女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  薬草と商人5−8   

 時刻は再び、少し前へと戻り、シアがセノワの町に出発した頃のこと――
 王都ベルカルンにある、ハイライン伯爵家の別邸では、アレクシスの母親であり、今は亡き先代の奥方であるルイーズが、玄関先で立ち尽くしていた。
 母親である彼女に向かって「母上の言葉が正しいとは、今の俺は思いません」と、迷いのない毅然とした態度で、そう言い切り出ていった息子の、アレクシスの背中を、驚いたような表情で見つめながら、ルイーズは玄関先に立っていた。
 足早に歩いていく息子の背中が、だんだんと遠ざかり、その姿が見えなくなってからも、ずっと。
「……」
 彼女の灰色の瞳に、自分の意見に反発して、この屋敷を飛び出していった息子に対する怒りはない。
 たった一人の、最愛の息子に、自分の言葉を否定された悲しみもない。
 怒りも悲しみもない、静かな瞳で、ルイーズはアレクシスの歩き去った方角をじっと見つめる。
 ――それは違います。母上。
 ――商人に、金で買われたんじゃない。シルヴィアは、自分で自分の道を選んで、幸せになるために嫁いで行ったんです。
 ――身分や立場は違っても、貴族と平民、騎士と商人が、お互いに歩み寄れないことはないはずです。いえ、俺は歩み寄れると信じます。
 ――信じたいのです。
 息子の言葉を、胸の内で反復しながら。
「……お、奥方様?」
 そんな風に、何も言わず立ち尽くすルイーズを不安に思ってか、隣にいた従僕のセドリックが、「……お、奥方様?」と心配そうに言った。
 少しの間の後、ルイーズはゆっくりとセドリックの方を向くと、ふっと表情を緩める。
 顔立ちは余り似ていないのに、そのどこか困ったような微笑は、その表情は息子である騎士とよく似ていた。
「……大丈夫よ。セドリック」
 大丈夫よ、というルイーズの言葉に、不安気な表情を浮かべていたセドリックは、ホッと安堵したように、うなずいた。
 先ほどは若様の件で、少しばかり厳しい態度を向けられたとはいえ、若様とハイライン伯爵家に忠誠を誓うセドリックにとって、ルイーズは敬愛する奥方様である。
 また、そうでなかったとしても、執事の息子、ただの使用人の子であるセドリックに対して、奥方様――ルイーズは、幼い頃から実の息子であるアレクシスと分け隔てなく、時に褒め、時に叱り、深い愛情をもって接してくださった。
 エレナ……セドリックの三歳年下の妹も、それは同じである。
 貴族の奥方として誇り高く、礼儀や規律を重んじるルイーズは、周囲から厳しい人と思われがちだが、本当は心優しく、愛情深い人であることを、セドリックはよく知っていた。
 そんな彼にとっては、敬愛する若様と奥方様が意見を対立させて、その結果、奥方様が悲しまれているのを見るのは、ひどく胸が痛む。
 奥方様が、たった一人の息子である若様――アレクシスのことを、どんなに大切に想っているか、それを知っていれば尚更だ。
「……ごめんなさいね。セドリック」
 そんな従僕の気持ちを察してか、ルイーズはそっと目を伏せると、「……ごめんなさいね。セドリック」と穏やかな、だが、どこか寂しげな声で言う。
「貴方には、悪いことをしたわ。セドリック……ごめんなさい。貴方には何の非もないのに、私たち親子の問題に、貴方を巻き込んでしまって……迷惑をかけたわね」
 憂い顔で謝るルイーズに、セドリックはそんなことはない、と大きく首を横に振る。
「いえ、そんな……巻き込まれたなんて、そんな風には、全く思っておりません!奥方様」
 それは、セドリックの本心だった。
 親子の問題に巻き込まれて、迷惑だったなどと、彼は全く思っていない。
 しかし、思ってはいないが、迷っていることは事実だった。
