女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  賢者と商人4−11  

 マリーベルの首筋に短刀を突きつけたままのアシュレイは「やれやれ……」と嘆息しながら、廃屋の周りを取り囲んだ村人たちを見回す。
 その表情はうっとおしそうではあったが、仲間を倒された怒りや、村人たちに取り囲まれたという焦りはないようだった。
 マリーベルという、人質がいるからだろうか。
 彼女を助けに来たカノッサの村人たちから、憎しみのこもった視線を向けられても、アシュレイは動揺するどころうか、うっすらと笑みすら浮かべた。
 愚かな民衆を見下すような、そんな笑みを。
 金髪碧眼の、美しいと表現できる容姿の青年だけに、その笑みはより残酷で傲慢に感じられる。
 顔に薄ら寒い笑みを張りつけたまま、アシュレイはマリーベルの細い首筋を撫で、片手でグルグルと短刀を弄びながら言う。
「やれやれ……たかが小娘ひとりを助けるために、ゾロゾロとまぁ集まったものだ。ねぇ?マリーベル。彼らは君の身内かい?」
 アシュレイの問いかけに、短刀を首筋にあてられ、おまけに猿ぐつわをされたマリーベルは「ううー!うー!」とうなる。
 息苦しさと恐怖のためか、その焦げ茶の瞳はうるんでいた。
 ――危険だから、近寄らないで!エドガー兄さん!
 そう叫びたいのに、猿ぐつわのせいで言葉にならない。
 兄さん!兄さんっ!
 どんなにマリーベルが声を張り上げても、猿ぐつわを通して村人たちに聞こえるのは、「うー!うー!」という意味のない声だけだ。
 アシュレイの裏切りを知った今、マリーベルの心は後悔で一杯だった。
 恋人の甘言にそそのかされて、『賢者の書』を渡してしまった愚かな自分……。
 心配してくれたエドガー兄さんの忠告も聞かず、八つ当たりをして家を飛び出してしまったのに、こんな自分を助けるために村の皆はここまで来てくれたのだ。そのことを思うと、申し訳なさで一杯になる。
「うー!うう―!」
 苦しそうなマリーベルを見かねて、アシュレイを睨みながら、アレクシスが言う。
「……人質から手を離してもらおう」
 マリーベルの首筋に短刀を突きつけた青年は、アレクシスの言葉にはんっと鼻をならすと、嘲るように言った。
「愚かなことを……そう言われて、はいそうですか、と大人しく従うとでも?それは、こちらの台詞だろう?」
 こちらにはマリーベルという人質がいるのを忘れるな、と続けたアシュレイに、アレクシスは眉をつり上げた。
 若い娘の恋心を利用して騙した上に、その娘を人質にするなんて、どこまで卑劣な男なのかと反吐が出そうだ。もし、人質の存在がなければ、アレクシスはアシュレイに剣を向けていただろう。
「貴様っ!……」
 怒りを露わにするアレクシスに、アシュレイは「剣を捨てろ」と低い声で命じた。
「――剣を捨てろ。後ろの奴らも皆、武器を捨てるんだ。僕の言うとおりにしないと、マリーベルがどうなるか……言わなくても、わかるだろうね?」
 そう言いながらアシュレイは、それが言葉だけの脅しではないのだと証明するかのように、マリーベルの喉元に短刀の切っ先をあてた。
 刺す寸前で止まった短刀の切っ先は、薄皮をわずかに切り裂いて、そこからジワリッと赤い血がにじむ。
「ん―!ん―!」
 迫り来る死の恐怖に怯えて、マリーベルはうめいた。
 やめてと叫びたいのだが、猿ぐつわのせいで声が出ない。
 バタバタと暴れるマリーベルに、アシュレイはわずらわしそうに顔を歪めると、少女の耳にそっと唇を寄せて、口調だけは優しくささやいた。
「そんな風に暴れると、喉に刃が刺さってしまうよ。マリーベル」
「……っ!」
 その脅迫に、マリーベルは声にならない悲鳴を上げて、暴れるのを止めた。
 ――殺される。
 恐怖でガタガタと震える少女とは対照的に、アシュレイは口角を上げると、短刀を手にしているのとは逆の手で、マリーベルの蜂蜜色の髪を撫でた。
 そうして、恋人だった時と同じように、彼は優しい声で彼女に言った。
「良い子だね。マリーベル……早く死にたくなければ、大人しくしているんだよ。君を殺すことなんて、僕には簡単なんだから」
 アシュレイの残酷な言葉に、エドガーが蒼白な顔で叫んだ。
