女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  薬草と商人5−12  

 それより数日後、ハイライン伯爵家の別邸にて――
「……それで?」
 よく晴れた日。
 穏やかな午後のティータイム。
 庭の大樹がちょうどよくやや強めの日差しをさえぎり、また木々の間を吹き抜ける風が涼やかで心地よく、丁寧に手入れされた花壇では、色あざやかな花々が咲き誇り、その周りを薄紫や黄色の蝶々がひらひらと舞っている様子は、目を楽しませる。
 そんな屋敷の美しい庭の中心には、瀟洒なテーブルと椅子、そのテーブルの上には、ティーポットや砂糖入れが置かれており、お茶の支度がなされているのだとわかる。
 染みひとつない、真っ白なテーブルクロスがかけられたテーブルの上には、紅茶や焼き菓子、サンドイッチやフルーツの砂糖漬けなどが、彩り豊かに、また繊細に並べられていた。
 ふわり、とした軽やかな紅茶の芳香も、忘れるわけにはいかないだろう。
 それらは全て、アレクシスの従僕であるセドリック、彼一人の手によって用意され、また整えられたものである。
「……それで?結局、その後は、どうなったのかしら?セドリック」
 アレクシスの母――ルイーズは、椅子に腰かけて、右手で膝の上にのせた白猫のパールを撫でながら、給仕をするセドリックに、そう尋ねる。
 例の青薔薇の騒動が、一応の解決をみてから、何日か経ったが、その後、どうなったのか、ルイーズは気にしてはいたが、まだ聞いていなかった。
 彼女自身が直接、青薔薇の一件に関わったわけではなかったが、それなりに危険な目にもあったらしい、息子のアレクシスのことを思えば、母親として、無関心でいる気にはなれない。
 そんな貴婦人の膝の上で、白銀の毛並みを持つ猫は、ポカポカとしたあたたかな陽気に、気持ち良さそうに目を細め、うとうととまどろんでいる。
「あ、はい。それでですね、奥方様……」
 それで、その後、どうなったの?という、ルイーズの問いかけに、セドリックはうなずいて、ティーポットを持ち上げ、紅茶をそそぎながら答えた。
 事件のその後について、主人であるアレクシスから聞いた話を。
「結局、青薔薇の頭である男が、警備隊に逮捕されたことで、組織はバラバラになったようですね……青薔薇の中には、いまだ警備隊から、逃げ回っている者も少なくないようですが、先に逮捕された者たちが口を割れば、まぁ、いずれ捕まるのは時間の問題でしょう。ですが……」
 それよりも、むしろ青薔薇に盗まれたもの、奪われた金や宝石、それに『賢者の書』の一部、あと美術品の類の回収が大変だそうです。大半は金に代えられていて、一度、裏のルートで売られてしまった美術品というのは、なかなか表に出てこないそうで……
 取り戻すのは、相当に苦労するでしょうね。セドリックがそう続けると、ルイーズは「ふぅ……」とため息をついた。
 青薔薇の騒動が一応、解決しても、それで全ての問題が、いきなり消えてなくなるわけではない。
 首領であるアシュレイが捕まったとはいっても、あのセノワの町で、青薔薇が広めたというリドガ草は、何人もの中毒者を出し、それは未だ禍根となって、あの町に巣食っているのだから。
 あとはどうか時間が、セノワの町につけられた深い傷を、ゆっくりと癒してくれることを、祈るしかない。
「そう……では、青薔薇の一件が解決するまでは、まだまだ時間がかかりそうね。そう簡単にはいかないでしょうけれど、早く、本当の意味で、事件の傷が癒える日が来ると良いのだけれど……」
 ルイーズは神妙な表情でそう言うと、「それにしても……」と言葉を続ける。
「それにしても……警備隊の方々には、仕事とはいえ、危ないところを助けていただいて、感謝しなければね。もう少し、青薔薇のアジトに踏み込むのが遅ければ、きっと、シア……といったかしら?あの商人の少女の命も、危うかったことでしょう」
 セドリックは「ええ、奥方様のおっしゃる通りです」と言い、うなずく。
 そして、ルイーズに「紅茶をもう一杯、いかがですか?奥方様」と尋ねた後、若様――アレクシスから聞いた話を口にした。
「何でも、青薔薇のアジトになっていた倉庫ですが、何年も使われていないはずなのに、人の出入りがあるらしいと噂になっていて、警備隊も怪しいと前々から目をつけていたそうです……それで、今回の件でリーブル商会とも協力をして、例の倉庫に踏み込んだのだとか……」
「そういうことだったの……」