 奥方様の気持ちも、若様の気持ちも、それぞれ理解できる。お互いを理解しようとしない、貴族と平民の高い壁も、また成り上がりの平民が没落貴族を食い物にすることも、シルヴィア様の件も、どれも何が正しくて何が間違っているのか、一概に言えるようなものではない。
 いや……そもそも、誰にとっても幸福な、完璧な答えなど、存在しないのではないだろうか。
 その者の身分や立場、また考え方によって、正しいと思うものは人によって違ってくるだろうから。
「……」
 貴族に仕える平民のセドリックは、奥方様であるルイーズの言い分も、息子のアレクシスの言い分も、どちらにも共感できる部分はある。
 しかし、その問題に完璧な正解など存在しないことを悟っている彼としては、敬愛する奥方様と若様の意見の対立に胸を痛めつつも、己の力ではどうすることも出来ずに、ただ途方に暮れていた。
 なぜなのだろうと、セドリックはため息をつく。
 アレクシスは、母親のルイーズを大切にしている。
 父が亡き今、たった一人の大事な家族であるから、アレクシスにとっては当然のことであった。
 そもそも彼が住み慣れた領地を離れて、わざわざ王都までやって来たのは、女王陛下たっての願いもあるが、領地で暮らす母親や家の者を含む領民たちが、少しでも豊かに、楽になれば良いと思ってのことだったのである。
 また、息子のことを大切に想っているのは、ルイーズも同じだ。
 アレクシス本人よりも、彼の身を心から案じ、いつも心配している。
 そうであるからこそ、領地から遠く離れた王都で暮らす息子に、体調は崩していないか、何か困ったことはないか、などと近況を尋ねる手紙を、何度も送っているのだ。
 また今回は、領地から王都まで長時間の馬車に揺られながら、王都で暮らす息子の、アレクシスの様子を見に来たのである。
 母親としての深い愛情がなければ、そんなことはしないだろう。
 それなのに、ああ、なぜだろうとセドリックは嘆息する。
 母として、息子として、お互いに相手のことを思いやっているのに、なぜ、こんな風にすれ違ってしまうのだろう?
「あの子……」
 その時、ルイーズが唇を開いた。
「あの子……アレクシスは、変わったわね」
 嘆く風でもなく、淡々と続けられた言葉に、セドリックは首をかしげる。
「……若様が変わられた?そうでしょうか?」
 ええ、とルイーズはうなずく。
「ええ。あの子は……アレクシスは、変わったわ。昔は、あんなにはっきりと、自分の意見を口にする子じゃなかったでしょう?」
 息子は変わったと、ルイーズは思う。
 彼女が知る限り、アレクシスがあんな風にはっきりと自分の意見を口にし、母親に逆らうことは稀だった。
 別に、それが悪いというのではないが、ただ変わったと思う。
 母親の目から見たアレクシスは、幼い頃から、聞き分けが良いというか、少し真面目すぎるほどに真面目で、親として少し物足りなく思うほどに、手のかからない子だった。
 昔から、決して気が弱いわけでも、自分の意見がないわけでもないのだが、肝心なところで自分の意志を押し殺し、じっと我慢してしまうようなところがあった。
 まるで自分の意志を通すことで、誰かを傷つけてしまうことを、怖がっているように……。
 騎士として勇敢なようでいて、精神的には繊細というか、どこか臆病なところがあったのだ。
 ルイーズは今まで息子のことを、自分の手の中にあるものを大切に守ろうとはしても、何かが欲しいと望みを口にすることは出来ない、そんな子だと思っていた。だから、先ほどのアレクシスの言葉は、ひどく予想外なものだった。
 前の、王都に行く前のアレクシスならば、ああは言えなかっただろう。
 シルヴィアの件についても、可哀想なことをしたと思ってはいたが、あんな風に考えているとまでは思わなかった。
 王都に来てからの様々な人との出会いが、そこで得た経験が、あの子を変えたのだろうか……?
