女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  古城と商人3−11  

「――うあっ!」
 振り下ろされる斧を、シアは呻きながらも、必死にかわした。
 同じ年頃の少女よりは、商人として鍛えている自信のあるシアだが、それでも武芸の心得は全くない。
 そんなシアが、運良くラルクスの斧をかわすことが出来たのは、奇跡としか言いようがない。それていく斧を見ながら、シアは我が身の幸運に思わず息を吐いたが、奇跡というのはそう何度も続かないものだ。
 ラルクスの後ろに控えた仮面の者たち。ロゼリアの村人にして、生贄の儀式を企む狂信者ども――その一人が、シアを目がけてナイフを投げつける。彼女の胸を目がけて。
 投げつけられたナイフに、凄まじい速さで飛んでくるそれに、シアは身動きすることも出来ない。
 ナイフはもちろんだが、眼前のラルクスから無防備になることも、死を意味する。
 その一瞬の迷いが命取りだ。
 彼女が投げつけられたナイフを避けようと、身を動かした瞬間には、ナイフはすでにシアの眼前に迫っていた。ああ――
(……間に合わないっ!)
 何とか致命傷を避けようと、シアは本能的に身構える。だが、そのナイフが彼女を貫くことはなかった。
「――下がれっ!シアっ!」
 アレクシスが叫ぶ。
 彼女を庇うように、彼は剣を構えて前に出た。
 シアとナイフの間に、剣を持ったアレクシスが立ちふさがり、彼女に迫りくるナイフを、己の剣で弾き飛ばす。ガキンッ、と刃と刃が交わる音と共に、敵のナイフは弾き飛ばされて、遠くの地面へと落ちる。
 それを見たシアは呆然とした顔つきで、前に立つアレクシスの横顔を見た。
 鋭い漆黒の瞳に、きつく引き結んだ唇。
 精悍な騎士の横顔は、いつになく険しい。
 投げつけられたナイフを、己の剣で受け止め、遠くへ弾き飛ばす。状況が状況でなければ、さすがは王剣ハイラインの騎士と感心するようなところだが……どう考えても、今はそんな状況ではない。たとえナイフの一撃をかわしても、彼らの周囲は武器をたずさえた仮面の狂信者ども――ロゼリアの村人たちと、斧を振りかざすラルクスに包囲されているのだ。
 いわゆる絶体絶命というやつだ。多勢に無勢。当然ながら逃げ場はない。
(……ちっ!)
 シアは心中、舌打ちしながら、周囲を様子を見渡した。
 それは、まるで悪夢のようだった。
 平和な農村に見えたロゼリアの地。
 悪魔公だ生贄だ、どのように忌まわしい伝承が残っていようとも、それは全て過去のことだと、そう思っていたというのに――まさか、それが今も続いているなんてっ!まさかっ!
 いっそ本当に悪夢であったら良かったのに、そうシアは思うが、残酷なことにそれは現実だった。
 シアの周囲を取り囲むのは、白い仮面をかぶった村人たち。おのおのが手に武器をたずさえて、仮面の奥から感情のない瞳で、シアたちを睨みつけてくる。人を見る目でなく、狩るべき獲物を見るような眼で。
(ああっ!仮面……仮面……気がおかしくなりそうっ!)
 数十人の敵から、いっせいに殺気を向けられて、シアは吐き気がしそうなのを必死に耐えた。気持ちが悪い。恐ろしい。だが、恐怖よりも何よりも、村人全員で生贄を狩りに来るロゼリアの村人たちに、その思想に吐き気がする。自分の欲望のために、人の命を奪うことをなんとも思わない。その思想が、何よりも許せない――
(あたしは生贄なんてならないっ!そんな理由で、こんな場所で、殺されてたまるかっ!あたしには、アルゼンタール王国一の商人になるという夢があるんだっ!)
 絶対に生き延びてやる。
 こんなとこで、死んでなんかやらない。
 絶対に生き延びて、王都に戻るんだ。
 生贄を求めるラルクスと、ロゼリアの村人たちを睨みながら、シアはそう決意する。
 彼女にはアルゼンタール王国一の商人になるという夢も、銀貨の商人としての誇りも、リーブル商会の跡取り娘としての責任もある。そんなシア=リーブルが、こんなところで人を人とも思わない奴らに、殺されて良いわけがない。しかも、悪魔崇拝の儀式の生贄としてだ。そんな理由で、人が殺されてたまるか!