 シアという少女が監禁されていた倉庫を、警備隊が迅速に見つけられた裏には、そんな事情があったのかと、セドリックの説明を聞いて、ルイーズは納得した。
 それならば、青薔薇のアジトに、警備隊が手際よく踏み込めた理由も、今更ながら納得がいく。
 青薔薇の首領である男は、油断していたのかもしれないと思うくらい、あっさり捕まったらしいが、まぁ、罪人が捕まえられる時というのは、そんなものなのだろう。
「はい。若様からお聞きしたことを、そのままお話しさせていただいているだけですが、そういうことだったそうです……でも、でも、でもですね!奥方様っ!」
 セドリックはそこで、いきなり声を張り上げた。
 それまで淡々と話していたセドリックが、急に「でも、でもですね!奥方様っ!」と声を張り上げたことに、ルイーズは驚き、思わず、手にしていたティーカップを、地面に落として割りそうになった。
 しかし、それを貴婦人としての意地で何とか耐え、内心の動揺はともかく、息子と同じく表情だけは平静のまま、「な……何かしら?セドリック?」と話の続きを促した。
 セドリックはティーポットを高くかかげ、もう片方の拳を握りしめ、力強い声で断言する。
「でも、でもですね!奥方様っ!あの商人の小娘が、無事に助かったのは、やはり……若様の、若様のお力が大きかったと、そう思われませんか?」
「アレクシスの……?」
 ルイーズが息子の名を問い返すと、忠実なる従僕、セドリックは「ええ!」と誇らしげに断言する。
 そんな彼の緑の瞳は、主人であるアレクシスへの敬愛の気持ちで、キラキラと輝いていた。
 ……それはもう、いささか目にまぶしいくらいに。
「あの商人の小娘を助けるために、危険をかえりみずに、青薔薇のアジトに飛び込んでいったんですから!民を助ける為に、己の命をかける……さすがは、若様!騎士の鑑ですっ!王剣ハイラインの嫡子は、そうでなければ!」
 母親の贔屓目があるにしろ、ルイーズにとっても、アレクシスは息子としては、多少、頑固なところはあるが、真面目で優しい良い子だと思っている。
 しかし、セドリックのそれは、いささか褒めすぎではないだろうか……?
 昔からのことではあるが、従僕のセドリックの、主であるアレクシスに対する敬愛っぷりに、いささか圧倒されつつ、アレクシスの母であるルイーズは「そうね」とうなずく。
「そ、そうね。少し、褒めすぎかとは思うけれど。でも、貴方は本当に、良い従僕ね。セドリック……こんなにも心をこめて仕えてもらえるんて、あの子は、アレクシスは幸せ者だわ。いつも、ありがとう」
 それは、ルイーズの、アレクシスの母としての心からの言葉だった。
 今でこそ、セドリックも普段通りであるが、あの夜、商人の少女を助けるために出ていったアレクシスの帰りを、従僕である彼はほとんど仮眠も取らず、無事に帰ってくることを信じて、祈るように、じっと待っていたことを、そのことを、そのセドリックの気持ちを、ルイーズは決して忘れはしない。
 損得抜きで主人の身を案じ、主人の喜びを我がことのように喜んでくれるような従僕を得ることは、決して簡単ではない。
 息子は、アレクシスは幸せ者だ、本当に。
「いえ……私など、まだまだ未熟者で、至らぬところばかりです」
 セドリックは首を横に振ると、照れたように小さく笑う。
 主人のこととなると熱く語るのに、自分のこととなると控えめというか、あまり語ろうとはしない。そんなところは、本邸に仕えている執事、セドリックの父とよく似ている。
 照れるセドリックを、微笑ましげに見つめながら、ルイーズは「それはそうと……」と唇を開いた。
「それはそうと……あの子、アレクシスは?どこにいるのかしら?」
「ああ、はい。若様なら……」
 ルイーズの問いかけに、セドリックが若様の居場所を答えようとした、その時だった。
「――母上」
 その声に、ルイーズの膝でまどろんでいた白猫が、ニャア、と鳴きながら、目を覚ます。
 ルイーズが「母上」と声のした方に目を向けると、漆黒の髪の青年が庭に足を踏み入れ、こちらに歩み寄ってくるところだった。
 腕に猫を抱いたまま、ルイーズは椅子から立ち上がり、息子の名を呼ぶ。
「アレクシス。お帰りなさい。あら……?」
 息子の後ろには、その長身に隠れるようにして、もう一人、小柄な人がいた。
 アレクシスの背中から、ちょこんと顔を出したのは、白銀の髪の少女。
 庭を吹き抜ける風が、長い銀の髪を揺らし、陽光に照らされたそれは、きらきらと眩い銀の光を放つ。
 意思の強そうな、だが、今は少しばかり不安そうな青い瞳が、こちらを、ルイーズを見ていた。
「貴女は……」
 シアさん……?
