女王の商人

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  薬草と商人5−4  

 カタン、という馬車の車輪の音で、馬車の座席でうたた寝をしていたシアは目を覚ました。
 んぅ……と、いかにも眠そうな声を上げ、シアは右手でごしごしと、なかなか開かない瞼をこする。王都ベルカルンを出発してから、何時間も馬車に揺られ続けていたせいか、腰が少し痛んだ。
 少女の青い瞳はいまだトロンとしていて、「ふわぁ……」とあくびをひとつ。
 そんなシアに、扉を開けた御者のロベルトが「シアお嬢さん」と声をかけた。
「シアお嬢さん。セノワの町に着きましたよ」
 セノワの町に着きましたよ、という言葉に、シアはよいっしょと大きな革の鞄を抱えると、御者のロベルトの手を取って、リーブル商会の馬車から降りた。
 鞄の中には、祖父エドワードから頼まれた届け物――ニールじいさんへの手紙や品物が入っている。
 これを届けるのが、シアの仕事だ。
 シアは御者の方を向くと、
「ありがと。ロベルト。じゃあ、ニールじいさんに会ってくるから……悪いけど、一時間くらいここで待っていてくれる?」
と声をかける。
 御者が「わかりました」とうなずいたのを見届けて、シアはセノワの町の中心部――リーブル商会の支部がある方へと歩きだした。
「セノワの町に来たのは、三年ぶりだけど……相変わらず、活気があるなぁ」
 歩きながら、きょろきょろとセノワの町並みを見て、シアはそう呟く。
 シアがセノワの町を最後に訪れたのは、今から三年前、彼女が十三歳の時のことだ。あの時はエドワード祖父さんに連れられて、ニールじいさんに会うために、リーブル商会の支部に行ったのだった。あれから三年の月日が流れたが、久しぶりに見るセノワの町は、前に来た時と変わらず活気があった。
 王都ベルカルンから近いこともあって、セノワはかなり活気のある大きな町だ。
 当然のように商売も盛んで、シアのような商人たちにとっては、馴染みの深い場所でもあった。
 それを証明するように、彼女の歩いている大通りには、食堂や宿屋のような普通の店はもちろんのこと、数多くの露店も並んでいて、それを売買する商人や客たちでワイワイと賑わっている。それらの商人の中には、浅黒い肌の異国の商人もいて、南方の珍しい品々なども売っているようだった。そうかと思えば、その隣の店では絹の服を着た東方の商人がいて、カタナやキモノなど東国ムメイの品々を扱っている。――あの珍しいもの大好きな女王陛下が見たら、キラキラと目を輝かせて喜びそうな光景だ。
 商人として、シアはそれらの品々に興味を惹かれたが、まずはエドワード祖父さんの用事を済ませてからだと思い直す。
 そのまま大通りを歩いていくと、シアの目に見慣れた看板が映った。
 白地に、羽ばたく鳥と天秤のマークが描かれた金文字の看板――そこが、リーブル商会の支部であることを示す看板である。
 シアはずるずると大きな鞄を引きずって、そのリーブル商会の看板をかかげた建物の扉へと歩み寄った。
 ここに、昔、祖父の右腕だったニールじいさんがいる。
「こんにちはー」
 シアがそう挨拶しながら、その扉を開けると、室内で背を向けていた小柄な老人が、彼女の声に反応して振り返った。
「……ん?お客様かね?」
 そう言ったのは、丸い眼鏡をかけた小柄な老人だった。
 年齢は、シアの祖父よりも五つか六つ上といったところだろうか。
 有能な商人というよりも、穏やかそうな学者のような風貌をしている。
 商談をしたり帳簿をにらめっこをしているよりも、のんびりと書物を読んでいる方が似合いそうな優しげな顔つきだ。しかし、一見、有能な商人には見えないこの老人が、祖父の右腕として、リーブル商会をこの国一の大商会に押し上げた凄腕の商人だということを、シアは幼い頃から祖父・エドワードから聞かされて、よく知っていた。
 丸い眼鏡をかけた老人は、シアの顔をしげしげと見つめると、少し首をかしげ、次に驚きの声をあげた。
「いきなり若い娘が入って来たから、誰かと思えば……シアっ!シアじゃないか!」
 三年ぶりの再会に驚きの声を上げる老人に、シアはにっこりと笑って、
「久しぶりだね。二ールじいさん」
と言った。


「いやぁ、久しぶりじゃな。シア。前に会ってから、たしか……もう三年になるかの?しばらく会わないうちに、すっかり立派になって……」
