女王の商人

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  薬草と商人5−2  

「はぁ。今月の利益は……10000レアン……11000レアン……はぁ」
 リーブル商会の一室――
 帳簿に羽根ペンで数字を書き込みながら、シアは憂い顔で、「はぁ」とため息をつく。
 眉は力なく下がり、唇から出るのは、元気のないため息ばかり。その青い瞳は帳簿を見ているようで、見ていない。まるで、魂が抜けたような生気のない様子は、普段のシアを知る者には信じれないだろう。
 シアは悩んでいた。
 それはもう、傍目にも明らかなほどに悩んでいた。
 悩んでいるといっても、商売が赤字だとかリーブル商会の仕事に問題が起きたとか、そういうことではない。問題は……シアの個人的なことだ。
「はぁ。1700レアン……東国ムメイからの輸入品が、1900レアンっと……はぁ」
 シアは再び、ため息をついた。
 朝からもう何回めだか、わからない。
 くさっても銀貨の商人としての意地か、一応、シアの仕事に遅れはない。うっとうしい憂い顔でも、ため息ばかりでも、いかにも悩んでますという様子でも、一応はきちんと仕事をしている。
 ただ、うっとうしくないかと問われれば、首を縦に振るしかない。
 いくらシアが儚げな容姿の持ち主で、そんな憂い顔も絵になる美少女だとしても、物事には限度というものがある。
 結論――どう考えても、うっとうしい。
「シアお嬢さんの、ため息……今朝から何回めだっけ?アルト」
 同じ部屋にいた商人見習いの三つ子の一人――エルトも、少しばかり呆れ顔で隣のアルトにそう尋ねる。
「……33回」
 アルトの返事に、カルトも「はぁ」と息を吐いて、肩をすくめた。
「……重症だね」
 そんな風に、ひそひそと同じ部屋でかわされる三つ子たちの会話すら、ぼうっと帳簿を見ているシアの耳には入っていないようだった。
 昔からの付き合いの三つ子は、そんなシアの様子を心配で見ていられず、輪になって相談を始めた。
「一体、どうしたんだ?シアお嬢さんは……元気がないっていうより、もはや別人みたいだぞ……不気味だ」
 そうカルトが言えば、エルトもうんうんと同意する。
「たしかに……短気で乱暴者だけど、元気だけが取り柄のお嬢さんがな。あんなに沈んでるのを初めて見た」
 元気だけが取り柄、と言って、エルトはチラッとシアの方を見る。普段ならば、誰が元気だけが取り柄だぁぁ!と帳簿が飛んでくるところだが、シアはこちらを見ようともしない。そのことに、三つ子たちは落胆した。
 期待通りの反応がなかったこともあるし、あんなシアの姿を見たいとは思わない。
「……お嬢さんが元気じゃないと、なんか調子が狂うなぁ。うじうじ悩んでいるなんて、シアお嬢さんらしくないよ」
 ぽつり、とアルトが呟いたのが、彼ら三つ子の本音であっただろう。
 普段、リーブル商会の長の娘であり、自分たちの未来の長であるシアをワイワイとからかって遊び、時としてオモチャにしている三つ子たちではあるものの、本心ではシアのことが心配で心配で仕方ないのである。
 エルト、アルト、カルト、の商人見習いの三つ子たちにとって、シアは尊敬する長・クラフトの愛娘であり、大事な商人の仲間であり、そして可愛い妹のような存在だ。
 シアは普段、「商会の仲間は、大切な家族と同じ」と言っているが、彼らとて思いは同じである。
 そんな大切な存在が悩んでいれば、心配にもなるし、なんとか力になってやりたいと思うのが人情というものである。
 しかし、シアが何を悩んでいるのか打ち明けようとしないので、三つ子たちはその理由を推測するしかなかった。
「……シアお嬢さんが、あんな風になったのは二週間くらい前、カノッサ……薬師の村から帰って来てからだよなぁ」
 しばらく考えた後、そう言ったエルトに、アルトとカルトの二人も「そうだ。そうだ」とうなずく。
