女王の商人

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  賢者と商人4−2  

 ――夢を見ていた。これは現実なのだろうか、それともただの夢なのだろうか。

 夕暮れの街。夕焼けでオレンジ色に染まった王都で、銀髪の幼い少女が、両手にクマのぬいぐるみを抱きしめて歩いている――シアだ。
 ぎゅう、とクマのぬいぐるみを抱きしめた姿は、まだ幼い。五歳か、六歳くらいだろうか。
 遊び疲れたせいか、ちょっと眠そうな顔で、でも機嫌よさそうに幼いシアは歩いている。
 小さな唇で、お気に入りの歌を口ずさみながら、少女の赤い靴は軽やかにスキップをする。それに合わせるように、二つに結んだ銀髪のリボンが、ゆらゆらと揺れた。その薔薇色のリボンは、エステル母さまにもらったもの――シアのお気に入りだ。
「早く帰ろうっと」
 暗くなりかけた空を仰いで、シアは呟いた。
 あんまり遅くなると、母さまもみんなも心配する。
 エステル母さまは体が丈夫じゃない人だから、心配をかけてはいけない。先週も、具合を悪くして寝こんでいたくらいだし、早く元気になると良いのだけど。
 病弱な母を心配して、幼い少女は顔を曇らせた。
「……大丈夫だよね。きっと良くなるって、父さんも言ってたもん」
 シアの母の具合は、ここ最近はずっと悪い。
 もともと病弱な人ではあるのだが、娘のシアが三つになったあたりから、よく寝こむようになった。
 ここ半年ばかりは食も細く、顔色も青白い。
 日に日に痩せていく母に、娘が不安を感じないといえば嘘になる。だけど母さまに尋ねても、優しい微笑みを浮かべながら「大丈夫よ」と答えるだけだし、父さんも爺さんも「お医者さまに診ていただいているし、きっと良くなる」と説明する。
 幼い娘としては、それを信じるしかない。シアが母さまのために出来ることといえば、せいぜいが神様に祈ることくらいだ。
 母さまの具合が早く良くなりますように――と。
 顔はうつむかせて、シアはぎゅうう、と手にしたクマのぬいぐるみを抱きしめた。
「……帰らなきゃ」
 母さまに心配かけないうちに。
 そう考えて、シアが走り出そうとした瞬間、後ろから声がかけられた。
「――ねぇ、あなた?」
 女の人の声。
 聞き覚えのない声だった。
 シアは恐る恐る後ろを振り返ると、その声の主と向き合う。
「――誰?」
 シアの問いかけに、声の主――黒いドレスの女は、ふふふと優雅に笑う。
「うふふ。私はね、リーディアよ。お嬢さん」
 その女――リ―ディアは、黒づくめの格好をしていた。
 黒いドレスに黒い帽子に、おそろいの黒の手袋。その顔の半分くらいまでは、黒いベールに覆われている。黒、黒、黒。そのベールの下から見える顔だけが、正反対に青白い。
 喪服というのだろうか、シアは黒づくめの女の格好を見て、そう思った。
 普段は、決して身につけることのない黒づくめの装い。
 死者を悼むための服装。
 ――誰か亡くなったのだろうか。
 そう思いながら、シアは眼前に立つ、リーディアの顔を見た。
 年齢はシアの祖父と同じくらいだろう。
 半分ほど白く染まった灰色の髪と、顔に刻まれたシワは年齢を感じさせるが、それでも女の顔立ちは整っていて、美しかった。若い頃はさぞ評判の美女であったろうと、思わせる容姿。年齢とは関係なく、上品で優雅な美しさを持つ女だった。
 そのリーディアの翠の瞳は、真っ直ぐにシアに向けられている。
「リーディア?」
「ええ。そうよ。あなたの名前は?」
 喪服の女。黒いドレスの女に、優しげに問われて、シアは正直に答えた。何の警戒もせずに。
「……シア」
 シアの答えに、喪服の女――リーディアは、優しげに微笑む。その翠の瞳の奥に、狂気を宿して。