 場所は変わって、応接間――
 テーブルの向かい側に腰をおろした老人――二ールは、にこやかに笑いながらそう言うと、まるで実の孫を見るような優しい眼差しを、シアに向ける。
 シアの祖父・エドワードの商売の片腕であっただけではなく、青年時代から苦楽を共にした祖父の親友でもあり、また幼い頃から彼女の成長を見守ってきたニールにとって、シアは実の孫も同然の存在だ。
 三年ぶりの再会となれば、感慨もひとしおである。
「あははっ。やだなぁ。ニールじいさん。立派になっただなんて、そんなお世辞を言っても、何も出ないよ」
 すっかり立派になって……というニールじいさんの言葉に、シアは「あははっ」と照れたように笑いながら、出された紅茶を口にした。
 父・クラフトの親友であるオスカーもそうなのだが、幼い時からの知り合い……それこそ、シアが赤ん坊の時から知っている人から、そんな風に言われるのは、何となくちょっと恥ずかしいというか、ぶっちゃけ照れくさい。
 何せ、相手はシアが赤ん坊で言葉も喋れなかった頃から、彼女のことを知っているのだ。
 これで、万に一つも、過去の失敗談のアレコレなんかを持ち出された日には多分、恥ずかしさで死ねる。
 ちょっぴり赤面しつつ、紅茶を飲んだシアに、ニールはにこやかに続けた。
「いやいや、本当じゃよ。シア。すっかり一人前の商人になって……」
「またまた……相変わらず、ニールじいさんは口が上手いね」
「それに、しばらく会わないうちに、お母さん似の別嬪さんになって……わしが、あと五十年、若ければ口説いとるところじゃ。惜しいのぅ」
「だから、照れるってば!ニールじいさん!」
 赤くなるシアに、ニールは爽やかな顔で言った。
「……ま、社交辞令じゃがな」
 ニールの言葉に、シアは飲んでいた紅茶を吹き出し……思いっきり、むせた。
「……ぶっ!げほっ、げほぅ!」
 口元にハンカチをあて、背を折り曲げてゲホゲホとむせるシアは、ちょっぴり涙目だ。油断していただけに、ダメージは大きい。――忘れていた。ニールじいさんは、こういう人だったんだ。三年ぶりの再会だから、すっかり油断していた。
 ゲホゲホと盛大にむせるシアに、ニールは哀れむような目を向けて言う。
「大丈夫か?シア。そんなに慌てて飲むから……お前さんは、昔から、そそっかしいところがあったからの」
「げほっ、げほっ……誰のせいよ、誰の」
 シアは恨みがましい目でニールを見るが、相手は一向にこたえている様子はない。
 一見、穏やかで優しそうに見えるが、隠れた毒舌家――それが、ニールじいさんという人だ。
 父さんといい、祖父さんといい、ニールじいさんといい、ウチの商会にはマトモな人材はいないのかっ!自分のことは、すっかり棚に上げて、シアは過酷な現実を呪った。リーブル商会にはどうして、こう一筋縄ではいかない人間ばかりが集まるのだろうと。
 そんなシアの気持ちを知ってか知らずか、ニールは涼しい顔で続けた。
「いやいや、シアが別嬪さんになったと思ったのは、本当じゃよ……まぁ、わしの好みを言わせてもらうと、もちっと胸があると……」
「余計なお世話じゃあああ―――――――っ!」
 年頃の乙女として、密かに気にしていることを指摘されて、シアは真っ赤な顔で叫ぶ。
 もはや彼女の頭から、この町にやって来た目的は、綺麗さっぱり抜け落ちていた。
「……まあ、雑談はこれくらいにして、用件を聞かせてもらおうかの?シア。わざわざ、このセノワの町までやって来るような用事があったんじゃろ」
「あ、うん」
 そうニールじいさんに言われたことで、シアはようやく当初の目的を思い出した。――そうだった。あたしは、エドワードじいさんに頼まれた届け物を、ニールじいさんに渡すために、この町まで来たんだったと。
 (危ない。危ない……危うく、目的を忘れるところだった。なんか、さんざんかわかわれたうえに、上手くニールじいさんに丸め込まれた気もするけど、多分、気のせいだ。うん) 
 そう己に言い聞かせると、シアはごそごそと大きな鞄の底をさぐって、祖父・エドワードからニールじいさんに宛てられた手紙と、厳重に梱包された箱を取り出して、「はい。これ……」と祖父の手紙と箱を、ニールじいさんに手渡した。
 ニールは手紙を受け取ると、その差出人がエドワードであることを確認し、懐かしそうに目を細める。
