女王の商人

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  賢者と商人4−12  

「……はぁ」
 青薔薇の首領――アシュレイが部下と共に逃げ去った後で、再び村長の家に戻ってきたシアは、疲れた顔で「はぁぁ……」とため息をつく。
 ――青薔薇たちの手による被害は、予想以上に甚大だった。
 シアと村人たちが、人質となっていたマリーベルを助けてからしばらく後に、ようやく近隣の街から警備隊がやって来たのだが、それからがまた大変だったのだ。
 アシュレイたちは逃亡する際に、警備隊に調べられないようにか、自分たちが隠れ家としていた廃屋に何と火をつけていったのだ。幸いなことに、警備隊と村人たちの手で火はすぐに消し止められたが、その隙にアシュレイたちは遠くに逃亡したらしい。
 警備隊は必死に追ったが、結局、逃げたアシュレイたちを捕まえることは出来ず、奴らに奪われた『賢者の書』も戻ってこなかった――
「……くっ」
 『賢者の書』は、シアの目の前で奪われた。
 賢者エセルバートが遺した薬師の村の宝が、女王陛下が望んだそれが、あの青薔薇とかいう悪党たちの手によって!
 それは、女王の商人として屈辱だった。
 シアは眉をひそめて、悔しさをこらえるように、唇を噛みしめる。……許せない。絶対に許せなかった。あのアシュレイとかいう男の卑劣さを思うと、シアは腸が煮えくりかえる気がする。
 マリーベルの恋心を利用して、薬師の村の宝である『賢者の書』を盗み出した手口も、自分の部下を捨て石のように扱う冷徹さも、何もかも彼女の思想とは相容れないものだ。
 アシュレイ=ロア=イクス――美しい容姿と貴族らしい優雅な物腰の裏に、どろどろとした狂気を隠した青年。
 マリーベルの首筋に短刀を突きつけながら、青薔薇の首領である男は、冷ややかな笑みを浮かべて言った。
 己と同じ貴族でありながら、村人たちに味方するアレクシスのことを、嘲笑うように。
『青薔薇の目的は、復讐だ。貴族を虐げて、平民を選んだ。この国への』
『あのイクスの反乱の首謀者だった僕の祖父や叔父や処刑されて、父や母や姉は絶望と汚濁の中で死んだ……許せるか?許せないだろう?なぜ僕らが、そんな目に合わなきゃならない?』
『君も貴族ならば、僕らの側につくべきだ。さぁ……』
 それは、あまりにも傲慢で、身勝手な主張だった。だが、シアはそれに憤りはしても、その全てを否定することは出来なかったのである。
 憎しみが何も生み出さないと知りながらも、祖父・エドワードのことで貴族を嫌い憎んできた彼女が、今さら偉そうに、アシュレイを否定できるはずもない。
 ただ貴族だというだけで、アレクシス自身には何の非もないと知っていても、それでもシアは――
「シア」
 背中から声をかけられたことで、物思いに沈んでいたシアは、のろのろと顔をあげ振り返った。
「アレクシス……マリーベルさんは?怪我の方は大丈夫なの?」
 騎士の顔を見ると、シアは気になっていたことを尋ねる。
 あれからマリーベルがどうなったのか、シアは心配だった。
 信じていた恋人・アシュレイに裏切られて、人質にまでされてしまった少女は、心も体も傷ついていることだろう。
 もちろん体の傷も心配ではあったが、それよりも心の傷の方が心配だった。体の傷はいつか癒えても、心の傷は簡単には癒えないものだから。
 シアの問いにアレクシスは「ああ」とうなずいて、
「ああ。マリーベルさんなら、あっちの部屋で治療を受けている。幸いなことに、首の怪我の方は大したことはないらしい。だが、心の傷の方は……時が癒してくれるのを、待つしかないだろう」
と、いささか沈痛な面持ちで言った。
 賢者の書を奪った青薔薇――アシュレイのことを捕まえられなかったことに、アレクシスは責任と無念さを感じているようだ。
 漆黒の瞳には、憂いの色がある。
 貴族であるということに、揺るぎない誇りと責任感を持つ彼だからこそ、今回の結末にやりきれないものを感じるのだろう。
 アシュレイとアレクシスのでは、その立場も生き方も考え方も、全てが異なる。だが、同じ貴族だ。
 それに、時代の流れから取り残されようとしているのは、どちらも同じ。
