女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  祝祭と商人6−1  

 それは、もう十年以上も昔のことだ。
 アレクシスが、まだ十にもならぬ、小さな子供だった頃の話である――


 まだわずかに冬の気配が残る、春の夜。
 空気がよく澄んでいて、星の綺麗な夜のことだった。
 夜空一面に広がる、満天の星。
 真っ暗な夜空に浮かぶ、柔らかな光を放つ、金色の月……。
 漆黒の夜空に、数え切れぬほどの銀の星が、きらきらと輝いている。
 果てなく広がる夜空は、どこまでも広く果てしなく、それでいて輝く銀の星々は、手を伸ばせば届きそうにも思える。
 そんな星のきらめく夜空を、土の匂いがする草の上に座り込んで見上げている、黒髪の少年がいた。
 まだ十にもならぬであろう、その小さな子供は、夜空にも似た漆黒の瞳で、じっと空を仰いでいる。
 辺りには誰もおらず、たった一人で。
 その黒髪の少年は、無言のまま、空だけを見つめている。
「……」
 長い冬を終え、ようやく春を迎えたとはいえ、いまだ冬の気配が残るこの地の夜は、それなりに冷える。
 しかし、辺り一面に広がる草原、その草の上に座りこんだ少年は、寒がる様子もみせず、きっと唇を結んで、夜空を見上げていた。
 ひやり、とした夜の風が頬をなでても、少年はその場を動こうとはせず、両手で膝を抱えて、夜空に輝く星を見続ける。
 ――その漆黒の瞳は、星というよりも、どこか遠くを見つめているようであった。 
 静かだった。
 風の吹く音、草花の揺れる、ささやかな音の他には、何の音もしない。
 時折、風がさわさわと草花を揺らす音さえなければ、完璧な静寂と言えるだろう。月明かりのみに照らされたその場所は、穏やかな静けさに満ちていた。
「……ひっ……くっ……」
 そんな静けさの中、夜空を見上げていた少年の喉から、小さな、小さな嗚咽がもれた。
 まるで、泣くことを厭うような、小さな、小さなそれ。
 よくよく見れば、その瞳には涙がたまっているのだが、少年は泣くのをこらえるように片手で目をこすり、決して、涙を流そうとはしなかった。
 その代わり、小さな膝を抱えて丸くなり、うつむいて、顔を伏せる。
 喉からは再び、ひっ……くっ……と、声にならぬ、声がもれた。
「……アレクシス?」
 その時だった。
 ガサガサ、と草をかきわける音と、柔らかな、だが、心配そうな少女の声がしたのは。
「……アレクシス?そこにいるの?」
 柔らかで、穏やかな声。
 耳慣れたそれに、顔を伏せていた黒髪の少年――アレクシスは、ゆっくりと顔を上げる。
 そうして、顔を上げた少年……アレクシスの漆黒の瞳に映ったのは、白いドレスを着た少女の姿だった。
 彼は、少しかすれた声で、眼前に立つ少女、三つ年上のいとこの名を呼ぶ。
「……シルヴィア」
 アレクシスに、シルヴィア、と名を呼ばれ、白いドレスの少女はふわり、と彼を安心させるように微笑んだ。
 少女――シルヴィアの金髪も翡翠色の瞳も、その優しげな顔立ちも、アレクシスとは全く似ていない。
 しかし、彼らは母親同士が姉妹のいとこ同士であり、生まれた時からずっと一緒に、まるで仲の良い姉弟のように育った。
 彼と彼女はまた、親同士の間で決められた約束で、将来の婚約者でもあったが、そのことは幼い彼らには、あまり関係がなかった。ただ、シルヴィアはアレクシスを弟のように可愛がり、アレクシスはシルヴィアを姉のように慕い、仲が良かったことは確かだ。
 その証拠に、シルヴィアは翡翠色の瞳で、優しくアレクシスを見つめると、いまだ草の上に座りこんだままの彼に、そっと白い手を差し伸べる。
 まだ幼さの残る、小さな手をアレクシスに差し伸べながら、シルヴィアは穏やかな声で言う。
「ずっと、ここに居たの?アレクシス……あなたが暗くなっても帰ってこないから、おじさまもおばさまも、さっきから心配しているわ……もう帰りましょう?」
「……」
 差し伸べられたシルヴィアの、姉のような少女の手を、アレクシスは握り返したものの、彼はぎゅっと唇を引き結んだまま、その場から動こうとしなかった。
 動けないのではなく、動きたくないという態度だ。