「……嫌だ。あたしは生贄なんて、ならない。絶対に」
 誰に言うでもなく、仮面の村人とラルクスを睨みつけて、シアは呟いた。
 その小さな呟きは、敵に届くこそなかったものの、彼女を背に庇うアレクシスの耳には届く。
 そんなシアの生への執着を耳にしたアレクシスは、何事かを考えるように、スッとその漆黒の瞳を細める。生への執着。その想いは、彼も同じだった。アレクシスだって、こんなところで死ぬのは、騎士としての矜持が許さない。死にたくはない。だが――
(このままでは、二人とも死ぬな)
 熱くなるシアとは対照的に、物心つく前から騎士としての精神を、父・カーティスから叩き込まれてきたアレクシスは、冷静に状況を判断していた。
 宿屋の主人ラルクス――悪魔を崇拝し、生贄を求める狂信者であるが、あの男の戦士としての腕前は確かだ。先ほどから、シアをいたぶって遊んでいるようだが、もし奴が本気であれば、シアの頭はとうの昔に叩き割られているだろう。さすがに一対一であるなら、王剣ハイラインの嫡子であるアレクシスが劣ることはないだろうが、いかんせん味方の数が違いすぎる。
 敵は村人であっても、武器を持った味方が数十人いるのに対し、こちらはシア一人。しかも、商人であるシアに戦士としての役割は期待できないのだから、実際はアレクシスが一人で戦わねばならない。
 死を覚悟すれば、半分くらいの敵は道連れに出来るかもしれないが、それが意味のある行為とも思えなかった。
 それに、アレクシスが力尽きれば、守り手を失ったシアも遠からず死ぬだろう。美しい銀の髪がどす黒い鮮血にまみれ、白い喉から苦悶の呻きがもれ、青い瞳が恐怖や苦痛に歪む……。少女の断末魔を想像し、アレクシスはきつく唇を引き結んだ。見たくない。そんなのものは決して。
 少し乱暴で、ちょっと我がままで、でも情に厚くて責任感が強い銀髪の少女。リーブル商会のことを誰よりも愛していて、商人であることに誇りを抱くシアが、こんなところで死ぬのはひどく残酷な気がした。この曇りのない青い瞳が、死の絶望に染まる瞬間を、アレクシスは見たくはなかったのだ。
 ならば、すべきことは一つしかなかった――
「――シア」
 後ろに立つ少女だけに聞こえるように、アレクシスは小声で語りかける。揺るぎのない決意と共に。
「……なに?アレクシス」
 村人への憤りを宿した瞳を、自分に向けてくるシアに、アレクシスは苦笑した。
 こんな状況ですら、彼女は死の絶望に蝕まれてはいないらしい。おそらく、彼女は死の寸前ですら、自分の希望を捨てないだろう。騎士であるアレクシスが守るべき、蝶よ花よ、と育てられた姫君とは違う。だが、これこそがシアの強さなのだと、彼は悟る。どんな状況であったとしても、彼女は絶望することなく、自分で道を見つけるだろう――
 その強さこそが、今のアレクシスにとっては救いだった。だからこそ、彼は唇を開き、己の決意を告げる。
「俺がなんとか退路を開く。そうしたら、俺のことは気にせずに、出来るだけ遠くまで走れ。いつまで持つかわからんが、俺があいつらを食い止める……良いな?シア。俺が死んでも、かまわず逃げろ」
 それが、彼の選択。
 騎士としての決意。
 王剣としての誇り。
 死を覚悟したかのような、不思議と穏やかな瞳で、アレクシスはシアに言い聞かせる。
 何があっても迷うな。俺が死んでも、決して振り返るなと。何が何でも生き延びて、王都へ戻れと。
 アレクシスとて、決して死にたいわけではない。生への未練も、執着も心残りも、ありすぎるほどにある。それでも、これが最善の道であるのだと、強がりでなくそう思えた。ここでシアを見捨てれば、彼が生き延びることは、きっと出来なくはないだろう。むしろ、シアを逃がすよりも、彼が逃げた方が生き延びる確率は高い。でも――
 (……それは、騎士の生き方ではない)
 アレクシスは剣を見つめた。王剣ハイライン。騎士の証である剣を。
