女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  薬草と商人5−11  

 ロープできつく縛られた手足が、痛い……
 喉がカラカラに乾いていて、苦しい……
 さっき殴られた頭が、まだズキズキと痛む……
 青薔薇に陥れられ、閉じ込められた倉庫の片隅で、手首足首をロープで縛られ、手足の自由を奪われたシアは、まるで芋虫か何かのように地面に転がされていた。
 ――ここに閉じ込められてから、一体、どれくらいの時間が経っただろう?
 長い時間、同じ場所に閉じ込められていると、時間の感覚がひどく曖昧になってくる。
 縛られた手首にくいこむロープの痛みを感じながら、少しでも縄を緩ませようと、もぞもぞと動いて無駄な抵抗をしつつ、シアは何度も何度も、そう考えずにはいられなかった。
 暗い、暗い、窓はなく、太陽の光が差し込まず、ランプの灯りだけが頼りな、薄暗い倉庫……。
 元々は、どこかの店のものだったのだろう。
 隅の方に積み上げられた木箱の上には、灰色のホコリがつもっており、ここが店の倉庫としては長い間、使われていないことを意味した。
 それを見たシアは、半ば予想していたこととはいえ、がっくりと肩を落とした。
 ……この様子では、たとえ自分が大声を出して助けを呼んだところで、助けに来るどころか、誰の耳にも届くまい。
 この倉庫が、いつから青薔薇のアジトとなったのか、シアは知らないし、また知るはずもないが、この倉庫の管理者以外に、ここに近づくような物好きな輩がいるとは、とても思えなかった。
 いや、そもそも、この倉庫にきちんとした管理者がいるのかすら疑わしい。
 もしいれば、こんなに倉庫がホコリっぽくなったり、ましてや青薔薇のアジトになったりしないだろう。
 助けを求めようにも、助けを求める相手がいない。
 真剣に考えれば考えるほど、状況は最悪で、自分の命は青薔薇の――アシュレイの気分次第で、あっさりと殺されてしまうような、そんな儚いものなのだと、シアは悟らざるを得なかった。
 殺されるかもしれないという恐怖と、体の痛みと、それを上回る屈辱で、シアはうるっと目に涙を浮かべたが、ぐっと唇を結んで、かろうじて泣くのをこらえた。
 ……泣かない。絶対、泣かない。泣くものかっ!
 泣いたところで、この状況が何も変わらないであろうことは、嫌というほど想像がついたし、何より、この状況で涙を流すということが、青薔薇の悪事に屈したようで、嫌だった。だから、泣かない。絶対に。
 それは、他人からみれば、下らない意地だったかもしれない。
 でも、その時のシアを支えていたのは、そのちっぽけな意地だった。
 絶対に泣かない。
 アンタら、青薔薇なんかに屈するものか。
 そんな強い気持ちをこめて、シアは近くの椅子に腰かけたアシュレイを睨んだ。
 近くの椅子に腰かけた、アシュレイ――若き青薔薇の首領は、さっきとは異なり、シアには目もくれず、そこらに転がった木箱を机の代わりにし、紙にペンを走らせ、何やら手紙のようなものを書いている。
 そのすぐ横では、先ほどアシュレイにさんざん気を失うまで殴られ、ボロ雑巾のようにされたジャンが、地面に倒れたまま「……っ!……うぅ……苦し……」と、悲痛な呻き声を上げていた。
 思わず、耳をふさぎたくなるような悲痛なそれを聞きながら、平然と手紙を書いている青薔薇の首領の神経を、シアは疑う。
 金髪碧眼、ランプに照らされた端整なアシュレイの横顔が、その時の彼女には、ひどく恐ろしいものに思えた。
 シアはさっきから、顔や腹を容赦なく殴られ、ボロボロにされたジャンの「うぅ……」と悲痛な呻き声が聞こえるたびに、耳をふさぎたくなるというのに。
 倒れたまま、いまだ起き上がろうとしないジャンの姿をちらっと見て、シアは痛ましげに目をそらす。
 金に目がくらんで、大切な商会の仲間を裏切ったということに関しては、自業自得であるとはいえ、今の姿はさすがに哀れだった。
 さっき、何とかの命だけは助けたものの、これ以上はシアの力ではどうにもならない。
 地面に這いつくばり、血まみれで呻いているジャンの姿を見ると、医者を呼んだ方がいいと思うが、ここが青薔薇のアジトである以上、そんなことは叶うはずもない。
 悲痛な声を上げるジャンを見て、痛ましげに眉をひそめているシアの命さえ、ただアシュレイの気まぐれによって生かされている、という風前の灯のようなものだ。