「やめろ!やめてくれ!武器は捨てるから、妹には手を出さないでくれ!お願いだ!」
 恥も外聞も誇りも、全てをかなぐり捨てて、エドガーは必死に懇願した。
 ――君を殺すことなんて、僕には簡単なんだから。
 アシュレイの態度を見ていれば、その言葉が本気だというのは、すぐにわかる。
 この金髪碧眼の虫も殺さぬような優しげな容姿の青年が、ひどく残忍な性質であることは、今や疑いようもなかった。人質としての価値がなければ、この男は何の迷いもなく、妹を殺めることだろう――そう思うと、エドガーは武器を持つことなど出来なかった。
 恐怖に震える妹の顔が、視界の端に映る。
 見捨てることなど……出来るはずもない。
「……くっ」
エドガーは悲痛な顔で唇を噛むと、後ろを向いて、マリーベルを助けるために集まってくれた村人たちに呼びかけた。
 こんな卑劣な脅迫になど、決して屈したくはない。だが、武器を捨てなければ、妹の命の保障はないのだ。
「みんな……」
 そんなエドガーの呼びかけに、カノッサの村人たちは迷うように顔を見合わせて、結局は嘆息しながら、手にしていた農具のクワや棍棒を――武器を地面に捨てた。
 村長の娘であるマリーベルを助けるべく集まった、薬師の村の人々。
 危険を知りつつ集まった勇敢な彼らであっても、助けるべきマリーベルの命を盾にされては、為すすべもなかったのである。
「みんな……すまない」
 そう謝るエドガーの声は震えていた。
「脅迫か。卑怯な真似を……」
 大事な者を人質にして脅すという敵の卑劣さに、アレクシスはギリッと歯軋りしたが、どうにもならない。いかなる場合であろうとも、剣を手放すというのは、騎士にとって最大の屈辱だ。
 それは、騎士の誇りを捨てるに等しい。だが――
「……アレクシス」
 シアにそう名を呼ばれて、アレクシスはハァと息を吐いて、「……わかっている」と言って剣を手放す。
 アシュレイの命令に逆らうのは容易だが、それは人質の――マリーベルの死を意味するのだ。
「そう。それでいい」
 苦渋の決断で、武器を捨てた村人と騎士に向かって、アシュレイはそう言う。
 そんなアシュレイを漆黒の瞳で睨みつけながら、アレクシスは低い声で問いかける。
「お前は何者だ?何のために、こんなことを……」
 お前は何者だ?――と、未だアシュレイの正体を知らないアレクシスは、そう尋ねた。
 この金髪碧眼の優男が、ただの善良な村人でないことはわかる。だが、この男が何者なのかまでは、彼にわかるはずもない。
 青薔薇の首領というアシュレイの正体を知っているマリーベルは、もごもごと真実を告げようと口を動かしたが、猿ぐつわのせいで声は届かない。
 そうして、犯罪組織・青薔薇の首領である男は、何も知らぬ騎士の問いかけに、優雅な笑みすら浮かべて名乗った。
「ああ。マリーベルに名乗ってしまったから、もう隠す意味はないな。そんなに知りたければ、教えてあげるよ。アシュレイ……アシュレイ=ロア=イクスだ」
 アシュレイの言葉に、アレクシスは驚いて目を見開く。
 (……アシュレイ=ロア=イクスだと?)
 “ロア”は貴族のみが名乗ることを許されたものだ。
 そして、貴族の中でイクスを名乗る一族は、イクス公爵家――あのイクスの反乱で、王家に反旗を翻した一族のみだ。
 半信半疑ながら、アレクシスはさらに問う。
「イクス……まさか、イクス公爵家の者か?」
「そうさ。それとも、今はこっちの方が知られているかな……」
 アシュレイはうなずくと、クスッと笑って言葉を続ける。
「――あの青薔薇の首領という方が」
 アレクシスは「……っ!」と息を呑んで、青薔薇の首領と名乗った青年――アシュレイ=ロア=イクスを見つめる。
 この虫も殺せぬように見える優男が、あの残虐非道と名高い犯罪組織・青薔薇の首領だとは、彼にはとても信じられなかった。
「青薔薇の……首領?アンタが?嘘でしょ!」
 それは、シアも同じ思いだったようで、信じられないというように叫んだ。
 祖父のエドワードの口から、犯罪組織・青薔薇とイクスの反乱の首謀者であるイクス公爵家は、繋がりがあるかもしれないという噂を聞いてはいたものの、まさかソレが自分と関わってくるなんて!
