女王の商人

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  賢者と商人4−5  

「――それで?もう大丈夫なの?アレクシス」
 謁見の間を出て、王城の長い廊下を共に歩いている最中、シアがアレクシスに話しかけた。何が大丈夫なのかは、言うまでもない。彼女の視線は気遣うように、怪我をしていた彼の左腕へと向けられている。
 しかし、自分のこととなると鈍すぎる騎士は、何のことかと首をかしげた。
「……何が大丈夫なんだ?シア」
「決まってるでしょっ!腕よっ!腕っ!アンタの腕よっ!アレクシス」
 真顔で問い返してくる彼に、シアが呆れたように言う。
「ああ。そのことか……」
「他に何があるのよ」
 アレクシスは何でもないことのように言うと、心配ないと首を横に振る。口調は強気ながらも、不安そうな視線を向けてくるシアに、騎士は苦笑しながら答えた。
「心配をかけて悪かった。もう大丈夫だ」
「……本当に?」
「意外と心配性だな。本当に平気だ」
 シアは言葉の真実を見極めようとするように、アレクシスの顔をじっと青い瞳で見つめた。
 その騎士の表情に、偽りの色はない。ただ――
 (本当に辛い時でも、コイツは何にも言わない気がする……)
 そんな不安を感じて、シアはぎゅっと拳を握った。
 前回の仕事の時だって、そうだ。シアを庇って怪我をしたというのに、アレクシスは痛みを訴える言葉も、彼女を責める言葉も一言も口にしなかった。ただ黙って、表情すら変えず、傷の痛みに耐えていた。
 それを騎士道と言えば聞こえが良いが、実のところ意地っ張りなだけじゃないか、とシアは思う。心でも体でも、痛い時は痛いと口にしてくれたらいい。そうしたら、シアだって――
 (……ん?何で、こんなことを思うんだろう?あたしは……)
 そこまで考えて、シアはハッと我に返った。
 今、自分は何を考えていたのだろう。
 シアは貴族の事を嫌っていたはずだ。祖父のことから、貴族の傲慢さや身勝手さに怒りを感じ、いつしか貴族という存在を憎むようになった。もちろん、アレクシスに何の罪もないことはわかっているが、それでも貴族の一員である彼に、万が一にも好意を持つことなど有り得ないと思っていた。それなのに……
 ――ほんの一瞬、もっと頼ってくれれば良いのにと思ってしまった。
 それが何を意味するのか、もう少し考えてみれば、シアも己の心の変化に気づいたかもしれない。だが、彼女はそれが明らかになることを恐れて、その感情にふたをした。愚かな選択かもしれないが、その時の彼女にはそれしか選べなかった。
 この感情は、パンドラの箱だ。
 それを開けてしまったら、もう元の関係には戻れない。
 だから、シアは何事もなかったように振る舞うことにした。それが最善の道だと信じて。
 わざと明るい声で、彼女は言う。
「あっそ。じゃあ、これはいらないわね?」
 そう言いながら、シアが鞄から取り出した薬入れに、アレクシスは首をかしげた。
 黒くて、丸い薬入れ。
 何か薬が入っていることはわかるが、何なのだろうか。
「……何だ?それは」
 アレクシスの問いかけに、シアは「えへんっ!」と得意気な顔をする。
 先ほどまでの憂い顔はどこへやら、今や獲物……ではなくて、お客様を前にした商人の顔になっていた。シアは薬の説明をすると、ずぃとアレクシスの前に薬入れを差し出す。
 満面の笑みで、「アレクシスに」という言葉と共に。
「東国ムメイの商人から買った塗り薬よ。刀傷に効くらしいから、丁度いいかと思って!」
「シア……高価なものだろうに、本当に良いのか?」
 眼前に出された薬入れに、アレクシスはおずおずと、ためらいがちに手を伸ばした。決して、素直とは言えない少女の心遣いに、胸がじんわりとあたたかくなる――
「……ありがとう」
 心から礼を言った彼に、シアはふんわりとした微笑みを浮かべた。
 窓からの風に吹かれて、銀の髪がサラサラと揺れる。