 いつになく頑固なアレクシスの態度に、シルヴィアは「アレクシス……?」と、小さく首をかしげる。
「アレクシス……?」
 シルヴィアに名を呼ばれても、アレクシスは無言のまま、何も答えようとしない。
 握りしめた手が、かすかに震えていた。
 翡翠色の瞳に、少し困ったような色を宿しながら、シルヴィアはもう一度、「アレクシス?……どうしたの?」と手を繋いだ少年に、問いかける。
「アレクシス?……どうしたの?」
 シルヴィアにそう問いかけられても、しばらくの間、アレクシスは黙っていたが、やがて唇を開き、小さな声で言った。
「……死んだんだ」
 どこまでも暗く、悲しげなアレクシスの言葉に、シルヴィアは「え……?」と言ったきり、言葉を失う。
 再び、顔を伏せたまま、少年は続ける。
「リウィアが……リウィアが、死んだんだ……生まれた仔馬も、すぐに死んでしまった」
 喉の奥から絞り出したような、かすれる声でそう言うと、アレクシスは小さな肩を震わせた。
 涙を流すまいと、必死に耐えてはいるが、辛いのだろう。
 繋いだ手をかたく握りしめるアレクシスの瞳は、涙でうるんでいた。
 ――リウィアは、アレクシスの家で飼っていた牝馬だった。
 騎士の家柄である彼の家では、何頭もの馬を飼っている。
 それらの馬の中には気性の荒いものもいるが、リウィアは穏やかで、賢く、子供にも優しい馬だった。
 それは、アレクシスの父も、馬の世話をしているハンスも認めるほどで、アレクシスが乗馬の練習をするのは決まって、リウィアだった。
 芦毛の綺麗な毛並みで、アレクシスがそっと毛を撫でると、いつも機嫌が好さそうに、鼻先をすりよせてきた。
 優しい黒い瞳で、こちらを見ながら。
 そんなリウィアのことが、アレクシスは好きだった。だから、リウィアが仔馬を生むのだとわかった時、一番、喜んだのは彼だった。
 歓声を上げて喜ぶタイプの子供ではなかったが、それでも、冬からずっと、仔馬が生れる日を指折り数えて待っていたのだ。
 父が、生まれた子馬の名前は、アレクシスにつけさせてくれると約束してくれた。
 その日からセドリックと二人で、仔馬にどんな名前をつけようか、ずっと考えていたのだ。
 なのに……
 シルヴィアと繋いだ手とは、反対の手のひらに爪を立てながら、アレクシスは「父上が……」と、言う。
「父上が、言っていた。難産で、ハンスも手を尽くしてくれたけど、リウィアも仔馬も助からなかった。可哀相だけれど、仕方ないことだって……母上は、リウィアの魂が無事に天国に辿りつけるように、祈ってあげなさい、って」
 大人たちは皆、仕方ないことだと言ったけれど、アレクシスはリウィアがいなくなったことが、信じられなかった。
 二つ年上のセドリックは、悲しいながらも納得したような顔をしていたけれど、アレクシスはどうしても信じられなくて、何度も何度も馬たちのところに足を運んだ。
 でも、リウィアの居た場所は空っぽで、ハンスが掃除をしているだけだった。
 ……その時、アレクシスはもう二度と、あの優しい馬には会えないのだと、本当の意味で悟った。
 それがわかると、胸がぽっかりと穴があいたような寂しさと苦しさでいっぱいになったアレクシスは、どうしていいかわからなくなって、こんな場所まで来てしまったのだ。
 この星空がよく見える草原は、前に父上とシルヴィアと、そして、リウィアと一緒に来た場所だったから。
 あの日は晴れていたけれど、今は星がよく見える。
「……そうだったの、辛かったわね。アレクシス」
 アレクシスの話を聞いたシルヴィアは、静かにそう言って、翡翠色の瞳を伏せた。
 そうして、彼女は繋いだのとは逆の手で、自分より頭ひとつぶん低い、アレクシスの黒髪をそっと、優しく撫でる。
 さらさらと髪を撫でる小さな手を、少年は拒もうとはせず、軽く目をつぶり、されるがままにしていた。
 しばらくしてから、シルヴィアは髪を撫でていた手を止めて、まだ十にもならない、幼いいとこの――アレクシスの顔を見つめて、気遣うように言う。
「悲しいでしょう。辛かったら、泣いてもいいのよ……アレクシス」
 シルヴィアの言葉に、アレクシスは小さくうなずきかけ、だが、首を横に振った。
