女王の商人

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  美酒と商人2-8  

「少しは落ち着いたかい?エリー、ジーク?」
 なだめるようなアガタの問いかけに、亜麻色の髪の娘――エリーは目元をハンカチで押さえながらも、首を縦に振った。
「……はい。迷惑をかけて、本当にごめんなさい。女将さん」
 申し訳なさそうに言うと、再び涙ぐみそうになるエリーの肩を、金髪の青年――ジークが支える。
「君のせいじゃないよ、エリー。全ては、未だに父さんを説得出来ない僕の不甲斐なさが、一番の原因なんだから……いろいろ迷惑をかけて、本当にすみません。女将さん」
 そう謝罪してくるジークも、涙ぐんでこそいないものの、憔悴し疲れきっている様子だった。なんとか気丈に振舞おうとしているのだが、その端整な顔には疲労の色がありありと浮かんでいる。きっと、休む間もなくローエン商会の者たち、つまり父の部下たち追いまわされていたのだろう。
「まあまあ、そんなに気にしなくても良いよ。アンタたちも、父親に追いかけられたりして、いろいろと大変だったんだろう?遠慮しなくて良いから、ゆっくり休んでいきな」
 落ちこむ恋人たちを励ますように、アガタが明るく言う。
 元来、人情家らしい女将は、追われていると知りつつも、恋人たちを追い出す気など微塵もないらしかった。
 そんなアガタと恋人たちの会話を、シアとアレクシスは所在なさげにボーっとした様子で、聞いているしかなかった。言うまでもなく、二人とも展開には全く付いていけてない。
 客室に隠れていたエリーとジークを見つけた後の女将の行動は、驚くほど迅速だった。
 シアやアレクシスと同じくらい驚いていたはずなのに、ほんの一瞬で冷静さを取り戻すと、泣きじゃくる恋人たちをなだめて、あたたかい薬草茶を飲ませて落ち着かせた。そうして、なんとか落ち着いたエリーとジークから事情を聞きだし、今に至るというわけである。その女将の手際の良さに、シアは感心すら覚えた。
 何でも、駆け落ちしようとしたジークとエリーは、父親たちとその部下――ローエン商会とコーラル酒造の面々に追いかけられ、町を出ることすら叶わなかったそうだ。仕方なく逃げ回っているうちに、アガタの宿屋に身を隠してしまったということらしい。
 頑固な父親を持ったせいで、そこまでしなければならないのかと思うと、他人事ながらシアはため息をつかずにはいられない。
 エドワードは天性の女好きで、爺のくせに娼館の常連という不良ジジィだし、クラフトにいたっては腹黒で狸で、必要とあらば実の娘すら騙すという最悪さだが、頑固さとは無縁の人間である。困った身内だが、そこだけは感謝するべきかもしれないと、シアは真面目に思う。逆を言うと、それぐらいしか取り柄がないが。
「それで?これから、どうするつもりなんだい?」
 シアが、王都の家族のことに思いをはせていた時だった。薬草茶を淹れなおしたアガタが、ジークとエリーにそう尋ねる。
「それは……」
 エリーとジークは困ったように顔を見合わせて、二人そろって悲しげな顔で目を伏せた。
「僕は……」
 しばしの沈黙の後、何かを決意したような顔で、ジークが口を開く。
「もう一度だけ、父と一対一で話合おうと思います。僕は父がどうして、エリーと付き合うことを認めてくれないのか、どうしても納得できないんです。僕は他の誰よりも、エリーを愛しています……彼女が無理矢理ほかの男と結婚させられるなんて、どうしても耐えられない。父さんたちが認めてくれないなら、いっそ二人で駆け落ちしてでもと考えましたが……」
「……わかるよ」
 苦悩するように、拳をにぎりしめるジークに、アガタが同情をこめてうなづく。
 ジークの苦悩も、最もなことだった。
 駆け落ちして、生まれ育った故郷を捨てるということには、並外れた勇気がいる。ましてや、ジークは頑固な父親に悩まされてはいるが、決して憎んでいるわけではない。決して、好き好んでロセルの町から出ようとしているわけではないのだ。今でも、父がエリーのことを認めてくれるならば、それが一番いいと思っている。
