女王の商人

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  薬草と商人5−6  

「……」
 ――これから、どうしたものだろう?
 ハイライン伯爵家の屋敷を飛び出した後、足早に王都の大通りを歩きながら、そう考えたアレクシスは、やや途方に暮れた。
母と従僕のセドリックの制止を振り切って、その場の勢いで屋敷を飛び出してはみたものの、何かするべきことや、確固たる目的があるわけでもない。
 いや、そもそも彼自身、あんな風に屋敷を飛び出してくる予定ではなかったのだから、それは仕方のないことではあるが。
 ……母上にシルヴィアのことを言われて、つい必要以上に、強く反論してしまった。
 はぁ、と息を吐いて、アレクシスは先ほどの己の言動を悔いる。
 別に、己の言い分が間違っていたとは思わない。
 しかし、三年前に父親が亡くなってから、伯爵家の未亡人として女手ひとつで、息子の自分を見守り、また支えてくれた母。そんな母に対して、ずいぶんとキツい物言いをしてしまったと、アレクシスは反省した。
 母――ルイーズは、厳しいところもあるが、基本的には真面目で愛情深い人だ。
 商人への偏見はどうかと思うが、それ以外は公平で誠実な人柄で、屋敷の使用人たちや領民たちからも敬愛されている。
 そして、そんな母のことを、アレクシスも尊敬していた。
 だからこそ、今まで母の言葉に、あれほど強く反論したことはなかったのである。
 愛情深い母は、また時として厳しい人でもあったが、母が厳しく言う時は大抵、息子を――アレクシスを心配したうえでのことだったからだ。
 おまけに父が亡くなってから、未亡人となった母がハイライン伯爵家を支えるために、どれほどの努力と苦労と重ねてきたか知っていればこそ、日頃、母に反抗することは殆どなかった。
 しかし、さっきは我慢できず、母に対して、つい強い口調で反論してしまった。
 それは、過去の……シルヴィアのことを持ち出されたこともあるが、シアのことも大きかっただろう。
 商人とは付き合うな、という母の言葉が、嫌な記憶と重なったからだ。
 あの、薬師の村での事件の時、青薔薇の首領にして、例のイクス公爵家の生き残りであるアシュレイという男は、こう言った。
『君も貴族だというなら、わかるだろう?貴族はかつての力を失って、その富を巻き上げた成金たちが、悠々と暮らしている。それとは反対に、金に困って実の娘すら道具にする貴族に、爵位すら売り払う貴族……おかしいとは思わないか?百年も前なら、考えられなかったことだ。この国が悪いと、そうは思わないか?』
『青薔薇の目的は、復讐だ。貴族を虐げて、平民を選んだ。この国への』
と。
 しょせん、貴族と平民とは相容れない存在なのだ――と。
 アレクシス自身、貴族の一員ではあるが、あのような言葉を口にする者を、同じ貴族だとは思いたくなかった。
 騎士は――貴族というものは、いざという時は力なき民を助け、民を守護し、また民を良き方向へ導く存在でなければならない。
 そう教えられ、またそれを信じてきた彼にとって、貴族が平民を見下す……蔑むという行為は、絶対に許されないものだった。そんな貴族ならば、いない方が良い。
 アレクシスは、己がハイライン伯爵家の騎士であることに誇りを抱いているが、それは己が民を守るべき立場にあると思えばこそだ。
 高い身分と血筋に驕り、平民を蔑む――そんな者を、アレクシスは真の貴族とは認めない。
 身分や血筋に驕り、他者を蔑むなどというのは、誇りでも何でもない。それは、ただの傲慢な愚か者だ。
 無論、母の……ルイーズの言葉に、そんな意図がなかったのは彼もわかっている。
 母はシルヴィアの件で……他にも何か事情があるのかもしれないが、商人を嫌っているだけで、身分が違うからとなどという下らない理由で、平民を見下すような真似は絶対にしない。
 たとえ何があったとしても、母は身分を理由に、理不尽に人を差別するようなことだけはしない。
 息子として、それだけは断言できる。
 しかし、それを十分に理解していても、あの母の言葉を聞き流すことは、アレクシスには出来なかった。
 このアルゼンタール王国の政治の中心が、一部の権力を有する大貴族のたちの手から、名も無き民衆たちの手に移ってから数十年――