「ほんの少し会わなかっただけで、あの子は……アレクシスは、ずいぶん変わったわね。まだまだ子供だと思っていたのに、いつの間に、あんな大人びた表情をするようになったのかしら?」
 さっき信じたい、と信じるのだといった時のアレクシスの表情を思い出しながら、ルイーズは言う。
 王剣の騎士としての務めをこなしていても、とうの昔に身長が自分を追い越しても、母の目から見れば、まだまだ子供だと思っていたのに……
 信じたいと言った時の、凛とした息子の表情は、決して幼くはなく、もう子供だとは思えなかった。
 精神的には、まだまだ未熟で頑固で脆くて、弱い部分は沢山ある。
 でも、あの子はいつまでも、幼い子供のままでいるわけではないのだ。
 王都に来てからの日々の中で、アレクシスは様々な経験を得て、変わったのだろう。
 親のいない場所でも、子供は成長していく……そんな当たり前のことに、ルイーズは今更ながら、気づかされた。
 それを認めることは、我が子が母である自分の手から離れていくということで、かすかな胸の痛みを伴ったが、それが息子、アレクシスにとって必要なことであることもわかっていた。だから、ルイーズはふっと柔らかに微笑むと、穏やかな声で続けた。
「変わったわね、本当に……母親として情けない話だけれど、シルヴィアのことも、あんな風に考えているなんて想像もしていなかったわ」
 ルイーズの言葉に、セドリックは「ええ……」とうなずく。
 そうして、アレクシスの心情を汲み取るように、「若様は……」と続けた。
「若様は、婚約者のシルヴィア様のことを、従姉というより実の姉弟のように、本当に大切に想われていましたから。……シルヴィア様も」
 お辛かったでしょう、と言って、セドリックは目を伏せた。
 シルヴィア様――あの天使のような美貌と、そして、しなやかで強い心を持つ、アレクシスのかつての婚約者。
 あの方の聡明さには、セドリックも大きな影響を受けた。
 きっと、アレクシスもそうだろう。
 従僕として、幼い頃からアレクシスと共にあったセドリックの記憶に残るのは、いつも仲が良かった若様とシルヴィア様の姿だ。
 婚約者というより、姉弟のように見えたが、お二人は本当に仲が良かった。
 そんなシルヴィアとの別れが、アレクシスに大きな傷を与えて、心に変化をもたらしたであろうことを察するのは、そう難しくはない。
「そうね。それもあるでしょう。でも、あの子が変わったのは……本当に、それだけなのかしらね」
 セドリックの言葉を認めつつも、ルイーズは本当にそれだけなのかしらね、と言った。
 シルヴィアの件で、アレクシスが胸を痛めていたのは、そうなのだろう。
 息子は時折、ひどく鈍感というか、鈍いところがあるものの、人の痛みに無関心でいられる子ではない。だが、それだけではないと、母親の勘でルイーズは思う。
 あの子に変化をもたらしたのは、あの銀髪の少女、シアといっただろうか……青い瞳で、自分を真っ直ぐに見つめてきたあの少女が、アレクシスを……
「奥方様……?」
 何か考えこむように、いきなり黙り込んだルイーズを見て、セドリックは不思議そうな顔で、「奥方様……?」と呼びかける。それに対してルイーズは、何でもないという風に、首を横に振った。
「何でもないわ。セドリック……少し、部屋で休んでくるから、何かあったら呼びにきてくれるかしら?」
「はい。かしこまりました……あの、奥方様」
 セドリックは一度、ルイーズの言葉にうなずいたものの、「あの……」と遠慮がちに言った。
「何かしら?セドリック」
「従僕として、出過ぎた真似であることは、重々承知しておりますが……奥方様に、失礼を承知で、お尋ねしたいことがあるのです。よろしいでしょうか?」
「……どうぞ、言ってごらんなさい」
 ほんの少しの間の後、ルイーズは小さく首を縦に振る。
 セドリックは「ありがとうございます」と言って、真剣な顔つきで続けた。
「奥方様はどうして、商人を嫌っておられるのですか?シルヴィア様のことでは、奥方様の気持ちをお察しいたしますが……本当に、それだけなのですか?」
 奥方様に対して、礼を失しているだろうと知りつつ、セドリックはそう尋ねずにはいられなかった。
 己にも他人にも厳しく、伝統や規律を重んじるルイーズではあるが、その分、公平で誠実な人柄であることを、彼はよく知っていた。
 そんな奥方様が、何の理由もなく、商人を嫌うとは思えない。
 シルヴィア様の件も、理由のひとつではあるのだろうが、奥方様の反応を見ていると、それ以外にも何か理由があるのでは、と思ってしまう。
 興味本位というわけでなく、若様の為に、それを聞いておいた方が良いのではないか、と彼は考えた。
「……」
 セドリックの問いかけに、ルイーズは答えず、ただ無言をつらぬく。
 そんな奥方様の態度に、セドリックは、どうやら自分は尋ねてはならないことを尋ねてしまったようだと思い、申し訳ございませんでした、と頭を下げた。
「申し訳ございません。奥方様に対して、従僕としての分もわきまえず、出過ぎたことを口にしてしまいました……どうか、お許しください」
「……」
 セドリックの謝罪にも、ルイーズは何も言おうとしなかった。
 長いようにも、また短いようにも感じられる沈黙の後、ルイーズは唇を開くと、ぽつりと呟くように言った。
「違うのよ。貴方は、何も悪くないの。セドリック……原因は全て、私にあるのよ」
「……奥方様?どうかなさったのですか?」