 たとえ、ここでシアを見捨てて狂信者どもから逃げのびたところで、アレクシスの魂は騎士としての誇りは、死んだも同然だ。そんなことでは、今は亡き父上に――騎士の中の騎士と呼ばれたカーティスに、あの世で合わせる顔がないというもの。
 そう、父上はいつも、そう言っていたのだから。
『――アレクシスよ、騎士は民を守る者でなくてはならぬ』
 人によっては時代遅れと言うだろう。廃れた騎士道。人から愚かと言われても、父上は誇り高く、彼の騎士道を貫いた。その息子であるアレクシスが、その教えを守らずに、のうのうと生き延びることは出来ない。
「アレクシス……」
 そんな彼の決意に、シアは呆然とした顔で、青い瞳を見開いた。
 アレクシスはふっ、と柔らかく笑うと、シアに頼んだ。
「シア。もし、ここから生き延びて、王都に戻ることが出来たなら……俺の従僕に――セドリックに伝えてくれるか?俺の代りに」
「……」
「そうだな……『今までありがとう。すまなかった』と」
 死を覚悟した瞬間、アレクシスの脳裏に、大事な人々の顔が浮かんだ。
 母のルイーズ。従僕のセドリック。ハイライン伯爵家で、古くから働いてくれた家族のような使用人たち。生意気な猫のパール。それに、従姉のシルヴィア……。
 彼らはアレクシスが死んだら、嘆き悲しむだろう。母のルイーズや従僕のセドリックは、なんて馬鹿なことを憤るかもしれない。商人の小娘を庇ってと。でも、最後には彼の決断を理解してくれるだろう。彼らは生まれてから十八年、アレクシスに揺るがない愛情を注ぎ、守り育ててくれた人たちなのだから。時間はかかろうとも、きっと彼の想いは伝わるはずだ。
 従姉のシルヴィアは、あの美しい従姉は、アレクシスが死んだら泣いてくれるだろう……だけど、あまり泣かなければいい。かつて、女性を泣かせるなと、そう教えてくれたのは彼女なのだから。
 どうか生き延びて、俺の言葉を伝えてくれ。そんなアレクシスの言葉に、シアは無言だった。うつむいて、微動だにしない。
「……シア?」
 それを不審に思ったアレクシスが、呼びかける。
「……ふ」
「……ふ?」
 シアの唇はもれた謎の言葉を、アレクシスは反復した。
 その時、シアがすぅ、と息を吸って、場違いな大声で叫んだ。
「――ふざけるなああっ!商人をなめるなよおおっ!この騎士道バカっ!」
 キイィィン、と怒声が耳に響く。
 いきなり耳元で怒鳴られて、アレクシスは呆然とした表情を浮かべた。怒鳴られた理由が全くわからない。しかも、騎士道バカ?自分のことだろうが、意味がわからなかった……。
 不思議そうに首をかしげるアレクシスに、シアは苛立ったように「……この馬鹿。人の気も知らないで」と、呟いた。心なしか、彼女の青い瞳はうるんでいるようにさえ見える。その紅潮した頬といい、彼に向けられる鋭い眼差しといい、どうやらシアは相当に怒っているようだった。そう、彼女のそれは怒りだ。恐怖ではなく。
 今まで見たこともないシアの姿に、アレクシスは呆然と、彼女の顔を見つめることしか出来なかった。なぜ彼女が怒っているのか、その理由が彼には見当もつかない。これが、騎士が選べる最善の選択だったはずなのに、どうして――
「……シア?」
 アレクシスが名を呼ぶと、シアはキッと顔をあげ、その青い瞳で彼を睨む。曇りのない真っ直ぐな瞳で。
「あのねぇ、アレクシス……俺が退路を開くから先に逃げろ、なんて台詞を言われて、あたしが喜ぶと本気で思った?ふざけないでよっ!あたしにだって、誇りってもんがあるわ!仲間を見捨てて、ここを生き延びたって、意味がないでしょーがっ!」
「それは……」
 そんなシアの言葉に、アレクシスは目を伏せる。
 考えないわけではなかった。だけど、どうすればいいというのだ?こんな絶体絶命の状態で、どうして絶望せずにいられる?騎士は民を守る者なのだ。自分一人が犠牲になることで、誰かが助けられるならば、それは正しい選択なのではないか。
 そんなアレクシスの考えを見越したように、シアはふぅ、と息を吐いて、彼と視線を合わせて告げた。