「……泣かない。父上と約束したから」
「おじさまとの……約束?」
 首をかしげるシルヴィアに、アレクシスは、うん、とうなずく。
 そうして、王剣ハイラインの名と、高潔なる騎士の血を受け継ぐ少年は、幼いながらも、堂々とした口調で答えた。
 漆黒の瞳に、強く……少し、哀しい決意を宿して。
「うん。前に、父上から言われたんだ。立派な騎士はそう簡単に、涙を流したりしたいものだ、って。悲しくても、辛くても、我慢しなきゃいけないことはあると……だから、泣かない」
 アレクシスの言葉を聞いたシルヴィアは、そう、とほんの少し、寂しげに微笑む。
 立派な騎士はたしかに、そう簡単に泣いたりしないものかもしれないが、まだ自分よりも背も低く、まだ幼いいとこに、それを守れというのは……少しばかり酷な気が、彼女はした。
 騎士の子というのは、騎士になるというのは、そういうことなのだろうか。
「そう……アレクシスは、強いのね」
 シルヴィアがそう言うと、アレクシスはそんなことはない、と首を横に振る。
「そんなことはない。まだ強くなんかない。ただ、王剣ハイラインの名を継ぐ者は、騎士になる者は、泣いちゃいけないんだ。でも、シルヴィアは……」
「……私は?なぁに?」
 不思議そうな顔をする、三つ年上の美しい少女、姉のように慕ういとこに、アレクシスは泣きかけて赤くなった目元をこすりながら、精一杯、凛とした声で言おうとした。
「シルヴィアは、辛いんだったら、泣いた方がいい。悲しい時とか苦しい時とか、我慢していると、もっと辛くなるから……泣きたい時は、泣いた方がいいんだ」
「アレクシス……」
「シルヴィアも、リウィアのこと好きだっただろう?だったら、辛いのは一緒だ。泣きたいんだったら、泣いて……」
 そう言って、アレクシスは繋いだ手をぎゅっと強く握ると、シルヴィアを見上げながら、言葉を続けた。
「……僕が、そばにいるから」
 今にも泣きそうな、うるんだ目をして、それでもアレクシスは「泣きたいんだったら、泣いて。僕が、そばにいるから……シルヴィア」と、お世辞にも流暢とは言えぬ、たどたどしい口調で言う。
 泣きたいのは、自分の方だろうに……
 そう思いつつも、シルヴィアはそんなアレクシスの、頑固といえば頑固、純粋といえば純粋な性格を、愛おしく思っていた。だから、彼女は柔らかく微笑んで、「ありがとう。アレクシス」と言った。
 少年の目に、うっすらとにじんだ涙には、気づかないふりをしておく。
 幼い騎士の誇りを、傷つけぬよう。
「ありがとう。アレクシス……あなたがそばにいてくれるなら、安心ね」
「う、うん。今はまだ父上みたいに、強い騎士じゃないけれど、いつか、きっと強くなるから、その時まで一緒に居てくれる?シルヴィア」
「ええ、きっと」
 シルヴィアがうなずくと、アレクシスは安堵したように、少し、ほんの少しだけ微笑う。
「ありがとう。シルヴィア」
 まだ悲しげな表情ではあったけれど、先ほどよりも落ち着いた様子のアレクシスに安堵して、シルヴィアは帰ろうという風に、繋いだ手を引いた。
 すっかり暗くなってしまったから、待っている自分やアレクシスの両親たちにも、心配をかけてしまっているだろう。
 そう思いながら、シルヴィアは繋いだ手を引いて、帰りましょう、とアレクシスに言った。
「さぁ、そろそろ帰りましょう。アレクシス……おばさまもおじさまも、きっと心配しているわ」
 アレクシスはうなずいて、繋いだシルヴィアの手を握りしめ、屋敷へと戻るための道を歩き出す。
 そうして、一歩、踏み出した瞬間、つぅ……とひとすじの涙が、少年の頬をつたう。
 透明なそれは、頬をつたい、ポタリ、と地面をぬらした。
「あ……」
 あ……と、小さな声を上げて、アレクシスは繋いだ手を、その次に、前を歩くシルヴィアを見た。
 我慢していたはずだったのに、泣いてしまった。
 泣かないって、父上に約束したのに……。
 アレクシスは後悔しながら、前を歩くシルヴィアの背中を見たが、彼女は一度も彼の方を振り返らず、それでいて繋いだ手を、絶対に離そうとはしなかった。
 振り返る代わりに、シルヴィアは柔らかな声で言う。
 暗い夜空に輝く、月と星を見上げて。
