女王の商人

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  古城と商人3-3  

 午前四時。
 アレクシスの従僕セドリック=ローウェンの朝は早い。
 夜明け前に起床し、主を起こしにいく前に屋敷内の細々した雑事を終わらせ、朝食の支度を完璧にしておくのは良き使用人として当然のことだ。
 曾祖父の代からハイライン伯爵家に仕えた家に生まれ、執事を父に持ち、幼い頃から使用人としての心得を叩き込まれたセドリックが、そのセオリーから外れることは決してない。
 セドリックは毎朝、主のアレクシスより数時間も早く起床して、朝食の支度から屋敷内の清掃に至るまで、メイドの手も借りず一人で終わらせておくのが常だった。それは、若くても使用人としては熟練の域に達しようとしてるセドリックさえ、容易とは言えない仕事の多さだったが、故郷からメイドを一人も連れてこなかった以上、仕方のないことだ。
 それに、まぁ仕事は普通より多いとはいえ、こなせないということはない。
 たとえ人手が足りないとしても、それで手を抜くという発想は、セドリックの頭にはなかった。人手が明らかに足りなかろうが、慣れない王都であろうが、屋敷内のことなら完璧にしておく自信が彼にはあったからだ。
 それが使用人としての揺るぎない誇りであるし、だからこそ住み慣れた故郷を出て家族と別れてまで、主であるアレクシスについて王都ベルカルンにやって来たのだ。
 それにはもちろん、雇い主であるアレクシスに対して、深い敬愛の気持ちがあってのこと。
 それはさながら、王に絶対の忠誠を誓う騎士の如く。
 セドリックは騎士ではなく使用人ではあるが、曾祖父の代からハイライン伯爵家に仕えてきたローウェン家の一員として、アレクシスに対する忠誠は騎士のそれに劣らないと自負している。
 そう、全ては主のために――
「……時間だな」
 ちらっ、と置き時計に目をやったセドリックが呟く。
 彼は厨房で、朝食の下準備が整ったことを確認すると、主であるアレクシスの部屋へと向かった。
「失礼します。若様」
 そう扉の前で声をかけて、セドリックはアレクシスの寝室へと足を踏み入れる。
「おはようございます。若様」
 セドリックが寝室に踏み入れた時、アレクシスはすでに寝台から身を起こしていた。
 従僕であるセドリックほどではないものの、主であるアレクシスの朝も早い。セドリックの記憶にある限り、アレクシスが声をかけるまで寝ていたことなど、ほとんどないと言っていい。
「おはよう。セドリック」
 挨拶を返してくるアレクシスに、セドリックは着替えを渡しながら尋ねる。
「今日も剣の稽古をなさいますか?」
 早朝の剣の鍛錬は、アレクシスの日課だ。
 それは、屋敷にいる限り決して欠かされることはない。
 かつて、幼いアレクシスにその習慣を叩きこんだのは、今は亡きハイライン伯爵にして彼の父カーティスだ。
 雨の日も風の日も雪の日も、夜明け前に起床して父・カーティスから厳しい剣の稽古を受けることが、王剣ハイラインの嫡子としてアレクシスの義務だった。
 その剣の師が亡き今も、その習慣は変わることなく続けられている。
「ああ。剣の鍛錬をなまければ、亡き父上に叱られる……もっとも、たとえ出来の悪い息子だと叱られても、今なら嬉しく思うがな。亡き父上に叱られるなど、今では夢の中でしか叶わん」
 過去を懐かしむような遠い目をして、アレクシスは言う。
 そんな主の言葉に何かを感じて、セドリックは問いかけた。
「また旦那さまの夢を見られましたか?若様」
 セドリックの問いかけに、アレクシスは「……懐かしい夢だったな」と寂しそうな目をしてうなずく。
「懐かしい……幸せな夢だった。まだ父上が存命だった頃の夢だ。父上がお元気だった頃に、親族が集まったことがあっただろう?その時の夢だ。みんな幸せそうに笑っていた。父上も母上も叔父上も……シルヴィアも……」
 シルヴィア。
 かつての婚約者の名を呼んだ時だけ、アレクシスは辛そうに唇を噛み締めた。
 それは、セドリックにしか伝わらない程のささいな表情の変化だったが、従僕が主の胸の内を察するには十分だった。