 ルイーズのその声が、あまりにも悲しげなものだったので、セドリックは戸惑う。
 そんな彼に、灰色の瞳を向けると、ルイーズは静かな声で言った。
「私が、商人を嫌いになったのはね、セドリック……」
「……」
「――セシリアが……私の末の妹が、商人のせいで死んでしまった、あの日からよ」
 静かな声で、あくまでも淡々と続けられたそれに、セドリックは凍りついた。
「え……」
 それだけ言うと、ルイーズはセドリックに背を向けて、自分の部屋に向かうべく階段の方へと歩き出した。
 もう、何も言うことはないという風に。
 彼女の言葉に、凍りついた従僕を、その場に置き去りにして。
「奥方様っ……!」
 そうセドリックが叫んでいるのは耳に入ったが、ルイーズは振り返らなかった。
「……」
 階段を上り、部屋に入ったルイーズは、扉を閉めた。
 そうして、疲れた体を引きずりながら椅子に腰掛けると、そっと目を閉じる。
 ……セドリックには、悪いことをしたかもしれないと、彼女は悔いた。
 一人息子のアレクシスにすら話したとがない、過去の辛い記憶……それを、あんな形で口にするべきではなかった。
「セシリア……貴女が、あれほど若くして逝ってしまってから、もう二十年近くになるのね……」
 セシリア、とルイーズは、今は亡き妹の名を口にした。
 ――ルイーズが、商人を嫌う……深く憎むようになったのは、末の妹が死んだ日からだ。
 ルイーズは、三人姉妹の長女だった。
 すぐ下の妹はシルヴィアの母親、そして、その下の末の妹が、セシリアだ。
 彼女たちは、社交界でも評判の、仲の良い姉妹だった。
 聡明と名高い長女。
 華やかな美貌で知られる次女。
 そうして、上の二人と比べると目立つ存在ではなかったが、温厚で気立ての良い末妹のセシリア。
 聡明でも、美貌の持ち主でもなかったが、穏やかで優しいセシリアを上の二人はとても可愛がり、お互いを大切に想っていた。
 仲の良かった姉妹……もし、何事もなければ、その関係はずっと続いていただろう。
 しかし、貴族らしく大らかで鷹揚だった父が、口のうまい詐欺師に騙されて事業に失敗し、それで抱えた借金の返済による心労で母が亡くなって以来、三姉妹の平穏な生活は、脆くも崩れさった。
 後で思えば、それは悲劇の始まりに過ぎなかったのだが。
 そんな時だった。
 母を喪った悲嘆に暮れ、借金の返済に苦しむ父の前に、あの卑劣な……憎むべき男が姿を現したのは。
 ヘルカッツ男爵と名乗ったその男は、あくどい人の弱みにつけこむような商売で、商人として財をなし、貴族としての地位を金で買ったような男だった。
 その男は、最愛の妻の死を悲しみ、借金で苦しむ父に向かって、親切さを装って、こう囁いたのだ。
 もし、貴方の三人の娘の誰かを、私の妻にしてくれるならば、借金の肩代わりをしてあげましょう。そうすれば、私の妻になった方は裕福な、何の不自由もない生活をお約束しますし、他の姉妹の方も、借金に苦しむことがない。皆にとって、悪い取引ではないでしょう?――と。
 ひどく甘い言葉で、ヘルカッツ男爵は、父を説得した。
 商人として一財産を手にし、貴族社会に乗り込んだ男だったが、社交界ではしょせんは成り上がりと、まともに相手にされていなかった。
 そんな男にとって、ルイーズたち三姉妹、由緒ある名門貴族に生まれた娘は、名誉と地位を手にするための格好の道具だったのである。
 元気だった頃の、妻を亡くしていなかった頃の父ならば、そんな怪しい男の口車には、絶対に乗らなかったはずだ。だが、愛する妻の死と借金で悲嘆に暮れていた父は、娘であるルイーズたちの反対を押し切り、その男の提案を受け入れてしまった。
 そうして、彼女たち姉妹の意見を無視して、すでに婚約者が決まっていた長女や次女ではなく、末の娘であるセシリアを、その男に嫁がせることを決めてしまったのである。
 当然ながら、ルイーズは父に反発した。
 人の弱みにつけこんで、そんな取引きを持ちかけてくるヘルカッツ男爵とやらは、どう考えても、善良な男とは思えなかった。
 それに、まだ十六歳のセシリアを犠牲にしてまで、家の名を守ろうとする父に、許し難い嫌悪すら抱いた。それぐらいなら、自分が代わりに、その男に嫁ぐとまで言ったのだ。
 しかし……そんなルイーズを止めたのは、妹のセシリアだった。
 母によく似た、優しい顔をしたセシリアは、姉を心配させまいとするように健気に微笑んで、ルイーズにこう言った。
「いいの。ルイーズお姉様。どうか、お父様を責めないで……私、あの方と結婚するわ。そうすれば、父様も姉様たちも皆、幸せになれるのでしょう?」
 そうして、妹を心配する二人の姉の制止を振り切り、セシリアは嫁いでいった。
 ……その先は、ルイーズにとっては、語ることすら辛い。
 あの男、ヘルカッツ男爵は、約束を守らなかった。
 妹を、セシリアを幸せにすると約束したのに、実際には不幸なまま死なせた。
 あの男には何人もの愛人がおり、セシリアと結婚してからも、それが変わることはなかったのだ。
 結婚してしまえば、もう目的は済んだとばかりに、あの男はセシリアを妻として愛することも、大切にすることもなかった。
 夫に愛されなかったセシリアは、夫の愛人たちの影に隠れて、屋敷の隅でひっそりと暮らしていたという。
 セシリアの死後、それを聞かされたルイーズは愕然とした。
 あの子は、セシリアはそんなこと一言だって、姉たちに愚痴らなかったから……!
