女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  薬草と商人5−9  

「――今の気分は、どうですか?商人のお嬢さん」
 すぐ近くで、男の声がした。
 甘い、優しげな響きを持つ声に、穏やかな口調……しかし、よくよく耳をすませてみれば、その声の裏には、氷のような冷ややかさと、隠しきれない悪意がひそんでいる。
 その優しげな声の裏にある、どこまでも深い悪意を感じながら、シアはゆっくりとした動作で、伏せていた顔を上げる。
 彼女のいる場所は、先ほどまでと変わらず、暗い暗い倉庫の中だ。
 相変わらず、その両手と両足は太いロープで厳重に縛られて、シアにとっては舌打ちしたいことに、決して、彼女がこの場所から逃げられないようになっている。
 (ああ、もう最悪……っ!あたしとしたことが、油断したわ!)
 その状況と、肌にくいこむロープの痛みに眉をひそめながら、シアは何とか上を向くと、キッと引き結んだ唇を開いた。
「気分ですって……」
 そんなシアの喉から吐き出される、我慢できない怒りを必死に耐えているような、どこまでも不快そうな声は、同時に、少し辛そうな声でもあった。
 祖父の使いでセノワの町を訪れたところ、同じリーブル商会の仲間だと思っていた男――ジャンに裏切られて、この暗い倉庫に閉じこめられてから、もう何時間も経つというのに、食べ物はおろか、水一滴すら口にしていないのだから、それも無理のないことだった。
 シアの喉はカラカラに乾ききっており、本音を言えば、声を出すのは辛いし、水が欲しくてたまらない。
 さっきから、ずっと長い時間、両手足をロープできつく縛られているせいで、縛られている手足はもちろん、不自然な体勢をとり続けるのも、かなり苦しい。
 商会の仲間だったはずのジャンに殴られた頭も、切れて血が出た額も、ズキズキと割れるように痛い。
 ……何も飲み食いしていない胃の中は空っぽで、吐くものなど何もないくせに、痛みと気持ち悪さで吐きそうだ。
 我慢し続けるのも、そろそろ限界に近い。
 それでも、シアが声にも表情にも態度にも、弱ったところを出さずに、怒りを前面に出したのは、それが彼女の意地だからだ。
 暴力で人を支配するような奴に、下げる頭はないというのが、シアの持論である。
 悪党に、下手に出る必要はない。ましてや命乞いなど、もってのほかだ。だから、彼女の答えは最初から決まっていた。
 すぅ、と息を吸うと、シアは弱っているとは思えないような凛とした瞳で、目の前に立つ、その歪んだ心とは反対に……綺麗で優しげな顔をした男を睨みつけながら、力強い声で言った。
「気分ですって……そんなの最悪に決まってるでしょーがっ!アンタのせいでね!アシュレイ!」
 完全に手足の自由を奪われて、何時間も暗い場所に閉じこめられているというのに、弱音を吐くどころか、最初から一向に強気な姿勢を崩そうとしないシアに、その男は――アシュレイと呼ばれた青年は、整った優しげな顔に、背筋がゾッとするような薄ら笑いを浮かべた。
 金髪碧眼、貴公子のような優雅な風貌に、そんな表情は似合わないはずなのに、なぜか違和感を感じないのはきっと、その冷酷な表情こそが、この男の、アシュレイの本質であるからだろう。
 あの時、薬師の村カノッサでも何度か見た、背筋がゾッと凍るような、その冷酷で残忍な表情……。
 その薄ら寒いような微笑は、愚かな獲物のささやかな抵抗を、無駄だと嘲笑っているようにも、また、そんな愚かな獲物を、どんな残酷な方法で痛めつけようか考えて、愉快がっているようでもあった。
 前者でも後者でも、最悪な状況であることに差はないが、この男の――犯罪組織・青薔薇の首領という、性質の悪さを考えれば、おそらく後者だろうと、シアは歯ぎしりをする。
 ――この手足さえ自由ならば、コイツを倒せないまでも、全力で暴れるくらいのことはしてやるのにっ!
