女王の商人

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  賢者と商人4−4  

 父や母の口癖は、いつも決まっていた。
『王剣ハイラインの名に、相応しい者であれ。お前は聖剣オルバートの継承者なのだから』
 重々しい声で、ただ一人の息子であるアレクシスに、騎士としての心構えを説く父。
 はい、父上と、アレクシスが約束すると、父は「それでこそハイライン伯爵家の後継ぎだと」満足そうにうなずいた。彼の父――カーティスは厳格な性格で、実の息子であっても、甘やかされた記憶は殆どない。武人らしい不器用な気質で、実直な父であった。
 しかし、真に誇り高い人であり、息子であるアレクシスが一人前の騎士になれるように、いつも心を砕いてくれていた。
 そんな父のことを、息子としても剣の弟子としても、アレクシスは父が亡き今も誇りに思っている。
 最後の騎士と称された父は、騎士と騎士道の衰退を嘆きながら、五十にもならぬ若さで逝った。
 成長したアレクシスに、最後の願いを託して。
『そうですよ。アレクシス……伯爵家の嫡子として、真の誇りを持つ貴族でありなさい。いついかなる時でも、貴族の誇りを忘れてはなりません。名誉ある家名を貶めることがないように』
 そう語る父の横には、いつも母がいた。
 伯爵家の奥方である母――ルイーズは子供の目から見ても美しくて、何よりも貴族としての誇りを重んじる人だった。
 真の誇りとは傲慢さではない。領地の民を思いやり、貧しい者や困っている者を助けて、民の手本であるのが貴族なのだというのが、母の口癖だった。
 誇りを失ってはなりませんよ、と母は言い続けた。
 ――騎士として、貴族として誇りを忘れるなかれ。
 五十年ほど前から、新しい時代の流れと共に、多くの貴族が力を失い没落していった。
 権力を失うことを恐れて、身売り同然に娘を嫁がせる者もいた。あるいは没落する家に耐えかねて、富を欲する余り、犯罪に手を染めた子爵もいた。貴族と平民が対等となるのを良しとせず、王家への反逆を企てて敗れ、処刑された一族もいたという……。
 そんな時代であっても、父も母も貴族の誇りを捨てようとはしなかった。決して。
 時代遅れの騎士道よ、と周囲から冷やかな視線を向けられようとも、その誇りを愚かだと嘲笑われようとも、父や母は毅然とした態度を貫いた。騎士道を誇りを守り続けた。父は言った――
『――良いか?アレクシスよ、騎士の誇りを失ってはならぬ。たとえ時代が移り変わろうとも、真の誇りが消えることはない。騎士として、国を守れ民を守れ……そして、愛する者を守れ。その誇りはいつでも、お前の心に刻まれている』
 死の間際、病で痩せ衰えた手でアレクシスの手を握りながら、父は「忘れるな」と言った。
 その父の言葉を忘れたことは、一度もない。
 しかし……
「もし、貴族が貴族であることを、誇れない時代がきたら……」
 その時がきたら、自分はどうするべきなのだろうか?