 嫁いでから二年後、産後の肥立ちが悪く、セシリアは死んでしまった。
 夫のヘルカッツ男爵、あの卑劣な男はセシリアの葬儀の時でさえ、涙ひとつ、悲しい顔ひとつ見せなかった。
 それを見たルイーズは、セシリアが可哀想で、何の幸せも得れないまま逝ってしまった妹が哀れで、涙を止めることが出来なかった。
 可哀想な、可哀想なセシリア……
 まだ、たったの十八だったのに、何の幸せも得られないまま逝ってしまった……
 あの子は、あの子は……!
 その日からだ。
 ルイーズが、ヘルカッツ男爵を連想させる、商人という存在を深く憎むようになったのは。
 八つ当たりに過ぎないのは自覚していたが、妹を救えなかったという後悔と、不幸なまま死なせてしまったという罪悪感を抱えて生きていくためには、そうしなければ耐えきれなかったのだ。
 それに、シルヴィアの件が拍車をかけた。
 家や家族を守るために、親子のように年の離れた商人に嫁いだ、シルヴィア。
 商人はいつも、私の大切なものを奪っていく……!
 そう思っていた。しかし――
「……」
 その考えは、もしかしなくとも間違っていたのではないかと、ルイーズは思う。
 アレクシスと、あのシアという商人の少女の間には、何らかの絆があるように感じられた。
 それを母親の自分が、商人を嫌いだからというだけで、彼らの絆を、想いを否定する権利が、自分にあるのだろうか。
 私は、セシリアのことを忘れられない。
 自分を許すことも出来ない。だが、アレクシスまで、同じ憎しみを背負って、同じ道を歩む必要は、どこにもないのだ。
 私は自分の考えを、息子に、アレクシスに押しつけてしまっただけなのではないだろうか……?
 そうだとしたら、私は……
「……」
 ルイーズは椅子から立ち上がると、もう一度、息子と正面から向き合うために、扉を開けた。
「アレクシス……」
 それから、数時間が流れ、太陽が沈みかけた頃、アレクシスは屋敷へと戻ってきた。
 玄関のところで、息子が帰ってくるのを待っていたルイーズは、アレクシスの漆黒の髪を遠くに見た瞬間、「アレクシス……」と息子の名を呼んだ。
「……母上」
 母親のそばに歩み寄ってきたアレクシスは、母上、と落ち着いた声音で言う。
 青年の漆黒の瞳に、先ほどまでの怒りや焦りがないことを、ルイーズは見て取った。
 この数時間、息子が何をしていたのかはわからないが、落ち着いたその瞳を見れば、本来の彼らしさを取り戻しつつあるのだとわかる。
 そんな息子の様子に安堵しつつ、ルイーズはもう一度、「アレクシス」と我が子の名を呼んだ。
「アレクシス」
「……はい」
 ルイーズは顔を上げて、いつの間にか、自分よりずっと背の高くなった息子の顔を正面から見つめると、静かな口調で問う。
「アレクシス……何か、この母に言いたいことはありますか?」
「……」
 その問いかけに、アレクシスはすぐに答えなかった。だが、母親の視線を言葉を、きちんと正面から受け止めて、決して目を逸らすことはしなかった。……逃げなかった。
 それでいい、とルイーズは心の中でうなずく。
 もし、息子が逃げるように目を逸らしたならば、きっと自分は失望しただろう。
 やがて、「母上……」と、アレクシスが唇を開く。
 ルイーズの、母親の視線を真正面から受け止めながら、彼は言った。
「母上……俺は、母上のことを尊敬しています。ですが、先ほど言ったことを、取り消す気はありません。不肖の息子で、申し訳ありません」
 やはり、という気持ちで、ルイーズは息子の言葉を受け止める。
 もう驚きはない。
 今の、この子ならば、そう言うのではないかと思っていた。
「そう。それが、貴方の意志なのね。アレクシス……それならば、母からはもう何も言うべきことはありません。貴方が良いと思った通りに、行動しなさい」
 反論するでもなく、息子の言葉を受け止めて、そう言ったルイーズに、今度は逆にアレクシスの方が、戸惑うような、意外そうな声を上げた。