 革命こそ起きなかったものの、この国の貴族と平民の間には、いまだお互いに埋め切れぬ、深い深い溝が存在する。
 貴族は己から富と権力を奪った平民を増悪し、平民は血筋に驕る貴族を嫌う。
 決してお互いを理解しようともせず、お互いに歩み寄ろうともしない。
 そんな不毛な関係だ。
 例の青薔薇との一件で、日頃、心を痛めながらも無意識に避けたがっている現実を、無理矢理に突きつけられたような気分を味わった。
 貴族と平民の間に、深い深い溝がある現状が良いものだとは、アレクシスは決して思わない。
 しかし、だからといって、たかだか十八の若僧でおまけに剣しか知らない己の力で出来ることなど、何一つとしてないこともわかっている。
 己は無力だ。
 シルヴィアの時も、今も、何も出来ない。
 ……弱いままだ。
 身分の壁を感じながら、何も出来ない。そんな想いは、アレクシスの心に少なからず、影を落としていた。
 だからこそ、母の言葉はああも強く、反応してしまったのだろう。しかし――
 (……だが、それにしても、さっきは少し言い過ぎたな。母上には、申し訳ないことをした。セドリックにも心配をかけてしまったし、後で謝らなければ……)
 さっきの母とのやりとりで、セドリックにも心配をかけてしまったと、アレクシスは反省する。
 商人と親しくしてはならないという母の意見に同意する気にはなれないが、おそらく母は母なりに、心から自分のことを心配して言ってくれたのだろうと、彼は思った。
 それに、母がシルヴィアの件で商人を嫌っているというなら、それもある程度は理解できなくもない。
 清楚で美しく、また心根も優しいシルヴィアのことを、母は息子の婚約者というだけでなく、実の娘のように可愛がっていた。
 そのシルヴィアが、家の事情で半ば売られるように年の離れた商人に嫁いだのだから、母があんな風に商人を嫌うのも、理由のないことではない。
 時折、厳しい一面を見せるものの、普段の母はとても愛情深い人だ。
 そんな母だからこそ、何年か経った今も、シルヴィアを不憫に思う気持ちが消えることはないのだろう。
 しかし、それとこれとは別の問題だと、アレクシスは思う。
 もちろんシルヴィアの件が辛くなかったといえば、下手な嘘になるが、同じ商人であるという理由だけでシアを恨もうとは、アレクシスは微塵も思わない。もし、責められるべき者があるとすれば、それは婚約者を守れなかった己だけだ。
 そして、それを母上にもわかってほしかった。
「――アレクシスさんっ!」
 そんなことを考えながら、アレクシスが目的もないまま道を歩いていると、何処からか自分の名を呼ぶ声がした。
「……」
 アレクシスはその声の主を探そうと、ぐるりっと周囲を見回す。
 すると、再び、聞き慣れた声が響いた。……しかも、三人分も。
「アレクシスさんっ!」
「こっちですよ!こっち!」
「久しぶりですね。シアお嬢さんに会いに来たんですか?」
 そう言いながら、にこやかな笑顔を浮かべてアレクシスの方に駆け寄ってきたのは、全く同じ顔をした三人の青年たちだった。
 首には、商人見習いの証である銅貨を下げている。
 人当たりの良さそうな同じ顔をした、一目で三つ子だとわかる彼らの名を、アレクシスはシアの身内のようなものとして、記憶していた。
 リーブル商会の商人見習い三つ子――エルト、アルト、カルトだ。
「いやぁ、久しぶりですね。アレクシスさん」
 三つ子の一人が、(カルト……いや、アルトかエルトかもしれない。アレクシスには見分けがつかなかった……)商人らしい人当たりの良い口調で挨拶をすると、アレクシスは「ああ」とうなずいた。
「ああ。久しぶり……奇遇だな。こんな場所で会うとは」
 麗しの女王陛下の都――王都ベルカルンは、かなり広い。
 彼の住むハイライン伯爵家の屋敷もリーブル商会も、王都の中では中心地と言える場所にあるから、会っておかしいと思うことはないのだが、それでも、こんな風にただ道を歩いていて偶然、知り合いに会う確率は、そう高くはないように思われた。
 奇遇だなという、アレクシスの言葉に、三つ子はそろって軽く苦笑した。
「いやいや、それはこっちの台詞ですよ」
 苦笑まじりにアルトが言えば、
「ここは、リーブル商会のすぐ近くですし、俺らがいるのは普通ですよ……むしろアレクシスさんこそ、こっちの方に何か用事ですか?」