「青薔薇?あの優男が?まさか……」
 マリーベルを助けにきた村人の一人がそう言うと、他の村人たちもザワザワと騒ぎだした。
「イクスの反乱?あの王家に刃を向けた一族か?」
「信じられん。まさか、こんな田舎の村に……」
 信じられないという声にも、アシュレイは涼しい顔で、肩をすくめるだけだ。
「別に信じられなければ、信じなくても良いさ。ただ青薔薇を率いているのは僕だ」
 犯罪組織の首領であることを、誇るべきことであるように堂々と言うアシュレイに、アレクシスは理解できないと眉を寄せた。
 なぜ恥ずべき罪人でありながら、この男はこんなに堂々と、尊大に振る舞うのだろう?と。まるで、自分の行動は正しいのだと、盲信しているかのようだ。
 アレクシスの唇から、「なぜだ……?」という疑問の声が、思わずこぼれ出る。
 ――なぜだ?
 なぜという思いに突き動かされて、アレクシスはアシュレイに問う。
「なぜだ?青薔薇……いや、アシュレイ=ロア=イクスよ。いくら王家に反旗を翻したとはいえど、イクス公爵家といえば、アルゼンタール建国以来の名門だったはずだ……それが、なぜ犯罪組織の首領にまで堕ちた?」
 アレクシスの率直かつ容赦のない問いに、アシュレイは少し気分を害したようで、その端正な顔を歪めた。
「誰だ?君は」
 その青い瞳には、はっきりとした侮蔑の色が宿っていたが、アレクシスは視線を逸らさず「なぜだ?アシュレイ=ロア=イクス?」と同じ言葉を繰り返す。それは何も、真実を知りたいがためだけではない。
 その時、アレクシスを動かしていたのは怒りにも似た感情だ。
 別に正義感を振りかざすつもりも、聖人君子を気取るつもりもない。
 反逆者の一族であるアシュレイが、犯罪に手を染めたのも、それなりの理由があってのことだろうとは思う。だが、それでもアレクシスは人を騙し蔑み傷つけるアシュレイの行為を、許すことなど出来ない。
 ――貴族とは民を守り、民を導き、民に敬愛される者でなければならない。
 幼い頃から、今は亡き父にそう言われ続けたアレクシスの口から、なぜ?という言葉が出るのは当然のことだった。
 なぜ?と問いかけられたアシュレイはハッと冷ややかに笑って、
「なぜ……だって?君も反逆者と呼ばれる一族に生まれてみれば、僕の気持ちも理解できるだろう。生まれた時から罪人の印を背負っていたようなものさ。光のあたる場所で、生きることなど出来ない……大体、君に貴族の何がわかるんだ?」
と、問い返した。
「……俺も貴族だ」
 馬鹿にするかのようなアシュレイの問いにも、アレクシスは激することもなしに、静かに答える。
 たとえ没落貴族よ、と陰口と叩かれていたとしても、ハイライン伯爵家は歴とした貴族である。周りから何と言われようとも、伯爵家の嫡子である彼は、それを恥じる気はない。
 自分も同じ貴族だという返事に、アシュレイは「……へぇ」と声をあげると、青い瞳でアレクシスを見つめる。
 まるで値踏みするような嫌な視線に、アレクシスは眉をひそめた。
「へぇ。君も貴族なのか……」
 アシュレイはそう言うと、ふふっと柔らかな微笑を浮かべて、アレクシスに向かって手を差し伸べた。
 そうして、今までの態度が全て嘘だったかのように、アシュレイは優しげな声で言う。
「――君も貴族だというなら、僕らの側……青薔薇の方につかないか?」
 村人たちを裏切って、僕らの側につかないか?