「若様……」
「もし、あの時に……いいや、つまらないことを言った。忘れてくれ。セドリック」
 アレクシスは首を横に振ると、さっさと着替えて、朝の鍛錬をするべく部屋を出ていく。
 その遠ざかっていく主の背中を、セドリックは複雑な想いで見つめた。
 もし、あの時に戻れるなら……。アレクシスはきっと、そう言葉を続けたかったのだろう。だが、その言葉の持つ虚しさに気づいて、最後まで言わなかったのだ。
 そんなアレクシスの迷いも葛藤も虚しさも、セドリックにはよく理解できた。
 なぜなら、過去に囚われているのは、彼も同じだったから。
「若様……」
 その先は、やはり言葉にならなかった。

 幼い頃からセドリックにとって、アレクシスは自慢の若様だった。
 年は幾つも違わず、昔は身分の差さえ感じなければ弟のようだと言える存在だったが、今やセドリックにとっては誰よりも敬愛する主人である。
 アレクシス=ロア=ハイライン。
 国王陛下より聖剣オルバートを賜った、高貴なるハイライン伯爵家の貴公子。
 貴族の中の貴族。
 騎士の中の騎士。
 もちろん、その高貴な血筋も誇るべきものだが、セドリックがアレクシスに忠誠を誓っている理由はそれだけではない。
 高貴な身分に、決して奢ることのない誠実で公平な人柄。
 王剣ハイラインの名に恥じない騎士道を守る高潔さ。
 同時に、守るべき民を見捨てない優しさと強さを併せ持つ。
 少しばかり世間知らずなところがあるのは、ご愛嬌というやつだ。
 よその屋敷に仕える使用人にそう話すと、主君バカと評されるのは避けられないが、セドリックは心の底からそう思っている。強さと優しさと高潔さを併せ持つ、うちの若様のような人こそ真の貴族というのだと。
 ただ周囲に威張り散らしたり、平民から富を搾取するだけの者を、真の貴族とは呼ばない。その高貴なる身分に恥じぬ、高潔な振る舞いをしてこそ貴族なのだ。
 そういう意味で、彼にとってアレクシスは仕えるに値する主君だった。
 物心つく前から身近に仕えてきた主だから、多少の贔屓目はあるかもしれないが、それを抜きにしても立派な若様に成長されたとセドリックは思う。騎士として、誰からも賞賛される若君になられたと。
 先代ハイライン伯爵によく似た精悍かつ、美しい容姿。
 それはさながら、おとぎ話で語られる騎士のようだ。
 そんな見た目を裏切らぬ剣の実力と、品のある振る舞い。厳しく教育された名家の貴公子の常として、性格がやや堅苦しくて、生真面目すぎる短所はあるものの、それもまた魅力といえば魅力のはずだ。貴族のご令嬢方からしても――
「シルヴィアさま……」
 主人のかつての婚約者の名を呟いて、セドリックはハァと深いため息をつく。
 シルヴィア=ロア=シューレンベルク。
 アレクシスのかつての婚約者――同時に母方の従姉でもあった彼女は、実に美しい娘だった。
 金をとろかしたような髪も、翡翠をはめこんだような美しい瞳も、花のような唇も何もかも夢のように。
 天使のようなという表現が、全く誇張に聞こえないほどに美しい少女。
 そうシルヴィアさまは清楚で淑やかで、そして天使のように可憐な見た目に似合わぬほどに、強い心の持ち主だった。だからこそ、守るべきもののために、シルヴィアさまは――
「セドリック!」
 そんな風に過去に思いをはせていたセドリックを、アレクシスの声が現実へと引き戻す。
「あっ、はい。何でしょうか?若様」
 セドリックが返事をしつつ振り向くと、毎朝の日課である剣の鍛錬を終えたアレクシスが、そこに立っていた。
「ああ。今日からしばらくロゼリアに行って屋敷を留守にするが、その間よろしく頼む。セドリック」
 アレクシスの言葉に、セドリックはうやうやしく頭を垂れて答える。
「心得ております。屋敷のことは、お任せください」
 そうだ。
 今は取り戻せない過去を思って、沈みこんでいる場合ではない。
 セドリックはそう自分を叱咤する。
 若様は――アレクシスさまは今、恐れ多くもエミーリア女王陛下の勅命により、大事な任務をなさっているのだ。
 女王の商人の護衛。
 騎士の中の騎士と名高きハイライン伯爵家の嫡子が、商人の小娘の護衛というのがいささか気に食わないが、それでも女王陛下から直々にお声をかけられるなど名誉なことだ。