 二週間ほど前、女王陛下のご依頼で、シアとアレクシスの二人は『賢者の書』を借り受けるために、カノッサ――薬師の村へと出かけた。
 そこで何があったのか、シアがどんな事件巻き込まれたのか、彼ら三つ子はよく知らない。青薔薇とのイザコザは、シアの口から少しは聞いたが、それだけだ。
 ただ、カノッサ村から王都ベルカルンに帰ってきてからというもの、シアの様子は明らかにおかしい。
 付き合いの長い三つ子だから、というわけではなく、誰の目から見てもシアの様子は変だった。
 商人としての意地か、仕事だけはちゃんとしているものの、そうでない時のシアは傍目から見て、いささか心配になるほど変だった。ボーッとしていて何かを話しかけても上の空だし、三つ子たちが馬鹿なことを言っても、説教も拳も飛んでこない。……おかしい。
 そんなシアの異変に、父のクラフトや祖父のエドガーが気づいていないはずがないというのに、今のところ黙っているのが三つ子たちには不思議だった。
 もしシアに何かあれば、彼らが黙っているはずがないのに、と思う。
 そのことを疑問に思いながらも、腕組みをして考えこんでいたアルトが「まさかとは思うけど……」と言った。
「まさかとは思うけど……あの騎士……ハイライン伯爵家の若様が、シアお嬢さんに何かしたんじゃないだろうな?」
「シアお嬢さんに、何かした?アレクシスさんがか?そんな人じゃなさそうに見えたけどなぁ」
 アルトの推測に、カルトは首をひねる。
 まだ数ヶ月の付き合いでしかないものの、カルトが知る限り、アレクシス=ロア=ハイラインという青年は生真面目すぎるほどに生真面目で、多少、堅苦しい感じを受けるものの、基本的には穏やかな性格だという印象を受けた。
 それに何より、彼は仕事の仲間としてシアを信頼し、大事にしているようにカルトの目には映ったのだ。だから、そんな彼がシアを傷つけるようなことをするとは、考えにくいと思ったのだが――
「俺だって、そう思うよ。だけど……だったら、シアお嬢さんが落ちこんでいる理由は、何だと思う?」
「「……」」
 アルトの言葉に、エルトとカルトの二人は何も答えられなかった。
「「「うーん」」」
 三つ子たちは腕組みをしてうなったが、そうしていても、シアの問題が解決するわけではない。 
 彼らがいくらシアのことを心配し、何とか元気になってほしいと願ったところで、それを決めるのはシアの心なのだ。たとえ家族同然のエルトたちといえども、それに口を出すことは許されない。苦しくても辛くとも、シアの悩みはシア自身のものなのだから。
 彼らに出来ることは――その背中を押してやるくらいのものだ。
「……やるか?エルト、カルト」
「ああ」
「やるしかないね」
 三つ子たちは顔を見合わせると、何かを決意したようにうなずきあった。
 そうして、三つ子たちは先ほどから憂鬱な顔をしたままのシアに背後から歩み寄ると、彼女の手からサッと帳簿を奪い取る。
 書き途中の帳簿を奪われたシアは、怒ったような顔で振り返ると、エルトたちを睨んで言った。
「ちょっ……何するのよ!エルト、アルト、カルト!」
 帳簿を返せ!とシアに睨まれても、三つ子たちはにやにやと笑うだけで、全く反省の色がない。
 そのことに、シアは苛立った。
 しかも、そんな彼女の怒りに油を注ぐかのように、エルトが帳簿を持ったまま憎たらしい声で言う。
「この帳簿は、俺たちが三人が預かっておきます。そうですねぇ……シアお嬢さんが、元通り元気になったら、返してあげても良いですよ?なぁ?アルト、カルト」
 いきなりシアの手から帳簿を奪い取っておきながら、あんまりといえばあんまりなことを言うエルトたちに、シアは顔をしかめて「……はああ?」と疑問の声をあげる。
「……はああ?アンタたち、何を言ってるのよ?子供みたいなイタズラは止めて、さっさと奪った帳簿を、あたしに返しなさい!」