「……怒らないのですか?母上」
 驚いたように言うアレクシスに、ルイーズは何を馬鹿なことを、と苦笑した。
「一体、何を怒る必要があるのです?アレクシス……貴方が自分の意志で、信じるものを選んだのならば、たとえ母親でも、いえ、母親だからこそ、それを曲げることは出来ません……それとも、貴方は私がここで何かを言ったら、あっさりと自分の主張を曲げるのですか?」
 その言葉に、母親の愛情を感じつつも、アレクシスはいいえ、と首を横に振る。
 母子だから、否、母子だからこそ、愛情ゆえに妥協できないこともある。
「……いいえ。母上には申し訳ありませんが、騎士として、一度、心に誓ったものを曲げることは出来ません」
 言葉の持つ重い意味を、ひとつひとつ噛みしめながら、アレクシスはそう言った。
 信じるということ。
 真の意味で強くなるということ。
 大切なものを守るということ。
 それらは彼の心の中で、いまだ完全な形にはなっていない。だが、シアと、どんな状況でも絶望せず、前を向こうとする少女と出会って、共に過ごすうちに、ほんの少しづつではあるが、彼の心に変化が訪れた。
 目標であった父の死、姉のように慕っていたシルヴィアとの別れ、失われていく貴族の誇り、そして忘れられていく騎士道……失われてしまったもののことを、また守るべきもののことを、忘れるわけではない。
 しかし、後ろを向いているだけでは、前に進めないことに、アレクシスはようやく気づいたのだ。
 これから先も、きっと迷うだろう。悩むだろう。己の無力さを実感することも、多いだろう……だが、きっと、それだけではない。
 アレクシスが、前に進もうという気持ちを捨てない限り、それは彼にとっては無意味なことではないのだ。
 いつの日か、本当の意味で、強くなるために。
「わかっているわ。もう決めたのでしょう?それならば、貴方は、貴方の信じたものを守りなさい。アレクシス……」
 ルイーズは、わかっていると風にうなずく。
 そうして、息子の顔を見ながら、どこか懐かしそうに微笑んだ。
 曇りのない、心からの笑みだった。
「アレクシス……貴方は、顔もそうだけれど、そういうところは父親によく似ているわね……あの方も、同じ状況ならば、きっと同じことを言ったでしょう」
 今は亡き夫のことを、アレクシスの父親のことを思い出しながら、ルイーズは言う。
「父上に?」
「ええ、やっぱり父子ね。よく似ているわ」
 当人に自覚はないらしく、そうだろうかと首をかしげるアレクシスに、ルイーズはふふ、と珍しく、少女のように明るく笑った。
 何が、変わったというわけでもない。
 長い間、痛みと共に抱き続けた憎しみは、そう簡単には消えるはずもない。
 ただ、信じてみようと、ルイーズは思った。
 我が子のことを、自分が心から愛した夫、その息子であるアレクシスのことを。
「母上……」
 そんな母親の姿を、アレクシスは珍しいものを見るような目で見ていたが、やがて、つられたように穏やかに微笑む。
 顔立ちはあまり似ていないにも関わらず、その笑顔はどこか、母親に似たものが感じられた。


 ――ハイライン伯爵家の屋敷に、突然の来客があったのは、その日の夜のことだった。
「……ん」
 寝台で眠っていたルイーズは、階下から聞こえてくるガタガタという騒がしい物音に、ゆっくりと閉じていた瞼を上げた。
 いまだ眠りから覚めきれない、ぼんやりとした灰色の瞳が、周囲を見回す。
 その部屋の中には、何の異常もない。
 どうやら、ガタガタという騒がしい物音は、玄関の方から聞こえてくるようだ。
 よくよく耳をすませば、何人かの話声のようなものも聞こえる。――こんな夜中に、一体、何事だろうか?
「……こんな夜中に、何事なの?」
 ルイーズはそう呟くと、いささか不安気な面持ちで、寝台から身を起こす。
 もしかすると、アレクシスやセドリックの身に、何か……?