「――騎士には騎士の、貴族には貴族の、商人には商人の誇りってもんがあるのよ」
 だから、一人で格好つけるな。シアの顔が、その唇がその言葉が、そう言っていた。
「……どうする気だ?」
 胸を張るシアに、アレクシスは低い声で問う。
 その覚悟は立派だが、状況は何も変わっていない。
 相変わらず、シアたちの周囲は斧を持ったラルクスと、武器を手にした仮面の村人たちに取り囲まれているのだ。絶体絶命。逃げ場のない状態は何も変わっていない。いや、むしろ逃げる好機を逸した分、さっきより状況は悪くなっている気もする。今の大騒ぎで、仮面の狂信者どもは警戒し、容易に隙を作りそうにはなかった。
 だが、そんな状況にも関わらず、シアはあっけらかんと笑った。
「どうもこうも、あたしは騎士でも戦士でもないしね。せいぜいアレクシスの足手まといにならないように、逃げ回っているくらいが関の山な気もするけど……でも、こんな場所で仲間を見捨てるよりは、百万倍マシよ」
 開き直りというか、意地を張ってるだけというか、そんなシアの言葉にアレクシスは絶句する。そして、呆れたように息を吐くと、握った剣に力をこめた。
 馬鹿馬鹿しい。商人なのに、計算も何もない。だが、不思議と憎むことは出来ない。だが、それが彼女の――シアの商人としての誇りだというならば、従ってみるのも悪くない気がした。
 騎士として、誇り高く死ぬのも悪くはない。だが、愚かと知りつつも、守るべきもののために戦うのも一つの騎士道だ――
「シア。さっきのセドリックへの伝言を、取り消してもいいか?俺が自分で伝えようと思う……この場を生きのびて、王都へ戻ってからな」
 アレクシスの言葉に、シアはふん、と照れたような赤い顔で、そっぽを向いた。
「そうしてよ。アンタの遺言なんて、あの陰険メガネ……もといセドリックに伝えた日にゃあ、あたしが八つ裂きにされるわ」
「そんなことはないと思うが……前にも言った気がするが、セドリックは優しくて、性格の良い男だぞ」
「そりゃ、アレクシスにとってはね」
 あんな主君バカ、なかなか居ないでしょ。という言葉を、シアは喉の奥でのみこんだ。
 そんなシアの葛藤も知らず、アレクシスは剣を構えて、ラルクスと仮面の村人たちを睨む。その真っ直ぐな眼差しに、先ほどまでの迷いや諦めはない。覚悟は決まった。死ぬ覚悟ではない。生き延びる覚悟が。
 生贄を求める狂信者どもに、アレクシスは静かに告げる。
「――さぁ、来い。死者の列に加わりたい者から、相手をしてやろう」
 静かな、だが挑発とも取れる騎士の言葉に、最初に反応したのは斧をかまえた男――ラルクスだった。
 まるで熊のような体格の大男が、くっくっくっ、と乾いた笑いと共に、アレクシスの前へと進み出る。その暗く濁った瞳が、あざ笑うように、騎士を見る。自分の優位を、欠片ほども疑わない傲慢な顔だ。
「くっくっ。威勢の良いことですね。お客さん……同じ死ぬならば、楽に殺された方が良いと思いますがね?」
 そう言うと、ラルクスは斧を手に、騎士へと襲いかかった。
 振り下ろされる斧をよけると、一瞬の隙をつき、アレクシスはラルクスの懐へと入りこむ。
 そして、そのまま凄まじい速度で、ラルクスの胸へと剣を突き出した。
 だが、ラルクスのその攻撃は読んでいたらしく、斧でアレクシスの剣を受け止める。ガキンッ、と火花が散った。
 一進一退の攻防。
 強者同士のそれは容易に決着がつかない。
 だが、長引けば長引くほどに、その力量の差は出るものだ。
 永遠に続くかと思われた戦いも、徐々にアレクシスへと流れが傾いていく。強者同士の戦いであるからこそ、その微妙な力量の差が、勝負において明確に出ることもある。彼らの戦いがそれだった。
 アレクシスとラルクス。
 どちらも十分な力量の持ち主ではあるが、どちらが上かといえば、アレクシスに軍配が上がる。体格の差を補ってなおだ。王剣ハイラインの名は伊達ではない。
 そう勝利はアレクシスのものだった。純粋な一対一の戦いであるならば。