 そうルイーズが言う前に、隣のセドリックが渋い顔で「来たな。じゃじゃ馬娘……」と言い、アレクシスの背中にいた少女――シアが「うるさい。来て、悪かったわね!」と、従僕を睨んで言い返す。
 その後、アレクシスの背中から出てきたシアは、ルイーズに対して、やや緊張した面持ちで、それでも視線はそらさず、「こ、こんにちは」と挨拶をする。
「こ、こんにちは」
「……こんにちは、シアさん。大変だったようですけれど、貴女が無事に戻られて、本当に良かったわ」
 以前に息子のことで、かなり険悪なムードになったとはいえ、若い娘が危険な目に合いながらも無事であったことを、素直に喜べないほど、ルイーズの心は狭くない。
 無事で良かった。
 アレクシスの母が、シアにそう言った気持ちに、嘘はなかった。
「あ、ありがとうございます。あの、アレクシスが助けに来てくれて、本当に助かりました。えっと、その……」
 ルイーズに礼を言ったっきり、えっと、その、えっと……などと、彼女にしては珍しく、歯切れの悪いシアを見かねて、アレクシスが「……母上」と助け船を出す。
「母上……よくわかりませんが、シアが母上に話したいことがあるというので、俺が連れてきました。まずは聞いてください。ほら、シア……」
「あ、うん。ありがと。アレクシス」
 気遣うようなアレクシスの言葉に促されて、シアは「うん」とうなずくと、心を決めたように顔を上げて、曇りのない青い瞳で、真っ直ぐにルイーズを見た。
 ルイーズは黙って、その視線を受け止める。
 一度、すぅ、と息を吸うと、シアは緊張した表情で、だが、揺るぎのない眼差しをして、ここ数日の間、ずっと考え続けていたことを言葉にした。
「えっと……まずは、最初に謝ります。今まで、あたしを庇って、アレクシスが怪我をしたことが何度もありました。アレクシスのお母様が、あたしに怒られるのは、もっともというか、当然のことだと思います……そのことは、本当にごめんなさい」
 深々と頭を下げるシアに、アレクシスが驚いたように、「それは、違う」と声を上げた。
「それは、違う。怪我をしたのは俺の責任だし、庇ったのも自分の意志だ。そんな風に、シアが謝ることじゃない」
「アレクシス……」
 シアはちらっ、とアレクシスの方を見たものの、ゆるゆると首を横に振る。
 アレクシスは母親の方を向いて、
「そうでしょう?母上」
と、問う。
 ルイーズは、息子の方に顔を向けると、やや厳しい声音で言った。
「アレクシス」
「はい」
「少し黙っていなさい。今、これは、私とシアさんの話です」
 母親にそこまでキッパリと言われては、アレクシスとしても、それ以上、何も言うことが出来なかったのだろう。
「……出過ぎた真似を致しました、母上。お許しください」
 そう言って、まだ何か言いたげではあったものの、アレクシスは後ろに下がる。
 ルイーズは再び、シアの方に向き直ると、
「この前は、私の方こそ、きついことを口にしてしまって、申し訳なかったわ。ごめんなさいね……それで、他にも何か、おっしゃりたいことがあるの?シアさん」
と、まだ言いたいことがありそうなシアに、話の続きを促した。
「あ、はい。それで……」
 シアは首を縦に振り、続けた。
「出来れば、アレクシスに怪我なんかしてほしくないし、剣が使えないからって、守られているだけなのは嫌なんです。でも、これからも、あたしが女王陛下の商人である以上、危険な目に合わないとは、お約束できないです。だから……」
「……だから?」
 ルイーズが問いかけると、シアはほんの少しだけ、アレクシスの方に目を向け、それからまたルイーズの方に向き直ると、何かを決意したように、凛とした声で言った。
「だから、あたしも与えられるばかりじゃなくて、アレクシスのことを助けますし、守ります。戦う力はないかもしれないですけれど、アレクシスが悩んだり、迷ったりした時には、必ず、力を貸します……あたしが、そうしたいんです」