「ねぇ、見て……綺麗な月ね。アレクシス」
 夜空を照らす、金色の月を指差して、シルヴィアがうっとりしたように言った。
 アレクシスも、その言葉につられたように夜空を見上げる。
 暗い夜空に、数えきれぬほど銀の星がきらめいて、欠けたところのない金の月が浮かんでいた。
 月の、淡く、優しい月光が、彼ら二人の歩く道を照らしている。
 それは、ありふれた、だが、声にも言葉にもならぬほどに穏やかで美しい光景で、幼かったアレクシスは言葉もなく、ただ歩き続けた。
 月光の降りそそぐ道を、シルヴィアと二人で……

 その後、シルヴィアと二人で屋敷に戻ってからのことは、アレクシスは不思議と、よく覚えていない。
 暗くなってから、子供二人で歩いて帰ったのだから、自分を探しにきたシルヴィアはともかく、父上や母上やセドリック……屋敷の皆にかなり怒られたはずだし、心配もかけてしまったと思う。
 反省するように、しばらくの間、ひとりで納屋に入れられたかもしれない。
 その辺りのことも、全く覚えていないわけではないが、あの日から十年以上の月日が流れた今、記憶は曖昧だ。けれども、あの日の夜空の美しさと、シルヴィアと歩いた月光に照らされた道のことだけは、今でも、アレクシスははっきりと思い出せる。
 あれから、何年もの月日が流れ、彼女が故郷から遠く離れた地に嫁ぎ、己が十八になった今でも――


「あの日から、もう十年も経つのか……」
 ハイライン伯爵家の別邸、居間の椅子に腰をおろしたアレクシスは手紙を片手に、幼い頃の思い出、懐かしい過去へと思いを馳せた。
 彼の前、飴色に輝くテーブルの上に置かれているのは、すでに封を切られた、白い封筒。
 印璽には、剣と薔薇をモチーフにした紋章――アレクシスにとっては見慣れた、ハイライン伯爵家の紋が押されている。
 流麗と言える筆致で書かれた、手紙の差出人の名は、ルイーズ=ロア=ハイライン。
 アレクシスの母親だ。
 つまり、彼にとっては、遠く、伯爵家の領地にいる母から届いた手紙ということになる。
 普通ならば、遠く離れて暮らす母からの便りを、喜ぶなり懐かしむなりしそうなものだが、母親との関係は決して悪くないにも関わらず、その手紙を読むアレクシスの顔色は冴えない。
 手紙を読み終えたアレクシスは、難しい表情、やや憂いを帯びたような眼差しで、何事かを考えこむように腕を組む。
 漆黒の、深い深い色合いの瞳は伏せられて、彼が何を考えているのか読み取ることは、傍目には難しかった。
 戻れない過去へと思いを馳せているのか、それとも……
「若様……どうかなさったのですか?」
 そんな憂い顔の主を、放っておけなかったのだろう。
 敬愛する若様のためならば、たとえ火の中、水の中……アレクシスに忠義を尽くすことを生き甲斐とする青年、従僕のセドリックが「若様……どうかなさったのですか?」と、遠慮がちに声をかけてきた。
 従僕としての分を出過ぎないように、控えめではあったが、その声は心配の色が濃い。
「若様……どうかなさったのですか?ずいぶんと、難しいお顔をなさっていますが……」
 憂い顔のアレクシスを見て、セドリックが心配そうに尋ねる。
 アレクシスはそう表情の変化が豊かな方ではないが、お互い、子供の時から十数年に及ぶ、長い付き合いだ。
 表情を見れば、相手がどんな気持ちでいるかぐらいは、大体、察せられる。
「……セドリック」
 従僕の問いかけに、アレクシスはゆっくりと、伏せていた顔を上げた。
 そんな彼に、従僕は重ねて「その手紙は、奥方様からの……?」と問う。
 視界の端に、テーブルの上の手紙を入れながら。
「その手紙は、奥方様からの……?奥方様から、何か急ぎの知らせでもございましたか?若様」
 さっき、セドリックが配達人から受け取り、アレクシスに手渡した手紙の差出人は、ルイーズ――アレクシスの母、奥方様からのものだった。
 領地に住む奥方様から、王都にいる若様の元に手紙が届くのは、よくあることだ。
 遠く離れて暮らす息子を案じているのか、奥方様からは近況を知らせる手紙や、健康を気遣う手紙などが届く。