 ここから逃げだそうにも、ロープで縛られて、腕一本すら自由に動かせない我が身を、シアは呪った。
「……っ!」
 そんな風に、自分を睨みつけてくるシアの表情から、彼女の反抗的な心理を読み取ったのか、青薔薇の首領である男、アシュレイは愉快そうに唇の端をつり上げる。
 そうして、彼はシアの細い首筋に手をあてると、首を絞めるように、その指に軽く力をいれながら、あえて穏やかに、ともすれば優しげにすら聞こえる声で言う。
 ――それは、この状況でシアの命を奪うことなど、赤子の手をひねるよりも簡単なことなどだということを、言葉なんぞよりも、ずっと雄弁に語っていた。
「そんな反抗的な目をしているということは……どうやら、いまだ自分の立場が、よくわかっていないようですね。商人のお嬢さん……いや、シア=リーブルと呼んだ方が良いですか?……いい加減、自分の立場を自覚して、大人しくすることですね。そうでないと、うっかり首を絞めて、殺してしまうかもしれませんよ?……ほら」
 ほら、殺してしまうかもしれませんよ?
 ひどく物騒な言葉も、優しげな顔から穏やかな声で発せられると、まるで冗談のようで、現実味が薄い。
 悪い冗談であるかのように、軽い口調で言いながら、アシュレイはシアの首筋にあてていた手に、ぎゅっと力をこめた。
 本気さの感じられない軽い口調とは裏腹に、シアの首を絞める力は強く、容赦がない。
 息を出来ない苦しさと、ギリギリと首にくいこんでくる指の力……そして、肌を傷つける爪の痛みに、シアは苦しそうに顔を歪める。
 苦しい……息が、息が……息が出来な……
 その苦しさから逃れようと、首を押さえつける指から逃れようと、シアはロープで縛られた腕を、バタバタと必死に動かそうとするが、ささやかな、だが本人にとっては必死の抵抗は、青薔薇の首領である冷酷な男の前には、悲しいほどに何の役にも立たない。
 本気でシアを殺そうというほどには、彼女の首にあてられた指の力は強くはなかったのだが、彼女が苦しむのには、十分すぎるほどだった。
 悲鳴は喉の奥で潰れて、シアは苦悶の表情を浮かべる。
 苦しさのあまり、目には涙がにじんでいた。
(……っ!苦しい……誰か……)
 助けを求めるそれは、言葉はおろか、声にすらならない。
 それは、終わりの見えない拷問のようだった。
 しかし、永遠に続くようにすら思えた、その苦しみは唐突に終わる。
 シアの顔色が変わった頃、アシュレイは唐突に、まるで飽きたとでもいうように、シアの首を絞めていた指の力を、ふっと抜いた。
 男の手が離れたことで、息の出来ない苦しさからは解放されたものの、いきなり喉に大量の空気が流れこんできたショックで、シアはゲホゲホゲホ……っ!と猛烈に咳きこんだ。
 背中を折り曲げ、目にうっすらと涙を浮かべながら、苦しげにゲホゲホ……!と咳きこむシアを、冷ややかな目で見下ろし、氷のような声でアシュレイは言った。
「苦しいでしょう?……もう一度、今と同じ目にあいたくなければ、大人しくしていることですね。何もしないで、大人しくしていれば、まだ殺しませんよ……金持ちの好事家に売り飛ばすにしろ、闇の奴隷商人に売るにしろ、脅して身の代金を取るにしろ……貴女には、利用価値がある」
「ゲホゲホ…………っ」
「まだ殺しません。今は……ね」
 それは、大人しくしていなければ、シアの命の保証はしないという、脅しに他ならならなかった。
 殺されるかもしれない恐怖に、シアはビクッと身を震わせる。
 しかも、まだ……ということは、仮に大人しくしていたとしても、その保証がいつまで続くのかは、アシュレイの――青薔薇の首領である男の気分次第ということだ。
