女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  祝祭と商人6−10  

 蒼天に、絶え間なく、何発もの花火が打ち上げられる。
 赤、青、白、金……花びらにも似た、色とりどり紙ふぶきが、爽やかな風に吹かれて舞う。
 リンゴン、リンゴーン!
 大聖堂の鐘が、高らかに鳴り響く。
 気の早い楽師が、パレードの開始を待ちきれないかのように、テンポの速い曲を奏で始める。それを聞いた人々の間に、さざなみのような囁きと、浮き足だった気分が広がっていった。
 聖エルティアの祝祭に沸く、麗しの女王陛下の都、べルカルン。
 その中心と言える、白亜の王城の周りには、大勢の人々が集まり、地面に座りこんだり、高い建物の上から身を乗り出したりしながら、大通り沿いにずっと終わりが見えないほど長く、列をなしていた。
 老若男女、思い思い着飾った人々の列は、それはそれはたいそう華やかで、また賑やかだった。
 そうして、並んだ人々が何を待ち望んでいるかといえば、他でもない。――聖エルティアの祝祭の象徴、三日間に及んだ祝祭の最終日を彩るメインイベント、敬愛する女王陛下と祝祭の乙女たちによるパレードだ。
 もう間もなく始まるはずの、そのパレードを前にして、女王陛下と祝祭の乙女らが通る道の両側は、広々とした場所にもかかわらず、見渡す限り、人、人、そのまた人で、うめつくされている。
 まるで、王都中の民を並ばせたのかと思うほど、人の列はどこまでもどこまでも続いている。いささか圧倒されるほど、すさまじい数だ。
 王都の民はもちろん、地方や他国からの観光客も多いとはいえ、道の両端を隙間なくうめつくす様は、いっそ壮観と言えるだろう。
 遠くに並んでいる人が、アリの行列か、まるで豆粒のように見える。
 容易に足の踏み場もないほど、すさまじく混んでいるにもかかわらず、父親におんぶされた小さな子供、少し恥ずかしそうに頬を染めて手を繋ぐ恋人たち、顔を見合わせ、「晴れて良かった」と微笑みあう老夫婦に至るまで、列に並んだ人々の表情は、皆、明るく、これから始まるパレードへの期待で目を輝かせている。
「おおおおおおおっ!」
 どこかで、歓声が上がった。
 例年、女王陛下と祝祭の乙女のパレードを間近で見たいあまり、突拍子もない行動に出る者が必ずいるのだが、どうやら、今年も例に漏れないらしく、赤い屋根に数人の少年たちが陣取っている。
 得意げな顔をした少年たちには、大人たちの制止の声も、どこ吹く風だ。
 高い高い大聖堂のてっぺんでは、浮かれすぎた陽気な神父が、ぱっぱっ、と下に花びらをまきながら、声も高らかに神への讃歌を歌っている。呆れ顔の修道女が、何とか神父を黙らせようと、その周りをウロウロしていた。
 そうかと思えば、道の両端に並んでいた人々が身を乗り出しすぎないよう、王都警備隊の者たちが、何度も口をすっぱくし、なんとかしよう苦心している。
 あちらこちらで呼ばれる警備隊の者たちは、忙しげに、休む間もなく走り回っている。

 さんさんと降る日差し、思わず踊りだしたくなるような軽快なメロディ、抜けるような青空の下――
 人々の興奮は、今まさに、最高潮へと達しようとしていた。
 
 トランペットが吹かれ、同時に太鼓の音が響き渡る。
 どこまでも抜けるような青い空に、アルゼンタールの国旗がひるがえった。
 衛兵の手によって王城の正門が開いて、女王陛下と祝祭の乙女たち、そのパレードの先頭が姿を現す。
「わあああぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 耳に痛いほどの歓声、
 万雷の拍手、
 祝祭の喜びが、音となって広がっていく。