 普段は口の悪さと短気さゆえに、その容姿を褒められることの少ないシアではあるが、見た目だけは硝子細工のような繊細な美少女なのだ。こうして黙って微笑んでいれば、天使もかくやと言われるほどである。
 そんなシアは微笑みながら、右手をアレクシスの方へ出して言った。
「――いえいえ、どういたしまして。お会計は、200レアンになります」
 シアの一言に、アレクシスの動きが、ピタッと止まる。
 彼は決して吝嗇家というわけではないが、しかし……。
 次にアレクシスの口から出た言葉は、どこか苦かった。
「……売る気なのか?シア」
「当たり前じゃないっ!商売人にタダの二文字はないわよっ!」
「む……」
 別にがっくりはしないが、何となく釈然としないものがある気がするのは、なぜだろうか……。そう思いながら、アレクシスが何かを言おうとした瞬間、後ろから声がかけられた――
「……うん?そこにいるのは、シアじゃないか」
 その耳慣れた声に、シアは顔を上げて、「あっ!」と驚いたような声をあげた。黒髪に、青みがかった灰色の瞳をした男は、彼女の顔を見ると柔らかく微笑む。
「久しぶりだね。シア。アレクシス殿も」
「――オスカーおじさまっ!」
 シアは嬉しそうに名を呼ぶと、行商人にして、父の長年の友人であるオスカー=ライセンスの方へと駆け寄る。
 彼女が駆け寄ると、オスカーの大きな手が、シアの銀髪をわしわしっと撫でた。
 血縁ではないものの、オスカーは父の十数年来の友であり、赤ん坊のころから付き合いのあるシアにとっては、それこそ家族にも等しい存在である。しかし、リーブル商会のような組織で動く商人とは異なり、オスカーは国中を移動する行商人であるため、こうして会うことは稀だった。
 ロゼリアの悪魔公の事件以来、文のやりとりこそあったものの、こうして会うのは一ヵ月ぶりのことである。
「お久しぶりです。オスカー殿」
 オスカーの姿を認めて、アレクシスも挨拶をする。
 ロゼリアの悪魔公の一件では色々とあったが、ああして助けてくれたオスカーに、アレクシスは恩義を感じていた。
 もちろん、最初に感じた違和感を忘れたわけではない。しかし、最初に出会った時から、他人とは思えない親しみを感じているのも、まぎれもない事実なのである……。
「あれから怪我は治りましたか?アレクシス殿」
 オスカーは穏やかな声ながら、真剣な顔で問いかけてくる。
「あの時は助かりました。腕の方は、もう何ともありません」
「そうですか。それは良かった」
 腕は無事だという、アレクシスの返事に、オスカーはホッとしたように安堵の息を吐いた。
 その瞳はとても真摯で、彼が心から心配していることを感じさせる。この優しさはアレクシスが、オスカーが実の娘のように可愛がっているシアの仕事仲間だからなのか、それとも他の理由があるのだろうか。
 アレクシスは先の言葉を続けようとしたが、それよりも早くシアがオスカーの腕を引いた。
「ねぇ、オスカーおじさま。今日は何の用で、王城へ?もしかして、何かあったの?」
「ああ。ちょっとね……」
 シアの問いかけに、オスカーはアレクシスの方をちらりと見て、歯切れ悪く答える。
「――例の青薔薇の一件で」
 それだけの短い言葉で、シアは事情を察した。
 青薔薇――イクスの反乱と呼ばれる謀反に敗れ、落ちぶれた貴族たちが手を組んだとされる、犯罪組織。
 その被害は多岐に及び、強盗やら偽金作りやら……必要とあらば、殺人にすら手を染めるという、恐ろしい奴らである。その被害者の中には、行商人も多く含まれているという話だった。
 オスカーは行商人としての腕が一流で、仲間たちの信頼も厚いから、彼らを代表して青薔薇の被害を、女王陛下に報告に来たのだろう。
 そこまで考えて、シアは眉をひそめて、アレクシスの横顔を見た。
 青薔薇という言葉に、何も言わないところをみると、アレクシスも青薔薇についてはすでに知っているのだろう。
 自らを青薔薇と名乗り、犯罪を行っている者たちは、元・貴族だという噂だ。