 貴族の権力が失われようとしているように、今の時代には騎士の居場所など、何処にもありはしないのだ――そういう意味では、アシュレイもアレクシスも同じ立場だった。
 マリーベルの心の傷は、時が癒してくれるのを待つしかない、というアレクシスの言葉に、シアは「……そうだね」と何処かすっきりしない顔で、うなずいた。
「……そうだね。まぁ色々あったけど、マリーベルさんが無事で良かった。これから大変だろうけど、エドガーさんがいるから、きっと大丈夫だよ」
 結局、賢者の書は奪われたし、青薔薇には逃げられた。
 問題は山積みだが、自分を納得させるように、シアは言う。
 マリーベルとは知り合ったばかりで、別に友人というわけでもないが、それでも彼女の立場を思えば同情してしまう。
 『賢者の書』をアシュレイの手に渡してしまったマリーベルの責任は、決して軽くはないだろうが、それでも彼女の心の傷が早く癒えてほしいとシアは思った。
「大丈夫だろう。マリーベルさんには、心配してくれる兄と、助けてくれる村の人たちがいる。彼女が連れ去られた時、危険を承知で助けに来てくれた人たちが、たくさん居たんだ……だから、きっと立ち直れる」
 マリーベルさんには心配し、支えてくれる人がいる。だから心配するな、とアレクシスは言った。
 人は一人では立ち上がれなくても、心から心配して支えてくれる人がいれば、きっと立ち上がれる。
 甘い考えかもしれないが、彼はそう信じていた。
「……うん」
 先ほどと変わらず、どこか重い気分のままで、シアはうなずいた。
 アレクシスの言葉は正しいと思うのに、なぜか彼女の気分は晴れない。まるで、胸の奥底に鉛が沈んでいるかのように。
 ――アシュレイの言葉が、貴族を賛美し、平民を蔑むようなそれが、その原因なのだろうか?
 不快なはずのそれが、どうしても……どうしても耳から離れない。
『青薔薇の目的は、復讐だ。貴族を虐げて、平民を選んだ。この国への』
『あのイクスの反乱の首謀者だった僕の祖父や叔父や処刑されて、父や母や姉は絶望と汚濁の中で死んだ……許せるか?許せないだろう?なぜ僕らが、そんな目に合わなきゃならない?』
『君も貴族ならば、僕らの側につくべきだ。さぁ……』
 忘れよう。忘れなきゃ。忘れるんだ!
 シアだって、頭ではよく理解している。
 あんな悪党の言葉に、本気で耳を貸す必要などないのだと。
 アシュレイのあれは、部下が助けに来るまでの時間稼ぎで、本気にするなど馬鹿げているということも。
 全てが茶番だと、わかってはいるのに、シアの表情は暗い。
 青薔薇のこと貴族のこと、アシュレイのこと賢者の書のこと、様々な感情が混じり合って、シアの気持ちはもうグチャグチャだった。全ての貴族がああだとは思わないし、疑うのも悪いことだと、頭ではわかっている。だけど、もしアシュレイの言葉の中に、ひとかけらの真実が含まれているのだとしたら……
「……アレクシス」
 ――これを口にしたら、絶対に後悔する。
 そう確信しているにも関わらず、シアの唇は動いて、彼の名を呼んだ。
「何だ?シア」
「さっきの青薔薇……アシュレイの言葉があったよね。あれが貴族の本音なの?アレクシス」
「……?意味がわからないな」
 シアの言動が不可解だとばかりに、アレクシスは眉をひそめた。
 意味がわからないというのは、彼の偽りのない本音だろう。
「アレクシスも……」
 ――この先を言ったら、今までの関係は壊れるだろう。
 それを頭では理解していたのに、シアの唇は彼女の意志を無視したように、取り返しのつかない言葉を吐いた。
 絶対に後悔すると、言う前からわかっていたのに。
「――アレクシスも、本当はあたしたちみたいな平民のことを、対等だとは思っていないの?」
 その言葉は、諸刃の剣だ。
 相手のみならず、口にした本人すらも傷つける。
 もし百年前ならば、貴族のアレクシスと平民のシアの間には、はっきりとした身分の壁があったはずだ。その壁は見えない。だが、決して越えることも出来ない。そんな壁だった。
 貴族は貴族というだけで、何不自由なく生きれた時代――アレクシスも、あのアシュレイと同じように、そんな時代に生まれたかったというのだろうか?