「……」
 言葉と同時に、真っ直ぐに自分を見つめてくるシアの青い瞳から、ルイーズは目を逸らすことが出来なかった。
 シアは続ける。
「あたしは騎士のように、剣も武器も持ちませんけど、それを恥とは思いません。その代わりに、商人には言葉の力と、商いを通じて、人と人を繋ぐという役目がありますから……商人はそれで、家族や恋人、大切な人を守っているんです」
「シアさん……」
「あたしは……」
 シアはルイーズの目を正面から見つめて、ひとこと、ひとこと、大切に言葉を紡いだ。
 自分の気持ちを、出来る限り、相手に伝えようとするように。
「――あたしは、商人であることを、誇りに思っています。アレクシスが、騎士であることを誇りに思っているのと同じように」
 そう言って、シアは顔を上げ、ルイーズを見つめる。それは、リーブル商会の跡取り娘としての言葉ではなく、ただのシアとしての言葉だ。
 シアのそれは、真摯といえば真摯で、また青いとといえば青く、若いゆえの無謀さもあり、決して流暢ではなく、どちらかといえば拙い言葉だった。
 しかし、その分、嘘や打算というものがない。
 ルイーズもまた、シアの視線を受け止め、同じように、見つめ返す。
 彼女の灰色の瞳に映ったのは、少し不安そうな顔をして、でも、視線を逸らさずに、真っ直ぐにこちらを見つめてくる銀髪の少女。
 そして、後ろから、そんな彼女を見守る、息子の、アレクシスの姿だった。
「……」
 この、シアという少女の言葉だけで、何が変わるわけでもないと、ルイーズは思う。
 アレクシスの母として、息子が傷つくことは受け入れられないし、亡き妹のことや、商人へのわだかまりが、一瞬で消えてなくなるわけではない。
 しかし……
 今となっては、そのシアの言葉を否定するだけの理由を、ルイーズは持たなかった。だから、彼女はふぅ、と息を吐くと、後ろにいた息子の従僕に「……セドリック!」と、呼びかける。
「……セドリック!」
「あ、はい。何でしょうか?奥方様」
「私は、そろそろ本邸に、領地に帰ることにします。支度を手伝って」
 奥方様のいきなりの呼びかけに、セドリックは、何だろうか?という顔をする。
 そんな彼に、 ルイーズは領地に帰る、と告げた。
 ここ、王都を去り、ハイライン伯爵家の領地に帰るのだと。
 急に言われたそれに、セドリックと、その後ろにいたアレクシスも驚いた。
「もう、お帰りになられるのですか?奥方様」
 二人分の心境をまとめたように、セドリックが奥方様――ルイーズに、尋ねた。
 今は亡きハイライン伯爵、その夫人であり、現在は亡き夫に代わり、ハイライン伯爵家の領地を切り盛りするルイーズが、いずれ息子のいる王都を去り、領地へと帰ることは、最初からわかっていたことだ。元々、息子の、アレクシスの様子を見るために、王都に来ていただけなのだから。
 近いうちに帰るのはわかっていたが、それは、もう少し先のことかと、セドリックもアレクシスも思っていたのだ。
 しかし、驚いた風な息子やその従僕とは対照的に、すでに心を決めていたのだろう。
 領地に帰ると言ったルイーズに、迷いはなかった。
「ええ、もう帰ります。ずいぶんと長く王都に居たし、もう領地に帰らないと、皆に心配をかけてしまうわ。本当は、アレクシスの顔だけ見たら、すぐに帰るつもりだったのだけれど、色々あって長い間、領地を離れてしまったわね。そろそろ帰らないと……」
「そうですか……どうか、道中、お気をつけて、領地にお戻りくださいませ。奥方様」
 少し寂しそうに言って、頭を下げたセドリックに、ルイーズはふっと柔らかな微笑を浮かべて、提案した。
「何か、家族に伝えたいことがあれば、手紙を書きなさい。セドリック……私が代わりに、渡しておいてあげるわ」
 ハイライン伯爵家の領地にある本邸には、セドリックの父と妹が、それぞれ執事とメイドとして働いている。