 アレクシスの横顔には、何の感情も浮かんではいないが、彼の実家であるハイライン伯爵家が、青薔薇の首謀者とされる――イクス公爵家と縁があったとしても、全くおかしくはない。そうでなかったとしても、貴族の一員として彼は青薔薇の犯罪に、きっと複雑な思いを感じずにはいられないだろう。
 アレクシスの心境を考えたシアは、気まずい空気になるのが嫌で、無理やりに話題を変えた。
「そうなんだ。あたしたちは、女王陛下のお仕事で……明日からカノッサ村に行くんだけど、どんな場所か知ってる?オスカーおじさま」
 シアの問いかけに、オスカーは「ああ」とうなずいた。
「カノッサ……あの薬師の村かい?」
「うん。賢者エセルバートの生まれ故郷まで」
 そうシアが付け加えると、オスカーがいいやと首を横に振った。残念だけど、と彼は言葉を続ける。
「いいや。残念だけど、カノッサ村には行ったことがなくてね……近頃は何かと物騒だから、気をつけて行っておいで」
 ――近頃は物騒だから、気をつけて。
 オスカーが何気なく言ったはずのその一言が、これから巻き込まれる事件の忠告になろうとは、シアやアレクシスはもちろん、口にしたオスカーでさえ想像もしえないことであった。

 それから四日後の正午――
 女王陛下の命を受けた商人と騎士。シアとアレクシスの二人は、リーブル商会の馬車に揺られて、薬師の村と呼ばれるカノッサの地へと向かっていた。
 ここまで途中で宿に泊まりながら三日もかかったが、地図によるとそろそろカノッサの村に到着するはずである。
 そう思いながら、アレクシスは馬車の外に広がる牧歌的な景色を、見るとはなしにぼんやりと眺めていた。
 緑あふれる畑。のんびりと草を食む牛や馬。金色に輝く麦畑の横を転がって遊ぶ幼い子供たち……。
 生まれた時から都会育ちのシアとは異なり、王都ベルカルンの民から見れば田舎と言える土地で育ったアレクシスにとっては、幼いころから見慣れた光景だった。
 ――このカノッサ村で、賢者エセルバートは育ったのか。
 アルゼンタール王国を代表する名宰相にして、天才と謳われた学者エセルバート。
 この国で生まれ育った者で、彼の為した偉業を知らぬ者は誰もいない。アレクシスも例外ではなくて、このカノッサ村が賢者エセルバートの生まれ故郷だと思うと、感慨深いものがあった。この村に、賢者エセルバートが記した『賢者の書』があるのか――
「しかし、この辺りは見るからに平和そうな村だね……今度こそ、何も起こらなければ良いけど」
 それまで馬車の揺れにもかまわず、カノッサの資料を読んでいたシアが、顔を上げて言った。
 半ば祈るようなその台詞には、アレクシスもうなずくしかない。ロゼリアの一件があるので何とも言えないが、今回の依頼ばかりは何事もなく平和に終わって欲しいというのが、彼らの共通の願いだった。
「そうだな……」
 しかし、アレクシスがうなずきかけた瞬間、急にガタガタガタガタッ!と轟音をさせて、馬車が大揺れに揺れた。
 ヒヒーンッ!と馬のいななく高い鳴き声がして、馬車全体が横転せんばかりの勢いで揺れる。
 そんな状況で、馬車の中にいたシアたちが無事に済むわけもなく、座席から放り出されそうな激しい揺れに、シアは悲鳴を上げた。
「きゃあああああっ!」
 座席から転がり落ちそうになったシアに、アレクシスはとっさに手を伸ばす。
「――シアっ!」
「……うっ!」
 アレクシスの腕がシアの体ごと抱えて、座席からの転落こそ防いだものの、抱えたシアの足からはグキッと鈍い音がした。
 ……嫌な音だ。今の衝撃で、足を痛めていなければ良いが――アレクシスがそう考えているうちに、ようやく激しかった馬車の揺れがおさまる。アレクシスはふぅと安堵の息を吐くと、腕の中の少女へと呼びかけた。
「……無事か?シア」
「何とかね……支えてもらったから」
 アレクシスの問いかけに、シアはひねった足を片手で押さえつつ、ズキズキとした痛みに顔をしかめながら答える。
 多分、骨は折れてはいないのだろうが、妙な方向に足首をひねったようで、足が思うように動かない……。
 何なのだ。一体――