 殺されるか、あるいは何処かに売り飛ばされるのか……。売り飛ばす、というアシュレイの言葉に、シアはゾッと鳥肌が立つような気がした。
 アルゼンタール王国の法では、人身売買は禁じられており、警備隊に見つかれば重い処罰は免れないものの、それでも完全に取り締まることは出来ていないのが、現状である。
 悪趣味な金持ちに売り飛ばされて、慰みものになるにしろ、奴隷商に買われて異国の地に売り飛ばされるにしろ、いずれにしてもシアにとって、最悪な未来であることに変わりはない。
 いかに強気な性格ゆえに、気丈に振る舞っていても、シアだってまだ十六歳の少女なのである。
 その脅しが、怖くないといったら、それは嘘だ。
 しかし、そんな卑劣な脅迫に屈したと、この男に、アシュレイに思われるのがシャクで、ようやく咳が止まったシアは、キッと顔を上げる。
 そうして、怯えそうになる自分を叱咤しつつ、青い瞳でアシュレイを睨みつけると、震えそうになる唇を意志の力で押さえつけて、「アンタは……」とアシュレイに向かって言った。
「アンタは……一体、何がしたいわけ?あの薬師の村での一件で、邪魔したあたし……あたしたちに、仕返しするつもりなの?まさか、それだけのためにわざわざ、ここに……セノワの町まで来たわけ?それで……」
 その先を、シアはあえて口にしなかった。
 決して、そう何度も、口にしたいことではなかったから。
 リーブル商会の人間であるジャンに、長の娘であるシアを裏切らせて、殴ってここまで連れてきたのかと――信じるべき仲間に裏切られたという現実は、わかってはいても、口にするのは辛い。
 たとえ、さっき会ったばかりではあっても、リーブル商会の人間は皆、年齢も立場も関係なく、シアにとっては守るべき仲間であり、また家族のようなものだった。
 そんな彼女にとっては、自分がアシュレイに売られたというだけでなく、仲間の裏切りというのは、出来るならば、認めたくないことだったのである。
 あたしに恨みがあるというだけの理由で、わざわざこのセノワの町まで来て、こんな真似をしたの?――というシアの問いかけに、アシュレイは「まさか」と嘲りをふくんだ声で答えて、ハッと鼻を鳴らした。
「まさか。そんなわけないでしょう」
「……そうでしょうね」
 アシュレイの返事に、シアはさしたる驚きもなく、うなずく。
 自分で言っておいて何だが、その可能性は低いだろうと、シアは思っていた。
 この狡猾な男が、犯罪組織の首領である男が、ただシアに恨みがあるというだけで、このセノワの町までやって来るとは、とてもではないが考え辛い。
 それよりは、この町が元々、青薔薇の拠点、あるいは拠点のひとつだったと考えた方が自然だろう。その方が余程、しっくりくる。
 そして、シアは偶然、不運にも、その張り巡らされた蜘蛛の巣にかかってしまったのかもしれない。
 蜘蛛の糸に絡めとられた、哀れな蝶のように……。
「ははっ、愚かなことを言いますね。商人のお嬢さん……元々、青薔薇はこの、セノワの町で商売をしていたんですよ。そこに偶然、貴女がこの町にやってくるという情報を、ジャックから聞いたので、利用してみようかと、そう思っただけです」
 シアの考えを肯定するように、アシュレイが言う。
 しかし、それ以上に、彼の言葉の裏にどこか不穏なものを感じて、シアは眉を寄せ、顔をしかめた。
 ……商売?
 この男が、罪を犯すことに何ら良心の咎めを感じない、犯罪組織を率いる男が言うそれは、はたしてシアたちのそれと同じ意味だろうか……?
