女王の商人

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  古城と商人3-7  

 悪魔公の城。
 人々から恐怖をこめてそう呼ばれる古き城の前に、シアとアレクシス。そして、宿屋の主人――ラルクスの三人が立っていた。
「ここが、悪魔公の城か……」
 ごくりっ、と唾を飲みつつ、シアはそう呟く。
 悪名高きロゼリア領主の死後、ほとんど人が入っていないという悪魔公の城は、今では廃墟と言えるほどに荒れ果てていた。
 かつては立派だったろう、石造りの堅固な城。
 しかし、今や城壁を緑のツタが覆いつくし、かつて白かったはずの壁はくすんだネズミ色に変色していた。
 その昔は美しく整えられていたはずの庭園も、今は雑草しか生えておらず、かつての栄えていた頃の城を想像することさえ叶わない。荒れ果てているのは覚悟していたが、廃墟とかした古城は予想以上に不気味で、シアはぎゅっと唇を引き結ぶ。
 城の中に入りたくない。
 決して入りたくはないが、ここまで来たら入るしかないだろう。
 怯える己の心を叱りつけ、シアは覚悟を決める。
(しっかりしろ!あたし!大丈夫。大丈夫!亡霊なんて噂だけで、きっと何もないさ……)
 何にもないはず!と、シアは半ば祈るような気持ちだった。
 正直に言えば、亡霊やら呪われているとやら噂の古城には入らずに、今からでも王都に戻りたいような気持ちだった。
 彼女がそうしなかったのは、女王の商人としての責任感と、リーブル商会の跡継ぎとしてのプライドゆえだ。 
(リーブル商会の跡取り娘が、銀貨の商人が、こんなところで怯んでどうする!やるしかない!)
 おどろおどろしい気配のただよう城を前にして、悲愴な覚悟を決めるシアだったが、怯えているのは彼女だけではなかった。
「ほ、ほんとに城の中に入られるんですか?お客さんたち……な、何が起こっても知りませんよ」
 ラルクスが、古城とシアたちを交互に見て、怯えた声で忠告した。
 この城に到着するまで、幾度も繰り返されたやり取り。
 説得の効果がないことは、すでにラルクスも承知しているだろうが、それでも言わずにはいられないようだ。
「ああ。行かなければならない理由があるからな……城まで案内していただいて、感謝する。ご主人」
 アレクシスは礼を言うと、ラルクスの手からランタンを受け取り、悪魔公の城の入り口へと足を踏み入れた。
「……お気をつけて」
「ありがとう」
 シアはうなずくと、ランタンをかかげながら、アレクシスに続いて城の中へと入ったのである。

 城の中に入ると、そこは灯りが何もない真っ暗闇だった。
 城の全体にツタがはっているせいだろうか。太陽の光もほとんど差しこまないそこは、昼間だというのに夜のようで、ランタンの灯りがなければ足元すら危うい。
 その真っ暗な通路を、ぼんやりとしたランタンの灯りだけを頼りに、シアとアレクシスは進む。
 物音ひとつしない静かなそこに、コツコツという彼らの足音だけが響く。
「……シア」
 通路を歩きながら、アレクシスが後ろを振り返った。
「な、何よ?アレクシス」
 ランタンを高くかかげ、周囲を警戒しつつ歩くシアに、アレクシスは腕組みしながら尋ねる。
「さっきのことなんだが、なんか変じゃなかったか?」
「……へ?何のこと?」
 彼の質問の意味がわからず、シアは目を丸くした。
 きょとんとした顔をするシアとは対照的に、アレクシスは険しい顔つきで、城の入り口の方を睨んでいる。
「宿屋の主人のことだ」
「……宿屋の主人って?えーっと、ラルクスさんのこと?出された料理も美味しかったし、悪くなかったと思うけど……」
 シアはそう答えながら、熊のような宿屋の主人――ラルクスの顔を思い浮かべた。
 たしかに、宿屋の主人というにはゴツすぎる外見の持ち主ではあったが、出されたスープとパンの味は絶品だったし、感じは悪くなかったと思うが……。
 だが、そんなシアの返事にも、アレクシスは浮かない顔で首を横に振る。
「いや……少し気になっただけだ。おそらく杞憂だろう」
「そう?なら良いけど」