 天高くかかげられた国旗が、風になびいた。
 歓声を上げる人々の前に、パレードの先頭、最初に姿を見せたのは、灰と黒を基調とした制服をまとい、槍や剣をたずさえた者たち――王都警備隊の面々だ。
 今日の警備担当でもある彼らは、先頭にアルゼンタールの国旗をかかげる旗持ち、その後にずらりと続く、王都警備隊の隊員たちの、見事な、一糸乱れぬ行進が続く。
 カカカッ、とわずかも隊列を乱さず、揃いに揃った靴音は、日頃のたゆまぬ訓練の賜物だろう。
 それが、端から端まで、目をこらすほどの遥か遠くまで続いている様は壮観で、拍手すらしたくなるほどだ。
 常日頃、王都ベルカルンを守るために奮闘している彼ら、王都警備隊の登場に、パレードを見守っていた民たちの間から歓声と、盛大な拍手が上がった。いずこからか、ヒューヒューと調子っぱずれな口笛も鳴らされる。
 国中の注目を集める、聖エルティアの祝祭、その最大の華ともいうべき、女王陛下と祝祭の乙女のパレード――先頭を任された、警備隊の面々の表情は、どこか誇らしげだ。
 今日の警備を任されているだけに、その顔つきは真剣だが、一糸乱れぬ行進、その高く重なる足音は、ひとつの誇りでもあるのだろう。
 警備隊の最後には、同じ制服をまとった楽団が続いて、高らかなラッパの音や太鼓を打ち鳴らし、否が応でも祝祭のムードを盛り上げる。