「はい。これ……うちの祖父さんからの手紙と、箱の方の中身は見てないけど、多分、注文してた品物かなんかだと思う。祖父さんの話だと、壊れやすいものみたいだから、気をつけてね」
 シアの言葉に、ニールはわかったという風に、うなずいた。
「それで、わざわざこの町まで来てくれたのか。手間をかけて、すまなかったの。シア……それで、エドワードの奴は、変わっとらんのか?」
「多分、あたしがいない間に、娼館のおねえちゃんに会いに行ってるか、父さんと酒場に行ってるかのどっちかだと思うけど……他に、説明が必要?」
「……いや、必要ないの」
 シアの答えと表情に、何か殺伐としたものを感じたのか、ニールは首を横に振る。
 気を取り直して、シアは近況を説明した。
「まあ、王都の方は皆、元気だよ。祖父さんも父さんも、病気ひとつせずに元気だし、商売の方も特に問題はないしね……ああ、商人見習いが何人か増えたくらいかな。エルト、アルト、カルトっていう三つ子なんだけど……。それで、ニールじいさんの方は?あたしが前に来た三年前から、何か変わった?」
 シアの問いかけにニールは、
「いいや。このセノワの町は、三年前と特に変わっとらんよ。いくら王都に近いとはいっても、女王陛下のいらっしゃる王都とは違うからの。数年で、そうそう変化はせんさ」
と言った後、やや険しい顔で、「ただ最近、この町で妙なものが出回っているらしい、という噂があるがの」と続けた。
 その声には、先ほどまでとは異なり、どこか憂いがある。
「……妙なもの?噂?それって、何なの?ニールじいさん」
 ――この町で、妙なものが出回っている。
 ニールじいさんの口から出た言葉に、シアは首をかしげた。その言い方からしても、あまり良いものではなさそうだが、妙なものとは一体……?
 その問いかけにニールとふぅ、と息を吐くと、
「――リドガ草。別名・南方の悪魔……そう呼ばれる植物を、シアは知っとるかの?」
と、シアに尋ねた。
「……知らない。リドガ草?南方の悪魔?何それ?」
 正直に答えて、シアは「聞いたこともない」と、首を横に振る。
 ニールは机の上で腕を組むと、先ほどまでの呑気さは嘘のように、憂いをおびた顔で語った。リドガ草。別名・南方の悪魔と呼ばれる植物について――
「――リドガ草は……元々は南の一部の地域にしか生えん、植物じゃ。調合の仕方によっては、薬草として使われることもある。ただし、根の部分は毒が含まれていての、使い方によっては、強力な毒薬や麻薬の原料にもなる。リドガ草さえあれば、人を廃人同然にすることなど、赤子の手をひねるより容易い……それゆえにリドガ草は、別名・南方の悪魔と呼ばれておるんじゃよ」
 声こそ淡々としているが、語られる内容は、ひどく恐ろしい。
 ――リドガ草さえあれば、人を廃人同然にすることなど、赤子の手をひねるより容易い。
 そんなニールの言葉に、シアはごくっと唾を飲んだ。リドガ草。南方の悪魔……ひどく不吉で、忌まわしい響きだ。
「それで、そのリドガ草がどうかしたの?ニールじいさん。まさか……」
 話の流れから、うすうす察しつつも、シアはニールに尋ねた。
「この町で、リドガ草が取引されとるらしい。そういう危ないものほど、大金になるからな。違法と知りつつも、手を出す輩が後をたたんそうじゃ……噂じゃ、ある犯罪組織が裏で糸をひいとるらしいが、警備隊も尻尾を掴めんらしいな」
 苦い声で、ニールは言う。
「リドガ草……犯罪組織……」
 一方、シアは、カノッサ――薬師の村で遭遇した忌まわしい事件を思い出し、ぶるっと身を震わせた。
 女王陛下の依頼で向かった、薬師の村。
 あの日、シアとアレクシスの目の前で、村の宝である賢者エセルバートが薬草について記した書――『賢者の書』は奪われたのだ。犯罪組織・青薔薇の首領アシュレイの手によって。
 かつて反乱を起こし、処刑された貴族・イクス公爵家の名を名乗っていたあの男は、未だ警備隊から逃げ延びているらしい。
 当然のことながら、青薔薇に奪われた『賢者の書』も、在るべき場所に戻ってきていない。
 そのことが、王都に戻ってきてからも、シアの心に少なからず影を落としていた。
 この町で出回っているという、リドガ草。
 そして、噂ではその売買の中心になっているという、その組織。
 あの薬師の村での事件とこのセノワの町は、何の関連もないはずなのに、シアは妙な胸騒ぎを感じずにはいられなかった。あの事件は、もう終わったことだ。それなのに、胸を支配する不安は何なのだろう?
