女王の商人
古城と商人3-12
行商人であり、父・クラフトの旧友でもあるオスカー=ライセンスを前にして、シアはずずっと湯気の立つ紅茶を口にした。
あたたかい紅茶が、疲れた体に染み渡る。
ほぅ、と彼女の唇から安心したような声がもれた。
その右腕に、白い包帯をグルグルと巻いたシアからは、かすかに塗り薬の臭いがする。
先ほどの戦闘の際に、宿屋の主人ラルクスや仮面をかぶったロゼリアの村人たちにつけられた傷は、警備隊の者たちの手によって丁寧に治療をされていた。そんな治療された箇所。擦り傷や切り傷に、ぬりたくられた塗り薬が染みているのか、シアはときおり痛そうに眉をひそめる。
仮面の村人たちに、思いっきり踏まれた背骨が、今になってギシギシと痛む。
まぁ、左腕から血を流していたアレクシスに比べれば、この程度は怪我のうちに入らないのだが。
そんな傷の痛みをまぎらわそうとするように、シアは紅茶を口にふくんだ。
「――少しは落ち着いたかい?シア」
オスカーの問いかけに、シアはごくっと喉を鳴らし、うなずいた。
「……ありがとう。オスカーおじさま」
あれから、ロゼリアの村に警備隊がやってきた後――シアとアレクシスは警備隊に助けられて、警備隊を連れてきたのだというオスカーと共に、隣の村で怪我の治療をしていた。
わりと軽傷だったシアの方は、隣村の医者による治療も早く終わり、今こうして休んでいるというわけである。
ちなみに、彼女よりも怪我が重かったアレクシスの方は、いまだに治療中だ。もちろん、自分の怪我も痛むのだが、そちらの方がシアには心配だった。
オスカーは紅茶を口にしながら、包帯を巻かれたシアの右腕を心配そうに見て、彼女に尋ねる。
「怪我の具合はどうだい?シア」
傷口に薬が染みるのを感じながら、問われたシアはゆるゆると首を横に振る。
「今はそんなに痛くない。ちょっと薬が染みるけど……それよりも、オスカーおじさま?」
「何だい?」
「――どうして、警備隊と一緒に助けにきてくれたの?それに、別れる前にオスカーおじさまが言っていたでしょう?ロゼリアの土地には気をつけろって……ロゼリアの村で、何が起こるか知っていたの?」
ラルクスや仮面の村人たちに、悪魔の儀式の生け贄にされかけたところを、警備隊に助けられてから、ずっと考えていた疑問をシアは口にした。
のどかそうな農村に見えたロゼリアの地。
平和そうな村の光景の裏に、あんな忌まわしく恐ろしい狂気がひそんでいるなど、シアは想像すらしなかった。
だが、オスカーは何かを知っていたのだろう。
そうでなければ、何の連絡も取っていないというのに、あんなにタイミング良くシアたちを助けれには来れまい。おまけに、シアたちが襲われているのを予期したように、警備隊を連れて来たのだから。ロゼリアの村で、何が行われているのか、それを知っていてオスカーは助けにきたのではないか。
それに、ロゼリアに向かう道中。
別れる寸前に、オスカーはこう言ったのだ。
――ロゼリアの土地には気をつけろ、と。
ロゼリアの村で行われていたことを、おじさまは知っていたのというシアの問いかけに、オスカーは「いいや……」と首を横に振った。
「いいや……知らなかったよ。ロゼリアの村の連中も馬鹿じゃない。村に来た旅人を殺していることが、警備隊に明らかになれば、彼らとて無事にはすまないからね。必死で隠していたはずだ。ただ……」
「ただ……?」
「――ただ行商人たちの間では、噂になっていたんだよ。ロゼリアの村では、何年かに一度、旅人が姿を消すって。その頃から、あの村は何かあるんじゃないかと、疑っていたんだ……まさか、悪魔信仰のための生け贄だとは、想像もしなかったけどね」
だから、途中で別れてからも、ロゼリアに向かったシアたち身が心配になって、警備隊に助けを求めたのだという。ロゼリアの村が怪しいという噂は、警備隊も知るところであり、だからこそ警備隊も動いてくれたのだと。オスカーはそう話を締めくくった。