「シア。良い名前ね。あなたのお祖母さまと同じ……」
 リーディアの言葉に、シアは驚いたように目を丸くする。シアが生まれる前に亡くなったというシアの祖母。その顔はおろか、名前すらシアは知らない。
「お祖母さまの名前?お祖母さまの知り合いなの?」
「ええ。よく知っているわ……忌々しいことにね」
「……え?」
 忌々しいと。急に口調を変えた喪服の女に、言いようのない恐怖を感じて、シアは後ろに下がった。
 (何だろう?何か嫌な感じ……)
 怯えた顔で、一歩、後ろに下がったシアを見て、喪服の女――リーディアは笑みを深くする。先ほどまでの、上品な微笑みとは違う。狂気じみた憎しみを宿した笑みだ。赤く紅をさした唇はつり上がり、その翠の瞳には、隠しようもない憎しみが感じられる。そうして、狂気を宿した微笑みと共に、リーディアは白い手をシアへ伸ばす――
「――本当に綺麗な子ね、シア。忌々しい……あの女にそっくり。私から愛しい人を奪った、あの女に」
 怨嗟のこもった声と共に、己の伸ばされる白い手を、シアはじっと見つめていた。逃げた方がいいと、心ではわかっているのに、身動きが取れない。
 喪服の女の指が、シアに触れようとした瞬間、遠くから切羽詰まったような声がした。
「――母上っ!母上っ!どちらにいらっしゃるのですか?」
 その声に、リーディアは虚ろな瞳で、声の方角を振り返った。
「コンラッド?」
 女が後ろを向いた隙に、シアは逃げるように、脇目もふらず駆けだした。この喪服の女は危険だと、本能が囁いている。
 (早く、早く、家に帰らないとっ!)
 シアは怯えながら、一心不乱に家に向って走り、夕暮れの街に女を置き去りにした。
 黒い喪服は闇のように、幼い少女の胸を蝕む。
 そうして、家に帰ったシアは知らない。喪服の女がその後どうなったのか、リーディアがなぜ話しかけてきたのか、何も知らない。
「……」
 それから十年もの歳月が流れるうちに、やがて記憶は薄れ、どこまでが夢でどこまで現実だったのか、シアにもわからなくなった。母さまが亡くなった悲しみのせいか、あの頃の記憶は曖昧だ。あれは、本当にあったことなのだろうか――

「ううん……」
 その日のシアの目覚めは、あまり爽やかとは言えなかった。
 ちょっと辛そうに目をこすり、しんどそうに寝台から降りる。人より朝が弱いのはいつものことだが、あまり夢見が良くなかった日は、余計に辛い。
 ううう、と唸りながら着替えて、鏡の前に腰かける。
「……」
 銀髪に、曇りない青い瞳。
 シアにとって、生まれてから十六年、見なれた顔が鏡の中にあった。
 瞳の色こそ違えど、その顔立ちは亡き母エステルに、瓜二つと言っていい。
 大人しく、繊細な人であったという母。
 性格は正反対と言っていいが、シアと亡き母は恐ろしいほどに似ている。生き写し、という言葉が、亡き母を知るリーブル商会の誰の口からも、こぼれ出るほどに。
 確かにシアの目から見ても、記憶の中の母と、鏡に映った己の姿はよく似ていた。
「母さま……」
 そう思いながら、シアは鏡へとそっと手を伸ばした。
 最近、よく亡き母の夢を見る。母を亡くしてから、もう十年もの月日が流れているというのに。
 そう、女王の商人になってから――
『――シア。貴族の方に近づいては駄目よ。不幸になるわ』
 ああ、あれは、どういう意味だったのだろう……。
 頭が痛い……。
 無理に過去を思い出そうとすると、キリキリと頭痛がした。シアは無理に思い出すのを諦めて、ゆるゆると首を横に振った。やめよう。本当に必要なことならば、いずれ自然に思い出すはずだ。
「……ふぅ」
 シアは息を吐くと、鏡台の横に置かれた、宝石箱へと手を伸ばした。
 精緻な細工のされた美しい宝石箱――それは亡き母の形見だ。