『――君も貴族だというなら、わかるだろう?貴族はかつての力を失って、その富を巻き上げた成金たちが、悠々と暮らしている。それとは反対に、金に困って実の娘すら道具にする貴族に、爵位すら売り払う貴族……おかしいとは思わないか?百年も前なら、考えられなかったことだ。この国が悪いと、そうは思わないか?』
 あのアシュレイという男の言葉が胸をよぎり、シアはぎゅっと拳を握って、手のひらに爪を立てる。
 綺麗な顔と、恐ろしいほどに冷たい目をした男だった。
『青薔薇の目的は、復讐だ。貴族を虐げて、平民を選んだ。この国への』
 あの男の言葉を、思い出したくない。
 頭が痛い。
『部下が迎えに来たようだから、今日はこの辺で許してあげるよ。だけど、次は無事にはすまさない……覚えておけ』
 ……駄目だ。
 駄目だ。
 思い出しちゃ駄目だ――
「……シア……シア!聞いとるのか?」
 二ールの呼びかけに、シアはハッと我に返った。
「……あっ、ごめん。二ールじいさん。ちゃんと聞いてるよ」
 シアは努めて明るく振舞ったが、その顔色はさえない。
 そんなシアの顔色を見て、二ールは眼鏡の奥から心配そうな目を向けて、気遣う声をかけた。
「……平気かの?顔色が悪いぞ。シア」
「平気だよ!たぶん……」
 気丈に答えながらも、シアの顔色は相変わらず、さえない。
 嫌な記憶を思い出したせいか、軽い頭痛を感じて、シアは片手で額をおさえた。――忘れていれば良かった。あんなこと……。青白い顔で、シアはそう後悔する。
 そんなシアを心配そうに見て、二ールじいさんは「無理はせん方が良いぞ」と言った。
「無理はせん方が良いぞ。シア……きっと、遠出したから疲れとるんじゃろう。今日は、この辺にしておいた方が良さそうじゃな。何、またいつでも来れば良い……そうじゃ。誰かに、馬車まで送らせよう」
 そう言って立ち上がると、二ールは応接間の机の上に置かれていた銀のベルを手に取り、リンリン、とそれを鳴らした。
 誰か、人を呼んでくれる気なのだろう。
「二ールじいさん。大丈夫だよ。そこまで心配してもらわなくても……」
「良いんじゃ。ひとりで帰して、何かがあったら、わしがエドワードに顔向けできん。年寄りの好意は、黙って受けるもんじゃ……良いな?シア」
「……うん。ありがと」
 頭痛も治まってきたシアは、ゆるゆると首を横に振ったが、二ールの穏やかだが有無を言わせない声に、「うん」と素直にうなずいた。
「――失礼します」
 しばらくすると、ベルの音を聞きつけたのか、応接間の扉がコツコツと控えめにノックされた。
 二ールが扉を開けると、「失礼します」と言いながら、一人の青年が部屋の中に入ってくる。
 その青年に、二ールは「仕事中に悪いの。ジャン」と話しかけた。
「いいえ……何か仕事でしょうか?二ール支部長」
 シアは横を向いて、ジャン――と呼ばれた青年の方を見る。
 ひょろりと背の高い男だった。
 年齢は、シアよりも四つか、五つ年上というところだろうか。黒っぽい茶髪に、同色の瞳――東方の血をひいているのか、その顔立ちはどこか東洋的だ。
 その胸に下げた銅貨が、青年――ジャンの身分が、商人見習いであることを証明している。
 商人見習いとしてはやや年嵩だが、もともとは別の仕事をしていて、商人に転職したのかもしれない。
「ああ。せっかくだから、紹介しておくか。シア……こいつは、商人見習いのジャンじゃ。最近、うちの支部に入ったんじゃよ」
 二ールはシアにそう説明すると、今度はジャンの方を向いて、シアを紹介した。