 禁止されている人身売買を行い、人を人形のように弄ぶ悪趣味な金持ちに売りつけるか、あるいは奴隷のように異国に売り飛ばすか……
 いずれにせよ、ただ利用価値があるから、生かされているだけなのだ。
「……ぅ……うぅ……」
 しばらくの間、「……うぅ」と小さく呻いていたジャンだったが、やがて、その声もしなくなる。
 シアを売り飛ばす算段でもしているのか、何やら手紙のようなものを書いていたアシュレイは、横を向き、呻くジャンに冷ややかな目を向けると、「うるさい」と言いながら、床に倒れた男の背を靴でグリグリと踏みつけた。
「ちょ……っ!」
 シアが止める間すらない、一瞬の出来事だった。
「ぐ……は……」
 ジャンは再び、悲痛な叫びをあげ、それっきり静かになる。
 死んではいないようだが、また気を失ったのかもしれない。
 ジャンが死んでいないらしいことに、わずかに安堵しつつも、シアの顔からは血の気が失せていた。
 その場が、静かな、いささか静かすぎる、鉛のような重苦しい沈黙に包まれる。
「……ああ、やっと静かになりましたね」
 まるで何事もなかったように、穏やかな声で言い、うっすらと笑みすら浮かべて、血に汚れた靴をぬぐうアシュレイに、その残虐さにシアは震えた。
 寒くもないのに、ゾクッと背筋に鳥肌が立つ。
 わかっていたことだが、何度でも何度でも、強烈に思い知らされる。
 この男、アシュレイ――青薔薇の首領である男は、人を虫けらのように踏み潰すことに、何のためらいも、罪悪感もないのだということを。
 そして、その虫けらを殺すのにも、何の躊躇もないということを。
「……」
 ――次は、自分かもしれない。
 そう思って、シアは険しい顔で、ぎゅっと唇を噛み締める。
 今はただ、シアに利用価値があるから、それだけのために生かされている。
 そんな現実を、まざまざと思い知らされた。
 この男――アシュレイは、状況が変わってシアの存在が邪魔になれば、自分の命を奪うことに、一瞬の躊躇もないであろう。
「……っ」
 涙が出そうなほどに悔しいが、シアの命は、アシュレイの気持ちひとつなのである。
 死にたくないと、強く思う。
 シアは再び、きつく唇を噛みしめ、まぶたを閉じた。
 まぶたを閉じると、その裏に、大切な人たちの姿が浮かぶ。
 (父さん……祖父さん……こんなことになっちゃって、心配してるだろうな……)
 シアがこの場所に閉じこめられてから、どれくらいの時間が流れているのかわからないが、もし、シアの身にに何かがあったのだと父さんや祖父さんが知れば、今頃、必死に探し、シアのことを心配していることだろう。
 もしかしなくても、睡眠や食事もろくに取らずに、シアの身を案じてくれている……はずだ。
 父のクラフトも祖父のエドワードも、尊敬する商人である前に、シアの愛する家族だ。たとえ、今そばにいなくとも、それぐらいはわかる。
 酒好き女好きで、そのくせ飄々として悪びれず、シアを怒らせてばかりの父と祖父ではあるが、娘であり孫であるシアのことを常に心から慈しんでくれたことを、彼女は疑ったことはない。
 今までも、そして、これからも……。
 (父さん……祖父さん……)
 彼らの、家族の心配を思うと、シアの胸は痛んだ。
 (エルトたちやリタたち……ニールじいさんや、商会の皆も、あたしのこと心配してくれてるんだろうな……早く、早く、帰らなきゃ……)
 父や祖父、血の繋がった身内だけではない。
 リタたちリーブル家のメイドや、エルトたち三つ子、それにニールじいさんやリーブル商会の皆、家族同然の人々にも心配をかけているだろう。
 シアの身に何かあったとわかれば、彼らは助けようと、必死に動いてくれているに違いない。
 もし、リーブル商会の仲間に何かあれば、シアだって間違いなくそうする。
 (みんな……)
 早く、早く、皆に会いたかった。
 心配かけて、ごめんなさい。
 もう大丈夫だと、笑いたかった。
 心配かけた分、安心させたかった……
 皆の心境を思うと、家族のことを思った時と同じように、シアの胸は痛んだ。
 恐怖だけでは、泣けなかった。でも、家族や家族同然の優しい人々のことを思うと、瞳がうるんで、泣きたくなってくる。
 次に、シアの頭に浮かんだのは、家族でもなければ、家族同然の仲間でもない、漆黒の髪の騎士だった。
 あの薬師の村で、意見の食い違いから、喧嘩をしてしまった彼のこと――