 その信じられない言葉に、さすがのアレクシスも顔色を変えて、声を上げた。
「なっ!……馬鹿なことを……」
 あんまりといえばあんまりな言葉に、後ろにいたシアも赤い顔で、ふざけるなと怒ったように叫んだ。
「ふざけるんじゃないわよっ!貴族だか青薔薇だか知んないけど、そんな馬鹿げた誘いに乗るわけないでしょーがっ!」
 シアの声は無視して、アシュレイは更に言葉を続ける。
 聞く必要はないと思いつつ、アレクシスは耳をふさぐことが出来なかった。
「君も貴族だというなら、わかるだろう?貴族はかつての力を失って、その富を巻き上げた成金たちが、悠々と暮らしている。それとは反対に、金に困って実の娘すら道具にする貴族に、爵位すら売り払う貴族……おかしいとは思わないか?百年も前なら、考えられなかったことだ。この国が悪いと、そうは思わないか?」
「下らん」
 アシュレイの勝手な言い分を、アレクシスは下らないと一言で切り捨てる。自分たちの境遇を、全て国のせいにするなど、ただの逆恨みだ。
「青薔薇の目的は、復讐だ。貴族を虐げて、平民を選んだ。この国への」
 しかし、そんなアレクシスの反応にも構わず、アシュレイ――青薔薇の首領である男は、熱っぽく語り続ける。
 その青い瞳に宿る、狂気じみた光に、アレクシスはゾクッと鳥肌が立つのを感じた。
「……」
「あのイクスの反乱の首謀者だった僕の祖父や叔父や処刑されて、父や母や姉は絶望と汚濁の中で死んだ……許せるか?許せないだろう?なぜ僕らが、そんな目に合わなきゃならない?」
「……」
「君も貴族ならば、僕らの側につくべきだ。さぁ……」
 アレクシスは黙って、アシュレイの言葉を聞いていた。
 決して共感は出来ない。だが、言いたいことは理解できる。
 もしも時代が変わらなければ、それは没落貴族と呼ばれる者たちなら、きっと一度は考えるだろう。
 もしも貴族が華やかだった時代に生まれていたならば、アレクシスはもっと貴族らしく騎士らしく、生きることが出来たのかもしれない。没落貴族と笑われずとも、貧しさゆえに婚約者のシルヴィアを失うこともなかったかもしれない。だが――
「アレクシス……」
 その呼びかけに振り返ると、不安そうな顔をした銀髪の少女と目が合った。
 行かないでと、遠慮がちに、彼の上着を掴んだ小さなシアの手。
 曇りのない青い瞳に宿っているのは、ほんの少しの不安と信頼だ――。
 それを裏切ることなど、彼には出来ない。
「……ああ。大丈夫だ」
 アレクシスはうなずくと、毅然とした態度で、アシュレイの方に向き直った。
「――お断りだ。悪党と手を組むなど、騎士の信義に反する」
 アレクシスのきっぱりした返事に、アシュレイは機嫌を損ねた風でもなく、呆れたように肩をすくめた。
「つまらない答えだな。騎士道など、廃れて久しいものだろうに」
「……黙れ。無駄話はもういい。人質から手を離すんだ」
 アレクシスはそう言って、未だマリーベルの首筋に短刀を突きつけたままのアシュレイを、睨みつける。
 今まで話している間もずっと、首筋に短刀をあてられたままだったマリーベルは、恐怖と疲労からかグッタリとしていた。
 焦げ茶の瞳が、苦しそうに伏せられている。
 兄のエドガーは拳を握りしめて、「マリーベル……」と辛そうにうめいた。
「――アシュレイ様っ!」
 その時だった。
 遠くから馬の駆ける音と、もうもうとした土煙……そして、アシュレイの名を呼ぶ男の声がしたのは。
「やれやれ……やっと迎えに来たか。遅かったな」
 アシュレイは声の方角を見ると、それを待っていたかのように、落ち着いた声で言った。
 そうして、アシュレイはクスッと場違いな微笑を浮かべて、アレクシスと村人たちの方を向いて、堂々とした口調で言う。
「部下が迎えに来たようだから、今日はこの辺で許してあげるよ。だけど、次は無事にはすまさない……覚えておけ」
 綺麗な顔で、優しげな声で、アシュレイは凄みのある脅し文句を吐く。と、同時にアシュレイは抱えていた人質から――マリーベルから手を離し、ドンッ!と勢い良く突き飛ばした。
「危ないっ!」
 目を見開いて、シアが焦った声を上げる。