 アレクシスについて王都で暮らし、家族と離れているセドリックは、手紙を渡してくれるという、ルイーズの心遣いに「えっ、よろしいのですか?奥方様……ありがとうございます」と、明るい、嬉しげな声を上げた。
 ルイーズは首を縦に振り、「いいのよ、セドリック……きっと安心するでしょうから、手紙を書いて、家族に元気だと伝えてあげなさい」と言って、次に、少しばかり複雑そうな顔をしている息子の方に顔を向けた。
 そして、「アレクシス……」と息子に呼びかける。
「アレクシス……長い間、貴方にも色々と世話をかけましたが、母はもう領地に帰ります……これからも、女王陛下のお役目、ハイライン伯爵家の名に恥じぬよう、しっかりと励みなさい」
 母にそう言われたことで、アレクシスは表情を引き締め、うなずいた。
「はい。まだまだ至らぬ身ですが、王剣ハイラインの名を汚さぬよう、努力します。母上も、道中、お気をつけて」
「ありがとう……それから、どうか父上との約束も、忘れぬように」
「ええ、わかっております」
 行方知れずになっているハイライン伯爵家の宝、聖剣オルバートを探すという亡き父との約束を、アレクシスが忘れるはずもない。
 息子の返事に、母のルイーズは微笑み、「貴方のこと、信じていますよ。アレクシス」と、言う。
「貴方のこと、信じていますよ。アレクシス……ああ、いけない。危うく、一番、大切なことを伝え忘れることだったわ」
「大切なこと……?まだ何かありましたか?母上」
「ええ、母親にとっては、一番、大切なことよ……」
 大切なこととは?そう首をかしげる息子を……アレクシスを、ルイーズは見上げた。
 容姿も性格も、亡き夫に似た息子。
 昔はあんなに小さかったのに、十八になるアレクシスの身長は、今や母親であるルイーズを見下ろすほどに高く、騎士として鍛えられた体は頼もしい。
 いや、もちろん、身長だけではない。
 十八といえば、もはや母親にただ守られているだけの子供ではなく、アレクシスもまた自分の意思で、守るべきものを選ぼうとしている。
 もう母親の手など、必要ないかもしれないとも、ルイーズは思うが、それでも、たったひとつ、ずっと変わらないものがある。
 ルイーズは息子を見つめ、穏やかな声で続けた。
「とにかく、元気で、そして、健康でありなさい。アレクシス……それだけが、この母の望みです」
 たとえ、幾つになっても、母親にとって、息子は息子なのだ。
 どうか、我が子が、元気に健やかに日々を過ごせますよう。
 色々と口うるさく言ったとしても、母親にとって、それ以上の望みなどありはしない。
「……母上」
「どうか、忘れないで、アレクシス……貴方がどこにいても、何をしていても、母は貴方のことを愛しています。私が言いたいのは、それだけです」
 ルイーズの、母の言葉に、アレクシスはゆっくりと、ゆっくりと、うなずいた。
 その言葉にこめられた愛情を、受け止めようとするように。
「……はい。母上も、領地の皆と一緒に、どうか、お元気で……いずれ仕事が一段落しましたら、俺も一度、領地の方へ戻ります」
 ルイーズはうなずき、「そうしてくれると、嬉しいわ。皆にも、そう伝えておきます」と言った後、アレクシスの横にいたシアの正面に立つ。
「――シアさん」
 いきなり、ルイーズに名を呼ばれたシアは、少し驚いたようだった。
「あっ、はい」
 先程から、くるくるとよく表情を変える、淡雪のように儚げな容姿ながら、実際は太陽のように、生気にあふれた商人の少女……シアを、ルイーズはどこか眩しげに見つめる。
 若く、未熟で、悩みやすく、だが、周囲を、短い時間でアレクシスに変化をもたらすほどに、明るさと、また悩んでも挫けぬ、芯の強さを持った少女――
 己の商人に対する、長年に渡るわだかまりが、果たして、さっぱり消えてなくなる日が来るのか、ルイーズ自身にすらわからない。だが、このシアという少女の存在が、父親やシルヴィアを失ったアレクシスの心の傷を、ゆっくりと癒しつつあるのだとすれば、それは母親として、何よりも喜ぶべきことだ。