 (アレクシス……)
 薬師の村での一件以来、いまだ、きちんと謝ることの出来ていない彼のことを思うと、シアは胸がしめつけられるような気がした。
 (アレクシスも……心配してくれてるかなぁ……無理だよね。あんなにヒドイことを言ったのに、あたしのことなんて、助けになんて来てくれるわけがない……)
 いくら仲間とはいえ、アレクシスが助けに来てくれるなんて、むしの良すぎる考えだと、シアは思う。
 たとえ馬鹿がつくほど真面目で、時折、呆れるくらいのお人好しぶりを見せるアレクシスでも、あんな風に喧嘩した女ために自ら動こうなどとは、考えるはずもない。
 あの薬師の村で、シアはアレクシスが大事に大事に守ってきただろう誇りを、傷つけた。
『――アレクシスも、本当はあたしたちみたいな平民のことを、対等だとは思っていないの?』
 相手が傷つくであろうことを、十分にわかっていて、その言葉をぶつけたのだから、言い訳の余地はない。
 ……最低だ。
 アレクシスはいつだって、シアのことを守って、信じてくれたのに、シアはそれに応えようとしなかったのだから。
 嫌われても仕方ないだろうし、間違っても、助けてほしいなどと、甘えたことを言えた立場ではない。
 (あたしは、大馬鹿だ。アレクシスはいつだって、あたしのことを信じて、守ってくれたのに、あたしは、あたしは……)
 (会って、ちゃんと謝りたかったな……許してもらえなくてもいいから……)
 (もし、異国に売り飛ばされたりしたら、もう二度と会えない。もう二度と……)
 胸が苦しい。
 痛い。
 切ない……
 この感情を何というのだろう?と、シアは思う。
 アレクシスと出会い、女王陛下の商人となってから、色々なことがあった。
 楽しいことも、苦しいことも、悲しいことも……ロズベリー酒のために町の揉め事を解決したり、悪魔公の城では死にかけたり、薬師の村では犯罪組織と戦うはめになった。
 本当に、色々なことがあった。
 笑った時も、泣いた時も、苦しいんだ時も、シアの隣にはアイツが……アレクシスがいた。
 シアが危険な目にあった時、自分の身を傷つけても、助けてくれた。
 彼に申し訳なくて、泣きそうだったシアを責めることもなく、仲間が助け合うのは当然のことだろうと、そうアレクシスが励ましてくれたことを、シアは忘れてはいない。 
 アレクシスのことを、最初は、全く仲間だと思っていなかった。
 祖父さんのことがあって、ただ貴族だというだけで、傲慢な、いけすかない奴だと思いこんでいた。
 貴族にも色んな人間がいると、祖父さんにもそう言われていたのに、彼のことを、ちゃんと知ろうとすらしていなかった。
 シアが出会った貴族であり騎士である青年は、真面目で融通が利かず、女心を欠片も理解しないほど鈍く、おまけに時代遅れと言われても、騎士道を守ろうとするほどの頑固者で……
 時折、呆れるくらい不器用な生き方をする人間だった。
 正直、呆れたことも一度や二度じゃない。
 こんな戦争も何もない時代に、騎士道だの家の名だの大切にしているなんて、商人には理解できなくて、無駄じゃないかとすら思っていた。
 でも……
 アレクシスは鈍くて、真面目すぎて融通が利かず、頑固者ではあるけれど、胸を張って、大切なものを守れる人間だった。
 人には理解されずとも、自分の誇りと愛するもののために、命をかけれる男だ。
 不器用だとは思うが、決して、愚かではない。
 恥ずかしくて、面と向かっては絶対に言えないが、アレクシスのそういうところをシアは心の中では認めていたし、好きだと思う。
 ……照れくさいし、恥ずかしいので、絶対に言わないが。
『――シア』
 それから、アレクシスの声も好きというか、落ち着く。
 低くて、深くて、穏やかで、人柄を表すような声。
 その声で名前を呼ばれるのは、嫌いじゃなかった。
『――シア』
 名前を呼ばれる。
 ただ、それだけのこと。でも、今、そうして欲しかった。
 名前を呼んで、あの漆黒の瞳に、あたしを映して、今すぐ。
 だけど、それは叶わない。
 アレクシスはここにいないし、助けに来てほしいなんて、図々しいことを言える立場じゃない。
 でも、もし、アシュレイに――青薔薇の手で、どこかに売り飛ばされた日には、家族だけじゃなくて、アレクシスにも会えない。
 話すことも出来ない、もう二度と。
 ――それでも、いいの?