「――若様。奥方さまから、お手紙が届いております」
 その言葉と共に、彼の手元に差し出されたのは、一通の手紙だった。
 毎朝の日課である剣の稽古を終えて、朝食のテーブルについたアレクシスに従僕――セドリックは手紙を渡す。
「手紙?母上からか」
 アレクシスは軽く首をかしげると、セドリックの手から手紙を受け取り、封を切った。
 ――遠い領地にいる母からの手紙。
 流麗な筆致、几帳面な文面、封筒からほのかに香る花の香水はしばらく会っていない母のことを想わせ、アレクシスは懐かしさに唇をほころばせる。
 筆まめで几帳面な性格である母・ルイーズが、息子である彼に手紙を送ってくるのは、そう珍しいことではない。しかし、やはり故郷からの手紙いうのは嬉しいもので、アレクシスは穏やかに微笑みながら、文の内容を追った。
 ――アレクシスが居ない間も、ハイライン伯爵家の者は皆、元気で平穏に過ごしているということ。
 ――彼が可愛がっていた馬が、春に仔馬を産んだということ。
 ――近いうちに王都ベルカルンに、母が訪ねてくるということだった。
 そんな母からの手紙の半分ほどに目を通した彼は、うなづいて顔を上げると、かたわらで朝食を並べるセドリックに声をかけた。
「母上からの手紙によると、皆、息災だそうだ。セドリック」
 従僕として仕えてくれるセドリックの父も、彼の三つ年下の妹もハイライン伯爵家で、それぞれ執事とメイドとして働いてくれている。幼いころからの付き合いで、もはや家族のようなものだ。
 家族を含めて、ハイライン伯爵家の身内には変わりがないようだ。
 そう告げられたセドリックは、安心したように微笑んだ。
「皆様、お変わりないですか。それは何よりでございます」
「ああ……それから、ローサが仔馬を産んだらしい」
 そう語るアレクシスの声は、心なしか弾んでいる。
 騎士であるから当然というべきか、アレクシスは馬に愛情があり、また大事にしていた。
「それはそれは……馬丁のオルガン翁も喜んでいるでしょうね。ローサは賢い馬ですから、きっと良い仔馬でしょう」
「ああ。そうだろうな」
 アレクシスはうなづくと、再び母の手紙に目を落とす。
 領地の様子や屋敷の者たちの近況が、貴婦人らしい流麗な文字で綴られて、最後は息子への言葉で締められていた。生まれ故郷から離れて、遠い王都で暮らす息子を気遣って、体調を崩さないようにという言葉。
 そして、文の末には幼いころからの母の口癖が。
 ――女王陛下の命を、立派に果たすのですよ。
 ――いついかなる時も、誇り高くありなさい。
 ――貴方は王剣ハイラインの騎士なのですから……。
 そんな母の言葉を読み終わったアレクシスは、わずかに表情を曇らせた。母の手紙をそっと机の上に置いて、何か物思いに沈むかのように、漆黒の瞳を伏せる。
 どこか憂いを帯びた視線は、今ではない過去を見ているようだった。
 いきなり表情を変えた主に、セドリックが怪訝な顔をする。
「……若様?」
 その呼びかけに、アレクシスは首を横に振った。
「いや……何でもない。セドリック」
「それなら、よろしいのですが……」
 セドリックに納得した様子はなかったが、主の言葉を否定するわけにもいかない。
「ああ。心配をかけてすまない。セドリック……それより、今日は朝食を取ったら、女王陛下にお会いするので王城に出かける。その支度を頼めるか?」
 王城に行く。
 アレクシスの言葉に、セドリックは眉をひそめて、なんとも言えない嫌そうな顔をした。
 別に主が女王陛下に呼ばれるのは、信頼の証だから喜ばしいと、セドリックだって思っている。ただ、その同僚が問題なのだ。
 あのシア=リーブルとかいう、生意気な小娘がっ!
「……また例の生意気な女商人とですか?若様」
 そう尋ねる従僕の口調には、思いっきりトゲがある。
 セドリックの心中を察して、アレクシスは苦笑した。
 シアとセドリックの関係は、犬猿の仲、不倶戴天の敵、会えば嫌味を言いあうような関係である。
 アレクシスの見たところ、意外と似た者同士な気もするのだが、本人たちはそうは思わないらしい。まだ数回しか会ったことがないというのに、「じゃじゃ馬な小娘っ!」だの「陰険メガネっ!」だのお互いに呼び合うという、奇妙な関係を築いている。
 喧嘩するほど何とやら、とアレクシスは思うのだが、彼ら二人に言うと思いっきり否定されるのが常だった。
 まぁ、セドリックの言い分もわからなくはない。
 執事の息子として、貴族の令嬢やら貴婦人やらを目にしてきた彼にとって、シアのような娘は理解しがたい存在だろう。