 亡き母・エステルから譲られたそれを、シアは大事そうに抱えるが、それを開けることはない。鍵の掛けられたそれは、鍵のない今は開けることが叶わない。
 母が亡くなった時の遺言で、宝石箱の鍵は父・クラフトへと託されたそうだ。もし、宝石箱を開けねばならない日が来たならば、その鍵を使って欲しい――と。
 その鍵は使われたことがない。まだ一度も。だから、シアは一度も宝石箱の中身を見たことがない。
 亡き母が遺したそれを。
 その宝石箱の中が、気にならないといえば、嘘になる。亡き母が、父に鍵を託してまで、守りたかったもの。そのわりに、母はシアが鍵を使うことを望んでいなかったという。
 この宝石箱の中には、何が入っているのだろうか――
「――まぁ、そのうち、わかるでしょ」
 シアは宝石箱を元の場所に戻すと、そう呟いた。
 それを開けたいという気持ちも、中身が見たいという気持ちも、もちろんある。だが、亡き母が出来れば開けないで欲しい、と言ったものを無理に開ける気はしなかった。
 本当に必要な時が来たら、いずれ開けることになるはずだ。彼女が望むと、望むまないと。
「さてと、今日は王城に行かないと……」
 シアはんーっと伸びをすると、部屋の扉を開けた。
 今日は久しぶりに、女王の商人として、王城に呼ばれている。前回のロザリアの悪魔公の一件から、およそ一ヵ月ぶりだ。
 ロザリアの地では、シアもアレクシスも命の危険にさらされ、それぞれ怪我を負ったものの、すでに完治している。普通ならば、あんな事件に巻きこまれたなら、仕事を降りたくなるところだが、シアは全くメゲてはいなかった。
 良くも悪くも、負けず嫌いなシアの辞書には、途中で諦めるという言葉はない。何があろうとも、女王陛下との契約である一年間、女王の商人としての役目を勤めるつもりだ。
「……あれ?父さん?」
 シアが自室の扉を開けると、廊下に居た父・クラフトと目が合った。
「ああ。おはよう。シア」
 クラフトはにっこりと笑うと、爽やかに朝の挨拶をしてくる。
「おはよう。父さん……廊下で何してんの?」
 挨拶を返しながら、シアは不思議そうに問う。
 廊下に立つ父は、何かを見つめているようだった。
 シアの問いに、クラフトは微笑みながら、こっちにおいで、と娘を手招きする。
「母さんのね……肖像画を見てた」
「母さまの?」
「そう」
 父の言葉に促されるように、シアはクラフトのそばへと歩み寄る。
 廊下の壁には、シアの母・エステルの肖像画が飾られていた。
 シアの記憶に残る母よりも、だいぶ若い。おそらく、まだ嫁いできたばかりだろう母が、肖像画の中で微笑んでいる。
 娘と同じ、流れるような銀の髪に、柔らかなスミレ色の瞳。瞳と同じスミレ色のドレスをまとった母は、椅子に腰かけた構図で、こちらを見つめている。娘とそっくりな顔立ちに、優しげな微笑みを浮かべて。
 肖像画を見つめるクラフトは、何も語らない。
 黙って母の肖像画を見つめ続ける父に、シアも何も言わず、ただ横に並んでいた。
「……ねぇ、シア?」
 しばらく黙っていたクラフトが、ようやく口を開く。
「何?父さん」
 娘と瓜二つの顔で微笑む、妻の肖像画から目を離さず、クラフトはシアに尋ねる。
「――母さんの家族のことを、知りたいかい?」
 意外な問いかけに、シアは青い瞳を丸くした。
 シアは母の身内のことを、誰も知らない。
 彼女が幼い日に、亡くなった母――エステル。彼女は生前、己の家族について、娘に語ろうとはしなかった。両親……シアにとっては、祖父母にあたる人の名前すら語らず、どんな子供時代を過ごしたのかさえ一言も語らなかった。幼いころは、その理由を考えようとすらしなかったが、今なら何か事情があったのだとわかる。
 ――母さんの家族のこと、知りたいかい?