「……嫌だ」
 小さな声で、シアは言う。
 その答えは、決まっていた。
 シアは、アレクシスに会いたいのだ。
 会って、話して、喧嘩したって、許してもらえなくたっていい。
 それでもいいから、彼に会いたいのだ。
 この感情を、なんというのか知らない。理由なんて、どうでもいい。会いたい。
 いや……
「……違う。会いたいんじゃなくて、会うの」
 そう決意して、シアは伏せていた顔を上げる。
 彼女の青い瞳には、強い光が宿っている。
 会いたいなんて、ただ待ってるだけじゃ物足りない。
 シアは御伽噺のお姫様のように、ただ待っているだけで、誰かが迎えに来てくれるわけじゃない。商人だ。だから、会いたい人がいるなら、自分の意思で、自分の力で、会いに行く。だから……
 シアは凛とした表情で、前を向いた。
 ――こんなところで、青薔薇なんかに屈したりしないっ!
 彼女の視線の先には、アシュレイがいた。
 反乱を起こした貴族の血を引く、青薔薇の首領である男が。
「……」
 シアの視線に気づいたのか、机代わりの木箱に向かっていたアシュレイが顔を上げ、彼女の方を向いた。
 男の酷薄そうな蒼い瞳が、こちらを見る。
「……何よ?」
 シアが怯えもせず、視線も逸らさずにいると、アシュレイは端整な顔を、不快そうに歪めた。
 ……監禁されているというのに、従順さの欠片もないシアが、気に食わないとでもいうように。
 それは、せっかく狩った獲物が怯えてくれないことを、いささか退屈に感じているようでもあった。
 アシュレイはわずかに眉をひそめると、手慰みのように、机の上にあった短剣を手にし、指先だけで器用に、くるりくるりと回した。
 短剣がランプの灯りを反射して、鈍い銀の光を放つ。
 そうしながら、アシュレイは冷ややかな眼差しをシアへと向けると、決して単なる脅しではない言葉を吐く。
「相変わらず、反抗的な態度ですね……死にたいんですか?」
 あまり反抗的な態度だと殺しますよ、とアシュレイは続けた。
 その言葉が、ただの脅しなどではなく、至極、本気だということは、その男の目を見ていればわかる。
「……」
 冷酷な脅しと、ロープで縛られて身動きすら取れないシアを嘲笑うような、その二つが混じりあったアシュレイの問いかけに、シアは答えなかった。
 代わりに、真っ直ぐな目で、青薔薇の首領である男を睨みつける。
 殺されたくはない。だけど、この卑劣な男に屈して、命乞いをするのは嫌だった。
 目の前で短剣をちらつかせても、態度を変えようとしないシアに、アシュレイは意外なものを見るような目を向け、クックッと喉の奥を鳴らして言う。
「いやいや、この状況で命乞いをしないとは、良い度胸ですね。商人のお嬢さん……自分の状況がわからないほど愚かなのか、それとも誰かに助けに来てもらうあてでもあるのか、どっちですか?」
 その問いかけにシアは不愉快そうに眉を寄せ、
「……さぁね。どっちでも、アンタには関係ないことでしょーが」
と、下らない、と吐き捨てるように言う。
「それとも……」
 シアの精一杯の抵抗を、アシュレイは浅はかだなというように唇の端をつり上げ、続けた。
「それとも……あの薬師の村で、一緒にいた騎士の彼が助けに来てくれるとでも、信じているのかい?あの、ハイライン伯爵家の若者……たしか、名はアレクシスとかいったかな」
「……」
 シアは無言で、青薔薇の首領である男を睨み続けた。
 アシュレイの口から、アレクシスの名が出たことには、驚かない。
