!)
 そうでなければ、意地を張っている自分が、どうしようもない馬鹿みたいではないか。そんな嫌な奴にはなりたくない。
「……平気。ちょっと疲れただけ」
 シアは首を横に振ると、嘘とも言えない嘘をついた。
「……ならいいが」
 彼女の嘘には気がついただろうが、アレクシスは気づかない振りをして、そっと視線をそらした。
 不器用だが、これが彼なりの優しさなのだろう。
「……うん」
 シアだって、本当はわかっている。
 アレクシスは常に無表情で、ロクな冗談も言えないような根暗な男で、シアの大嫌いな貴族の生まれだが、それでも決して冷たい男ではない。むしろ、あれだけ険悪な関係のシアを心配するあたり、かなりのお人好しではないだろうか。もし、同じ商人同士であったなら、仲良くやれたかもしれない。
 でも、駄目なのだ。
 貴族と平民の関係は、例えるならコインの表と裏。決して相容れないものなのだから。
「そういう時代じゃなかった」
 幼い時に貴族の馬車に引かれ、何の手当てもしてもらえずに片足を失った祖父。それから何十年も経った後、動かない片足をさすりながら、そう言った時の祖父の哀しげな横顔を、シアは忘れることが出来ない。いや、おそらく永遠に忘れることは出来ないだろう。
 もちろん、アレクシスが祖父を傷つけた張本人でないことは、シアも百も承知である。だが、そうとわかっていても、駄目なのだ。
 政治が貴族の手から、議会へと移って五十年。
 貴族と平民の関係は、大きく変わった。
 おそらく、もう祖父のような人は出ないだろう。
 それでも、貴族と平民の溝は深い。貴族は己の栄光と地位を奪った成り上がりの平民を憎み、平民は没落した貴族を過去の恨みをもって嘲笑う。負の連鎖。積もり積もった恨みは、五十年もの月日が流れても消えることなく、この国に影を落としている。
 それに――
『――お願いだから、貴族の方に近寄らないで。シア』
 そう願ったのは、誰だったのだろう?
 シアは険しい顔で、ぎゅっと拳を握り締める。
 忘れてはいけない気がするのに、どうしても誰が言ったのか思い出せない。
「……ロセルに着いたようだな」
 窓の外を見ていたアレクシスがそう言うと、休みなく走り続けていた馬車も停まった。
 そのことに、シアは何となくホッとする。ロズベリー酒を買うために動いていれば、胸の中のモヤモヤした思いを忘れられそうな気がしたからだ。
「降りよう」
 シアは立ち上がると、御者に馬車を待たせてくれるように頼んで、石畳の上に降りた。
「ここがロセルの町か……」
 広場の周囲の建物をぐるり、と見回して、アレクシスが呟いた。
 華やかな王都とは比べるべくもないが、ロセルの素朴で穏やかな町並みは、どこかハイライン家の領地の風景にも似ていて、彼は一目で好感を持った。もちろん洗練された文化を誇る、女王陛下の都ベルカルンもこの上なく美しい場所だが、アレクシスにとっては素朴で穏やかな町並みに、より心を惹かれる。だが――
 (どこか違和感があるな……)
 素朴で穏やかな町の風景に、なんとも言えない違和感を覚えて、アレクシスは首を傾げた。
 平和で穏やかな町並み。なのに、この違和感は何なのだろう。
 ぐるぐると辺り見回していたシアも、アレクシスと同じ思いを抱いたらしく、疑問の声を上げた。
「……何か静か過ぎない?」
「妙だな」
 シアの言葉に、アレクシスもうなずく。
 そう、ここはロセルの町の中心地だというのに、不自然なほどにシーンと静まり返っているのだ。
 まだ日も沈んでいないというのに、広場の周囲には人の気配が全くなく、話し声も聞こえない。普段ならば、ここは町の住民たちの交流の場であるはずで、人っ子ひとり見えないなど不自然きわまりない。王都のように屋台が立ち並ぶということはなくても、ここまで静かというのはいささか不気味だと、アレクシスは思った。
 シアも同じように思ったらしく、人を見つけようと躍起になって、ぐるぐると周囲を見回す。だが、結局は人っ子ひとり見つけられなかったらしく、ガックリと悔しげな顔でうなだれた。
「なんで誰もいないのよ!」
 静かな町並みに、シアが苛立ったように言う。
 正直な言葉だった。
 アレクシスも同感だったが、どうしようもない。
「確かに。この静かさは、不気味だな……」
 そう首をかしげたアレクシスだったが、その瞬間、何かに気づいたように険しい顔をした。「……シア」と、突然、彼に真剣な声で名を呼ばれ、何が起きたのかとシアは動揺する。
「な、なに?」
「あれを見ろ」
 アレクシスが指差したのは、シアのいる場所から影になって見えにくい、路地裏だった。
「人がいるだろう?」
 だが、その言葉に従って目をこらせば、シアの目にも路地裏に人がいるのが映った。よく耳をすませれば、ぼそぼそという小さな話し声も耳に入ってくる。シアとアレクシスは顔を見合わせると、路地裏へと歩み寄った。
 奇妙なほどに静まりかえった町。その理由を尋ねたかったからだ。
 路地裏に近づくと、ぼそぼそとした会話が耳に入ってきた。
「ジーク……」
 一人は女。シアとそう年の変わらなそうな、若い女の声だった。
「エリー……」
 もう一人は男。低い声には、どこか切なげな響きがあった。
「無茶よ!そんなことしたら、貴女がどうなってしまうか!」
 叫ぶような、女の声。
「だけど、このままじゃ何も状況は変わらないっ!僕は……」
 事情は全くわからないが、何やら緊迫した状況のようだと、シアとアレクシスは悟った。立ち聞きなんて趣味じゃないし、二人とも誰でも良いから話しかけて、町の状況を聞きたい気持ちだったのだが、何となく話しかけるのをためらわせる空気があるのだ。二人がグズグズしているうちに、路地裏の男女の会話は続いて行く。
「僕は君を愛しているんだ!エリー!」
 (……は?)
