女王の商人

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  古城と商人3-10  

 ラルクスの斧が、シアの頭に振り下ろされようとした瞬間、アレクシスがぐいっと彼女の腕を己の方に引き寄せた。
「――シアっ!」
 ドスッと振り下ろされた斧が空を切る。
 まさに間一髪。
 斧を避けきれなかったシアの銀髪の一房が切り落とされて、はらりはらり、と宙を舞う。
 彼女の口から、ひっ、という小さな呻き声がもれた。
 紙一重でシアの命を救ったアレクシスは、少女の体を己の方に引き寄せて、シアの耳に「後ろに下がっていろ」とささやく。
 そうして、アレクシスはシアを庇うように前に出ると、剣を構えて宿屋の主人――ラルクスを、漆黒の瞳で睨みつける。
 彼は端正な顔をきつく歪めると、苦々しげに言った。
「やはり、貴様が黒幕だったのか。ご主人……最初から怪しいとは思っていたが」
 悪魔公の城。
 隠された地下室で、斧や剣で襲いかかってきた仮面の集団。
 不気味な白い仮面に、魔術師のような黒いローブをまとっていた怪しげな四人組。
 そのリーダー格とおぼしき斧を振り回していた敵と、目の前で斧を振りかざし、薄笑いを浮かべたラルクスの姿がハッキリと重なる。
 今や、シアもアレクシスも自分たちを襲ったのが、善良そうに見えた宿屋の主人であることを確信していた。
 熊のような体格の宿屋の主人と、重い斧を軽々と振り回していた大柄な仮面の敵。不気味な仮面やら黒いローブやら、異様な外見に目を奪われていたが、よく見れば同じ人物であることは疑いようもない。
 斧を振りかざしたラルクスは、アレクシスの言葉に、ふふふと薄笑いを浮かべた。
「最初から怪しいと思っていた?ふふ……鋭いですね。お客さん。いつからですか?」
 そうして、からかうような口調で、アレクシスに尋ねる。
 ふざけた態度を見せられて、騎士はぎりっ、と唇を噛むと、冷たい声で言った。
「ああ。最初に怪しいと思ったのは、宿屋で薬草茶を出された時だった……あの薬草茶に何か薬を盛ったろう?巧妙に隠していたが、なにか妙な臭いがした」
「ほぅ。お気づきでしたか?」
 ラルクスの宿屋で出された昼食。
 その時に出された薬草茶に、なにか薬を盛っただろう。
 そう問いつめられた宿屋の主人ラルクスは、ほぅと感心したような声をあげる。
 彼らの会話を聞いていたシアは、アレクシスの横で、「げっ……」と顔色を変えた。
「薬草茶ぁ?それって、さっき宿屋で出されたやつのことぉ?」
 怒りでわなわなと震えるシアに、アレクシスは肩をすくめる。
「ああ。シアは飲みそうになっていたな……危ないところだった」
「あの薬草茶が毒入り……」
 宿屋でのやり取りを思いだして、シアは顔を青くする。
 ラルクスがいれた薬草茶に、シアはもう少しで口をつけるところだった。いや、アレクシスが止めてくれなければ、確実に薬草茶を口にしていただろう。
 あの時、宿屋で薬草茶に口をつけようとしたシアから、アレクシスがカップを取り上げたのは、そういう意味だったのだ。シアはようやく、アレクシスの妙な行動の意図を理解する。
 今にして思えば、あの薬草茶を出された時から、アレクシスは宿屋の主人を――ラルクスのことを疑っていたのだ。
「くくくっ……勘の良い方ですね。お客さんは。あの薬草茶の中には、痺れ薬をたっぷり盛っておいたのに、それを口にしないとは運が良い」
 何が楽しいのか、くくくっと怪しく笑うラルクスに、アレクシスは眉をひそめる。
「痺れ薬か……ずいぶんと姑息な真似をする」
 アレクシスは軽蔑したように言うと、ラルクスを睨みつけた。
 悪人に人道を説いても無駄なのはわかっているが、騎士道を重んじるアレクシスにとっては、痺れ薬を盛るなど論外だ。
 地下室で襲われたことよりも、彼はそちらに腹を立てているようだった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。あたしたちの飲み物に痺れ薬を盛ったり、地下室で殺そうとしたり……なんの恨みがあって、こんなことを?」
 事態についていけないシアが、呆然と言う。
 薬草茶の一件で、最初からラルクスを疑っていたアレクシスと違って、シアは宿屋の主人ラルクスが自分たちに痺れ薬を盛ったり、地下室で斧を持って襲いかかってきたなど、想像すらしていなかった。
 たしかに、ラルクスが仮面の敵だとすれば、あんなにタイミング良く襲われた理由にも、容易に説明がつく。
 しかし、人の良さそうに見えた宿屋の主人の変貌ぶりに、シアは動揺を隠せない。
 いや、そもそも何のために、自分たちは殺されかけたのだろう?