 貴族でないシアはよく知らないが、ハイライン伯爵家といえば、先祖代々、勇猛果敢な優れた騎士を輩出し、王剣のハイラインとも称された一族らしい。女王陛下の商人であるシアの素性がバレた時点で、その相棒である騎士の――アレクシスの名を調べるのは、そう難しくはなかったはずだ。
 別に、隠していたわけでもない。
 おそらく、知られているだろうと覚悟していたから、アシュレイの口からアレクシスの名が出ても、シアは冷静でいられた。
 男の口から、アレクシスを侮辱する言葉が出るまでは。
 シアの神経を逆撫でするように、アシュレイは言う。
「あの騎士、アレクシスといったかな?彼も呆れた男だね……いくら時代が変わっても、国王に仕える騎士の名門の嫡子が、貴女のような成り上がりの商人の仲間とは、世も末だ。高名な先祖の名を汚して、恥じ入る様子もない。彼にはきっと、誇りというものがないのだろうね」
「なっ……違う!」
 アシュレイのあんまりな物言いに、シアは一瞬、今の状況も忘れて、違う!と声を上げた。
 青薔薇の首領である男は、ただシアの心の支えを折り、屈服させたいだけ。
 貴族でありながら、シアを庇おうとするアレクシスのことも、気に食わないに違いない。
 まともに取り合う必要のない言葉だと、重々わかっていて、それでも言わずにはいられなかった。
 成り上がりの商人という言葉こそ、事実かもしれないが、他のことはひとつも認められない。
 アレクシスは真面目で頑固で融通が利かず、おまけに鈍い……そんな救いがたい男ではあるが、そんな風に侮辱されるような人間ではないと、シアは思う。
 むしろ、愚直とも言えるほどに、騎士の誇りを守ろうとするような男だ。――決して、先祖の名を汚してなどいないっ!
「へぇ……」
 違う!と声を上げたシアを、アシュレイは面白いものを見るような目でじろじろと見て、嘲るような笑みを浮かべた。
「へぇ……ずいぶんとムキになりますね。あの騎士は、恋人なんですか?」
「……違う。そんなんじゃない」
「まぁ、そうでしょうね」
 顔をしかめて、首を横に振ったシアに、アシュレイは「まぁ、そうでしょうね」と、何かしら含むところがありそうな言い方をして、うなずいた。
 シアがそれを不審に思うより先に、アシュレイは冷ややかな声で、「なぜなら……」と言う。
「なぜなら、あの騎士は心の奥底では、商人である貴女のことを嫌って、恨んでいるでしょうから、好意なんて持つはずがない……気づいていませんでしたか?」
 その言葉に、シアは首をかしげた。
 (アレクシスが、あたしを、商人を嫌っている?恨んでいる?)
 思い当たることがなく、意味がわからなかった。
 別に、好かれているなどと、うぬぼれるつもりはないが、恨まれるほどのことをしでかした覚えもない。
 あの薬師の村での会話を、この男、アシュレイが知るはずもないし、一体、何のことを言っているのだろう……?
「……どういう意味よ?アレクシスが、何なの?」
 きっと聞かない方がいい。
 たぶん後悔する。
 そう頭では理解していたにも関わらず、シアはつい、そう尋ねてしまった。
「あの騎士の素性を調べていたらね、面白いことがわかったんですよ。知らないのなら、教えてあげましょうか?」
 わざとらしく親切そうな口調で、そう言うと、アシュレイは椅子から立ち上がり、シアの方へと歩み寄ってきた。
 その手には、銀の刃の輝きが――短剣がある。
「……いい。よく考えたら、アンタに何かを教えてもらうなんて、まっぴらだわ。聞きたいことがあれば、直接、アレクシスに聞くわよ」
 教えてあげましょうか、というアシュレイに、シアは不快そうに言って、顔をそむけた。