「……俺は、お前の目にはそんな風に映るのか?シア。あのアシュレイとかいう輩と、同じ存在に見えるのか?」
 シアの言葉に、アレクシスはしばらく沈黙した後で、押し殺したような声で言った。
 声こそ静かだったが、その漆黒の瞳には、怒りの炎が宿っている。
 アレクシスは、わりと温厚で寛容な性格の持ち主であるが、それでも譲れない一線というものはある。
 王剣ハイライン。
 貴族であることと騎士であることは、たとえ人に何と言われようと、彼の誇りである。だから、それを否定されることだけは、アレクシスは絶対に許せない――たとえ誰であっても。
「だって……」
 アレクシスの視線に怯みながらも、感情のままにシアは叫ぶ。
「だって、さっき言っていたじゃないっ!同じ貴族だって!貴族の誇りだか何だか知らないけど、貴族がそんなに偉いわけぇ?……あたしが間違ってるなら、否定してよ!」
 ――ここまでくると、ほとんど八つ当たりのようなものだ。
 シアだって理不尽だとは思う。アレクシスには何の咎もないのに、グチャグチャな感情のままに、言葉をぶつけている。
(……ひどい。これじゃ子供が駄々をこねてるみたいだ)
 自分の言動に恥ずかしさを感じて、シアはうつむいた。
 違う。本当は、こんなことを言いたいわけじゃない。本当は……本当は……
「……そうかもしれないな」
 そんなアレクシスの返事に、シアは耳を疑った。
 怒鳴られると、怒られると、覚悟していた。だけど、返ってきたのは静かな声で、彼女は恐る恐る伏せていた顔を上げる。
 目が合ったアレクシスは、疲れたような諦めたような、何とも言えない表情をしていた。
 そして、アレクシスは怒りを通り越したのか、静かな声で続けた。
「シアの言う通りかもしれないな。今の時代で、貴族の誇りなんて、何の役にも立たん……アシュレイの言葉に、絶対に共感はできないが、貴族の一部がああいう歪んだ思想に走るのは、わからんでもない」
「……」
 まるで独白のようなアレクシスの言葉を、シアは黙って聞いていた。
 口を挟むことなど出来なかったし、しようとも思わなかった。
「本当は、俺もわかっている。今、この国に必要なのは、貴族や騎士なんかじゃない。シアやクラフト殿のような商人こそが、この国を支えているってことは」
 アレクシスは、自嘲するように言った。
 もし貴族が居なくても、たとえ騎士が剣を持たずとも、国王と民がいれば国は何も困りはしない。そんなことは、ずっと前から知っていた。ただ、認めたくなかっただけだ。
「違っ!……そんなんじゃ……ごめん!」
 シアは慌てて、首を横に振った。
(そんな……そんなつもりじゃなかったのに……)
 わかっている。
 自分勝手だ。
 シアの言葉が、アレクシスを傷つけた。ひどい言葉で、傷つけた。
 傷ついた表情を見るのは、怒鳴られるより、無視されるより辛かった。
「良いんだ。謝らなくて良い。ただ一つだけ言わせてくれ……」
 怒るでもなく、悲しむでもなく、アレクシスは穏やかに言う。
 それがシアには、身を引き裂かれるように辛かった。
「――俺たち貴族から誇りを取ったら、何が残るというんだ?」
 そのアレクシスの言葉で、シアは己の過ちを悟った。
(あたしは馬鹿だ……貴族だからっていうだけで、アレクシスのことを嫌って、自分の痛みしか考えてなかった……)
 遅すぎた。だが、ようやく気がついたのだ。
 今まで、ずっと自分の痛みだけしか見てこなかったことに。
 相手の痛みを、見ようともしなかった自分に。アレクシスはいつだって、シアを助けてくれたのに。
 ……馬鹿だ。馬鹿だ!馬鹿すぎる!