「ジャン。こちらのお嬢さんは、シア=リーブルじゃ。名前でわかると思うが、長の娘さんじゃよ。先代の長の孫娘でもある……ここで会ったのも、何かの縁じゃ。挨拶をしておきなさい」
 そう二ールに言われて、ジャンはシアの方に歩み寄った。
「初めまして、お嬢さん。一年前に、こちらの商人見習いになりました、ジャン=エイネイと申します。よろしくお願いします」
「こちらこそ。シア=リーブルです。よろしく」
 シアが名乗ると、ジャンは商人らしい愛想の良い笑みを浮かべた。
「それでな、ジャン……悪いが、わしの代わりに、シアを馬車のところまで送っていってくれんが?わしがここを離れるわけにはいかんのでな」
 二人が挨拶をしたのを見て、ニールはジャンにそう頼む。
 その頼みに、ジャンはあっさり「はい。わかりました」と、首を縦に振った。
 ニールはうむと首を縦に振ると、シアの方を向いて名残惜しそうに、まるで幼い子に対するように彼女の頭を撫でながら言った。
「それじゃ、気をつけて帰るんじゃよ。シア。最近、この町も物騒じゃからな……エドワードと、せがれのクラフトにもよろしく」
「やだなぁ、ニールじいさん。あたしだって小さな子供じゃないんだから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
 銀髪を撫でられたシアは、小さな子供じゃないんだから……と、ちょっぴり恥ずかしさを感じつつも、心配してくれるニールじいさんの気持ちが嬉しくて抵抗しなかった。
 いつまでも、小さな子供のように扱われるのは恥ずかしいが、守られているとも感じる。
 さっきまでの嫌な気分は、いつの間にか何処かに消えていた。
「また会いに来るね。ニールじいさん」
 シアがそう言うと、ニールは笑顔でうなずいた。
「ああ。待っとるよ。シア」
 そうして、ニールじいさんと別れの挨拶をすませて応接間から出ると、商人見習いの青年――ジャンが「シアお嬢さん」と話しかけてきた。
「シアお嬢さん」
「……ん?何?」
 シアが横を向くと、ジャンが笑顔で提案する。
「表の扉じゃなくて、裏口の方から行きませんか?実は、そちらの方が近道なんです」
「……そうなの?」
 ここまでの道を思い出し、シアは首をひねった。
 裏口の方に近道がある?三年前に、ここに来た時には、近道があるなんて話は一言も聞かなかったが……。
 首をひねりつつも、この町の地理に詳しくないシアは、ジャンの言葉に従って、裏口の方へと向かう。
 ジャンの言葉に、どこか胡散臭いものを感じじつつも、商会の仲間を疑ってはいけないという気持ちが、彼女の足を裏口に向かわせた。――ジャンは同じ商会の仲間だ。疑う理由はない。その判断が仇になるなど、その時のシアには想像もつかなかった。
「それで、ジャン……」
 裏口を出たシアが、どちらに行けば良いのかジャンに尋ねようと、後ろを振り返りかけた瞬間だった――
「……すみませんね。シアお嬢さん」
 その言葉と同時にシアの頭に、どんっ、と重い衝撃が走った。
 後ろから殴られたのだということを自覚する前に、シアの身体は地面へと崩れ落ちる。
「……っ!」
 倒れたシアを見下ろして、ジャンは冷ややかに言った。
「……すみませんね。シアお嬢さん。貴女を差し出せば、青薔薇の旦那から報酬が出るんですよ……貴女に恨みはありませんから、悪く思わないで下さい」
 ジャンの言葉を最後まで聞き終わらぬうちに、シアの意識は暗い暗い闇の中へと沈んでいった――
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