 父の、クラフトの問いは魅力的だった。父は商人として、一度でも口にした約束は絶対に守る。ここで、シアがうん、と言えば、何かを教えてくれるのだろう。
 血の繋がりがある人のことだ。知りたくないわけがない。だけど――
「……ううん。今は、知らなくていいや」
 しばらく考えた後、シアは首を横に振った。
「……本当に?」
 クラフトが意外そうに言う。気にしているだろうと、そう思っていたのに。
「うん。そりゃあ、知りたくないって言ったら、嘘になるけど……」
 シアは一瞬、亡き母の肖像画を見ると、クラフトの方を向いて、満面の笑みで宣言した。迷いのない声で。
「――だって、あたしの家はリーブル商会だけだもの!」
 母はどんな家で生まれ育ち、どんな人生を送ったのか、知れるものなら知りたい気持ちはある。だけど、無理に知ろうとは思わない。母・エステルには母の人生があり、シアにはシアの人生があるのだから。
 何があろうとも、商人であるシアの帰る場所は、リーブル商会だけなのだ。
 父さんが居て、爺さんがいて、エルト、アルト、カルトの三つ子たちがいて、リタ、二ーナ、べリンダのメイドたちがいてくれて……そして、商人のみんながいる。それで十分に幸せだ。いずれは立派な商人になって、リーブル商会の長となり、この場所を守っていけたらいい。父や祖父の背中を見て、シアはそう願う。
 だから、このままでいい。
「……」
「父さん?」
 急に黙りこんだ父に、シアは首をかしげる。
「そうだね。シアの言う通りだ」
 うなづく父に、シアがさらに話しかけようとした瞬間、ドドドッ、という騒がしい足音が、リーブル家の廊下に響いた。
 その足音に、シアは「ひっ!」と顔を引きつらせて、恐る恐る後ろを振り返る。
 とてつもなく嫌ーな予感がした。
「シアお嬢さまああああ……」
「待っていたのにいいい……」
「遅いですうううううう……」
 地の底を這うような恨みの声。
 シアは恐怖を感じて、「ううう……」と呻き声を上げつつ、後ろへと下がる。
 そして、怯えた声で眼前に立ちふさがる、メイドの三人娘の名を呼んだ。
「リタ、二ーナ、べリンダ、どうして怒ってんの?」
 わけがわからないという顔をするシアに、メイドのリタはふん、と鼻を鳴らす。
 その手には、シアのものである藍色のドレスが握られていた。
「どうしたも、こうしたも、ないですわっ!今日はシアお嬢さまが、王城に行かれる日でしょう?私たちは、朝から張り切っていたんです!お嬢さまを、着せ替え人形……ではなく、着飾らせることが出来るって!なのに、いつまでも降りていらっしゃらないから……」
 思いっきり憤慨するリタに、シアは顔を引きつらせる。
 ようするに、ただ単にシアで遊びたいだけなのでは……?
「そうですよ!それにお嬢様の支度をすれば、旦那さまから特別手当て……ではなく、お褒めの言葉があるんです。これを逃すわけにはいきません!」
 目指せっ!特別手当てっ!
 そう拳を振り上げて力説する二ーナの手元には、髪飾りと櫛が。
「さぁさぁ、行きましょう。シアお嬢さま。私も新しい服が欲しいんです。金欠なので、助かりますわ」
 にこにこと、恨めしいほど満面の笑みを浮かべるべリンダは、化粧道具を抱えている。
 に、逃げられないっ!
 無駄な抵抗と知りつつ、シアはいやいや、と必死の抵抗を試みる。
「そんなに張り切らなくて良いからっ!ホント気持ちだけでっ!自分で着替えられるし……ぎゃああああ!」
 シアの必死の抵抗は相手にされず、左右をメイドたちに挟まれて、売られる子羊のように何処かへと連れて行かれる。そんな風に大騒ぎする彼女たちの背を、クラフトは呆れながら見送った。
「父さああああん!黙って見てないで、助けなさいよおおおっ!」
 哀れな娘の悲鳴が聞こえるが、クラフトは当然のように無視すると、やれやれと肩をすくめた。
「やれやれ……相変わらず、ウチの娘はじゃじゃ馬だなぁ。淑女への道は遠そうだ。ねぇ?エステル」
 元気のよすぎる娘に苦笑しながら、クラフトは亡き妻の肖像画へと語りかける。
 困った困ったと言いながら、その様子はどこか嬉しそうだ。
「――でも、元気に育っているよ。君と僕の娘は。じゃじゃ馬だし、まだまだ子供っぽいけどね、真っ直ぐに育っていると思う……君が望んだ通りに」
 だから、安心して見守っていてくれと。
 彼は亡き妻に届くように、心の中で語りかける。
 心なしか、肖像画の妻が微笑んでくれたような気がした。
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