 そうシアに怒鳴られても、三つ子たちは動じなかった。
 シアから取り上げた帳簿を返す代わりに、三つ子たちを代表してか、アルトが静かな声で言った。
「俺たちは誰も、ふざけてなんかいませんよ。シアお嬢さん……本当に気づいていないんですか?」
 そのアルトの声が、余りにも真剣なものであったことに、シアは「うっ」と少したじろいだ。
 自分に向けられる三つ子たちの視線が、冗談ではなさそうだと悟り、シアも息を吐くと真剣な顔でアルトを見つめ返し、尋ねる。
「……気づいていない?あたしが?何を?」
「自分が今、どんなヒドい顔をしてるか、シアお嬢さんは気づいていないんですか?何をうじうじ悩んでいるのか知りませんけど、そんな憂鬱そうな顔で仕事されても、こっちが迷惑なんですよ……大体、そんな暗い顔で商売なんか出来るわけないでしょう」
「……」
 アルトの言葉に、シアは何の反論もすることが出来なかった。
 普段のシアならば、そんな風に言われれば、反論の一つもしたかもしれない。しかし、今回はアルトの――三つ子たちの言い分が正しいことは、彼女自身よくわかっていたからだ。
 シアが暗い顔をしていることが、父のクラフトや祖父のエドガーだけではなくて、家族同然のリーブル商会の皆に、心配をかけているということは理解していた。もし、逆の立場であったならば、シアだって心配するに違いない。そのことを、申し訳ないと思うし、情けないと思う。
 こんな自分が大嫌いだ。
「……ごめんなさい。アルト……カルトとエルトも、心配をかけてごめん」
 小さな声で、シアは謝った。
 何を悩んでいるのかと問われても、シア自身にすらよくわからない。ただ、この前から自分は変だ。
 薬師の村・カノッサから帰って来てからというもの、気持ちが不安定で、あの日のことばかり考えてしまう。
 辛いような、苦しいような……胸が痛むような……その感情の名前を、シアは知らなかった。
 どうして、こんな風になってしまったのだろう?
 その答えはわかっていた。
 ――あの時からだ。
 カノッサ村での会話が、頭から離れない。
「さっきの青薔薇……アシュレイの言葉があったよね。あれが貴族の本音なの?アレクシス」
「……?意味がわからないな」
「――アレクシスも、本当はあたしたちみたいな平民のことを、対等だとは思っていないの?」
「……俺は、お前の目にはそんな風に映るのか?シア。あのアシュレイとかいう輩と、同じ存在に見えるのか?」
 あの時のアレクシスとの会話を思い出すたびに、シアは後悔する。
 ――ひどいことをした。
 アレクシスが大事に守っているものを侮辱し、彼の誇りを傷つけた。そんなことをする資格は、シアにはなかったのに。
 自分の言ったことが、全て間違っていたとはシアは思わない。
 貴族のことは今でも嫌いだし、平民を見下すような風潮が、いまだ一部のプライドに凝り固まった貴族の中に残っていることも事実だ。貴族だから、というだけで、平民を物のように扱っても、何の罪悪感も覚えない――青薔薇の首領・アシュレイのような男には、反吐が出る。だが……アレクシスはそうではない。
 シアだって、本当は気づいている。
 たしかにアレクシスは貴族であることに誇りを持っているし、頑固だし、時代遅れともいうべき騎士道にこだわっているし、かなり融通の利かない男ではあるが――生まれで人を見下すような腐った真似は、シアの知る限り、ただの一度もしたことがない。
 この数ヶ月、一緒に過ごしている間、アレクシスはただの一度だって、平民であるという理由でシアのことを差別したりしなかったのだ。貴族だから平民だから、と身分にこだわっていたのは、シアの方だった。
 そんな彼に、シアはひどい言葉をぶつけてしまった。
「だって、さっき言っていたじゃないっ!同じ貴族だって!貴族の誇りだか何だか知らないけど、貴族がそんなに偉いわけぇ?……あたしが間違ってるなら、否定してよ!」