 その手紙の文面には、本邸に仕える執事・セドリックの父やメイドの妹のことなどに触れられていることもよくあり、若様が聞かせてくださるそれらは、セドリックにとっても離れて暮らす家族のことを知れる、うれしいものだった。
 奥方様から手紙が届くのは、決して、めずらしいことではない。
 つい最近、王都に来たばかりなのにというのが少々、気にかかるが、何か急に知らせたいことがあったのかもしれない。
 しかし、その手紙を読んだ若様が、憂い顔というか、ひどく難しい顔をしているのを見るのは、今までにないことだと、セドリックは思う。
 差出人に問題はない。となると、手紙の内容に、何かあったのかと、彼ならずとも勘繰りたくなるだろう。
 (領地で、何かあったか?本邸のハンスさん、最近、体調が優れないって言っていたからな。心配だ……そういえば、メイドのエマが、そろそろ結婚するって噂だったからな。もしかしたら、そっちか?いやいや、それだったら、若様が憂い顔になる理由がない……)
 手紙が、悪い知らせでなければいいが。色々と良くない想像をしてしまったセドリックは、アレクシスが首を横に振ったことで、ひとまず安堵した。
 いや、と首を横に振って、アレクシスは続けた。
「いや……急ぎの知らせというわけではない。悪い知らせというわけではないから、安心しろ。セドリック」
「そうでしたか、若様……悪い知らせでなくて、何よりです」
 悪い知らせではない、というアレクシスの言葉に、セドリックはひとまず、ホッと安心する。
 しかし、悪い知らせでないとしたら、若様はどうして、そんな複雑そうな表情をなさっているのだろう……?という疑問は、彼の心に残った。
 奥方様の手紙には、一体……?
「ああ、母上からの手紙だが……」
 そんな従僕の気持ちを、敏感に察したのだろう。母からの手紙を手にしたアレクシスは、淡々とした口調で言った。
 感情の読めない無表情、だが、その青年の声にはどこか苦いものが混じっている。
「――シルヴィアが、王都に来るそうだ」
 主であるアレクシスの口から、淡々と告げられたそれに、セドリックは驚く。
 とっさに、声が出なかった。
 シルヴィアがここ――王都に来るというのも驚きなら、アレクシスがそれを淡々とした口調で告げてくるのも、彼には驚きだった。
 (……シルヴィアさまが?ここ、王都にいらっしゃる?そんな……)
 驚きのあまり、とっさに言葉が出なかったセドリックだったが、一度、息を吸って、心を落ち着けると、「……シルヴィア様が?」と動揺のにじむ声で言う。
「……シルヴィア様が?ここ、王都にいらっしゃるのですか?」
 セドリックの確認に、アレクシスはああ、とうなずき、淡々とした様子で答える。
「ああ、もうすぐ王都で祭りがあるだろう。それに合わせて、観光に来るそうだ。シルヴィアと……彼女の夫と、二人で」
「近々、行われる王都の祭りというと……聖エルティアの祝祭でしょうか?若様」
「そうだ」
 セドリックの問いに、アレクシスは軽く息を吐いて、そうだ、とうなずく。
 近々、王都で行われる祭り――聖エルティアの祝祭、それにシルヴィアはやって来る。
「そうですか……シルヴィアさまが、聖エルティアの祝祭に……」
 セドリックはそう言うと、主人と同じように、軽く息を吐く。
 ――聖エルティアの祝祭。
 毎年、王都ベルカルンで行われるそれは、アルゼンタール王国三大祭りのひとつに数えられる。
 お祭り好きな国民性ゆえか、その祭りの華やかさ明るさ、にぎやかさは有名である。
 かつて、大陸において“麗しき西の覇者”とそう称された、アルゼンタール王国。
 文化の中心、王都ベルカルンで行われる祭りを一目みようと、国内のみならず、毎年、他国からも大勢の観光客が訪れるほどだ。
 その聖エルティアの祝祭に合わせて、シルヴィアが……夫と一緒に、ここ、王都にやって来る。
 若様のお気持ちは、複雑だろうな、とセドリックは思う。
 (シルヴィアさまが……)
 若様のそばに仕えていたことで、子供時代からアレクシスとシルヴィア、二人と共に過ごしたセドリックも、シルヴィアの名を聞けば、平静ではいられないのだ。
 彼でさえ、そうなのだから、アレクシスについては、わざわざ言うまでもない。