 シアもアレクシスも、ロゼリアの地を訪れるのは今日が初めてだし、初対面のラルクスに恨みを買った覚えなどあるわけもない。ましてや、殺されかかる理由など検討もつかないのに……。
 ああ、でもさっき、宿屋の主人ラルクスは妙なことを言っていた。
 シアは混乱する頭で、斧を振り下ろされながら、ラルクスに言われたことを思い出した。
 さっき宿屋の主人は狂気じみた笑みを浮かべて、シアにこう言ったのだった。
『すみませんね。お客さんに恨みはないんですけど、私たちが悪魔崇拝の書……イル・デ・カラートの写本で儀式を行うには、お客さんたちの血が必要なんですよ。だから、大人しく生け贄になってください……銀髪の美しいお嬢さん。貴女ならば、良い生け贄になるでしょう』と。
 悪魔への生け贄?
 イル・デ・カラートの写本?
 生き血が必要な儀式?
 それらの言葉に、おぞましい想像が、シアの頭をよぎる。
 (まさか!まさか!まさか、あたしたちが……)
 己の想像の残酷さに、シアの顔から、サーッと血の気が引いていく。
 青ざめた顔で、シアは宿屋の主人ラルクスの、地下室で襲ってきた仮面の敵たちの意図を悟った。ああ、そうか。あたしたちが……。
 そして、怪しく微笑む宿屋の主人ラルクスを睨みつけながら、震える声で言った。
「――ようするに、あたしたちがイル・デ・カラートの写本――悪魔崇拝の儀式の生け贄に、選ばれたってことね?ロゼリアの悪魔公の話は、ただの伝承じゃなかったわけだ……まさか、今も続いているとはね。地下室に散らばってた人骨やら血痕やらも、アンタらの仕業なの?この狂信者めっ!」
 恐怖よりも怒りが上回ったのか、シアが吠えた。
 ロゼリアの悪魔公。
 忌まわしき生け贄の儀式。
 どこまでが真実がわからぬが、それは三百年も前のおぞましい過去であると、シアもアレクシスもそう思っていた。
 どれほど陰惨な伝承であろうと、どれほど忌まわしい儀式であろうと、それらは全て過去のこと。今のロゼリアはのどかな農村でしかないと、彼も彼女も堅く信じていた。
 それも、当然といえば当然のことだ。
 誰が三百年も前の悪魔崇拝が、忌まわしい生け贄の儀式が、ずっと続いていたなど思うというのだ。
 ラルクスの言葉を耳にした今でさえも、シアは半信半疑なのに。
 (まさか!そんな馬鹿げたことが、あるわけないっ!)
 シアの理性は、受け入れ難い現実を拒否する。
 しかし、シアとアレクシスの二人にとって残酷なことに、それは現実だった。どれほど信じ難くても、宿屋の主人ラルクスと不気味な仮面をつけた怪しい連中の手によって、シアとアレクシスの薬草茶には痺れ薬が盛られて、悪魔公の城の地下室で襲われたことはまぎれもない事実。
 不気味な白い仮面と、魔術師のような黒いローブ。
 あの異様な外見も、悪魔崇拝の――生け贄の儀式を行うためだったとすれば、納得がいく。
 それに、シアとアレクシスは悪魔公の城の地下――隠されていた地下室で、人骨やら血痕やらを目にしているのである。
 嫌でも、血なまぐさい現実を、直視しないわけにはいかなかった。
 あの血や骨はもしかしたら、シアの前に儀式の生け贄に捧げられた犠牲者のものだったのだろうか?