 しかし、顔をそむけようとした時、アシュレイはシアのあごに手を かけ、ぐいっと強引に上向かされる。
 自分の意思に反して、強引に上向かされて、シアは「げほっ、げほっ……」と苦しげにむせる。
 そんな彼女を冷ややかな目で見下ろして、アシュレイはシアにある事実を告げた。
「知らないのならば、教えてあげましょう。あの騎士は、商人に金で婚約者を奪われたのですよ。幼い頃からの相思相愛の婚約者を、ね……だから、商人を恨んでいるだろうし、貴女のことを助けにも来ないですよ。商人のお嬢さん」
「……」
「……おや、声も出ませんか?」
 シアは無言だった。
 それを見たアシュレイが、嘲るように唇の端をつり上げる。
 しかし、その表情は長くは続かなかった。なぜなら――
「……ふふふっ、馬鹿みたい」
 心底、おかしそうにそう言って、シアが笑ったからだ。
「……何がおかしい?」
 不可解だとばかりに、アシュレイが問う。
 シアはあえて、にっこりと愛らしく笑うと、その唇で「馬鹿みたい」と、同じ言葉を繰り返した。
「馬鹿みたい。あたしが、そんなことで傷つくなんて思ったのなら、大間違いよ。アイツの……アレクシスの過去に何があったのかは知らないし、恋人でも何でもないから、助けてほしいなんて言えた立場じゃない。でもね……」
 過去が気にならないと言ったら、嘘になる。
 シアが未だに祖父のことを引きずっているように、アレクシスにもきっと、胸の内に抱えこんでいるものがあるのだろう。
 でも……
 だからこそ……
「でもね、ひとつだけ言えるのは……アレクシスは、アンタたち青薔薇みたいに、過去だけに囚われているわけじゃない……」
 相変わらず、頭は重いし、体は痛いし、喉はカラカラに乾いている。
 でも、仲間である騎士のことを思うと、シアは不思議と一瞬、両手足を縛られているという恐怖すら忘れた。
「――アレクシスは、迷っても悩んでも、最後には前を向ける。それが出来る人なの。だから、過去に囚われているだけの、アンタたちとは違うのよ!」
 シアの言葉に、アシュレイは理解出来ないとばかりに、顔を歪めた。
 そんなアシュレイを見て、シアはこの男も哀れなのかもしれないな……と、少しばかり同情する。
 ここ数十年の間に、多くの貴族が力と財産を失い、それに代わって議会や平民が国を動かすようになったのは、事実である。
 シアだって、もし貴族として生まれていたら、そんな時代の流れを恨んだかもしれない。
 ましてや、反乱を起こした貴族の名を持つアシュレイは、罪人という烙印を押され、身分を奪われ、国を追われ……
 おそらくシアのような少女には想像もつかないほど、過酷な人生を送ってきたのだろうと思えば、気の毒だと思わないわけではない。だが、だからといって、シアは引く気はなかった。
 このアシュレイや青薔薇の、国や平民への憎しみの深さは、正直、恐ろしいと思う。だが、シアにも商人の誇りと、平民の意地がある。
 ――負けるわけにはいかない。
「……」
 アシュレイは無言で、腕を振り上げた。
 その手には、銀の刃が鈍く光っている。
 脅しか、あるいは本気の殺意か。
 シアには判断できなかったが、結局、その刃がシアを切り裂くことはなかった。
 扉が開いて、暗い倉庫の中に光が差し、一人の男が入ってきたことで、アシュレイは短剣を振り上げた腕をおろし、そちらを向く。
 シアの位置からは、ちょうどアシュレイの背中のかげに隠れて、あまり姿は見えなかったが、男の「お頭ァ」という太い声だけが耳に入る。
 ……アシュレイを「お頭」と呼ぶということは、入ってきた男は、青薔薇の部下なのだろうか?