 その時、女主人の異変に気がついたのか、寝台の横のバスケットで寝ていたルイーズの飼い猫――白猫のパールが「ニャア」と、不安を訴えるように鳴いた。
 ルイーズはきっと表情を引き締めると、寝衣の上にガウンを羽織り、「ニャア……」と不安がるように鳴く、白猫のパールを抱き上げた。
「あなたもいらっしゃい。パール」
 なだめるように、飼い猫の白銀の柔らかな毛を一撫ですると、ルイーズは燭台を片手に、人の話し声が聞こえる玄関へと、階段を下りた。
「あの、シアお嬢さまのことで、何か心当たりはないですか?アレクシスさま!どんな些細なことでも良いんですっ!」
「シアお嬢さまが、セノワの町に出かけたっきり、行方不明なんですっ!本当なら、もう、とっくに帰ってくるはずの時刻なのに……」
「さっき、シアお嬢さまと一緒にいたはずの馬車だけが、戻ってきて……でも、シアお嬢さまは、戻ってきていないんです!御者も、必死に探したんだけど、どこに居るのかわからないって!大旦那様も、旦那様も仕事で留守だし、私たちだけじゃ、どうすればいいのか……っ!」
 階段を下りた途端、ルイーズの耳に、そんな悲痛な声が、いくつも飛び込んでくる。
 息子のアレクシスのものとも、従僕のセドリックのものとも違う、高い声にルイーズは首をかしげた。
 こんな夜中に、誰か来客だろうか?そう思いながら、彼女は玄関の所に向かう。
 そこには、息子のアレクシスとセドリックの他に、メイド服を着た三人の若い娘たちが立っていた。
 どこかの屋敷のメイドであろう彼女たちは、アレクシスに向かって「シアお嬢さまが……シアお嬢さまが……」と、三人が三人とも心配と焦りが見える表情で、必死に訴えている。
「……事情は、わかった。シアの性格なら、黙っていなくなるとは、考えにくいな……何かあったのかもしれない。順を追って、詳しい話を聞かせてもらえるか?リタ、ニーナ、ベリンダ」
 アレクシスはそう言うと、リタ、ニーナ、ベリンダと呼んだメイドたちを安心させるように、俺も力を貸そう、と真摯な声で続けた。
 そんな彼の言葉に、ひどく不安そうな顔をしていたメイドたちは、ほんの少しだけ不安が緩んだのか、「ありがとうございます……!」と、焦りと不安が入り交じった、だが、その裏にたしかな信頼を感じられる声で礼を言う。
「大丈夫だ。リタ、ニーナ、ベリンダ……シアは、きっと無事でいる。シアは……あの娘は、どんな絶望的な状況でも、諦めず、前を向くことを知っている。だから、きっと大丈夫だ」
 アレクシスはうなずくと、メイドたちを励ますように、力強い声でそう言った。
「……セドリック」
 そんな彼らの会話を聞いていたルイーズは、「……セドリック」と、心配そうな顔でアレクシスの横にいた従僕の名を呼んだ。
「奥方様……」
「一体、何事なのです?こんな夜中に来客とは、穏やかではないですね」
 自分のそばに歩み寄ってきたセドリックに、ルイーズは一体、何事なのか、と尋ねた。
「それは……」
 セドリックは一度、気遣うようにメイドたちに視線を向けた後、「実は……」と小さな声で続ける。
「実は……奥方様は、昼間に会った商人の少女の名を、覚えていらっしゃいますか?あの銀髪に、青い瞳の……」
「ええ。覚えているわ。たしか、シア……シア=リーブルといったかしら?」
「はい。彼女たち三人は、そのリーブル家のメイドでして、何でも……」
 セドリックは「はい」とうなずくと、アレクシスの方にちらり、と視線を向けて、ひどく深刻な声音で続けた。
「――その、シアお嬢さまがセノワの町に行ったっきり、戻ってきていないそうで……もしかしたら何かの事件に巻き込まれたのではないかと、彼女たちは心配して、何か心当たりはないかと、若様に」
 普段は、シアのことをじゃじゃ馬娘と呼び、一方、シアからは陰険メガネと呼ばれ、彼女とは犬猿の仲のセドリックではあるが、それでも、その表情はシアの身を案じるように、心配の色が濃かった。
 年頃の乙女とは思えない、じゃじゃ馬で、しとやかさの欠片もない小娘ではあるが、それでも何かあったかもしれないと聞けば、セドリックとて心穏やかではいられない。
「……そう。あのシアという子が……」
 そう言うとルイーズは、真剣な顔でメイドたちから話を聞く、アレクシスを見つめた。
 お嬢さまの身を案じるメイドたちを、過度に不安がらせないように努めているのか、彼の表情はいつもと変わらず、落ち着いているように見える。だが、先ほどからずっと、きつく握られたままの拳が、アレクシスの心情を表していた。