 ……自分が腹を痛めた息子ながら、アレクシスは根が真面目すぎるせいか、かなり、呆れるくらい鈍感だ。きっと、まだこの少女に対する気持ちに、自覚はないに違いない。まったく……前にも思ったが、アレクシスのあの鈍感さは、いったい誰に似たのだろう?たぶん自分ではないと思うから、夫の方だろうと思いたい。
 そんなことを思いながら、ルイーズは「シアさん……」と銀髪の少女の名を呼び、続けた。
「シアさん……私は領地に帰りますけど、いずれ、またお会いしましょう。その時まで……」
 どうか、鈍い息子のことをよろしく、という言葉は、声にはせず、胸の内に留めておいた。
 アレクシスが己の気持ちに気づかぬうちは、まだ過去を吹っ切れぬ今は、まだまだ早すぎる言葉だろう。
 あっさりとした別れの言葉ではあったが、そのルイーズの言葉にこめられた気持ちを、何となく感じ取ったのか、シアはにこっと微笑んで、明るい声で言った。
「はい。いずれ、また!」
 そんなシアの声に起こされたのか、ルイーズの腕の中でまどろんでいた、パールという白猫がもぞもぞと動き、「……ニャア」と愛らしい鳴き声を上げる。
 シアはちょっと驚いたように目を丸くした後、白銀の毛並みの愛らしい猫に、わぁ!……とはしゃいだ声を出し、「わぁ!かわいい!……撫でても、良いですか?」と言って、ルイーズやアレクシスやセドリックが止める間さえなく、腕の中の白猫に手を伸ばす。
 ……それが、悲劇のはじまりだった。
 アレクシスもセドリックも、もちろんルイーズも、その場にいたシア以外の誰もが知っていた。
 この愛らしく、また気位の高い白猫……パールは、主人であるルイーズ以外には全く気を許さず、うかつに撫でようとすると、大変なことになるのだった。
 ルイーズは「待っ……」と止めようとしたが、あと一歩、間に合わず、セドリックは後の惨劇を予想して、なんてこったと、大げさに天を仰いだ。
 その直後、ぎにゃあああああっ!という、シアの悲鳴が、周囲な響き渡った。
「かわいい……ぎにゃああああっ!痛っ!爪が痛いっ!顔、鼻、引っかかれた!」
 撫でようとした瞬間、撫でようとした白猫に、派手に顔、鼻の頭を引っかかれ、顔に赤い爪の痕をつけたシアは、ぎにゃあああ!と、まるで猫のような悲鳴を上げた。
 引っかいた猫の方はといえば、何事もなかったように、ペロッと前足を舐め、再び大人しく、主人であるルイーズの腕の中で、うとうとと丸くなる。
 その愛らしい姿は、とても惨劇を起こした当事者には見えない。
 代わりに、焦ったのは、アレクシスだ。
 シアの顔を見て、すまない、と慌てた声で叫ぶ。
「すまない!大丈夫か?シア……パールは、母上にしかなついていないから、他人が手を出すと、そうなるんだ」
 シアは、ううう……と唸り、すまない、と言ったアレクシスを睨む。
「そういう大事なことは、先に言ってよ!アレクシス!引っかかれてからじゃ、遅いわっ!」
「すまん。だが、止める間もなく、手を伸ばしたのは、シアだろう」
「しょうがないじゃない!だって、この白猫が、すっごく可愛かったんだもの!」
「いや、一言、俺に相談してくれれば……」
「猫を撫でるくらいで、いちいち相談なんかしないわよ!大体ねぇ……」
 いつ終わるともしれない、シアとアレクシスの会話に、目を丸くするルイーズの横で、セドリックがくっくっと笑いをこらえつつ「まぁ、あれくらいは、いつものことです」と言う。
 あれぐらいは、普段通りということらしい。
 よくよく見れば、シアは本気で怒っている風ではなく、アレクシスもまた彼女との会話を、どこか楽しんでいるようなのが、ルイーズにもわかった。
 顔に猫の爪の痕をつけたまま、ぎゃあぎゃあと元気に喋るシアを見て、セドリックが耐えきれないというように、くっくっと笑い出す。