 その言葉の裏に、何か含むものがあると感じて、シアはごくっと唾を飲みこんで、アシュレイに尋ねた。
「……商売?」
 不安気なシアの顔を見て、アシュレイは綺麗な、それはそれは綺麗な微笑を浮かべる。
 その虫も殺さないような優しげな表情に、シアは身震いがした。
 悪事を悪事とも思わず、良心の咎めも感じず、綺麗に笑える人間ほど怖いものはない。
 そうして、何がおかしいのか、ひどく愉快そうな声で彼は言った。
「ええ。心配しなくても、そう悪い商売じゃありません。僕ら青薔薇はね、皆が欲しがっている薬草を、平民に合わせた良心的な値段で、売ってあげてるんです……模範的な商売でしょう?」
 ――ねぇ?商人のお嬢さん?
 それが、さも善意のことであるかのように楽しげな口調で、アシュレイは続ける。
 しかし、シアはそんなことよりも、男が前に口にした言葉の意味を考えるので、頭がいっぱいだった。
 シアはサッと顔色を変えて、「薬草を売る?……って、アンタ、まさか……」と言い、信じられないという目をアシュレイへと向ける。
 今、アシュレイは、犯罪組織の首領である男は、こう言った。
 ――僕ら青薔薇はね、皆が欲しがっている薬草を、平民に合わせた良心的な値段で、売ってあげてるんです。
 その言葉を、そのまま受け入れることなど、出来るはずもない。
 薬草という言葉に、シアはこのセノワの町に来てから、ニールじいさんの口から聞かされた、あることを思い出した。
 最近、この町で出回っているという、毒薬や麻薬の原料になる――リドガ草。
 通称・南方の悪魔とも呼ばれるそれのことを……。
『――リドガ草は……元々は南の一部の地域にしか生えん、植物じゃ。調合の仕方によっては、薬草として使われることもある。ただし、根の部分は毒が含まれていての、使い方によっては、強力な毒薬や麻薬の原料にもなる。リドガ草さえあれば、人を廃人同然にすることなど、赤子の手をひねるより容易い……それゆえにリドガ草は、別名・南方の悪魔と呼ばれておるんじゃよ』
 ニールじいさんは、リドガ草のことを、そう語っていた。
 その恐ろしさは、シアにも十分に伝わった。そのリドガ草が、闇で売り買いされればされるだけ、大勢の死者や廃人が出るであろうことも……。
 この平和な町で、そんな物騒なものが広まれば、大変なことになってしまう! 
 どんな悲惨なことになるのか、それを想像するだけで、シアは顔からは血の気が引いた。
 半ば、確信に近いものを抱きつつも、シアは「まさか……」とアシュレイに問う。
「まさか……アンタたちが売ってるのって、リドガ草っていう……」
「ええ、そうですよ。そのリドガ草です」
「アンタ……」
 青ざめた顔をするシアとは対照的に、あっさりと「ええ、そうですよ」とうなずいたアシュレイの顔は、良心の呵責など欠片もなく、堂々としたものだった。
 おそらく、それによって、何人の死者や廃人が出ようとも、この男は何の感情も抱くまい。だからこそ、そのように平然としていられるのだ。
 そのことをシアは恐ろしいと思い、それよりも何よりも、許せないと思った。
 シアが商人であることに、揺るぎない誇りを抱いているのは、それが商売を通して人と人とを繋ぐ、大事な役目だと思っているからである。
 もちろん、利益をあげたい、商売を成功させたいという、自分の目標はある。
 しかし、人を幸せにすることを忘れ、自分の欲のためだけに動く商人は、決して一流とは言えないと、彼女は父や祖父から教えられてきた。
 商人を志してから十年以上、そう思ってきたシアにとって、人を不幸にするものを……命すら奪うようなものを売るなど、絶対に許し難いことだったのである。
 恐怖の次に感じたのは、怒りだった。
 その怒りに突き動かされるように、シアはアシュレイを睨みつけると、絶対に許せないと思いながら言う。
「アンタ……そんな物騒なものを売って、どうなるか、本当にわかってるの?ニールじいさんが、言ってたわ。リドガ草だか何だか知らないけど、毒薬や麻薬の原料になるから、南方の悪魔なんて呼ばれてるっていう……まさか、あの薬師の村から『賢者の書』を盗んだのって……」
 喋っているうちに、もしかしたら……という嫌な考えが、シアの頭をよぎった。
 薬師の村・カノッサで、大切に大切に守られていた――『賢者の書』。
 それは、賢者と呼ばれた男が、人々の役に立つようにと、自らの薬草の研究を書き記したものである。
 彼の生まれ故郷であるカノッサの人々は、その村の薬師たちは『賢者の書』が悪用されないように、ずっと長い間、大切に守っていたのだ。
 どんな素晴らしい良薬でも、もし一歩、使い方を誤れば、人を殺める毒薬となりうるのだから、それを悪用する者の手に渡してはいけないと……。
 シアはカノッサの地で出会った、マリーベルの兄、薬師のエドガーとの会話を思い出す。
 盗まれた『賢者の書』が、悪用されないか心配だと、村長の息子であるエドガーは案じていた。
 もし、もしも、その悪い予感が現実になったのだとしたら?