と、カルトが続ける。
 そう言われたことで、アレクシスはようやく、今いる場所がリーブル商会のすぐ近くであることに気づいた。
 屋敷を飛び出した後、色々と考え事をしながら目的もなく歩いていたら、いつの間にか、こんな場所……シアのいる、リーブル商会のすぐ近くまで来てしまったらしい。
 それは全くの偶然であったのだが、彼はひどく微妙な気分になった。
 ――リーブル商会の商会の近くまで来たといっても、アレクシスはシアと会って、この前の件について話す気にはなれなかった。少なくとも、今はまだ……。
 いずれシアとはきちんと話さねばならないと思うが、今はどうしても、そうする気にはなれなかったからだ。
 母と貴族だ平民だ商人だと、あんな会話を交わした後で、すぐにシアと会って話す気にはなれない。
 こんな状態で、この前の青薔薇の件について話したら、あの時のようにキツい言葉を口にしてしまうのではないかという恐怖が、アレクシスの心の片隅にはあった。
 あの時の二の舞は御免だ。
『――俺たち貴族から誇りを取ったら、何が残るというんだ?』
 薬師の村で、アレクシスがそう言った時、シアはひどく傷ついた……途方に暮れた幼い子供のような表情をしていた。
 あの時の、今にも泣きそうなシアの表情を、彼はいまだに忘れることが出来ない。
 自分が間違えたことを口にしたとは思わない……しかし、己の言動がシアを傷つけたことは事実だと、アレクシスは自覚していた。
 だからこそ、怖いのだ。
 今、彼女に会ったら、また同じ事を繰り返してしまうのではと考えると、前に踏み出すことが出来ない。
 いや、それは、言い訳に過ぎない。
 本当はシアを傷つけることで、自分が傷つくのが怖いだけなのだから。
 そんな己の弱さを、臆病さをアレクシスは憎んだ。
 (女々しいな……俺はいつから、こんなに臆病者になったんだ?)
 剣を取り、騎士となることを誓った日から、臆病さと弱さは最も憎むべきものだと教えられてきた。王剣ハイラインの騎士たる者、いついかなる時も、誰よりも勇敢であれ――と。
 先祖から……父から受け継いだ騎士の心構えを、アレクシスは守りたいと思って、十八になるまで生きてきた。だが、実際には、この様だ。
 己の感情ひとつ、まともに向き合うことも出来ない。
 情けない。
「リーブル商会に……シアお嬢さんに、何か用事じゃないんですか?アレクシスさん」
 そんなアレクシスの迷いを見透かしたわけでもないだろうが、エルトが言った。
「いや……」
 アレクシスは迷いながらも、いささか歯切れ悪く答えて、首を横に振る。
「あっ、そうなんですか」
 しかし、そんなアレクシスの態度を訝しがるでもなく、エルトは言葉を続けた。
「まぁ、どっちにしても、今、シアお嬢さんは大旦那様の用事で、外に出ちゃってるんですけど……」
「いや、別段、急ぎの用事はないから構わない」
「そうですか?まぁ、出かけたのがセノワの町でそんなに遠くないですし、シアお嬢さんも大旦那様から頼まれた用事が済んだら、すぐに帰ってくると思いますよ」
「そうか……ありがとう」
 アレクシスが礼を言うと、エルトの横にいたアルトが、「もうちょっと早かったら、会えたんですけど……タイミングが悪かったですね。何か伝言があれば、シアお嬢さんに伝えておきますけど?」となぐさめるように言った。
「……いや、本当に急ぎの用事ではないから、問題ない。お気遣いは有り難いが、伝言を頼むような用件でもないからな」
 そんなアレクシスの言葉に、エルトたち三つ子はどうする?という風に顔を見合わせて、やがて三人を代表したようにカルトが口を開いた。
「ねぇ、アレクシスさん。シアお嬢さんと……」
 おそらく、その言葉の先は、何かありましたか?と続けたかったのだろう。
 しかし、背後からかけられた「おおぃ」という呼び声に、中断された言葉が再び紡がれることはなかった。
「おおぃ。エルト、アルト、カルト」
 商人見習いの三つ子たちは、名を呼ばれた声の方角に振り返ると、三人そろって、ゆったりとした足取りでこちらに歩み寄ってくる長身の男の名を呼んだ。
「「「オスカーさんっ」」」
 三つ子と同じように、声のした方を見たアレクシスも彼らと同じく、こちらに歩み寄ってくる男の名を呼ぶ。
「――オスカー殿」
 ゆったりとした足取りで、こちらに歩み寄ってきたのは、黒髪に青みがかった灰色の瞳の、穏やかそうな四十くらいの男性だった。