 だとすれば、ロゼリアの村人だとは思えない。
 おそらくは、シアたちと同じく何も知らない旅人を、悪魔への――儀式の生け贄として殺したのではないだろうか。シアたちと同じように、ラルクスに痺れ薬を盛られたり、仮面をかぶった連中に斧や剣で襲われて命を落としたのだろうか。それとも……。いずれにせよ、残酷なことだ。人の所行とも思えない。
 許せない。
 シアに憎しみのこもった視線を向けられても、宿屋の主人ラルクスはふふと薄笑いを浮かべるだけだった。
 その顔に動揺や後悔は欠片もない。そうして、瞳に狂気を宿したラルクスは誇らしげな口調で、シアたちに語った。忌まわしき歴史を。
「ふふ。鋭いですね。お客さん……さすがはその若さで、銀貨の商人なだけはある。そう、ロゼリアの悪魔公の死後も、私たちが生け贄の儀式を続けていたのですよ。三百年もの間、ずっと――」
 悪魔崇拝。
 今から三百年も前に、生け贄を捧げる異端の書とされた書物――イル・デ・カラートの写本。
 アルゼンタールの隣国リュシリアで、百合戦争の少し前に、異端審問が盛んに行われた時代があったという。その際に、教会の手によってイル・デ・カラートの写本は焚書にされ、悪魔崇拝を行っていた者たちは迫害の末に、大陸の各地へと散った。
 そして、それはアルゼンタール王国も例外ではなかった。
 隣国リュシリアとの国境沿いの土地――ロゼリア。
 隣国リュシリアを追放された悪魔崇拝の信者たちは、さまざまな手を使いロゼリアへと入りこんだのだ。悪魔崇拝の儀式と、イル・デ・カラートの写本だけを共にして。
 そうして、彼らはロゼリアの土地に入りこんで、じわりじわりと勢力を広げていったのだ。
 悪魔崇拝の生け贄の儀式や、イル・デ・カラートの写本の教えは容易に受け入れる者ばかりではなかったが、ただ彼らは諦めることなく、ゆっくりと着実にロゼリアの地に悪魔信仰を広めていったという。
 隣国リュシリアの異端審問から逃れてきたイル・デ・カラートの写本を信ずる者たち――悪魔を崇拝する者。最初はわずか三人であったという彼らが、ロゼリアの地を裏から支配するようになるまで、さほど長い時間はかからなかった。
 彼らは慎重に慎重に、蜘蛛が獲物を捕らえる巣を張るように、ロゼリアを狂気で包みこんでいったのだろう。
 そう、ロゼリアの悪魔公と呼ばれた男も、その一人だったのかもしれない。
「――その隣国リュシリアから、悪魔崇拝の儀式とイル・デ・カラートの写本を持ちこんだのが、私たちの先祖というわけですよ……おわかりですか?お客さん」
「……おぞましいな。何の罪も恨みもない人間を、三百年も生け贄にし続けてきたのか」
 今までも生け贄を用意するため、シアやアレクシスと同じように、集団で襲って殺してきたのかと。
 アレクシスが吐き捨てるように言う。
 いざという時には、戦場に出て敵の命を奪う騎士だからこそ、彼はその卑劣な行為を許せなかった。
 何かを守るためでもなく、己の名誉のためでもなく、ただ自分の欲のために他人を生け贄にするなど許されることではない。
 誇らしげに語る宿屋の主人ラルクスに、シアもアレクシスも嫌悪感を隠せなかった。
 シアは険しい顔で、ラルクスに問いかける。
「アンタたちの先祖が、悪魔崇拝の儀式を行っていたってことは、ロゼリアの悪魔公――ロゼリアの領主を操っていたのは、アンタたちの先祖ってこと?」
 ロゼリアの悪魔公。
 強欲な性格で、己の欲望のために領民を生け贄に捧げたという残虐な領主。
 だが、彼に悪魔崇拝の書――イル・デ・カラートの写本をすすめて、生け贄の儀式を行わせたのは、ラルクスたちの先祖だったのだ。
 隣国リュシリアで迫害を受けて、悪魔崇拝の書と共にアルゼンタール王国に流れてきた者たち、彼らが領主の行動までも操っていたとしたら……。
「ええ。その通りですよ。ロゼリアの悪魔公と呼ばれた男に、悪魔崇拝の書をすすめたのが私たちの先祖です。生け贄の儀式のやり方を教えたのもね」
 シアの言葉を認めて、ラルクスはうなずく。
 そして、さらに忌むべき過去を語る。
「ロゼリアの悪魔公――この地のかつての領主は、実に残虐な男だったそうで、先祖が生け贄の儀式を教える以前から、何の罪もない村人を拷問したり殺めたりしていたそうですよ。だから、喜んでイル・デ・カラートの写本を手にした。まぁ、もっとも……」
 くくくっ、と何がおかしいのか笑いながら、宿屋の主人は残酷な真実を告げた。
「――私たちの先祖は、ロゼリアの悪魔公も、儀式の生け贄にしたそうですが」
 ロゼリアの悪魔公。
 そう呼ばれたロゼリアの領主すらも、悪魔崇拝のイル・デ・カラートの写本と共に、隣国リュシリアから流れてきた者たちにとっては、ただの捨て駒に過ぎなかった。そう、生贄の儀式を行うための。
 耳にした残酷な真実にシアは、ひゅっう、と短く息をのんだ。
 悪魔公の時代から数百年もの間、コイツらはずっと先祖代々に渡って、悪魔崇拝と生け贄の儀式を続けてきたということか。そんな――
「……狂ってる」
 青い瞳に嫌悪を宿して、シアは斧を振りかざしたラルクスと、この陰謀に荷担した全ての者を憎んだ。
 (そりゃあ、誰だって人より幸せになりたいわよ!人間なんだもの、当たり前じゃない!だけど、そのために人を犠牲にしたいとは思わない!)