 歯切れの悪いアレクシスに釈然としないながらも、シアはうなずいた。
「ああ。それより、そっちはどうだ?シア。何かあったか?」
「ん―」
 問われたシアは、ランタンの灯りで周囲を照らしつつ、注意深く城の床や壁を見つめた。
 悪魔公の城の内部の調査。
 シアが女王陛下から命じられたのはそれだ。
 ロゼリア領主の城。
 悪魔公やら亡霊やら、不気味さばかりが目立つそこだが、歴史的にも価値のある古城なのである。だが、王都ベルカルンから遠く離れていることと、血生臭い伝承ゆえに近づく人は多くない。
 しかし、裏を返せば今まで調べていない分、価値あるものが存在する可能性は否定できない。だからこそ、シアがやって来たのだ。
 商人としては年若く、いまだ経験の浅いシアだが、扱う商品に対する知識と審美眼は誰にも負けないと言ってもいい。
 アルゼンタール国内のみならず、国外からもさまざまな商品が届けられるリーブル商会。生まれた時から、そんな商品に囲まれて育ったおかげで、シアの商品を見る目はベテランの商人達でさえ一目おくほとだ。
 その商品に対する知識は幅広く、美術品や宝石のような高級なものだけでなく、酒や毛皮などに至るまで商会で扱うものならば何にでも詳しい。もっとも、その膨大とも言える知識でさえ、父や祖父とそれには遠く及ばないのだが。
 そんなわけで、シアは何も見逃さないよう慎重に、通路をゆっくりと歩いていた。
 ランタンのぼんやりした灯りが、一歩、一歩、シアの足元を照らす。
「……っ!」
 その時、シアが声無き呻きをもらす。
 彼女の歩みが唐突に止まったことで、アレクシスも異変を感じ、鋭い声で叫んだ。
「どうしたっ!何かあったのかっ!シア!」
「うっ……こ、これ……」
 シアが震える指で、床の一点を指差した。
 灰色の石畳。だが、シアが指差したその部分だけは、赤黒く変色していた。
 だいぶ時間が経って薄れてはいるが、それでもこの赤黒い色は血以外ありえない。血、灰色の石畳をべったりと赤く染めた……人間の血……。
 ぐぇ、とシアは気持ち悪さをこらえるように、口元を手で押さえる。
 灯りひとつない真っ暗な通路。
 しんと静まり返った人の気配がない城の中。
 悪魔に生贄を捧げ、多くの血を流したと伝わるロゼリアの領主。
 灰色の石畳をべったりと染めた赤黒い血痕……。
 さまざまな考えが、シアの頭の中をグルグルと巡って、彼女を混乱させる。
 幽霊や怪談などを大の苦手とするシアだが、決して臆病な性格ではない。むしろ、良くも悪く無鉄砲とか怖いもの知らずとか無謀を絵に描いたようだとか、そんな風に表される彼女だ。
 そんなわけで普段、怖いとか恐ろしいとか余り感じないシアなのだが、その石畳の血痕には顔を青くした。
 長い年月が経ち、すっかり血はかわいているとはいえ、床に広がった血の量は尋常ではない。一人か複数か……おそらく、この血を流した人物はもう生きてはいないだろう。
 殺されたのだ。
 何時かはわからない。ずっと、それこそ百年も前のことかもしれないが、この場所で、誰かが……。
「……」
 青ざめて、血痕のついた場所から後ずさるシアとは正反対に、アレクシスは血痕に近づいた。
 ランタンを床に置き、膝をついて血で赤黒く染まった石畳に、顔を寄せる。
「血痕か……かなり古いな……」
 騎士という身分ゆえに、商人のシアよりはこういう状況に耐性のあるアレクシスは、恐れるでもなく血痕を凝視する。
 しばらく、そうしていた彼だが、やがて立ち上がった。
「このまま立ち止まっていても仕方ない。別の場所も調べてみよう……大丈夫か?シア。具合が悪いようなら、俺が先に行って様子を見てくるが……」
 恐怖と極度の緊張のせいか、顔色を悪くしたシアに、アレクシスが気遣うような視線を向ける。
「……ありがとう。でも、ここで一人で待ってるのもゾッとするし、大丈夫だよ」
 大丈夫。
 シアは自分にも言い聞かせるように言うと、一歩、前に踏み出そうとした瞬間――
「うわああああああっ!」
 石畳に足をつっかけ、シアはバランスを崩した。
 反射的に手を伸ばしたが、床との正面衝突は避けられない。