 あの時、シアの方を見たアレクシスの表情を、シアは忘れることが出来ない。
 ――傷ついた表情をしていた。
 青年の漆黒の瞳に宿るのは、怒りではなくて悲しみだった。アレクシスは怒るかわりに、静かな声で言った。「――俺たち貴族から誇りを取ったら、何が残るというんだ?」と。
 その時、シアは初めて、自分の言葉がいかに彼の心を傷つけたか悟ったのだ。
「……」
 シアはうつむいて、唇を噛んだ。
 ――アレクシスに、ちゃんと謝らなければならない。
 そう頭ではわかっているのに、彼に会いに行く勇気がない。あれから、もう二週間だ。忙しかったというのは言い訳で、謝りに行こうと思えば、いつでも行けた。……ただ、シアに勇気がなかっただけだ。
 ――怖いのだ。
 色々と言っても、シアの本心はただ怖いだけなのだ。アレクシスに許してもらえないことが。拒絶されて、嫌われることが。
 ごめんなさい。その単純な一言が言えずに、シアは悩んでいる。
「ねぇ……シアお嬢さん」
 うつむいたシアの頭を、アルトがくしゃと励ますように撫でて、名を呼んだ。
「……何よ?」
 のろのろと顔をあげたシアに、アルトは笑顔で言う。
「エルトもカルトも、もちろん俺もシアお嬢さんのことを、大事な仲間だと思ってますよ。そりゃあ、お嬢さんは短気だし乱暴者だし、おまけに商売のことしか頭にないですけど……でも、誰よりも正直で、優しい人だと思ってます……だから、悩む必要なんてないんですよ」
 普段のふざけた様子が嘘のような、アルトの真面目な言葉に、シアは目を丸くした。エルトとカルトの二人も、うんうんとうなずいているから、気持ちは同じなのだろう。
 彼らは優しい目で、シアを見ていた。
 ――悩む必要なんて、ないんですよ。
 別に、アルトが何か特別なことを言ったわけではない。でも、その言葉は不思議と、シアの胸に響いた。
 そうかもしれない、と思う。うじうじ悩んでいるなんて、自分の性には合わない。自分はただ、ほんの少しの勇気を持てば良かったんだ。
「……うん」
 シアは素直な気持ちで、うなずいた。
 今から、アレクシスの屋敷に行って、この前のことを謝ろう。
 それで、どうなるかはわからない。でも、このまま悩んでいるよりかは、ずっとマシなはずだ。
 そう決意したシアは、感謝の気持ちで、三つ子たちを見た。ずいぶんと心配をかけてしまったが、シアが立ち直れたのは、彼らのおかげだ。
 ありがとう、とシアがお礼を言おうとした瞬間、エルトがにやっと笑って言う。
「そうそう。悩んだって、仕方ないですよ。シアお嬢さん。だって、昔から言うじゃないですか。ほら、馬鹿が悩んでも仕方ないって」
 はははっ!とエルトは笑う。
 そんなエルトの暴言に、アルトもポンッと手を叩く。
「たしかに、その通りだな。馬鹿は悩んだって仕方ない。お前、頭が良いな!エルト。シアお嬢さんも、見習った方が良いですよ」
「……」
 シアは無言で、顔をひきつらせる。
 そんな彼女の前で、三つ子たちは「そーだ。そーだ。馬鹿は悩んだって仕方ない」と声をそろえる。
 シアの堪忍袋の緒が切れるのも、時間の問題だった。
「……っ!いい加減に……」
 すぅ、と息を吸うと、ワイワイと騒ぐ三つ子に、シアは怒鳴った。
「人を馬鹿にするのも、いい加減にしろおおおっ!このアホ三つ子があああっ!」
 シアの怒声に、三つ子たちはケラケラと明るく笑いながら、扉の方へと逃げていく。
 逃げていった三つ子たちを追いかけることはせず、シアは呆れた顔で、「まったく……」と肩をすくめた。
「まったく……あの三つ子は……」
 呆れたように言いながら、シアは小さく微笑んだ。
 そして、優しい声で言う。
「ありがとね……エルト、アルト、カルト」
 自分は良い仲間を持ったと、シアは心からそう思った。
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