女王の商人

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  賢者と商人4−1  

 カノッサは薬師の村として、アルゼンタール国内で知られている。
 さして、大きくもない小さな農村が、薬師の村と呼ばれるようになったキッカケは、賢者と呼ばれた一人の男にあった。
 賢者エセルバート。
 アルゼンタールの九代目の王から十代目の王にかけて、親子二代に仕えたという名宰相だ。
 聡明な頭脳はもちろん、当代随一と謡われた並ぶ者なき知識に加え、優れた発明家でもあった。貴族出身ではなく、小さな農村カノッサの生まれであったが、その才を九代目の国王ルーカスに見いだされて、歴史に名を残す名宰相となったという。
 政治から医学、芸術の分野に至るまで、万能に近い知識と才能を発揮し、アルゼンタールの民から尊敬の念をこめ、賢者エセルバートと呼ばれたと伝わっている。
 宰相として、さまざまな改革と善政に尽力し、並ぶ者なき名宰相――賢者エセルバートと呼ばれた男は、十代目の国王の退位後、全ての公職を辞し、生まれ故郷の小さな村カノッサに隠居した。
 隠居後は、貴族へ取り立てようという王家の誘いも断り、残された人生を書物の執筆にあてたという。政治から芸術に至るまで、万能の知識を誇ったと言われるエセルバートだが、隠居後はもっぱら後世の人々のためにと、医学や薬学の研究に没頭したと伝わっている。カノッサの村が、薬草を育てるのに適した地であったことも、大いに影響しただろう。
 そうして、賢者エセルバートの開発した薬草の辞典や、薬の調合法は数冊の本にまとめられて、カノッサ村の宝となったといわれる。
 その書物を記したエセルバートの死後も、残されたカノッサの村人たちは、薬草を育て続け、優れた薬師を世に送り出したという。その小さな農村が、薬師の村と呼ばれるようになるまで、そう長い時間は必要としなかった。
 賢者エセルバートが記した書物の数々は、今でもカノッサの村で大切に保管されており、賢者の書とそう呼ばれているという――