 オスカー=ライセンス。
 腕のいい行商人であると同時に、リーブル商会の長であるクラフトとは長年の友人であり、シアからは「オスカーおじさま」と呼ばれ、慕われる人物である。
 またアレクシスにとっては、ある事件で危ないところを救ってくれた恩人であり、そして、理由はわからないのだが出会ったばかりの頃から、まるで昔からの知り合いであるような、そんな親しみを感じさせる人でもあった。
「クラフトが君たちを呼んでいたよ。エルト、アルト、カルト……おや?貴方は……アレクシス殿じゃないですか」
 三つ子に話しかけたオスカーは、その隣にいるアレクシスに目を留めると、親しみのもてる穏やかな声で言った。
「お久しぶりです。オスカー殿」
「やぁ、久しぶりですね。アレクシス殿……お元気そうで何よりです」
「ええ。オスカー殿も」
 その穏やかな声音と、青みがかった灰色の瞳に、どこか懐かしいものを感じながら、アレクシスはうなずいた。
 つい最近、知り合ったばかりの人を、そんな風に思うのも奇妙なものだとわかっているが、なぜかオスカーと接していると気が楽というか、安心できる気がする。
 その理由は彼自身、はっきりとはわからないのだが……。
「まぁ、何とか……あっ、忘れるところだった。エルト、アルト、カルト、さっき商売の相談があって、クラフトのところに顔を出したら、君たちのことを探していたよ」
 アレクシスとの会話が一段落するとオスカーは、クラフトが君たちを探していたよ、とエルトたち三人に言った。
「「「旦那様が?」」」
 クラフトはうなずいて、
「ああ。何か急ぎの用事だったみたいだから、早く戻ってあげた方が良さそうだった」
と、続けた。
「わかりました。じゃあ、俺たちはリーブル商会に戻りますね。オスカーさん。戻るぞ。エルト、カルト」
 アルトがそう言って、兄弟たちに呼びかけると、エルトとカルトもわかったという風に首を縦に振る。
「ありがとうございました。オスカーさん。それじゃ、失礼します」
「アレクシスさんも、また今度、ゆっくり話せたら良いですね。それじゃ、俺たちはこれで!」
 口々に別れの挨拶をすると、踵を返して、リーブル商会の方に歩いていこうとした三つ子だったが、ふっと思い出したように、エルトはアレクシスに歩み寄ると、そっと彼の耳にささやいた。
 オスカーには聞こえないほどの小声で、だが、逆らい難いほど真摯な声で――
「喧嘩するな、なんて野暮なことは言いません。ただ、もしも、シアお嬢さんが貴方のせいで傷つくようなことがあれば……その時は、俺たちを三人を含めて、リーブル商会の全員を敵に回しますよ……覚えておいてくださいね。アレクシスさん?」
 それは、いつも冗談ばかり言っている三つ子とは思えないほどに、真摯で、逆らい難い響きを持つ声だった。それだけ、その言葉が本気だということだ。
 普段、からかわれて遊ばれているようなシアだが、どうやら商会の仲間たちからは心から慕われているようだと、アレクシスは思った。
 もしも、彼女がただリーブル商会の長の娘というだけだったら、エルトたちもここまでは言わなかっただろう。
 彼らの信頼はきっと、シアが今まで、長い時間をかけて積み重ねてきたものだ。
 その言葉から真剣なものを感じればこそ、アレクシスとしても、いい加減なことは言えない。
「――覚えておこう」
 アレクシスはエルトの顔を正面から見つめると、決して視線を逸らさず、そう言った。
「約束ですよ」
 覚えておく、というアレクシスの返事に、エルトはにかっと笑うと、彼とオスカーに「それじゃ」と背を向けて、その場から立ち去った。
 そんな彼の背中を、アルトとカルトの二人が追いかけていく。
「……クラフトから聞きましたよ。この前の仕事は、色々と大変だったそうですね」
 エルトたち三つ子の背中を見送った後、オスカーは静かな声で、アレクシスにそう話しかけた。
 この前の仕事とは、例の薬師の村でのことだ。
「……ええ。まさか、あの犯罪組織と……“青薔薇”と剣を交えることになるとは、想像もしませんでした」
 そう答えたアレクシスの声は、苦かった。
 あの薬師の村で取り逃がした青薔薇の首領・アシュレイは、警備隊の包囲網を逃れて、いまだ捕まっていない。