 シアは穴があったら、入りたい気分にかられた。銀貨の商人になった時から、自分としては一人前のつもりでいた。爺さんや父さんの言うことを、理解しているつもりだった。だけど、違った。実際は、こんな単純なことすらわからないほどに、自分は幼かったのだ。
「アレクシス……ごめんなさい。謝っても許してもらえないだろうけど、ごめんなさい」
「謝るな。シアは間違っていない」
 アレクシスはそう言って、首を横に振る。
 それが拒絶なのだとわからないほど、シアは愚かではなかった。


 その頃、王都ベルカルンにあるハイライン伯爵家の別邸では――

「若様。もう、そろそろ帰って来られる予定なのに、遅いですね……」
 アレクシスの従僕――セドリックは、時計をチラッと見て、そう呟いた。
 別に深窓のご令嬢でもあるまいし、帰りが遅くなったところで、心配というほどではないのだが、いささか珍しいことではある。
 彼の主人であるアレクシスは、律儀な人だ。
 たとえ使用人が相手であっても、約束は出来る限り守ろうとするし、セドリックが知る限り、誰が相手であってもワザと約束を破ったことは一度もない。少々、堅苦しすぎる気もするが、セドリックはそんな若き主人を心から敬愛していた。
 堅苦しくて、何がいけない?
 軽薄な輩よりも、よほど好感が持てるではないか。
 従僕の欲目かもしれないが、彼はそう思って生きてきたし、これからも変えるつもりはない。
「あの商人の小娘のことは気に入りませんが、若様に言わせると、商人としての技量はあるそうですから……仕事が順調なら、そろそろ帰られる時刻ですね」
 商人の小娘――と、シアのことを呼ぶ時、セドリックの顔は苦くなる。
 あのじゃじゃ馬な小娘と思いながらも、屋敷に来れば紅茶の一杯も出すのは、若様が(セドリックからすると信じ難いが)あの商人の小娘のことを、それなりに気に入っているからだ。
 女性の容色をあれこれ言うのはどうかと思うが、たしかに商人の小娘――シアとやらは、見た目は美しい。
 サラサラとした銀髪も、清楚ながら華のある顔立ちも、文句のつけようもない。あと何年かすれば、かなりの美女になるだろう……しかし、あの気の強さはいただけない。
 見た目を差し引いたとしても、おつりがくるくらいだ。だが、信じられないことに、若様は小娘のことを嫌ってはいないらしい。
 むしろ、真っ直ぐで嘘のない性格だと、若様は評価しているようなのだ。セドリックには、とても信じられない。
「……ん?馬車の音か」
 その時、門の方角から馬車の音がした。
 セドリックは主が帰ってきたのだと思って、アレクシスを出迎えるために、外に出る。
「お帰りなさいませ。若……」
 外に出たセドリックはそう言いかけ、そこに立つ人の姿を見た瞬間、驚きのあまり立ち尽くした。
 口をあんぐりとあけ、目を丸くした姿は間抜けだが、仕方ない。つまり、そこに居たのが、セドリックの目から見て――意外な人物だったからである。
「……久しぶりですね。セドリック。息災でしたか?」
 そうセドリックに声をかけながら、馬車から降りてきたのは、四十歳くらいの貴婦人だった。
 淡い金髪と灰色の瞳。
 女性にしては高い身長と、美しく凛として品のある顔立ち。
 その立ち居振る舞いには、わずかな隙もないように見える。
 顔立ちは余り似ていないが、その身にまとう雰囲気は、性別こそ違えど誰かによく似ていた。
 セドリックの方に歩み寄ってくる女性の腕には、白銀の毛並みの猫が抱かれている。その猫の名を、パールといった。
「お、お……」
 その女性のことを、セドリックはよく知っていた。
「奥方様――――――っ!」
 いきなりの訪問に驚いたセドリックが、そう叫んだ。
 そう、この貴婦人の名はルイーズといって、先代・ハイライン伯爵の未亡人であり、アレクシスの母である。
 セドリックの叫びに驚いてか、母――ルイーズの腕の中に抱かれた白銀の毛並みの猫が、「にゃあ」と鳴いた。

 そうして、さまざま問題を残しつつも、『賢者の書』を巡る騒動が終わりを告げたのと同時に、再び新たな騒動が幕を開けようとしていたのである。
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