 アレクシスの剣が、ラルクスを貫こうとした瞬間、ラルクスが仮面をかぶったロゼリアの村人たちに叫ぶ。
「――今だっ!襲えっ!」
 その呼びかけに反応するように、仮面の村人たちが動いた。
 ある者は武器を手に、アレクシスに襲いかかり、ある者はシアの手足を押さえつけ、少女の顔を無理やりに地面へと押し付ける。乱暴なそれに、シアはぐぇ、と潰れたカエルのように呻いた。口に入る雑草や泥の臭いを不快に感じながらも、シアは呆然とした顔つきで、アレクシスの方を見つめる。
 仮面をかぶった村人の男たちが、ラルクスの命令に答えるように、いっせいにアレクシスに斬りかかった。
 剣やらナイフやらを、アレクシスはよく避けたが、それでも避けきれなかったそれが、騎士の腕や足を切り裂く。その切り裂かれた肌から、赤い血飛沫が――
 アレクシスの顔が苦悶に歪む。
 シアはそれが耐えきれなくて、己の体を押さえつける村人の手から逃れようと、無茶苦茶に腕を振りまわす。口内が草と泥だらけになったことも、背中を靴で踏まれて、背骨が折れそうな痛みも、もう全てがどうでも良かった。アレクシスの左腕からあふれる鮮血が、彼女の思考を停止させる。ただ怖かった。恐怖とは違う、人を失う痛みが。
 殺される。
 アレクシスが死んでしまう。
 嫌だっ!嫌だっ!嫌だっ!
 貴族なんて、大嫌いだった。最初のころは仲間なんて、欠片も思ってなかった。だけど、一緒に行動して、泣いて笑って……憎み続けることは難しかった。全ての憎しみを消すことは未だ出来ないけど、それでもアレクシスのことは、仲間だと感じるようになってきたのに――
「やめろ――――っ!」
 覚悟することと、痛みがないことは別だった。だって、人の血はあんなにも赤い。人の命はあんなにも重い。
 シアの青い瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれる。動かない自分の体が歯がゆい。許せない!許せない!誰よりも弱い自分が許せない!
「――そこまでだ!」
 その瞬間だった。
 天の助けのように、その声が響いたのは。
 その声と同時に、ダダダッ、という複数の足音がして、剣やら槍やらをたずさえた男たちの集団が、シアたちの方へと駆けてきた。その男たちが着ているのは、灰色の制服に黒のマント――警備隊の制服だ。
 警備隊。アルゼンタール王国の治安を守るために、犯罪者を取り締まる武官たち。
 彼らは上官の指示に従って、迅速な動きで、仮面の村人たちを捕らえていく。突然の成り行きに呆然とするラルクスたちは、抵抗する暇すら与えられず、次々と捕らえられていく。暴れる者もいないではなかったが、村人の数よりも警備隊の数の方が多く、その力量については言うまでもない。結局、抵抗した者もしなかった者も、残らず捕えられた。
 そんな事の成行きに、シアは呆然と座りこんでいた。
 (……なんで、こんな場所に警備隊が?しかも、こんなにタイミング良く!)
 助かったと思うより先に、そんな疑問が先に立つ。たしかに、警備隊は国中の犯罪者を取り締まることが役目だが、呼んでもいないのに現れるとは思えない。どうして?
 そんなシアの疑問は、次の瞬間、あっけなく氷解した。
「……大丈夫?怪我はないかい?シア」
 警備隊の中から抜け出し、こちらにかけてきた一人の男。
 彼は優しい声でシアに語りかけると、地面に座りこんだ彼女に、そっと手を差し伸べた。
 その穏やかな声も、黒髪も青の混じった灰色の瞳も、優しげな顔つきも全てシアがよく知るものだった。幼いころから、実の家族のように慕ってきた人を、見間違えるはずがない。
 シアは驚きのあまり息をのみ、次の瞬間、その男の名を叫んだ。
「オスカーおじさまっ!」
 そう、そこに立っていたのは、行商人にして彼女の父の親友――オスカー=ライセンス。その人だったのだ。
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