 王都一のリーブル商会の跡取り娘として、使用人からお嬢さんとは呼ばれているものの、シアの言動も態度も大事に大事に真綿でくるまれて育った貴族の令嬢たちとは、似ても似つかない。
 結局、彼女は根っからの商人なのだ。
 これから何があったとしても、シアは商人として生きるだろう。アレクシスが、騎士としてしか生きられないように。
「そう言うな。セドリック。シアは悪い娘ではないと思うがな……前にも言ったような気もするが、商人としては優秀だし、あれで存外お人好しなところもある」
「……そうでしょうか?」
 敬愛する若様の言葉だから、否定こそしないものの、セドリックの眉間には皺がよるばかりだ。
 アレクシスは苦笑すると、さりげなく話題を変えた。
「俺はそう思うが。それより、そろそろ王城に行こうと思うんだが……」
 そんな主の言葉に、セドリックはハッと我に返ると、身をひるがえした。
「失礼いたしました。若様。支度をしてまいりますっ!」
「すまないな」
「いいえ、若様のためならば!」
「ああ……ありがとう」
 従僕の背を見送って、アレクシスは机の上の母の手紙を、再び読み返す。
 ――貴方は王剣ハイラインの騎士なのだから
 その言葉はアレクシスにとって誇りであり、守るべきものだった。
 彼は幼いころから、騎士になりたかった。父・カーティスのように、領地の皆から尊敬されて慕われる、立派な騎士に。しかし、剣の師でもあった父が亡くなった日から、アレクシスの心にはトゲが刺さっている――
『王剣ハイラインに……相応しい騎士になるのだぞ……それと、頼む……』
 父の最期の願いが、耳から消えることはない。
 アレクシスと、息子の名を呼びながら、父はすがるように言った。痩せ衰えた枯れ木のような手で、アレクシスの手を握りながら。
 朦朧とした意識で、祈るように言った。
『聖剣を……聖剣オルバートを頼む……聖剣を……』
 あの父の言葉の意味を忘れたことなど、アレクシスは一日としてないのだ。
「……」
 アレクシスは無言で、腰に差した剣を見つめた。
 そうして、自嘲するような苦い声で呟く。
「――王剣ハイラインか。俺は本当は、その名に値しない者なのに」
 どこか悲しい響きを持つ言葉は、誰の耳にも届かなかった。
 
 それから一時間後――
 王城に到着したアレクシスを出迎えたのは、女王陛下付きの女官ルノア=オルゼットだった。
 初老の、いかにも謹厳そうな女官は、アレクシスの姿を目にするなり深々と頭を垂れると、よどみのない声で挨拶する。
「お待ちしておりました。アレクシス=ロア=ハイラインさま。女王陛下は謁見の間でお待ちです」
 そう言うと、いつ見ても凛とした態度を崩そうとしない女官は、「ご案内いたします」と先頭に立って歩きだした。
「お入りなさい」
 扉の内から声が響いて、アレクシスは謁見の間へと足を踏み入れる。
 その部屋の中に居たのは、この部屋の主である女王をのぞけば、先に到着していたらしいシアだけだった。
 彼女はアレクシスの方を向くと、ロゼリアの悪魔公の一件で傷を負った彼の腕を見て、心配そうな顔をする。
 アレクシスの怪我に、彼女なりに責任を感じているらしい。生まれつきの口の悪さと短気さゆえに、傍若無人に見られやすいシアだが、実のところ責任感は強いのだ。
 そんな彼女を安心させるようにうなずくと、アレクシスは謁見の間の絨毯に膝をついて、頭を垂れる。
「――久しぶりね。アレクシス。腕の怪我は、もう治ったの?」
 膝をついたアレクシスの元に、玉座から声が降ってくる。そう涼やかな声で尋ねるのは、玉座の女王陛下――エミーリアだ。
「はっ。腕はすでに完治しております。剣を振るうにも支障はございません」
「そう。良かったわ。ロゼリアの一件では苦労をかけてしまったもの……無理はしないようにね」
 決して無理はしないようにと、忠告するエミーリアのオリーブ色の瞳には、心配そうな色がある。珍しい物に目がなかったり、妙に茶目っけのある御方ではあるが、基本的に部下思いな女王陛下なのだ。そのことに感謝しつつ、アレクシスは首肯した。
「お心遣い感謝いたします。女王陛下。腕の傷も癒えましたので、陛下の命を果たすのにも障りはございません」
 騎士の答えに、エミーリアは安堵したようにうなずくと、「そのことなのだけど……」と話を切り出した。
「そのことなのだけど……今回、貴女たち二人に頼みたいのは、お使いなのよ」
「お使い?ですか?」
 女王の言葉に、シアが首をかしげる。
