女王の商人
古城と商人3-5
王都ベルカルンからロゼリアの地までは、馬車でも二週間近くもかかる。
もっとも、途中で馬を休ませたり、宿屋に泊まることも必要だから実際にはもう少しかかるが。
何だかんだで、二十日近くもかかる道のりだ。
馬車に乗っている時間は、中に乗っている人はずっと一緒にいるわけで、旅は道連れというやつか話も弾むというものである。
そして、それはリーブル商会の馬車に乗ったシアとアレクシス。それに、オスカーの三人も例外ではなかった――
「――しかし、シアが女王陛下の商人とは立派になったね。昔は、こんなに小さかったのに」
ロゼリアに向かう道のりの馬車の中。
そう懐かしそうに言いながら、膝のあたりを指さして身長をしめすオスカーに、シアは苦笑する。
いくらオスカーが長身とはいえ、シアが彼の膝くらいまでの背丈しかなかったのは、もう十年以上も前の話だ。
「それって、いつの話?オスカーおじさま。多分、あたしが六つくらいの時の話じゃないの」
シアは、ちょっと照れたような顔で言う。
昔からの、それこそ父の親友という立場ゆえに、シアとオスカーは生まれた時からの付き合いだ。
リーブル商会の年配の商人たちもそうなのだが、赤ん坊の時にあやしてもらったという相手には、成長してもなかなか頭が上がらないものである。
しかし、そうは言っても十年以上も前の話を持ち出されるのは、シアにとってはかなり恥ずかしい。
「確かに、あれからもう十年も経つんだなあ……幽霊が怖いって、ビービー泣いてたシアがねぇ、立派になったもんだ」
しみじみと言うオスカーに、シアは顔色を変えて叫ぶ。
「ちょっとおお!それ内緒って言ったでしょおお!オスカーおじさま!……アレクシス!ちょっと耳をふさいでて!」
あわわ、と怒りと羞恥のあまり青くなったり赤くなったりするシアに、アレクシスは残念だと首を左右に振った。
「すまないが、もう遅い」
しっかり聞いたと答えるアレクシスに、シアは顔をまっ赤にして絶叫する。
「うぎゃ―――――っ!アレクシス!今すぐ、聞いたことを忘れてよ!今から三秒以内に!じゃないと、手段は選ばないわよ!」
「……無茶を言うな」
かなり本気の目で、無茶苦茶な脅迫をしてくるシアに、アレクシスはハァとため息をつく。
そんな風に、馬車での旅路は実に和やかなものだった。
これから、ロゼリアの悪魔公という恐ろしい伝承が伝わる土地に向かうというのを忘れそうなくらいに、シアたちの様子は明るい。ただ――
「……」
アレクシスはふっと横を向くと、漆黒の瞳でオスカーの横顔を見つめた。
「……」
初めて会った瞬間から、どことなく感じる違和感。
その理由を上手く説明することは出来ないのだが、ただの気のせいだと違和感を片づけることは、アレクシスにはどうしても出来なかった。
オスカー=ライセンス。
腕利きの行商人だという男に、怪しいところは何もない。
リーブル商会の長に信頼されるくらいなのだ。素性も立場も行商人としての実力も、しっかりしたものだろう。その青みがかった灰色の瞳も、穏やかで大人の落ち着きを感じさせ、決して印象は悪くない。それに――
アレクシスは出会ってからすぐに、オスカーと交わした会話を思い出した。
『――お父上は……カーティス殿はお元気ですか?』
オスカーの問いかけに、アレクシスは軽く目を伏せて、首を横に振った。
『父は病で……』
亡くなりました、と。
そう父の死を告げたアレクシスに、オスカーが驚きに目を見開いた。
ひゅう、とその唇から、声にならない悲鳴がもれる。
その青ざめた顔色と、声も出せずに震える唇から、彼が心から驚き悲しんでいることが見て取れた。
そんなオスカーの姿に、アレクシスも元気だった頃の父の姿を思い出して、目元を押さえる。
『そ、ん、な……いつ?』
途切れ途切れなオスカーの声が、彼の衝撃の大きさを物語っていた。
アレクシスもその先の言葉を続けるのが辛かったが、黙っているわけにもいかない。
『三年前に……』
三年前というアレクシスの言葉に、オスカーは顔を伏せ目をうるませた。
『……そうか』
そう呟いたオスカーは、泣いてはいなかった。
ただ、心の中で泣いているようにアレクシスは感じた。
『……』
人の記憶というのは、どんなに強い想いがあったとしても、時の流れと共に薄れてしまうものだ。
尊敬する父であり、アレクシスの剣の師でもあった人。
その人を失った痛みを、三年たった今でもアレクシスは忘れることが出来ないのに、父と過ごした日々の記憶は徐々に薄れていく。
まるで、砂時計の砂がこぼれ落ちるように少しづつ、想いは記憶の奥底に沈んでいく。
息子であるアレクシスも妻である母も、父に仕えていたハイライン伯爵家の使用人たちも皆、だんだんと父・カーティスがいない生活に慣れていく。それは、日々を生きてくいくうえで自然なことだ。
息子であり剣の弟子であるアレクシスでさえ、三年もの月日が流れた今では、父がいない日常を受け入れているのだから。
ただ、亡き父のことを忘れないでいてくれる人が、父のために泣いてくれる人がいるのだと。
オスカーはうるんで赤くなった目を隠すかのように、馬車の窓の方へと顔を向ける。
『――王剣ハイラインの名に、相応しい騎士であれ』