 しかも、村の宝である『賢者の書』は持ち逃げされて、どんな悪事に使われるかもわからないという現状では、何も解決していないに等しかった。
 アレクシスの歯切れが悪くなるのも、当然というものだ。
 オスカーは、そうでしょうね、とうなずいて、「ところで……」と続けた。
「そうでしょうね……ところで、噂によると、青薔薇の首領は例のイクス公爵家と縁のある者だとか……」
 イクス公爵家――貴族の衰退を拒み、平民が権力を握ることを憂い、国王に反旗を翻し、処刑された一族。
「……そのようですね」
 その名を聞いたアレクシスは、お世辞にも晴れやかとは言えない表情で、首を縦に振る。
 イクス公爵家と、それに賛同した貴族たちの起こしたイクスの反乱――そのことを思うと、彼の心中は複雑だった。
 もしも、ほんの少し生まれた時代が違えば、もしも生まれた家が違えば、自分も貴族の一人として、その反乱に参加していたかもしれない。
 そう考えると、アレクシスが反乱を起こし処刑された貴族たちのことを、時流を読めなかった愚か者だと、無責任に口にすることは許されない。
 血筋に驕る貴族を嫌っても、彼もまた貴族の一人であることを、捨て去ることは出来ないのだから。
「……浮かない顔ですね」
 アレクシスの微妙な感情の変化を読みとったのか、オスカーが言う。
「いえ……そんなことは……」
 首を横に振り、アレクシスは否定の言葉を口にしようとしたが、それはオスカーの声によって遮られた。
「――迷うことは、騎士の恥ではありませんよ」
 静かで穏やかで、それでいて何処か懐かしい響きを持つ声に、アレクシスはオスカーの顔を正面から見つめた。
「それは……」
 戸惑うアレクシスを、青みがかった灰色の瞳で見つめると、オスカーはふっと柔らかく微笑んで、静かな声で続ける。
 親が子を諭そうとする時のような、穏やかで、愛情に満ちた声だった。
「何度、迷っても、悩んでも、そのことで苦しんでも、騎士として恥じることはありませんよ。アレクシス殿……決して、常に迷わない者が、強いというものではないのだから……むしろ、大切なのは、他の誰でもない、貴方が自分で決めて選ぶということ。“誇り”も“強さ”も、貴方が己で選ばなければ意味がない」
 そのオスカーの言葉は、不思議とアレクシスの胸に深く響いた。
 何も難しいことを言われたわけではない。だが、それだけに真実をついている気がした。
「……」
 騎士としても貴族としても、迷わないことが悩まないことが強さだと、そう思いこもうとしていた。
 揺るがぬことこそが、真の強さなのだと。
 ……いや、きっと本当は、迷うことで、弱くなるのが恐ろしかったのだ。
 しかし、それは本当に正しかったのか?と、アレクシスは思う。
 見たくないものから目を背けようとするのは、強さでも何でもなく、ただ臆病なだけではないかと。
 沈黙したアレクシスに、オスカーは再度、穏やかに問う。
「貴方は……君は、どうしたいのですか?」
 迷わないのは、アレクシスにとっては楽だった。
 変化することを、恐れていた。だが、それでは前に進めない。
 前を向いて歩いていくためには、失敗しても傷ついても、己の意志で選ばなくてはならないのだと。
「俺は……」
 悩みながらもアレクシスは、その答えを口にした。


 それから数時間後――
 真っ暗な倉庫のような場所に、銀髪の少女が両手両足をロープで縛られて、地面に転がされていた。
 少女は瞼を閉じ、血の気の失せた顔で、ぐったりとしている。
 額には一筋、赤い血がにじんでいた。
「……うぅ……」
 ロープで鬱血するほどきつく縛られた両足首が、あるいは先ほど殴られた頭が痛むのか、少女――シアは「……うぅ……」と苦しげに呻いた。
 命にかかわるほどの怪我ではなさそうだが、その表情は、ひどく辛そうだった。
 この真っ暗な倉庫のような場所にシアが閉じこめられてから、それなりの時間が流れているはずだが、失われた体力のためか、あるいは朦朧とする意識のせいか、彼女はいまだ目を覚まさず、きつく瞼を閉じたままだ。
 ――シアの身に起こっている災難に、この時点ではアレクシスも、またリーブル商会の誰一人として、気づいていなかった。
 囚われの身の彼女に、救いの手はまだ差し伸べられそうにない……。
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