「そうだったんだ……助けに来てくれて、本当にありがとう。オスカーおじさま。もう少し、おじさまが来るのが遅かったら……」
警備隊が助けに来るのが、もう少し遅かったなら、と。
十分にありえた事態を想像し、シアはぶるっと身を震わせた。
もし、オスカーが警備隊を連れてこなかったら、あるいは警備隊が来るのが遅かったならば、シアとアレクシスは生きてはいなかっただろう。あのロゼリアの悪魔公の伝承と同じように、忌まわしい儀式の生け贄として、命を奪われていたかもしれない。それを想像すると、恐ろしかった。
シアだって、怖かったのだ。
ラルクスたちに襲われた時には、あんな身勝手な理由で命を奪われるのが納得いかず、強気な態度に出たものの、彼女だって怖かった。ただ、あそこで絶望したら、本当に助からない気がしたから、強気な態度を取っていただけ。あの時、アレクシスの前では一人で逃げないと啖呵を切ったが、助かったのは運が良かったとしか言いようがない。
生粋の商人で戦う力もないシアが、あの場でどうにか生き残れたのは、助けに来てくれたオスカーおじさまと警備隊……それと、守ってくれたアレクシスのおかげだ。
そう、アレクシスは助けてくれた。戦闘には何の役にも立たないシアを、見捨てることもなく必死で、守ってくれた。一人なら逃げられたかもしれないのに、彼女を助けようと、自分が怪我をしてまで――
「……」
そう考えて、シアはぎゅっ、と唇を強く噛みしめた。
役立たず。そんな言葉が、頭をよぎった。
彼女よりも重い怪我をしているアレクシスのことを思うと、何もと出来なかった悔しさと、心配で胸がキリキリと痛む。
そんなシアの心境を見越したかのように、オスカーが言った。
「浮かない顔だね。シア」
「……うん」
うつむきながら暗い声で答えて、シアはうなずいた。
痛む腕をさすりながら、アレクシスは大丈夫なのだろうかと、怪我の具合を心配せずにはいられない。彼の怪我の原因の一つが、自分にあると思えば、なおさらだ。かといって、そんな気持ちを素直に出せるほど、シアは素直な性格ではないのだが――オスカーは苦笑を浮かべると、悩むシアに助け舟を出すように、穏やかな声で尋ねた。
「――アレクシス殿の怪我の具合が気になるかい?シア?」
悩みの核心をついた問いかけに、シアは心の迷いそのままに、うーと獣のように唸った。
「うう……そりゃあ気になるわよ。責任を感じるもの。だって、アレクシスは怒っているでしょう?……そう思わない?オスカーおじさま」
心の中のもやもやを、悩みやためらいを、シアは口にした。
シアやオスカーとは別室で、医者の治療を受けていたアレクシス。そろそろ治療は終わって、ベッドで安静にしているはずだが、そんな彼のもとへ顔を出す勇気を、シアは持てなかった。
アレクシスに会って、助けてくれたお礼を言わなければ。そうしなければならないと、シアだって頭ではわかっているのに、なぜか足が動かない。
シアが足手まといでなければ、アレクシスは逃げるにしろ戦うにしろ、もっと楽だったはずだ。怪我をした彼は、自分に怒っているのではないだろうか、そう考えると足がすくむ。身勝手な悩みだとは、わかってはいるけど――
「シア……」
オスカーはそう名を呼ぶと、うつむいたシアの肩を、軽くポンポンと叩いた。励ますように。
「――大丈夫だよ。アレクシス殿の様子を見ておいで。心配なんだろう?」
「だけど……」
「大丈夫さ。彼はきっと怒ってはいないと思うよ。行っておいで。シア」
「……オスカーおじさまがそう言うなら」
オスカーに促されて、シアはようやく顔を上げると、覚悟を決めたような顔で部屋を出ていく。