 そして、それはエリーも同じ思いだった。震えるジークの手に、エリーがそっと白い手を重ねる。
「……私も同じです」
 エリーが静かに、だが、しっかりとした口調で言う。
「私はジークと同じように、父さんのことも愛しています。コーラル酒造のことも、このロセルの町も、この町の人々のことも好きなんです……だから、もう一度、父さんとちゃんと話合ってみようと思います。もう、逃げたりしないわ」
そう言うエリーの空色の瞳には、静かな、しかし揺るがない決意が宿っていた。
 その少女の瞳に、アレクシスは記憶の片隅に追いやっていた過去を思い出す。ああ、別れた時の彼女と同じ瞳をしている。そう思った。
『――アレクシス。私はもう逃げないわ。運命を受け入れるの』
 彼女も――シルヴィアも、美しい翡翠の瞳に静かな決意を宿して、アレクシスにそう告げた。もう、三年も前のことだ。
『だから、さようなら』
 シルヴィアは、今まで見た中で最も美しい微笑みで、かつての婚約者に別れを告げる。
 貿易で財を成したという商人に嫁ぐ前日、いつもと変わらず彼女は美しかった。金をとろかしたような髪も、透き通った翡翠の瞳も、穏やかな微笑みを浮かべた顔も何もかも。アレクシスは、シルヴィアよりも美しい娘を知らない。おそらく、これからも知ることはないだろう。彼女は美しかった。誰よりも。
『……シルヴィア』
 アレクシスは拳をきつく握り締めて、かつての婚約者を、三つ年上の美しい従姉の名を呼んだ。
『本当に……』
 その先の言葉を、アレクシスは言うことが出来なかった。
 他の男のもとへ嫁いでしまうのか、その選択で後悔しないのか、問いたいことはいくらでもあった。それなのに、彼はただ黙ることしか出来なかった。シルヴィアの選択を責めることは、決して出来ない。その資格が、アレクシスには無い。大事なたった一人の従姉を、己の婚約者を守れない男が、何かを言えるはずがない。
『ねぇ、アレクシス……』
 シルヴィアは儚げに微笑むと、背伸びをし、アレクシスの額にそっと口付けた。ふわり、と花の香りが薫る。
 物心ついた頃から、仰ぎ見ていた年上の従姉は、いつからか見下ろす側になっていた。自分よりも、頭ひとつ分は低い身長。ほっそりした手足に、淑女の微笑み。月日の流れは、かくも残酷だ。かつて共に遊んでいた少女は、たった一人で大人の階段を上ってしまった。アレクシスを置き去りにして。
 もう、共に過ごした子供時代には戻れない。どれほど願おうとも、決して叶うことはないのだ。
 恥も外聞も捨てて、アレクシスは泣けるものなら泣きたかった。幼子のように泣き喚き、行かないでくれと叫べたら良かった。だが、そんな簡単なことが彼には出来ない。誇り高き聖剣の守護者たれ、王剣ハイラインに相応しい者であれ、幼い頃から言われ続けてきた言葉が、アレクシスの耳から離れない。
 もし、騎士としての誇りも、ハイライン家の嫡子としての立場も何もかも投げ捨てて、シルヴィアの手を取れたなら……そうしたら、何かが変わったのだろうか。
『……』
 今となっては、それはわからない。
 シルヴィアは、アレクシスの手を取らなかった。
 ただ真っ直ぐ前を見て、一人で歩いて行ったのだから。
『――ねぇ、アレクシス。運命は流されるのでなく、自分自身の手で選ぶものよ。家名でも恋人でも、誇りでも何でもいい。貴方が真に大事だと思うものを選んで、最後まで守りなさい……いつの日か、貴方にそれを気付かせてくれる女の子が現れるわ。必ずね』
 微笑みながらそう言って、シルヴィアは嫁いでいった。アレクシスが十五の年のことだ。
「――もう逃げたりしないわ」
 凛とした表情で言いきったエリーに、アレクシスは従姉の面影を重ねずにいられなかった。エリーとシルヴィア。彼女たちの選択は正反対であるにも関わらず、どこか似ていたのだ。