 石畳に頭から転ぶのは、さぞ痛いだろう。シアはその衝撃を覚悟し、とっさに目をつぶってしまったが――しかし、いつまで経っても、覚悟していた痛みは襲ってはこない。
「あ、れ……?」
 シアが不思議に思って目を開けると、漆黒の瞳と目が合う。
「――怪我はないか?」
 アレクシスの問いかけにも、シアは呆然として答えることが出来なかった。
 そんなシアの体は、目の前の青年に支えられている状態だ。華奢なシアの体は今、アレクシスの両腕が支えていなければ、床に叩きつけられていただろう。
 つまり一言でいえば、シアはアレクシスに、抱きしめられているのだ。
 彼女の小柄な体躯は、青年の胸の中にすっぽりと収まっている。
 端から見れば、恋人同士の抱擁にも見えたかもしれない。事実はどうあれ。
「……」
 シアは無言かつ無表情で、アレクシスを見つめた。
 いつも、喜怒哀楽が激しい彼女にしては、まるで人形のような無表情である。
 見た目はともかく、二人の関係は恋人同士などという甘いものではなく、望んでこういう姿勢を取っているわけではない。
 石畳につまづいて、転びそうになったシアを、アレクシスが抱きとめて助けただけのこと。それは反射的な行動で、好意も何も存在しない。だけど――
「シア?」
 黙りこんだシアに不安を感じて、アレクシスは顔をのぞきこむ。
「……き」
「……き?」
「きゃあああああっ!」
 シアがいきなり悲鳴をあげる。
「ど、どうした?足でもひねったか?シア」
「違ううううっ!離れて!離して――!」
 シアが林檎のように顔を真っ赤に染めて叫んだ。
「わ、わかったから。落ち着け。シア」
「うう……」
 アレクシスが離れても、シアの顔は赤いままだ。
 サラサラした銀の髪に、曇りのない青い瞳。
 かなりの美少女であるシアだが、生まれてから十六歳になるまで、恋愛とは縁がなく過ごしてきた。
 可憐な容姿に似合わぬ口の悪さと、恋愛よりも恋人よりも商売が大事!な性格ゆえに、モテそうでモテないという人生を送ってきたのである。それに加えて、リーブル商会の跡継ぎという多忙な立場も原因の一つだ。
 つまり、どういうことかと言うと、異性に全く免疫がない。
 父のクラフトと祖父のエドワード。それに身内同然のリーブル商会の面々をのぞけば、男性に抱きしめられたことなどない。たとえ事故だとしても。
 ……恥ずかしい。
 わけのわからない気分を持て余し、シアはうつむいた。
『――貴族の方に近づいては駄目よ。シア』
 昔、そう約束したのに。
 あんなに約束したのに、守れてない。
 約束したのに――待てよ。いつ、誰と約束したんだっけ?ああ、母さま……。
「シア」
 いつかの如く、思考の海に沈みそうになっていたシアを、アレクシスの声が現実へと呼び戻した。
「え?」
「そこの石畳……なんか変じゃないか?不自然に盛り上がってる」
 そう言ってアレクシスが指さしたのは、シアが今つまづいた場所だった。
 たしかに、言われてよく見てみると、床のその部分だけ高さが違う。
 転ばなければ気づかなかった程度の段差ではあるが、周囲と比べればその差は歴然だった。
 そして、その差が何を意味しているのか、シアは想像する。まさか!
「もしかして……」
 シアは膝をつくと、たった今つまづいた石畳の段差の近くを、ごそごそと探った。
 昔、商人仲間から聞いたことがある。こういった古い城には、戦争や敵が侵入してきた時のそなえて、逃走用の隠し通路や人に見つけられない隠し部屋があることは珍しくもないと。もしかしたら……もしかしたら……あった!
「ここだ!」
 シアは感嘆の声を上げると、石畳の一部分を……なんと持ち上げて、外した!
 ……軽い。
 この石畳はニセモノ。
 実際は単なる見せかけのフタで、実際は侵入者に気づかれないための仕掛けの一つに過ぎない。その証拠に、そのフタを外した下には地面ではなくて、降りるための長い長い階段と真っ暗な闇が広がっていた。
「隠し通路……」
 シアは小さく呟くと、暗い暗い隠し通路をのぞきこんで、ごくっと息を飲んだのである。
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