「はあ……はあっ……」
 そんな賢者エセルバートの時代から、長い長い時の過ぎ去ったカノッサの村。
 一人の少女が息を切らせながら、村の中を走っていた。
 空には少し欠けた月。
 星のきらめく夜空の下を、少女は月明かりをたよりに、ひたむきに走り続ける。
 蜂蜜色の髪に、焦げ茶の瞳を持つ娘。
 年は、十五か十六といったところだろうか。まだ幼さの残る少女の顔立ちは、美しいというより可愛らしい。身につけた衣服も、簡素でどこか垢抜けないものの、そのぶん純朴で清楚な印象がある。
 都会の同じ年頃の娘のように、着飾っても化粧をしてもいないが、うっすらと日に焼けた肌は健康的な美しさに満ちていた。
 少女の名は、マリーベル。
 薬師の村と称されるカノッサの、村長の娘だ。
「はあっ……はあ……」
 時折、荒い息を吐きながらも、少女は――マリーベルは駆ける足を止めようとはしない。焦っているように。
 そんな彼女の手には、何かの書物の切れ端のようなものが、しっかりと握られている。
 (急がなきゃ……急がなきゃ……)
 マリーベルのような年頃の娘が、こんな夜中に家を抜け出して、外を走っているには、人に言えない理由があった。そう、誰にも言うことの出来ない理由が。
 そう、マリーベルがこれからすることは、誰にも知られるわけにはいかない。特にカノッサの村人たちには。
 マリーベルの犯そうとしている罪は、誰に知られるわけにもいかないのだ。
 (ごめんなさい。ごめんなさい。お父さん。兄さん。カノッサの村のみんな……)
 親しい人たちへの、罪悪感にさいなまれながら、マリーベルは手の中の紙きれを、ぎゅっと握りしめた。
 それは、賢者エセルバートの書――薬について書かれた書の一部。
 マリーベルが黙って持ち出したカノッサ村の宝だ。
 一人前のカノッサ村の薬師でさえ、村長であるマリーベルの父の許可なしには、持ち出すことの決して許されないそれ。本来なら、薬師でもない、ただの村長の娘であるマリーベルには、触れることも許されない村の宝だ。
 なのに、マリーベルは父や兄の目を盗んで、賢者の書の一部を切り取ったあげくに、それを村の外からきた人間に渡そうとしているのだ。
 これを罪と呼ばずに、何と呼ぼう。
 もし、この罪が明らかになれば、マリーベルの父や兄は彼女に失望し、「なぜ、こんなことをしたのか?」と娘を罵るだろう。あるいは、娘のあまりの愚かさに落胆し、涙を流すかもしれない。
 そんな家族の姿を想像して、マリーベルの胸は痛んだ。
 大事な家族が、自分のせいで苦しむのをわかっていて、罪悪感がないわけはない。だけど――
 (ごめんなさい。ごめんなさい。だけど、私は……)
 マリーベルだって、本当はわかっている。
 これが、カノッサの村に対する裏切りであることは。
 村長である父や、薬師である兄が、カノッサの村人たちが、賢者の書をいかに大事にしているかを、彼女はよく知っていた。
 賢者エセルバート。
 アルゼンタール王国屈指の名宰相として知られ、隠居後はカノッサの村で、薬草の研究に励んだという彼は、カノッサの村の誇りである。
 それらの研究のおかげで、かつては貧しい農村に過ぎなかったカノッサが、薬師の村として暮らしていけるようになったのだ。薬草の調合法や、それらの薬の効能などが記された賢者の書は、カノッサの村の誇りというだけでなく、貧しい村が生きるための糧でもある。
 そんな大事な書物を、マリーベルは村長の父にも薬師の兄にも内緒で、こっそりと持ち出したのだ。その罪の重さを、十分に理解しながら。
 (わかってる。私のしてることが知れたら、父さんや兄さんが、どんなに悲しむか……)
 そう、だがマリーベルの罪はもっと重い。
 賢者の書を、父にも無断で持ち出しただけでなく、それを村の外の人間に渡そうとしているのだから――彼女の愛する人へと。
 (ごめんなさい。父さん。兄さん…だけど、きっといつかわかってくれる。あの人は賢者の書を渡しても、悪用なんかしないわ。だって、あんなに優しい人なんですもの……)
 村の宝である書を、持ち出した罪の意識を誤魔化すように、マリーベルは愛しい人の横顔を思い浮かべた。
 そう、絶対に大丈夫だ。
 あの優しい彼が、賢者の書を手にしたところで、それを悪用などするわけがない。それに、彼は約束してくれたのだ。
 ――賢者の書を、マリーベルから借りたものを、決して悪用などしないと。ただ純粋に、賢者エセルバートの書物に触れたいだけなのだと。約束するよ、愛しいマリーベルと。
 彼は真摯な声で、そう誓ってくれたのだ。
 あんなに優しい彼が、マリーベルを裏切ることなど、絶対にあり得ない。だから、きっと大丈夫だ。
 彼にならば、賢者の書を渡したところで、絶対に悪用などしない。カノッサの村のみんなを、傷つけたりしない。父や兄が心配しているようなことは、起こらない。
 そう、それに彼は誇り高い貴族の青年なのだ。そんな卑怯な真似をするはずない――
「――マリーベル!ここだよ!」
 そんなこと考えながら、走っていたマリーベルを、近くの木の陰から姿を現した青年が呼び止めた。
 彼の顔を見たマリーベルは、頬を赤く染めながら、その青年の名を呼びつつ彼に駆け寄った。
「アシュレイっ!ごめんなさい。家を抜け出すのに、時間がかかってしまって……」
 マリーベルの謝罪に、青年――アシュレイは、優しく微笑んで言った。
「気にしないで。マリーベル。こうして、家を抜け出してまで、僕に会いに来てくれただけで嬉しいよ。それで……」
 金髪に淡い青の瞳と、優しげに整った顔立ち。
 貴公子然としたアシュレイの微笑みに、マリーベルはポーッとなって見惚れた。
 なんて綺麗な人なんだろう!
 カノッサ村の男たちの誰とも違う。優雅で、繊細な振る舞い。
 マリーベルが生まれ育ったカノッサの村には、アシュレイのような気品を持つ人は、誰一人としていない。
 これが、貴族というものなのか。
 マリーベルはアシュレイ以外の貴族に会ったことはないが、貴族というのは誰も彼もがアシュレイのように、優雅な人たちなのだろうか。
 優雅に微笑む青年に、マリーベルは憧れの視線を向けた。
(こんな人が、自分を好きでいてくれるなんて、夢みたい……)
 彼と出会った半年前は、こんな風に彼と言葉を交わすことなど、夢のまた夢だった。
 初めて出会った時から憧れた王子様のような人。そんな彼が、こうして自分の恋人になってくれるなど、いまだに信じられない。
 それで、とアシュレイは言葉を続ける。
「――それで、賢者の書は持ってきてくれた?マリーベル」
 優しげな微笑み。
 穏やかな声。
 優雅な物腰。
 そんな彼に恋する少女は、アシュレイの優しげな態度の裏に隠されたものに、気づかない。いや、気づこうとすらしない。
 優しく微笑んだように見えたアシュレイの、その薄青の瞳だけ笑っていないことに、マリーベルは気づかなかった。
 ――わかりたくなかったのかもしれない。この優雅な貴公子が、賢者の書を手にするためだけに、自分を利用しているなどと。
 アシュレイの冷たい瞳に、マリーベルは気づかない。
 だから、彼女はうなずいて、手にした賢者の書の何枚かのページを、彼に手渡した。
「ええ。持ってきたわ。アシュレイ。これでいいの?」
 そんな二人の姿を、少し欠けた月だけが、静かに見守っていた。
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