 子供時代を共に過ごした、年上のいとこにして、元・婚約者。
 そんなシルヴィアが、夫と二人でこの王都を訪れるなどということを、母からの手紙で知らされれば、アレクシスとしては嫌でも意識せざるを得まい。
「……」
 セドリックの言葉に、アレクシスは黙って、目を伏せていた。
 しばしの沈黙の後、従僕の青年は、ようやく「それで……」と話を切り出す。
「それで……奥方様の手紙には、なんと書かれていたのですか?若様」
 セドリックの問いかけに、アレクシスは首を横に振る。
「いや、手紙には、シルヴィアが王都に来るということしか書いていない。彼女に会えとも、会うなとも……おそらく、自分で決めろということだろうな」
 アレクシスの返事に、セドリックはなるほど……と、うなずいた。
 たしかに、いくらシルヴィアさまが王都に来られるといっても、シルヴィアさまに会うか会わないか、最終的に決めるべきは、若様――アレクシスである。
 それは、たとえ親といえども、口を出すべきところではないだろう。
 アレクシスとシルヴィア、幼い頃から姉弟のように育ち、将来を定められていた二人ではあるが、今や、その道は大きく別たれてしまった。
 ましてや、かつての婚約者であったシルヴィアは、今や人妻である。
 ただ会って話をすることさえ、差し支えがないとは言い切れないと、セドリックは思う。
 それは、従僕である彼も、理解していた。だが――
「若様は……シルヴィアさまに、お会いになられるのですか?」
 理解していてもなお、セドリックは主であるアレクシスに、そう尋ねずにはいられなかった。
 執事の息子として、アレクシスとシルヴィア、二人ともに子供時代を過ごした者としては、何事もなかったようには振る舞えない。
 (シルヴィアさまが嫁がれる日まで、若様とシルヴィアさまは、本当に仲が良かった……自分も、あの時まで、お二人がご結婚されるものだと信じて、疑っていなかった……若様は、今回のことを、どう思われているのだろう?)
 従僕として、出過ぎた真似だという自覚と不安はあれど、セドリックはアレクシスの気持ちを、確認せずにはいられない。
 己のためではなく、従僕として主のことを、アレクシスのことを案ずるがゆえに……。
「俺は……」
 セドリックの問いかけに、アレクシスは唇を開き、一度、言葉を切ると、顔を上げ、きっぱりとした口調で言った。
「……俺は、シルヴィアには会わない」
「若様……」
 なおも何か言いたげなセドリックに、アレクシスはきっぱりとした口調で、もう決めたことだと言い、それ以上、何か言葉を続けることを許さなかった。
 セドリック、と従僕の名を呼ぶアレクシスの表情に、先程までの迷いはすでにない。
「もう決めたことだ。セドリック……お互い、立場も変わった。もう会わない方がいいだろう。それに、俺には、今更、シルヴィアに合わせる顔などない」
 その胸に、過去への後悔を宿しながら、アレクシスは言う。
 今更、自分がシルヴィアに会うなど、彼女や周りが許したとしても、自分が許せない。
 ――三年前、彼の父が亡くなって間もない頃、アレクシスが十五の時の話だ。
 シルヴィアの生家が借金を抱え、困窮した時も、また彼女が借金を返すために、ほとんど会ったこともない商人の元へ嫁いだ時も、アレクシスは何も出来なかった。
 シルヴィアを助けることも、婚約者であった彼女を守ることも、シルヴィアの手を取って逃げることもしなかった。
 その頃のアレクシスといえば、父を亡くし、未亡人となった母と二人で、ただ途方に暮れていただけだった。父が亡き後の領地の管理、父の遺言、浪費家だった祖父の残した借金の後始末、やるべきことは山とあった。だが、そんなことは言い訳だ。
 シルヴィアを守れなかった理由にはならない。
 結局、アレクシスが弱かったのだ。
 己と比べて、シルヴィアはしなやかで強かった、と彼は思う。
 困窮した生家を守るために、年の離れた、裕福な商人へと嫁ぐことを決めると、アレクシスたちの不甲斐なさを責めることも、また愚痴ひとつこぼすこともなく、嫁いでいったのだ。
 嫁ぐ前、シルヴィアは微笑んで言った。