 これというのも、きっとハイライン伯爵家の代々の王家への忠誠心と、若様の騎士としての技量が認められた結果に違いない。
 実に喜ばしいことだと、彼は口元をほころばせた。
 貴族の、騎士の栄光は今や遠く、今では体裁を整えることにさえ苦労している貴族は珍しくもなく、ハイライン伯爵家とて例外ではない。先々代のハイライン伯爵――大旦那さまの散財や、先代の旦那さまの早すぎる死もあり、ハイライン伯爵家は没落気味だと周囲から陰口を叩かれることもある。
 だが、これからは違う。
 騎士として女王陛下からも信頼が厚い若様が、きっとハイライン伯爵家に栄光を取り戻してくださる。
 そう、セドリックは信じていた。
「それと、もう少しでシアが訪ねてくるはずだから、彼女のために紅茶をいれてくれないか?リーブル商会の馬車で、ロゼリアに向かうことになっているんだ」
 アレクシスがそう言うと、セドリックは露骨に顔をしかめる。
 敬愛する若様の前でなければ、舌打ちすらしていたかもしれない。それぐらい不快そうだった。
「シア=リーブル……あの、じゃじゃ馬な女商人ですか」
 あからさまにトゲのある口調で言うセドリックを、アレクシスがたしなめる。
「セドリック……お前が商人が嫌いなのは俺も知っているが、かりにも女王陛下の商人に対して、その言い方はどうかと思うぞ」
「コホンッ。失礼しました。この前から、あの小生意気な女商人には、陰険メガネと呼ばれておりますもので……つい」
「陰険メガネ……」
 衝撃的な台詞に、アレクシスは絶句する。
 シアとセドリック。
 この屋敷で何回か顔を合わせているはずだが、ここまで険悪な関係だとは思わなかった。
 セドリックはうなずくと、さらに言葉を続ける。
「ええ。全く……淑女の風上にも置けませんね。あの口の悪い小娘は」
 どっちもどっちだろうという台詞を、アレクシスは喉の奥でかろうじて飲みこんだ。
「まぁ、そう言うな。確かにじゃじゃ馬なところもあるが、あれで商人としては優秀だし……それに淑女とは言い難いが、なんだかんだ言っても困っている人間は見捨てないし、性格も悪くないと思うが」
 セドリックのトゲのある態度にやや戸惑いつつ、アレクシスはシアを擁護した。
 長い……それこそ生まれた時からの付き合いとさえ言える二人だが、セドリックが女性に対してこれほど冷淡な態度を取るのを、アレクシスは初めて見た。
 女性には年下であれ年上であれ、普段は紳士的な態度を崩さないのがセドリックなのだが、どうしてシアに対してだけこんな態度を?
 いや、もしかしたら、ある意味で気が合うのかもしれない。
 出会ってから数回しか顔を合わせていないにも関わらず、じゃじゃ馬だの陰険メガネだのあだ名をつけるくらいだから、よくいう喧嘩するほど仲が良いというあれなのか……。
「はぁ」
 アレクシスの苦悩にも関わらず、セドリックは気のない返事をする。
 性格はともかく、あの商人の小娘が淑女だと言われたら、たとえ敬愛する主の言葉でもうなずけないところだった。
 信じ難いことだが、若様はあの商人の小娘のことを、嫌っておられないらしい。生意気だし、口は悪いわ乱暴だわ、女らしさの欠片も感じられない少女なのに。
 若様に言わせれば、「綺麗で気まぐれで、どことなくパールに似ているだろう?あの誇り高さもな」ということらしいが。
 パールというのは、奥方様の飼っている白銀の毛並みをした猫だ。
 美しいが、奥方様以外の者が抱こうとすると爪で引っかく、可愛げのない猫である。
 確かに、あの小娘シア=リーブルも猫のパールも、美しい容姿に可愛げのない性格が共通しているが――
「それに……」
 不満そうな顔をするセドリックに、アレクシスは苦笑しながら言う。
「――セドリックとシアの性格は、意外と似ている気がするが。歩み寄れば、良い友になれるかもしれないぞ?」
 その言葉にセドリックはひっくと顔をひきつらせて、
「ご冗談でしょう?若様」
と、言ったのだった。
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