 それにつられたように、ルイーズもクスリ、と柔らかく笑って「シアさん……」と、銀髪の少女に声をかけた。
「シアさん……このこに、私の猫に、パールになつかれるようになったら、アレクシスと一緒に領地に、本邸に遊びにいらっしゃいな……その日を、楽しみにしているわ」
 クスクスと楽しげに笑うと、腕に白猫を抱いたルイーズは、きょとんとするシアに背を向けて、屋敷の方へと歩き出す。
 その足取りは、まるで長年の憂いが薄れたように、心なしか軽やかだった。


 同じ頃、場所は変わって、王都ベルカルンからは、少しばかり離れた、フェンリルクという町――
 赤い屋根の、その町でもっとも大きく、広い敷地を持つ、立派な造りの屋敷。
 もともとは、とある貴族が所有していたのだが、三十年ほど前に屋敷の敷地ごと売りに出され、今では、平民だが商売で財をなした男が、若い妻と使用人たちと共に暮らしている。
「旦那様、お手紙が届いております」
 白髪に眼鏡をかけた、もうすぐ六十になろうという執事は、そう言って、うやうやしく主人に手紙を手渡す。
 この屋敷の主である男は「……ああ」とうなずくと、表情を変えるどころか、眉ひとつ動かさず、忠実な執事の手からその手紙を受けとる。
 そうして、彫像のような無表情のまま 、ペーパーナイフで手紙の封を切り、それを読み始めた。
 手紙の内容に目を通す間も、それが普通であるかのように、一切、その彫像のような無表情は変わらない。
 下手をすれば、冷淡にすら思われるほど愛想がないが、別に不機嫌というわけでなく、これが、この屋敷の主人である男の地なのである。
「……」
 灰色の髪に、黒のまじった灰色の瞳。
 実際の年齢は、四十を少し過ぎたところなのだが、無駄な贅肉を一切そぎおとしたように、ガリガリに痩せているので、他人からはやや年嵩に見られる。
 容貌は、よくよく見れば、目や鼻や唇、ひとつひとつはそれなりに整っているのだが、いかんせん、表情の変化が乏しいというか、ほとんど皆無なせいで、どこか冷徹そうな印象を与えた。
 鋭い眼光は、お世辞にも優しげとは言えず、小さな子供ならば、怯えて泣くかもしれない。
 そんな男の名は、カイル=リスティン。
 若き日、南方との貿易でかなりの財をなし、リーブル商会の二代目、クラフト=リーブルには及ばぬものの、商人たちの間では、広く名の知られた男である。
「……ふむ」
 手紙を読み終えた、その男――カイルは、相変わらず、彫像のように表情を変えぬまま、ふむ、とうなずいた。
 その手紙の内容について、何事かを考えるように腕組みして、しばし沈黙していたカイルだったが、背後から靴音がしたことで振り返る。
 コツコツ、と階段を降りる音と同時に、上から柔らかな女の声が降ってきた。
「あなた」
 品の良い、柔らかで、落ち着いた声だった。
「……お前か」
 階段の方を向いたカイルは、階段からおりてくる女に、己の妻に向かって呼びかける。
「はい」
 夫であるカイルの言葉に、女は微笑みながらうなずくと、カイルのいる長椅子のところまで、淡いクリームのドレスの裾をさばきながら、優雅な、ゆったりとした足取りで歩み寄ってくる。
 カイルの妻というには、せいぜい二十になったかならぬかであろう、その女は若かった。
 年齢は、親子ほども離れているだろうか。
 ただの商人の妻というには、ずいぶんと美しく、また気品がある女だった。
 ゆるやかに波打つ黄金の髪に、優しげな翡翠色の瞳。
 顔立ちも美しく、清楚な印象の美女であるのだが、それ以上に優雅な仕草が、人の目を引く女だった。
 ひとつひとつの仕草が洗練されており、しかも、落ち着けがましくない上品さがある。
 裕福な商人の妻というよりも、どこぞの貴族の奥方と言われた方が、しっくりきそうな女だった。
「どうかなさいましたの?あなた……そのお手紙は?」
 女は小さく首をかしげると、夫のカイルに、そう尋ねた。