『貴方と離れるのは悲しいけれど、この結婚に後悔はしていないわ。最後に選んだのは、私なのだから。ねぇ、アレクシス。自分の道はね、自分で選ぶのものなの……それに、自分の幸せを決めるのは、他でもない自分自身なのよ。私は、そう思うわ』
 そんな彼女に、今更、何が言えるというのだろう。
 ――己の婚約者ひとり守れなかった弱い男に、今更、彼女に会う資格などない。
 そう決めると、アレクシスは椅子から立ち上がり、従僕に声をかける。
「この話題は、ここまでにさせてくれ、セドリック。もう決めたことだ……少し、外へ出てくる」
 外へ出てくる、そう言って、アレクシスは従僕に背を向け、扉の方へと歩いていった。
 そんな主を目で追い、セドリックは扉の方へと向かう、その背中に問いかける。
「若様、どちらに行かれるのですか?」
 セドリックの声に、アレクシスは一瞬だけ振り返り、「剣の鍛練をしてくる」とだけ短く答えて、再び前へと向き直った。
 背筋を伸ばし、カッカッ、とよどみのない足取りで歩くアレクシスの表情は、よく言えば凛々しく、さらに踏み込んだ言い方をするならば、張りつめた糸のような緊張感が感じられる。
 まとう空気は、刃にも似て、鋭く、どこか危うくもあった。
 ――強くならなればならない。もっと、もっと、大切なものを失わずにすむくらいに。
 強く、強く、アレクシスは思う。
 シルヴィアと別れた日、弱く、力がなければ、大切なものすら守れないのだということを、悟らざるを得なかった。
 己の剣で守れるものなど、そう多くないと、アレクシスは自覚している。
 力だけで、誰かを守れはしないことも、十二分に承知している。それでも、なお―― 
 (強くならねば、せめて己の大切なものくらいは、傷つけることなく、守れるように……俺はもう二度と、誰も失いたくない……)
 今よりも強く、強くならなければ。
 そう心の中で誓い、アレクシスは前を見据える。
 彼の頭をよぎるのは、シアが青薔薇にさらわれた、あの時のことだ。
 シアが青薔薇にさらわれ、行方知れずになった時、アレクシスは心臓が凍りつくほどの恐怖と、たとえ一秒とてじっとしていられないほどの焦燥感を味わった。
 もし、あの時、シアが青薔薇によって殺されていたら、そう想像するだけで、アレクシスは心臓が止まりそうになる。
 シアが目を閉じ、そして、二度と目を開けなかったら、自分は……そんなこと、想像したくもない。だが、あの時、それは決して、ありえないことではなかったのだ。
 もう二度と、あんな思いを味わうのは御免だと、アレクシスは思う。
 大切な誰かを失うかもしれないという不安は、父を喪い、シルヴィアと別れた三年前から、彼の心から消え去ることはなかった。
 ――強くならねばならない。守りたい人々のために、そして、己のために……。
 カチャリ、と彼の剣の鞘が音を立てる。
 それは、騎士である証、アレクシスが強くある意味、そのものだ。
「ではな、セドリック……しばらくしたら、戻る」
 アレクシスは振り返らぬまま、どこか硬質な声でそう言うと、 扉を開け、セドリックを部屋に残したまま、外へと出ていった。
「若様……」
 主の背中を見送り、扉が閉められた後、セドリックはそう呟く。
 (若様は、シルヴィアさまのことを忘れられないのだろう……あの方を守れなかったことを、己の弱さゆえの罪だと、そう思いこんでおられるから……)
 そこまで考えて、セドリックはハァ……と、不安そうな顔でため息をつく。
 若様の……アレクシスの責任感や意志の強さは長所でもあるが、それは時として、自らを縛る枷にもなりうる。そうならなければいいのだが……
 従僕として、誰よりもアレクシスのそばに仕えるセドリックは、そう案じずにはいられない。
「……聖エルティアの祝祭か」
 聖エルティアの祝祭――近々、行われるそれに合わせて、シルヴィアさまが王都を訪れる。
 それは、若様の、アレクシスの心に波紋をもたらすのだろうか……
 何かが、変わるかもしれない。
 それが、良いことなのか悪いことなのか、まだ判断できないが。
 セドリックの抱いたそれは、予感ではなく、もはや確信に近かった。
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