「ええ。私も愛してるわっ!ジーク!」
 (……は?)
「エリー!」
「ジーク!」
 シアたちが話についていけないうちに、路地裏では芝居の一場面のような光景が繰り広げられている。恋人同士らしい二人は抱き合うと、「世界中の誰よりも、君を愛してるよ。エリー」「私も誰よりも貴方を愛してるわ。ジーク」「ああ!エリー!」「ジーク!」「エリー!」「ジーク!」「エリー!」「ジーク!」「エリー!」……以下、エンドレス。もういいわっ!
「もう我慢できない。鳥肌たってきた。ふふふ」
 ちょっとアブナイ目をして、恋人たちに歩み寄ろうとするシアを、アレクシスは必死に押しとどめる。
「待てっ!話せばわかる!落ち着け!」
 その騒ぎに気がついたのか、二人の世界にひたっていた恋人たちが、シアたちの方に目を向けた。
 亜麻色の髪に、空色の瞳をした少女――エリーが、驚愕の表情でシアたちを見ている。その怯えた表情に、立ち聞きしていたという罪悪感も手伝って、アレクシスは穴があったら入りたい心境にかられた。残念ながら、そんな都合の良い穴など存在するはずもなかったが。
 金髪に、緑の瞳をした青年――ジークも、エリーと同じように怯えた表情を浮かべて、シアの方を見ている。その驚きように、シアも思わずポカンと呆けたように口を開け、彼らを見つめ返した。
 馬鹿みたいに見つめ合っていた彼らだったが、エリーの喉がひくっと引きつったと思うと、その細い喉から信じられないほどの声が出た。
「きゃああああああああああああああっ!」
 耳をつんざくような絶叫。
「つぅ……」
キィィィン、と耳を裂くような悲鳴に、シアは思いっきり顔をしかめて、耳を押さえる。
「エリー!逃げるんだ!」
 その一瞬の隙にというべきか、ジークはエリーの細い腕を取ると、二人は道の反対側へと駆け出して行った。唐突な行動に、アレクシスの反応も一瞬おくれる。
「待ってくれ!」
 そう叫んだアレクシスだったが、駆けて行った恋人たちを追いかけることは叶わなかった。
 どどどどどど、と何処かからか無数の足音が近づいてきて、シアたちはそちらに視線を向ける。
 こちらに走ってくるのは、鬼気迫る表情をした数十人の屈強な男たちだった。
「……なんだ?」
 さすがのアレクシスも状況がのみこめず、怯えた表情こそ見せないものの、怪訝な顔を隠せない。シアは眉をひそめて、駆け寄ってくる屈強な男たちを見つめると、ぼそっと低い声で呟く。
「……嫌な予感がする」
 かくして、その予感は当たる。
 屈強な男たちはシアたちの前で足を止めると、二人をぐるり取り囲んだ。男たちの尋常でない殺気だった雰囲気は、この穏やかで平和な田舎町の風景に、ずいぶんと似合わないものに感じられる。状況がわからないながらも、アレクシスは隙のない動作で身構えた。帯剣はしていたが、一般人を相手に剣を抜くことは出来ない。剣に比べれば得意ではないが、亡き父から体術の訓練も受けている。
 そんなアレクシスに、屈強な男たちの中でも、ひときわ体格の良い亜麻色の髪をした中年男が近寄った。そして、彼の胸倉を掴み上げると、ドスの利いた低い声で叫ぶ。
「貴様あああっ!ウチの娘を何処に隠したあああっ!このローエン商会の回し者があああっ!」と。
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