アレクシスのところに向かう彼女の背を、オスカーは微笑みながら見送り、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
「――そう、それでいい。アレクシスは良い騎士だ。きっと君とは良い仲間になるだろう。あの、カーティスの息子ならば」
そうオスカーが呟いたのと、部屋の扉が閉められたのは、ほぼ同時のことだった。
コツコツ。
シアが遠慮がちに部屋の扉を叩くと、中から「……どうぞ」という声が返ってくる。
シアはごくっ、と唾をのむと、恐る恐る部屋の扉を開いて、中をのぞきこんだ。そして、腕に包帯を巻いて、寝台に横たわる青年に声をかける。
「アレクシス。具合はどう?」
寝台に横たわっていたアレクシスは、シアの問いかけに、「ああ」とうなづきながら身を起こした。左腕に巻かれた包帯が、痛々しい。
「ああ。平気だ。この程度は大した怪我じゃない」
少し顔色は悪いものの、怪我に動揺した様子もなく、淡々とした声でアレクシスは答える。
商人であるシアから見れば、腕を斬られるというのは十分に大怪我だが、騎士である彼は平然としたものだった。痛くないわけはないだろうが、痛みに耐えるように、幼い頃から訓練を受けているのだろう。アレクシスの父――カーティスは厳しい剣の師であったから。
だが、剣など扱ったことのないシアにとっては、腕を斬られるというのは大事だった。その傷の痛みを想像し、シアは不安そうな顔で、黙ってアレクシスを見つめる。何か言いたそうに。
「……」
「……」
アレクシスも黙ったまま、シアを見つめ返した。
「アレクシス……」
シアは拳を握りしめると、意を決したように、閉じていた唇を開いた。
「何だ?シア」
「――さっき襲われた時に守ってくれて、本当にありがとう。それから、ずっと一人で戦わせちゃって、ごめん……怪我、痛むでしょう?」
アレクシスの左腕。
血のにじんだ包帯を見つめながら、シアは情けなさと申し訳なさで、顔をうつむかせた。
何も出来なかったどころか、今回の仕事でシアがしたことといえば、アレクシスの足手まといになっただけだ。ただ何もせず、騎士に守られていただけ。
女だから戦う力のない商人だから、仕方がない。そんな言い訳をしようと思えば、いくらでも出来る。だけど、女王の商人としての誇りにかけて、そんなことを口に出したくはなかった。
守られることを、人に庇われることを、当然と思う人間にはなりたくない。絶対に。
「気にするな。民を守るのは、騎士として当然のこと。礼を言われるようなことではない」
うなだれるシアに、アレクシスはそう首を横に振る。
「だけど……」
民を守るのは、騎士として当然のこと。だから、気にするなというアレクシスの言葉に、シアは納得いかなそうに眉を寄せた。それでは、シアの気がすまない。
「謝るな。シアが謝る必要は何もない。怪我をしたのは、俺が騎士として未熟だっただけのことだ。それに……」
アレクシスはそこで言葉を切ると、その漆黒の瞳で、真っ直ぐにシアを見た。
「――仲間は助け合うものだろう?」
自分たちは友ではないかもしれないが、仲間ではあるだろう。
そんなアレクシスの言葉に、シアは一瞬、驚いたように青い瞳を見開いて、そして柔らかく微笑んだ。貴族は今も嫌いだし、じいさんが貴族の馬車にひかれたことを、無かったことには出来ない。だけど――
「……そうだね」
少しだけ、何かが変わろうとしているのかもしれなかった。ゆっくりとゆっくりと、些細な心の変化ではあるけれど。
雪が溶けるように、彼らの凍てついた心も少しづつ、変わっていこうとしているのかもしれない。
そうして、女王の商人と騎士のロゼリアの悪魔公の事件は、終わりを告げたのだった。
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