「どうした?何かあったのか?」
 そんなシアの予想を裏切らず、アシュレイは部下の男に、そう尋ねた。
 部下の男は、やや不安そうな声で答える。
「それが、お頭……なんか、辺りの様子が変なんでさぁ。偵察に行かせた若いのは、いつまでも戻ってこねぇし、もしかしたら、ここが警備隊の奴らに嗅ぎつけられたんじゃ……」
 部下の男の言葉は、途中で途切れた。
 ドォォォォォン、と轟音と共に、倉庫の扉が蹴破られて、何十人もの灰色の制服を着た男たちが、一気になだれこんできたからだ。
 突然のことに、呆然としているシアの耳に響いたのは、灰色の制服を着た男の「――警備隊だ!」という凛とした声だった。
「――警備隊だ!速やかに武器を捨てて、投降せよ!」
 警備隊だ。
 どうやって、この青薔薇のアジトを見つけたのかわからないが、助けに来てくれたのだ。
 シアが、そう安堵しかけた瞬間だった。
「……ちっ」
 耳元で舌打ちが聞こえて、シアが横を向くと、アシュレイと目が合う。
 首に短剣が迫ってくる。
 顔のすぐ横で、銀の光が踊って、ああ、自分は人質にされるのだとわかった。
「――シアっ!」
 しかし、アシュレイがシアに手を伸ばした瞬間、それを阻止しようと、後ろから斬りかかった若い男がいた。
 背後から斬りかかられたアシュレイは、かろうじて、その剣を避けたものの、一瞬、シアから目が離れる。
 その隙を、斬りかかった若い男は見逃さなかった。
 一瞬の隙をついて、両手足を縛られたシアに駆け寄ると、彼女を抱き上げ、アシュレイの魔の手から彼女を救い出す。
 そうして、シアを腕に抱いたまま、素早く、アシュレイから距離を取る。――彼の目的は、アシュレイを倒すことではない。シアを無事に、助け出すことだ。
 青薔薇の首領である男を逮捕するのは、警備隊の役目である。
「――今だっ!人質はいない。かかれっ!」
 警備隊の指揮官らしき男がそう叫び、その声を合図にして、灰色の制服を着た警備隊の男たちがいっせいに、アシュレイと部下に飛びかかり、その体を抵抗しないよう、地面に押さえつける。
 アシュレイも抵抗するように短剣を振り回したが、しょせん多勢に無勢、どうしようもなかった。狭い倉庫の中では、逃げ場もない。
 しばらくすると、いささか呆気ないほどに、静かになった。
「……あ」
 一方、シアはいまだ状況を把握できず、自分を助け出した男に抱き抱えられたまま、目をパチクリさせていた。
 (え――っと、何かよくわからないけど、た、助かったの?)
 少し落ち着いたシアが、おずおずと顔を上げると、漆黒の瞳が心配そうに、こちらを見ていた。
「……無事か?シア」
 それは、今、一番、聞きたかった声だった。
 普段は穏やかなそれは、今は心配と焦りの色が濃い。
 漆黒の髪と瞳、自分を助けてくれた青年の顔を見たシアは、驚きに目を見開く。
 彼の名を口にしようとすると、唇が震えた。
「ア、アレクシス……?」
「ああ……遅くなって、すまなかったな。辛い思いをさせた」
 シアが名を呼ぶと、彼女を抱き抱えていた青年――アレクシスは、ホッと安心したように、淡く微笑む。
 アレクシスはいったん、抱き上げていたシアをおろすと、剣で手際よく、彼女の手足を縛っていたロープを切る。
 そうして、彼は再び、シアの背中に手を回すと、ぎゅっと正面から抱きしめた。
 普段のアレクシスは、騎士道精神ゆえか生真面目な性格ゆえか、軽々しく女性に触れることのない男だから、よほど安心したのだろう。
 彼の表情には、心からの安堵がにじみ出ていた。
「……無事で、良かった」
 アレクシスに耳元でそう囁かれて、おまけに互いの心臓の音が聞こえそうなくらい、きつく抱きしめられて、シアは赤面して「あ、あ、あの、アレクシスぅ?」と妙に焦ったような、変な声を上げる。
 ……恥ずかしいから、早く離れてほしいような、それなのに、ずっと、このまま離れないでほしいような不思議な気分だった。
 恋人でもないのに、アレクシスはあたしのことなんて、何とも思っていないと思うのに、こんなにドキドキするなんて、あたしの心臓はどうしちゃったんだろう?
 うわ、うわ、わあぁ!
 何かもう、恥ずかしい!
 なんでもいいから叫びたいっ!
 慣れない感情に、シアの頭はぐるぐるし、半ばパニックだった。
「すまない……苦しかったか?シア」
 まるで、壊れものを扱うようにそっと、アレクシスは腕の力を緩めて、シアを気遣う。
 そんな彼の優しささえ、今のシアにとっては、恥ずかしいやら心臓がバクバクするやらで、赤面するしかない。
 彼女はぶんぶんと首を横に振り、元気であることを、精一杯、アピールする。
「へ、平気……です」
 なぜか敬語になるあたりは、ご愛敬というべきか。
 アレクシスの方はといえば、そんなシアの動揺っぷりを気にした風でもなく、ふっ、と柔らかく笑って、「そうか」とうなずいた。
「そうか……なら、もう少しだけ、このままでいさせてくれ」
 続けられた言葉に、シアは思いっきり、あわわと動揺した。
「……はいぃ?」
 しかし、彼女の困惑が伝わらなかったのか、アレクシスはもう一度、今度は力の加減をしながら、シアを抱きしめる。まるで、そうすることで、腕の中の少女がたしかに無事なのだと、実感しようとするように。
 アレクシスは、ふぅと息を吐くと、「無事で、本当に良かった」と繰り返す。
 その言葉を聞いたシアは、じんわりと、胸の奥があたたくなるのを感じた。
 本当に、本当に心配してくれてたんだなぁ……と感謝する。
「あっ、アレクシス。あの……」
 何で、あたしのこと助けて来てくれたの?