そんなオスカーの姿を見て、アレクシスは厳しくも優しかった父の口癖を、懐かしく思ったのだった。
それが、二十日ほど前のこと。
それから何度となく、アレクシスはオスカーと会話を交わしたが、穏やかな紳士という印象だった。
オスカーは行商人としての立場もしっかりしていて、リーブル商会の長にも信頼されており、シアも家族のように慕っている。
警戒すべき理由など何もないと知りつつも、アレクシスは初めて会ったときからの違和感を、いまだぬぐいさることが出来なかった。
知り合ってからまだ日が浅いが、悪人だとは思えない。
アレクシスの亡き父のために、涙ぐんでくれた人なのだ。何も望んで疑いたいわけではない。
だけど、初対面のはずのオスカーのことを、アレクシスはよく知っている気がするのだ。
今まで、一度も会ったことのないはずの人なのに、とてもよく――
「……何か?」
その時だった。
窓の方を向いていたオスカーが、ふいにアレクシスに話しかけてきたのは。
「……私に何か用ですか?」
ちょっと困ったような顔で、オスカーはそう尋ねる。
「いや、何も……失礼した」
アレクシスは首を横に振ると、失礼、とオスカーに謝罪した。
彼にそんなつもりはなかったのだが、知らず知らずのうちに、オスカーの顔を凝視してしまったらしい。
伯爵家の嫡子らしくもない不躾な行為をしてしまったと、アレクシスは後悔した。さほど親しくもない人間が、自分の顔をじっと凝視していたら、普通は居心地の悪さを感じるものだろう。
悪気はなかったのだが、オスカーに気を使わせてしまったかもしれない。
「いえ……それより、そろそろロゼリアに着きますね?アレクシス殿」
そんなアレクシスの気まずさを察してか、オスカーはさりげなく話題を変える。
その気遣いに感謝しつつ、アレクシスはうなづいた。
「ええ。このまま行けば明日の朝には、ロゼリアに着けるでしょう……たしか、オスカー殿は近くの村で降りられるのでしたか?」
オスカーはロゼリアには行かない。
その近くの村で、商品の仕入れのために降りるというのが、シアから聞いていた予定だった。
「商品の仕入れがありますので。残念ですが、ロゼリアまではご一緒できませんな……近くの村で仕入れをしたら、行商で各地を回ることになりそうですし、そうなれば孤独な一人旅です。その前に、貴方やシアと過ごせて良かった」
「こちらこそ。オスカー殿の道中の安全を、お祈りしております」
「ありがとう。アレクシス殿、貴方も」
旅人同士が別れる際の決まり文句を言ったアレクシスに、オスカーも同様の返事を返す。
だが、その旅の安全を祈る言葉の爽やかさとは裏腹に、そう言うオスカーの顔は何か物言いたげな憂いに満ちていた。
「……」
「何か?オスカー殿」
険しい顔で黙り込んでしまったオスカーに、アレクシスは声をかける。
「実は……シアとアレクシス殿に、一つお話しておきたいことが……ただの杞憂かもしれませんが」
歯切れ悪く言うオスカーに、アレクシスも眉をひそめる。
「話しておきたいこと?」
「ええ……シアっ!」
オスカーは険しい顔のままでうなづくと、先ほどから会話にも加わらず、真剣な表情でロゼリアについての資料に目を通しているシアの名を呼んだ。
突然のそれに、シアは弾かれたように顔を上げる。
「な、何?オスカーおじさま」
状況がよく飲み込めず、きょとんとした表情で目を丸くするシアに、オスカーは重々しい声音で告げる。
「実は……シアとアレクシス殿に、ロゼリアについてどうしても話しておきたいことがあるんだ……」
「いきなり深刻な顔して……ロゼリアが一体どうしたの?オスカーおじさま」
その意味深なオスカーの言葉に、最初は首をかしげていたシアだったが、真剣な顔と声に何やらただ事ではないと悟ったらしい。
神妙な表情で、オスカーの話の続きを聞こうとする。
オスカーは、すぅと息を吐いてから、
「――ロゼリアの土地には、気をつけろ」
と、低い声で言った。
「ロゼリアの土地には気をつけろ……って、例の悪魔公の城のこと?亡霊が出るって噂の……」
ロゼリアの悪魔公の城のことか?
亡霊という言葉に、怯えたように顔を青くしつつ、シアは気丈に尋ねる。
「それもある……ただそれ以外にも……あそこは、ロゼリアは色々と気味の悪い噂がある土地だ。シアもアレクシス殿も、気をつけた方がいい。ただの杞憂に終われば良いんだが……」
何やら不吉かつ意味深なオスカーの言動に、シアとアレクシスは言い知れぬ不安を感じて、黙ったまま顔を見合わせた。
「……」
「……」
それから、ロゼリアの近くの村でオスカーが馬車を降りてからも、彼が去り際に残したロゼリアに対する不吉な忠告は、まるで白い布を汚した黒いシミのように、小さなだが忘れ難い不安として、シアとアレクシスの心を蝕んだのである。
『――ロゼリアの土地には、気をつけろ』
それは、単なる忠告か、あるいは何かが起こるという予言なのか。
空は曇り。陰気な黒い雲が空を灰色に染め上げる中で、リーブル商会の馬車は止まることなく、ロゼリアへと近づいていく。
そう、ロゼリアの悪魔公の土地へと。
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