 周りを不安にさせないように、努めて冷静さを装ってはいるが、内心は心配で心配で仕方ないのだろう。
 アレクシスは普段、あまり感情を顔に出すこと少ないが、それでも母親の目は誤魔化せない。
 息子の気持ちを正確に理解したルイーズは、一歩、前に出ると、「アレクシス」と息子の名を呼んだ。
「アレクシス」
「……母上」
 アレクシスは顔を上げると、母親の、ルイーズの方へと向き直った。
 そんな息子に向かって、ルイーズは凛とした声で言う。
「一体、何をグズグズしているのですか?アレクシス」
「母上……」
 少し意外そうな顔をするアレクシスに、ルイーズは決まっているという風に、大きくうなずきながら、言葉を続けた。
「どんな状況であれ、女性の危機を見過ごすような男に、貴方を育てた覚えはありません……そのシアという商人の女の子に、何かあったのかもしれないのでしょう?ならば、早く行きなさい」
「母上……」
「良いから、早く行きなさい」
 母上、というアレクシスの声は、驚いているようだった。
 あれほど、商人を嫌っていたのに……という息子の気持ちは、口にするまでもなく伝わってくる。
 しかし、ルイーズはあえてそれには触れず、その代わりに、
「いいから、さっさ行きなさい。女性を待たせるものではありません。本当に大切な人なら、必ず、二人で無事に戻ってきなさい」
と、言った。
「……はい。約束します」
 アレクシスは約束します、と力強くうなずくと、メイドたちに向かって、「シアが心配だから、セノワの町まで行こうと思う」と声をかけた。
 リタ、ニーナ、ベリンダ……リーブル家の三人のメイドは、アレクシスにそこまでしてもらうのは申し訳ないというように、一度、顔を見合わせたものの、シアお嬢さまの身の安全には変えられないと思ったのか、よろしくお願いします、と頭を下げる。
 アレクシスは気にするな、という風に首を横に振ると、セノワの町で姿を消したシアを探すべく、メイドたちと共に外に出ていこうと、ルイーズとセドリックに背を向けた。
 しかし、扉に向かって数歩、進んだところで、「母上」と振り返る。
「母上。無事にシアを連れて戻ってきたら、改めて彼女を紹介します。シアは俺の大切な友……」
 大切な友人と言いかけて、アレクシスはふと首をかしげた。
 ……大切な友人?
 ……あるいは、大切な仲間?
 そうであるはずなのに、なぜか違和感のようなものを感じる。
 この違和感の正体は、何なのだろう……?それは、自分にとって大事な何かであるような気がしたが、今は悠長に何かを考えている場合ではないと、アレクシスは思い直す。
 そして、彼は「行って参ります」と言うと、ルイーズとセドリックの二人に背を向けて、屋敷から出ていった。
「大切な友人ね……相変わらず、自分の気持ちには、呆れるくらい鈍い子だこと」
 リーブル家の三人のメイドと共に、外へと出ていった息子の背中を見送りながら、ルイーズは誰に聞かせる出もなく、呟いた。
 アレクシスの口から出た、大切な友人という言葉も、おそらく嘘ではあるまい。
 騎士道を貫き、それを守ろうとする彼にとって、大切な友の為にならば、自分の命を危険にさらすことすら、ためらわないだろう。
 しかし、ただの友人という以上に、アレクシスにとって、あのシアという少女は特別な存在なのではないだろうかと、ルイーズは思う。
 息子の言葉を聞いていると、そう感じるのだ。
 昔から、自分の気持ちに鈍いところがあるアレクシスは、まだ無自覚だろうが。
 腹を痛めた愛しい我が子とはいえ、あの鈍さはどうしたものかと、そう思わずにはいられない。
「……?今、何かおっしゃいましたか?奥方様」
 聞こえませんでした、と言うセドリックの問いかけに、ルイーズは、いいえと首を横に振る。
「いいえ。ただの独り言よ」
 それにしても、とルイーズはため息をついた。
 本当に、あの子は……アレクシスは、父親によく似ている。別に、似なくて良いところまで。
「それにしても、鈍いところまで、父親似でなくても良かったのに……」
 やれやれという顔をするルイーズの腕の中で、白猫のパールが、その通りだというように、「ニャア」と鳴いた。
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