 あの時、ヒドイことを言って、傷つけたのに、どうして?
 そう口にしかけて、シアは唇を閉じ、小さく首を横に振る。そんなことは、今更、問うまでもない。
 理由なんてなくても、助けを求める人間がいれば、コイツは助けに向かうに違いない。
 アレクシスは、そういう男なのだ。
 わかっていたつもりで、実は少しも、シアはわかってなかった。
 でも……今、ようやくわかった。
「……何だ?」
 首をかしげたアレクシスに、シアはううん、と首を振ると、小さく笑う。
 そうして、彼女はアレクシスを見上げて、眩しそうに目を細めると、めずらしく赤面せず、素直な言葉を口にする。
「アレクシス……助けに来てくれて、ありがとう。それから、あの時は、ごめんなさい」
 シアの言葉に、アレクシスはうなずくと、気にするな、という風に彼女の頭を、白銀の髪を撫でる。
 そうして、頭を撫でられているうちに、シアはあることに気づく。アレクシスの左手は、小さく震えていた。
 よくよく注意しなければわからないほどだが、たしかに震えている。
 更に、抱きしめられた胸から伝わってくる心臓の音は、びっくりするほど速い。
 (ああ……)
 (こんなに心配してくれたんだ……)
 (手が震えるくらいに……)
 シアは、胸が痛くなった。
 抱きしめられたところから、アレクシスの体温が伝わってきて、あつい。
 前は、この胸にうずまく感情をなんというのか、わからなかった。でも……
 ああ、そうか、とシアは思った。
 その答えが、スッと胸の中に落ちてくる。
 (ああ、そうか……前に父さんが言ってたっけ)
 (恋はするものじゃなくて、おちるものだって……)
 (だったら、きっと……これが恋なんだ)
 自分は、アレクシスのことが好きなのだ。
 そう自覚した途端、シアは頬を紅潮させて、再び赤い顔になる。
 好きって……うわあああ!何かもう照れるし、あたしだけ意識してるなんて、恥ずかしい。いっそ、気づかなきゃ良かった!
 急に赤くなったり、かと思えば青くなったり、いきなり百面相をするシアに、アレクシスが怪訝な、心配そうな顔をして尋ねた。
「どうしたんだ?シア……やっぱり、どこか痛むのか?」
 シアはいやいやと首を横に振り、
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど……痛っ!」
と言って、両手で頭を押さえた。
 よくよく考えたら、さっき頭を殴られたんだった!
 警備隊が突入してきた驚きで、すっかり忘れていた。
 ううう……と唸るシアに、アレクシスはため息をついて、「見せてみろ」と話しかける。
「シア。ほら、頭を見せてみろ。ああ、少し血が出てるな……大丈夫だ。そんな深刻な怪我じゃない」
「ううう……すっかり忘れてたのに、思い出したら、痛くなってきた……どうせなら、思い出さなきゃ良かったのに!」
「いや、冷静に考えて、無理だと思うぞ。それは……」
 甘い空気も一瞬のこと。
 すぐに普段と同じような会話を始めた、シアとアレクシスの二人は、大切なことを忘れていた。
 その倉庫の外に、彼らを待っていた人々がいたことを……。

「シア―――っ!助けに来たぞ。ジャン、この大馬鹿モンがっ!」
 倉庫の外で、警備隊を呼んだニールじいさんが、そう叫ぶ。
「シアお嬢さ―――ん!早く、出てきて下さいよぅ!無事なんでしょう!」
 続けて、ニールの横にいたエルトが、倉庫の中にいるシアに向かって、そう呼びかけた。
「この倉庫があやしいって見つけたのは、俺なんですよー。褒めてくださいね、シアお嬢さん」
 更に、その隣でアルトが叫べば、それに勇気づけられたように、カルトが締めの一言を叫ぶ。
「……というわけで、ボーナス期待してます!シアお嬢さん!」
 三つ子の声を聞いて、シアが「うるさいいい!」と倉庫から飛び出してきたのは、それから、すぐのことだった。
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