 あの村から『賢者の書』を盗み出したのは、リドガ草を、人を死に至らしめるそれを効率よく売るための、手段のひとつだったとしたら……
「……」
 まさか……というシアの言葉に、アシュレイは肯定も否定もせず、ただ薄く笑う。
 それが、答えだった。
 思ったよりも、察しが悪かったですね、とでも言いたげだ。
 そんな風に、罪の意識など欠片も感じていない、余裕ありげなアシュレイの態度に、シアは苛立った。
 ――この男はっ!
 それ以上、何も口にしないで、大人しく黙っていた方が身のためだと、シアだって頭ではよくわかっていた。
 大人しくしていれば、今は殺しはしないと、アシュレイは言った。それは、つまり大人しくしていなければ、彼女の命の保証はしないということだ。
 おまけに、この男、青薔薇の首領であるこの男は、人を傷つけることにも、あるいは殺めることにも、何らためらいがない。
 今だってただ、売るなり身の代金を取るなり、シアに利用価値があるから生かしているという、それだけ。
 仲間だと思っていた人間に裏切られ、殴られて暗い倉庫に閉じこめられた上に、助けもこない。
 己の命が、風前の灯火であることぐらいは、シアだって自覚している。
 それでも、口を開いてしまうのは、そういう性格なのだとしか言いようがない。
「……アンタ、さっき言ってたわよね。リドガ草を、平民に合わせた良心的な値段で、売ってあげてるって……一体、どういうつもりなのよ?アンタたち青薔薇は、何がしたいわけ?」
「……わかりませんか?」
「あたしが知るわけないでしょ―がっ!わからないわよ!」
 アシュレイの問いかけに、シアは真っ赤な顔で怒鳴る。
 そんな彼女に、アシュレイは淡々とした声で「前にも言ったでしょう……」と何を今更といった風に言う。
「え……?」
 怪訝そうな顔をするシアに、アシュレイは涼しい顔で続ける。
 まるで、それが正しいことであるかのような口振りで。
「前にも言ったでしょう……青薔薇の目的は、復讐だ。貴族を虐げ、平民を選んだ、この国への……それが叶えられるならば、リドガ草によって何人の平民が不幸になろうが、苦しもうが廃人になろうが、あるいは死のうが、大したことじゃない」
「なっ……!」
 あまりに身勝手なアシュレイの言い分に、シアは呆然とし、「なっ……!」と声を上げたっきり、言うべき言葉を失い、絶句した。
 自分たちの貴族の復讐心を満足させるという、ただそれだけのために、何人の平民が死のうが不幸になろうが大したことじゃないと、そう言い切ってしまう傲慢さに、頭がクラクラする。
 そんなのは、ただの逆恨みでしかないと、シアは思う。
 貴族だから、ただそういう身分に生まれたというだけで、そんな風に平民を利用し、道具か何かのように扱うことは、許されて良いのだろうか……?
 その昔、子供だった祖父のエドワードを馬車ではねたうえに、医者に連れていくどころか、振り向きもせずに走り去ったという貴族のように……。
 シアは眉をひそめて、きつく唇を噛みしめる。
 (……そんなはずない!貴族だか何だか知らないけど、そんなのが許されるわけないじゃないっ!)