「それで、どうやって話し合う気だい?エリー。今日のローエン商会やコーラル酒造の様子を見ていると、穏やかな話し合いが出来る雰囲気じゃなさそうだけど」
 アガタが心配気な顔で、恋人たちに問いかける。今日の様子を見ていれば、それも無理からぬことだろう。
「それは……」
 言葉に詰まるエリーの横で、ジークも頭を抱えた。
「確かに、外に出た瞬間に引き離されて、父たちと話し合うどころじゃなさそうですね……」
「そうだよねぇ……」
 アガタが、ハアと疲れたように息を吐く。
 ローエン商会のフランクと、コーラル酒造のヨザックの溝は、とんでもなく深い。そのうえに、今回のエリーとジークの騒動で、両者の仲はさらに険悪になった。はっきり言って、話し合うどころか罵り合いになるであろうことは、容易に想像できた。
「……俺たちがいれば、どうにかならないか?」
 アレクシスの唐突な一言に、全員が彼の方を向いた。
「はああ?いきなり何を言い出すのよ?」
 最初の反応したのは、シアだった。唐突なアレクシスの言葉に、彼女はわけがわかないと、形の良い眉をひそめる。
「だから、父親たちに話を聞いてもらうために、俺たちがいたらどうだという話だ……自分の娘や息子は引き離せても、俺たちがいればローエン商会の長もコーラル酒造の長も、それほど無茶は出来ないだろう。王都ベルカルンから、ロズベリー酒を買いにきたと言えば、おそらく無下な扱いはされないはずだ。それを利用して、父親たちと話し合えば良い……」
 いつになく饒舌なアレクシスに、シアはポカンとした顔をしていたが、ハッと我に返ると顔をしかめた。
「ちょっと待ってよ。あたしらは、このロセルの町に商人として仕事に来てるのよ。なのに、なんで……」
「あのぅ……貴方たちは?」
 シアが断固反対と言いかけた瞬間、恐る恐るといった様子で、ジークがアレクシスに話しかける。今までも気になってはいたのだが、出会いが出会いだけに、なんとなく聞く機会を逃していたらしい。
「俺の名は、アレクシス=ロア=ハイライン。王都から来た騎士だ。それで、この娘が……」
「王都の?」
「騎士さま?」
 アレクシスの素性に、ジークとエリーが驚きに目を見開く。王都から離れた田舎町では、騎士しかも貴族を目にする機会など滅多にないから、それも無理がないことだ。エリーたちの顔には、何でそんな立派な方がこんな田舎町に、と書いてあった。
「それで、この娘がシア=リーブル。あのリーブル商会の跡取り娘で、銀貨の商人だ」
「ちょっ……」
 勝手に紹介されて、シアが怒ったように眉をつりあげる。あたしは一言だって、協力するなんて言ってない!そう怒鳴ろうかと思ったが、時はすでに遅かった。シアの素性に、エリーとジークの口から、「ええっ!」と驚きの声が上がる。
「あのリーブル商会の?」
「跡取り娘?」
「はあ。まあ、一応……」
 エリーとジークの二人から、キラキラとした憧れにも似た視線を向けられて、シアは仕方なくうなづく。こうなるとわかってたら、偽名でも使うんだったと今更な後悔をしたが、すべてが後の祭りだった。
「うううう……」
 シアは唇を噛みしめ、獣のように唸る。
 上手くいくかは別にして、アレクシスの考えにも一理ある。先ほどは混乱もあって、ローエン商会やコーラル酒造から逃げてしまったとはいえ、ロズベリー酒を買うためには、彼らと交渉しないことにはどうにもならない。そのためには、この騒動が解決してくれることが、一番いいのはわかる。わかるのだが……なんとなく納得いかない。
 しかし、根がお人好しのシアにとって、すがるような恋人たちの視線を突っぱねることは、とてつもなく困難だった。この辺りが、商売人としてはまだまだ甘いと、クラフトに称される所以であるのだが。
「ああ、わかったわよ!協力すれば良いんでしょう!協力すれば!」
 半ばヤケクソ気味に、シアはそう叫んだのである。
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