 翡翠色の瞳が、夫の手にある手紙を見る。
 カイルはああ、と無表情のまま首を縦に振ると、逆に若い妻に問い返した。
「前に話した、クラフト=リーブルという男のことを、覚えているか?……リーブル商会の長だ」
 夫の問いかけに、妻である女は、ええ、と微笑し、うなずく。
「ええ、覚えていますわ。リーブル商会の長は、あなたの昔からの、ご友人の方でしたわよね」
 カイルはそうだ、とうなずき、
「これは、王都のクラフトからだ」
と、手にした手紙を持ち上げる。
 その言葉に、女は「あら、そうなのですか」と納得したように言った。
「あら、そうなのですか……王都のお友達からのお手紙、通りで、あなたが嬉しそうだと思いましたわ」
「……嬉しそう?私がか?」
「ええ、そうですわ。ご自分で、おわかりになりませんか?あなた」
 そう言って、ふふふ、と微笑する妻に、カイルは表情には出さず、内心、かなわないな、と思う。
 昔から、表情が乏しいだの、冷徹そうだのさんざん悪口を言われ続けてきたが、内に抱いた感情を、この妻には隠せない。
 しかし、それを口に出すほど男は若くなかったので、さりげなく話題を変えた。
「クラフト=リーブルは……頭が良く、性格が明るく、仕事が出来て、話が上手いという、まさに商人の理想のような男だ。私とは、正反対のな……だが、私の友人だという奇特な人間だ」
 カイルの淡々としていながらも、友人であるクラフトへの親愛がにじみ出て言葉に、妻である女は笑顔で「あなたがそうおっしゃるなら、きっと素敵な方なのでしょう」と言う。
「リーブル商会の長は、あなたがそうおっしゃるなら、きっと素敵な方なのでしょう。私は残念ながら、まだ一度もお会いしたことはありませんけれど、そう思いますわ」
 妻の言葉に、夫はああ、と淡々とした声で答える。
 別に、不機嫌なわけではなく、それが地なのだ。
「ああ……先代に似て、酒好き、女好きだが、良い男だ」
「ふふ。明るくて、楽しそうな方ですわね……それで、そのお手紙は王都のクラフトさまから?あなたに、何のご用事ですの?」
 妻の問いかけに、カイルは短く、「……祭りだ」と答える。
 祭り、という言葉に、妻は小首をかしげ、翡翠色の瞳で夫を見つめた。
「お祭り……?」
 不思議そうな顔をする妻に、カイルは「ああ」とうなずいて、説明する。
「行ったことはなくとも、話しぐらいは聞いたことがあるだろう。二ヶ月後、王都で大きな祭りが行われる。聖エルティアの祝祭というんだが……クラフトからの手紙は、その件だ。久しく会っていなかったからな。祭り見物をしに、久しぶりに王都に来ないかと」
 聖エルティアの祝祭。
 カイルが、アルゼンタール王国三大祭りの名を上げると、彼の若い妻は「まぁ」と、唇をほころばせる。
「まぁ、それは楽しそうですわね。お気をつけて、いってらっしゃいませ。あなた」
「いや……」
 カイルは首を横に振り、
「良ければ、一緒に王都に行かないか?」
と、続けた。
「私が、ですか?」
 少し驚いたような妻の言葉に、カイルは「ああ、そうだ」と、うなずく。
「ああ。もちろん、お前が行きたければだが……クラフトには、娘が一人いてな、シアというんだが、良い話し相手になるだろうと、手紙に書いてあった。どうする?……」
 そこで一度、言葉を切ると、カイルは妻の名を呼んだ。
「――シルヴィア」
 妻の名は、シルヴィア。
 旧姓を、シルヴィア=ロア=シューレンベルク。
「ええ、あなたさえ良ければ、ぜひ王都に行きたいですわ」
 そう答えて、彼女は――シルヴィアは、アレクシスのかつての婚約者であった女は、綺麗な翡翠色の瞳を細めて、嬉しそうに微笑んだ。
 
 ――王都ベルカルンで行われる、聖エルティアの祝祭、それのおよそ二ヶ月前のことである。
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