 マリーベルの小柄な体が宙に投げ出され、地面にぶつかる瞬間、アレクシスが手を伸ばして、その体を受け止めた。
「マリーベルぅ!無事か?」
 兄のエドガーはそう叫びながら、ようやく取り戻した妹に駆け寄った。
 助けに来た村人たちも、色々あっても人質だったマリーベルが無事だったことに安堵して、エドガーの後に続いた。
「怪我はないか?」
 アレクシスはそう声をかけると、マリーベルの口にされた猿ぐつわと両手を縛っていた縄を外してやる。へなへなと脱力したように、座りこんだマリーベルの体を、兄のエドガーが支えた。
「マリーベル!無事か?刺されたりしてないな?」
 兄の問いかけに、マリーベルは潤んだ瞳でエドガーを見ると「兄さん……っ!」とすがりついた。
「エドガー兄さんっ!ごめんなさい!ごめんなさい!私が馬鹿だったせいで、大事な『賢者の書』が……」
 泣きながら、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝罪を繰り返すマリーベルを責めず、エドガーはただそっと妹の頭を撫でた。
 妹の犯した罪は軽くない。
 村長の娘であっても、否、村長の娘であるからこそ、カノッサの宝である『賢者の書』を失った責任は重い。それは、妹が罪を犯すことを、止められなかったエドガーも同罪だ。だけど、今は――
「……お前が無事で良かったよ。マリーベル」
 妹が無事で良かったと、ただそう思った。
「シア」
 マリーベルを兄と村人たちに任せて、アレクシスはシアの方へと歩み寄った。
 もう全てが終わっているが、そろそろ警備隊が到着する頃だろう。そうすれば、彼のすることは何もない。
「アレクシス……アシュレイは?」
 シアの問いかけに、アレクシスは無念そうに首を横に振った。
「残念だが、逃げられた。味方が助けに来るとは……迂闊だったな。馬で逃げられては追いつけない」
「……そう。仕方ないね」
 シアも苦い顔で、うなずいた。
 アシュレイに逃げられたのは、人質を取られたあの状況では、仕方のないことで、アレクシスの責任ではない。あの状況では、人質を無事に助けられたことだけでも、良しとしなければならないだろう。
 アシュレイの部下らしい連中が助けに来なければ、マリーベルを助けたうえで、アシュレイを捕まえられたかもしれないが、今更それを言ってもしょうがないことだ。
 今になって思えば、アシュレイがやたらと饒舌に喋っていたのも、おそらく仲間が助けに来るまでの時間稼ぎのつもりだったのだろう。
「悔しいが……もう俺たちに出来ることは何もないな。後は警備隊が、青薔薇を逮捕してくれるのを祈るばかりだ」
「……うん」
 アレクシスの言葉に、シアは歯切れ悪そうに同意する。
 普段の元気さが嘘のように、うつむいたシアの表情は暗い。
 ――気になることがあった。
 シアの浮かない表情に、アレクシスは首をかしげて、心配そうに尋ねた。
「シア?具合でも悪いのか?」
 心配そうに声をかけてくるアレクシスに、悪いとは思いつつも、シアは「別に……何でもない」とそっけない態度で首を横に振る。
「それなら良いが……」
「大丈夫。心配かけて、ごめん」
 言葉では大丈夫だと言いつつも、シアの心は晴れなかった。
 ――あのアシュレイとかいう貴族の男が、言っていたことは、真実なのだろうか?
 かつて、平民が己を虐げる貴族たちを憎んでいたように、没落した貴族たちは己の権利を奪った平民を憎んでいるのだと。
 祖父のエドワードのことで、シアはずっと貴族のことを恨んでいた。他にも、貴族を嫌う理由があったような気もするが、思い出せない。
 とにかくシアは傲慢な貴族が嫌いで、ずっと憎んでいた。……かつての栄華を失って、没落した貴族の気持ちなど、考えたこともなかった。
 だけど、アレクシスは?アレクシスはどうだったのだろう?シアのことを――
「……何でもないよ」
 もう一度、シアは同じ言葉を繰り返す。
 その言葉には、力がなかった。
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