「ええ。貴女たちはカノッサという村を知っているかしら?薬師の村と呼ばれる場所なのだけれど」
「はい。名前だけは。優れた薬師が大勢いるという……」
 シアの言葉に、エミーリアは「そうよ」とうなずいた。
「そうよ。カノッサは薬師の村であり、我が国きっての名宰相と呼ばれた“賢者エセルバート”の生まれ故郷でもあるの。賢者エセルバートについては貴女たちも知っているでしょう?シア?アレクシス?」
「多少は。書物の知識ですが」
 エミーリアの問いかけに、アレクシスが言葉少なに答える。
 賢者エセルバート。
 アルゼンタールの九代目の王から十代目の王にかけて、親子二代に仕えたという名宰相であり、この国においては偉人として尊敬されている。政治から芸術に至るまで、幅広い分野で才能を発揮した天才宰相。晩年は故郷であるカノッサへと戻り、医学……特に薬草の研究に打ちこんで、薬師の父とも呼ばれたという――
 シアやアレクシスが書物で得た知識を披露すると、女王陛下はうなづいて、話の本題を切り出した。
「そう。それで、シアとアレクシスに頼みたいのは、カノッサ村に行ってある書物を借りてきて欲しいの……これは私の依頼というより、私の師の願いなのだけど。引き受けてもらえるかしら?」
 王女時代のエミーリアの教師――現在は、王立アカデミーの学園長を勤める人物が、薬学の研究のためにどうしても、その書物を欲しているのだと女王は説明した。しかし、いかんせん貴重なものなので、そう簡単にはいかず諦めかけたのだという。
 それを聞いたエミーリアが、助け舟を出した――というのが事の成り行きらしい。
「ある書物というのは、何なのですか?女王陛下」
 事情を理解したシアが問う。
「ええ。何でも、賢者エセルバートが薬草について記した書だそうよ。そう……」
 エミーリアは言葉を切ると、その書物の名を告げた。
「――賢者の書。そう呼ばれているものだそうよ」
 どうか、私の代りにカノッサ村に行って、その書――賢者の書を借りてきてくれないか。商人としての本来の仕事ではないだろうけど、と少し遠慮がちに言ったエミーリアに、シアは首を横に振る。
「いいえっ!お客さまの依頼があれば、どんな場所に行っても商品を手に入れてくるのが、商人の役目ですから!この依頼、お引受けいたします。女王陛下」
 お任せ下さい、と胸を叩いて断言するシアに、女王もホッとしたように微笑む。そして、アレクシスの方を向いた。
「アレクシスも引き受けてくれるかしら?」
 女王の言葉に、騎士が逆らうはずもない。
 アレクシスは深く頭を垂れると、「はっ!」とよどみのない言葉で答えた。
「――騎士は王家の剣でございます。女王陛下のお望みとあれば、喜んで」
 こうして、女王の商人と王剣の騎士の、賢者の書を巡る騒動が幕を開けたのである。
「……どうかなさいましたか?陛下?」
 謁見の間から、シアとアレクシスが退室した後、玉座にすわったエミーリアは考えこむように頬に手をあてている。
 もう片方の手でパタパタと羽扇を操りながら、そのボーっとしたオリーブ色の瞳は、何か思索にふけっていることが明らかであった。そんな主の様子に常ならぬものを感じて、紅茶のカップを手渡しながら、女官のルノアは「陛下?」と問いかけた。
 問いかけられた女王は、パンっと羽扇を閉じると、ゆるゆると首を横に振る。
「ううん……大したことではないのだけれど」
 彼女のオリーブ色の瞳に映るのは、白と黒のチェス盤だった。
 その盤上にはいくつかの駒が散らばっており、未だ勝負がついていないようだった。白と黒の駒が華麗に踊るチェス盤は、調和がとれていて美しい――たった一つの倒れている駒を除けば。
 倒れているのは、黒のナイト……即ち、黒の騎士。
 盤上に倒れ伏す騎士に、支配者である女王は眉を寄せて、冷やかとさえ言えるほど静かな声で言った。
「――不吉ね。騎士が倒れて、青薔薇が咲くのは見たくないものだわ」
 青薔薇――それは旧貴族が作り上げた犯罪組織の名だ。騎士が王家への忠誠を誓う者たちだとすれば、青薔薇は王家への反逆を現す。
 倒れた黒の騎士を見つめながら、青薔薇が咲くのは見たくないと、若き美貌の女王は呟く。
「陛下……」
 そんなエミーリアに、数十年にわたり王宮に仕え続けた女官も、何も言うことが出来なかった。
「――何も起こらなければ良いのだけれど」
 祈るようにそう言った女王には、盤上に散った黒の騎士が、苦悶の呻きをあげているように思えたのである。
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