 我が身を振り返って、シアは思った。
 シアは決して、私利私欲のない人間というわけではない。むしろ、欲のない商人など存在しない。
 金貨、銀貨、銅貨……お金を貯めたり動かしたりするのは好きだし、商人であることが最優先ではあるが、シアだって年頃の乙女なので、綺麗なドレスやきらきらした宝石だって、もちろん嫌いではない。
 物が欲しいというだけでなく、叶えたい願いも、アルゼンタール王国一の商人になるという夢だってある。
 だけど、自分の欲や目的のために、人を犠牲にしようとは絶対に思えない。それは、人が犯してはならぬ罪だ。
「狂ってる……ですか。貴女はまだ自分の立場というものを、わかっていないようですね。お客さんたちは。まぁ……」
 そんなシアの言葉に、ラルクスは冷ややかに笑った。
 冷たくて、残酷な笑み。
 そこにはもう、温厚そうに見えた宿屋の主人の面影は、欠片もなかった。人の命を踏みにじることを何とも思っていない悪魔の笑み。ゾクリッ、と鳥肌が立つような表情だった。
 その笑みに不吉なものを感じて、アレクシスは剣を抜くと、シアを庇うように前へと出た。
 そんな騎士の行動を嘲笑うかのように、宿屋の主人ラルクスは振り返ると、後ろへと呼びかけた。それこそが、死の合図だという風に。
「――まぁ、これから死にゆく人になにを言われても、気にはなりませんけどね。ねぇ、みんな?」
 ラルクスの呼びかけに応えるように、木の陰や建物の陰から、人が次々と姿を現す。
 二十……いや、三十人はいるだろうか。
 わらわらと姿を現した中には、男も女も若いのも年寄りも、小さな子供だっている。一見すると、どこにでも居そうな普通の村人たち。
 そこまではいい。
 ただ、彼らの外見はある一点において、異様なものだった。
 彼らの顔をおおっていたのは、不気味な白い仮面――
 悪魔公の城の地下室で、シアたちを襲った連中と同じもので、顔をおおっている。男も女も、若い娘も年寄りも子供も皆、その顔には表情のない不気味な白い仮面をつけているのだ。
 彼らはヒタヒタと足音もなく、シアとアレクシスに近寄ってきて、周囲を取り囲んだ。
 仮面の集団に取り囲まれて、シアはひっと短く呻いた。
 男も女も若いのも年寄りも皆、数十人もの人間が顔を不気味な仮面をおおって、足音もなく近寄ってくるのである。それは言いようもないほどに、異様な光景であった。
 右を向いても、左を向いても、白い仮面……仮面……仮面……。
 それは想像以上の恐怖だった。
 そして、シアたちを取り囲んだ仮面の集団の右手には、それぞれ斧やら剣やら武器が握られていた――生け贄を狩るための武器が。
「……くっ」
 数十人もの武器を持った敵に囲まれて、アレクシスは呻いた。
 多勢に無勢。
 城の隠された地下室でもそうだったが、あの時とは敵の人数が比べものにならない。
 不気味な仮面をのぞけば普通の村人にしか見えない彼らの手には、剣やら斧やら短刀やら、人を殺めるための武器が握られているのだ。その違和感が、余計に恐怖をかきたてる。
「――卑怯者め」
 たった二人を、武器を持った数十人で取り囲もうという卑劣さに、アレクシスはギリッと唇を噛んだ。
 そんなアレクシスの言葉も、ラルクスに届くはずもない。
 自らも斧を振りかざしつつ、仮面の集団を指揮する男は、優しげな笑みすら浮かべて言った。まるで、悪魔のように。
「卑怯者ですか……これから生け贄となるというのに、威勢が良いですね。お客さん。良いことを教えてあげましょうか?このロゼリアの土地には、今では悪魔を信仰する者しか住んでいないのですよ……だから、貴方たちの逃げる場所はどこにもない」
 そうして、ラルクスはシアたちに向かって斧を振りあげ、振りおろしながら言った。
「――だから、諦めて儀式の生け贄になりなさい」と。
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