 突然の馬車の揺れの原因は何だろうと、シアは窓の外を見やった。
 その時、焦った声と共に、馬車の扉が開けられる。
「――ごめんなさいっ!うちの犬が急に飛び出したからっ!」
 そう言いながら馬車の扉を開けて、泣きそうな顔で頭を下げたのは、シアと同い年くらいの少女だった。
 蜂蜜色の髪に焦げ茶の瞳をした純朴そうな少女は、足首を押さえるシアを見ると顔色を変えて、必死に謝罪の言葉を繰り返した。彼女の横では黒い大きな犬が、ワンワンッ!と吠えている。
 少女は険しい顔で「めっ!」と犬を叱責すると、再び「本当にごめんなさい」と頭を下げた。
「本当にごめんなさい……ウチの犬が馬車の前を横切ったから」
 蜂蜜色の髪をした少女の謝りの言葉に、シアはようやく馬車がガタガタッと揺れながら、いきなり急停車した理由を察した。
 おそらくは少女の犬が急に、シアたちの馬車の前に飛び出したために、御者は手綱を引いて馬を止めたに違いない。しかし、勢いのついた馬車は急には止まれず、横転しそうなほどに揺れたのだろう。
「あの、怪我はないですか?」
 焦げ茶の瞳に涙をためて、必死に謝る少女が可哀想になって、シアは大丈夫だという風に首を横に振ろうとした。
「平気……くっ!」
 平気と答えようとした瞬間、ひねった足首にズキッ!と鈍い痛みが走り、シアは思わず地面に座りこんでしまう。
 無理をして立ち上がろうとすると、爪先にまでキリキリとした痛みを感じた。くっ!と呻き声を上げたシアに、蜂蜜色の髪の少女は青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「ごめんなさい。ごめんなさい……早く手当てをしなきゃ……そうだ。うちの家に……」
 そう動揺したように言う少女の背中から、落ち着いた声がかけられた。
「……そんなに慌てて、一体どうしたんだ?マリーベル」
 その声に蜂蜜色の髪の少女――マリーベルは、弾かれたように後ろを振り返った。
 振り向いた先に立っていたのは、マリーベルと同じ蜂蜜色の髪をした青年で、その面差しは彼女によく似ていた。そうして、マリーベルは切羽詰まった声で、青年の名を呼ぶ。
「――エドガー兄さんっ!」
 蜂蜜色の髪をした少女・マリーベルの兄――エドガーは首をかしげて、青ざめた妹の顔と馬車とシアとアレクシスの顔を交互に見てから、妹のマリーベルに尋ねた。
「……何があったんだ?マリーベル」
「それが……」
 マリーベルはぎゅっと唇を噛むと、言いにくそうに兄・エドガーに事情を説明した。エドガーは妹の口から事の顛末を聞き終えると、シアとアレクシスの方へと歩み寄って、申し訳ないと頭を下げた。
「妹のマリーベルが、ご迷惑をかけて本当に申し訳ない。こちらの不注意で、そちらのお嬢さんに怪我を負わせてしまったようで……」
「いいえ……」
 アレクシスの助けを借りて何とか立ち上がったシアは、まだ青い顔をしたマリーベルを気遣って、気丈に答えた。
 たしかに足は痛むが、幸いなことに骨は折れてはいないようだし、そこまで責任を感じてもらうほどではない。この程度の足の腫れなら、きちんと冷やしておけば、夕刻には痛みも引くだろう。
「そこまで痛くないし、大丈夫です。多分、きちんと冷やしておけば痛みも引くはずなので……」
 ひねっただけで、骨は大丈夫みたいですから。シアがそう言うと、マリーベルとエドガーの兄妹はホッと安心したように息を吐く。
 しばらく後、蜂蜜色の髪をした妹――マリーベルの方が、おずおずと遠慮がちに切り出した。
「……あの、もしお嫌でなければ足の手当てだけでも、私たちの家でさせてください。エドガー兄さんはカノッサ村一の薬師ですし、私も簡単な治療くらいなら出来ますから。どうか……」
 そのマリーベルの申し出に、シアとアレクシスは迷うように顔を見合わせて、「それじゃあ……」と兄妹の厚意を受けることにしたのである。
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