 この傲慢な男に、何か言ってやろうと、シアが唇を開きかけた……その時だった。
「――あの、そろそろ俺は、戻ってもいいですかね?青薔薇の旦那ぁ?あんまり長い間、姿を消していると、ニール支部長に怪しまれるもので……」
 そう言いながら、アシュレイの背後から、ひょろりと背の高い男が顔を出した。
 ジャンだ。
 シアは一瞬、驚いたように目を見開いた後、くしゃっと泣きそうに顔を歪めると、悲しそうな声で「ジャン……」と、同じリーブル商会の仲間だったはずの男の名を呼ぶ。
 その声は、青薔薇に売られたという怒りよりも、裏切られた悲しみの色が濃い。
「ジャン……」
「……」
 名前を呼ぶ声に、ジャンは決してシアの方を見ようとはせず、気まずそうな表情で、ふぃと露骨に視線を逸らした。
 リーブル商会を裏切り、金と引き替えにシアをアシュレイに、青薔薇に売り払った男であっても、いや、そうだからこそ、シアの悲しげな顔を、正面から見るような勇気はないのかもしれない。
 シアの視線を受け止めるということが、気まずくて仕方がないのか、ジャンはアシュレイの前に立つと、一刻も早く、この場を立ち去りたいというような早口で、「青薔薇の旦那……」と呼びかけた。
「青薔薇の旦那……そろそろ約束の金をもらってもいいですかね?」
 ジャンの言葉に、アシュレイは「ああ。わかってますよ」と答えると、チャリン、チャリンと音のする革の袋を取り出す。
 そうして、銀貨や銅貨が詰まっているらしきそれを、「ほら……」とジャンの手元に放った。
「……どうも」
 ジャンはシアの目の前で、彼女を売った対価であるそれを受け取ると、すぐに革の袋を開け、欲にかられたギラギラした目で、その中身をのぞきこむ。
 最初は、金のつまった革の袋を前にして興奮気味だったジャンの表情は、袋の中身を確認した途端、落胆に変わった。
 望んでいたよりも、袋に入れられていた金が、少なかったのだろう。
 ジャンは、はぁ、と落胆のため息をつくと、これだけですか?というように、恨めしげな目をアシュレイに向ける。
「……これだけですか?青薔薇の旦那」
「約束した通りの金額でしょう。ジャン……何か文句が?」
 金が少ないと、不満を口にするジャンを、アシュレイは冷ややかに切り捨てる。しかし、ジャンはもう一度、袋の中身を見て、やはり納得できなかったらしく、首を横に振った。
「もちろん、それは、そうですけど……もうちょっと、こう……警備隊には黙ってますから」
 そう言うジャンの頭には、今、目先の金のことしかないのだろう。そんなジャンの言葉を、アシュレイはにこやかに、穏やかな表情で聞いていた。
 しかし、その唇こそ笑みの形を作っているものの、その目は少しも笑っていないことに、ジャンより先にそばにいたシアが気がつく。
 穏やかな表情ではあるが、纏う空気は穏やかとは程遠く、抜き身の刃のようである。――それは、殺気にも似ていた。
 アシュレイは穏やかな表情を崩そうとはせず、あくまでも静かな声で、ジャンに「もっと金を払えと?」と尋ねた。
「もっと金を払えと?払わなかったら、警備隊に密告するつもりですか?……さすがは、商人ですね。強欲なことだ」
 もし、ジャンが欲に目がくらんでいなければ、そのアシュレイの言葉の裏にひそむ危うさを、きちんと察することが出来たかもしれない。
 しかし、欲にかられた男は愚かにも、更に言葉を重ねる。
「強欲だなんて……そんな高望みはしませんよ。青薔薇の旦那。ほんのちょっと、ほんのちょっとでいいんです……」
 ジャンがひとつ言葉を重ねるたびに、アシュレイの纏う空気が、どんどん冷ややかなものになっていくのをシアは感じ、ぶるっと身震いする。
 その張りつめた糸のような危うさに、当の本人であるジャンだけが、なぜか気づかない。
「――わかりました」
 しばしの沈黙の後、アシュレイは穏やかな声で、そう言った。
 ジャンはホッと安堵したような顔で、「青薔薇の旦那……」と言う。 アシュレイは懐から、さっきよりも重そうな革の袋を取り出すと、こっちに来いという風に、ジャンを手招きする。
「払いますから、少し近くに来てもらえませんか?……ジャン」
 その甘い言葉に誘われて、ジャンがアシュレイの方に、一歩、歩み寄った瞬間だった。
 アシュレイは、青薔薇の首領である男は、表情すら変えずに拳を振り上げると、容赦なく、油断していたジャンの顔を正面から殴る。
 「ぐ……ぁ……!」
 鼻血を出しながら、鼻を押さえて後ずさったジャンに、さらにもう一発。
 よろめいたところを、さらに何度も殴る。
 殴る。
 殴る。
 殴る!
 拳が真っ赤に染まることさえ、不快とも思っていないように、アシュレイはジャンを殴り続けた。まるで、殺してもかまわないと、そう思っているように。
 ジャンはまともな抵抗も出来ず、ただ殴られているだけだ。
 よろめいたところで、さらに腹に蹴りを入れられ、ジャンはついに床に倒れこんだ。
「ひっ……」
 それ以上、目の前で繰り広げられる一方的な暴力を見ているのが辛くて、シアは「ひっ……」と短い悲鳴を上げて、思わず目を逸らす。
 しかし、たとえ目を逸らしたところで、人を殴る音や、ジャンの悲鳴は嫌でも彼女の耳に入ってくる。
 そんなシアの目の前で、一方的な暴力は続く。
 倒れたジャンの腹を、アシュレイは靴で踏みつけ、さらにそこに体重をかけようとした。
 顔を血だらけにし、ボロボロになったジャンは一度、「グェ……」と呻いたっきり、もはや抵抗する気力もないのか、あるいは殴られるのに耐えきれず気を失ったのか、グッタリしている。
 それを見ていられなくて、シアは思わず、「もうやめなさいよっ!」と声を上げた。
 たしかに、ジャンはシアを……リーブル商会を、金で裏切った。だけど、だけれど――
「もう、やめなさいよっ!さっきから一方的に殴ってるだけで、見てらんないわ!」
 シアの声に、アシュレイは振り上げていた手を下ろし、面倒そうに振り返ると、やや意外そうに言った。
「……なぜ止めるんです?この男が、ジャンがどうなろうが、貴女には、関係ないことでしょう?この男は貴女を青薔薇に売った、裏切り者なんですから」
 床に倒れこんだまま、グッタリとして動かないジャンを指さしながら、アシュレイは解せないという顔をした。
 売られた当人であるシアが、裏切り者のジャンを助けるような真似をしたことが、彼には理解できないようだった。
 たしかに、シア自身の命さえ危うい状況で、わざわざ裏切り者であるジャンをかばうような理由は、どこにもないように思える。
「あたしには……」
 ちらり、とジャンの方を見たシアは、ハァと一度、息を吐くと、先ほどまでのキャンキャン吠えるような声とは異なり、落ち着いた声で言った。
 裏切られたことは、どうしたって辛い。
 でも、それとは別に、シアには守るべき責任があるのだ。
 リーブル商会の次代の長になろうとするならば、怖がってばかりはいられない。
「あたしには、責任があるのよ。その男……ジャンは、あたしを裏切ったとはいえ、まだリーブル商会を辞めたわけじゃない。リーブル商会の一員である以上、あたしは将来の長として、ソイツを見捨てるわけにはいかないのよ」
 いつになく落ち着いた声音で、そう言い切ると、絶対に引かないという気迫をこめて、シアはアシュレイを見た。
「……」
 シアの言葉に、アシュレイは沈黙し、下らないとも言いたげに鼻を鳴らすと、興味を失ったというように、ふっと視線を逸らした。
モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2010 Mimori Asaha All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-