 楽器が奏でるのは、祝祭の善き日を祝い、王国の繁栄を願う曲――

 その明るく、どこか荘厳さを宿しつつも、思わず踊りだしたくなるようなテンポの良さ、そして、軽快なメロディに、大通りの観客たちも思わず、その旋律を口ずさみ、楽しげに体を揺らす。
 屋根に上った少年たちの音痴さが、わははっ!と愉快な笑いを誘い、流しの吟遊詩人が思わずポロンポロンと竪琴をつまびき、酒場の歌姫と呼ばれる女が自慢の歌声を披露し、おおおおっ!と拍手喝采をあびる。
 楽団による演奏、その余韻がさめやらぬうちに、今度は……馬にまたがった若者たちが続いた。
 列の先頭は、白馬にまたがった金髪碧眼の、凛々しい青年。
 その後ろには、青年と同じく白馬や黒馬にまたがった、体格と見目の良い若者たちが何人も続く。そろいの白い制服が、太陽の光をはじいて、目にまぶしい。
 重々しい鎧甲冑こそ身に着けていなくとも、白と金で飾られた、そのきらびやかな礼装と剣を見れば、その青年たちの身分はおのずと知れる――麗しの女王陛下の守り手、近衛騎士団だ。
 剣士としての優れた技量は言うまでもなく、知識、教養、家柄、表立っては言われぬが、容姿の端麗さも条件であると噂される、《近衛騎士団》の登場に、パレードを見守る人々……主に、女性たちから、きゃあ!甲高い声が上がった。
「きゃあああ―――――っ!騎士さま―――!こっち向いてくださ――――い!」
 興奮のあまり、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、素敵!カッコいい!などと叫ぶのは、若い乙女たち。
 凛々しい騎士たちの姿に、うっとりと頬を染め、見惚れる女たち。その歓声を聞いた馬上の騎士が、顔をそちらに向け、心なしか、軽く唇をほころばせる。
 途端、若い少女たちの声が「きゃあ!」と、そろって高くなった。
 あーあ、これだから女って奴は……とでも言いたそうに、呆れた顔をする男たちを尻目に、女たちは「あの騎士さまは、今、私の方を向いたわよ!」「ウソ、あたしの方よ」などと喋くりながら、目の前を通り過ぎる近衛騎士団の列から、一瞬たりとも目を離そうとはしない。
 近衛騎士団が通り過ぎてからも、しばしの間、パレードを見物していた女たちは、ワイワイ騒いでいた。
 しかし、金細工で飾られた馬車が目に入った瞬間、女たちだけでなく、男たちも、子供から老人に至るまで……大通りに列をなした人々は、皆、いっせいに姿勢を正し、その馬車が自分たちのそばを通るのを、まだかまだかと待ち望む。
「……」
 金細工と色とりどりの宝石、そして刻まれたるは王家の紋章、さらに細部に薔薇の意匠が施された華麗な馬車――それをひくのは二頭の、見事な毛並みをした、とても美しい白馬である。
 いくらアルゼンタール王国広しといえども、王族専用のその馬車に乗れる者は、数えるほどしかいない。
 おまけに、聖エルティアの祝祭パレード、その日に金色の馬車に乗ることが許されているのは、当代の国王陛下のみである。
 即ち、今、その馬車に乗っているのは、この国で最も高貴なる御方、アルゼンタール王国の女王陛下・エミーリアだ。
 前後左右を近衛の騎士たちに守られ、美しい白馬にひかれた、きらびやかな黄金の馬車がゆっくりと、気品と優雅ささえただよわせながら、大通りを走っていく。
 敬愛する、若く美しい女王陛下の登場を、いまかいまかと待ちわびていた民衆は、わぁぁぁ……!と再び、歓喜の声を上げた。
 陽光を反射し、きらきらしい光を放つ、黄金の馬車。
 並ぶものなき華麗さに、異国からの客人もとっさ称賛の言葉すら忘れ、見とれるより他にない。
 そんな女王陛下を乗せた馬車に向かって、近隣の家の二階から、色あざやかな紙吹雪がまかれる。
 風に舞うそれは、蒼天に映えた。
 白馬にひかれた優美な馬車に、中にいらっしゃる女王陛下――エミーリアに向かって、パレードを見守っていた民たちから次々と「女王陛下!我らの女王陛下!」との声が、自然と上がり、大きな渦となって広がっていく。
「女王陛下、万歳!アルゼンタールに、栄光と繁栄を!」
「麗しの女王陛下に、乾杯っ!」
「エミーリア様あぁぁぁ!今日も、お美しいですぅぅぅ!」
 民の口から次々と上がる声に、金色の馬車に乗ったエミーリアはにっこり、さながら大輪の薔薇の如く微笑んで、民たちに向かって、ひらひらと手をふる。
 艶やかながら、気品ある微笑を浮かべた女王陛下の胸元には、大粒のエメラルドが輝き、その頭上ではダイヤモンドのティアラが、まるで星のようにきらめく。
 その微笑みに、女王陛下!女王陛下っ!という声は、さらに高まった。
 王女時代から、その聡明さで知られた美貌の女王陛下は、また身分を問わず、積極的に民との交流を好む気質から、身分の貴賤に関係なく、アルゼンタールの多くの民に愛されている。
 即位してからも、その人気ぶりは、いっそう高まるばかりだ。
 ふふと優しく微笑んで、大通りの観衆に手を振るエミーリアの、黄金の馬車が前へ前へと走っていく。
 そのすぐ後に――
 女王陛下の馬車の後ろから、ぱらぱら、青、赤、白、黄……色とりどりの花びらがまかれる。
 歩くたびに、背中の白いリボンが、ふぅわり。
 まるで、蝶の羽のように揺れる。
 ワルツのような軽やかな足音、可憐な白いドレスを着た、十人ほどの少女たち。
 パレードの最後を任された彼女たちは、手にしたかごからぱっぱっ、と、色とりどりの花びらを、パレードを見守る観衆に向かってまきながら、それと同時に、はじけるような明るい笑顔をふりまく。
 花冠をかぶった少女たちの姿は、さながら花の妖精のようだ。
 その少女たちの手から、幸運が宿っていると言い伝えられる、花びらがまかれるたび、観衆は少しでもその恩恵にあずかろうと、警備隊に止められるギリギリまで、その身を乗り出す。
 祝祭のパレードの象徴、かごから花と花びらをまきながら、並んで歩く、可憐で愛らしい少女たちの姿に、歓声がひときわ高くなった。
 ――そう、≪祝祭の乙女≫たちである。

 割れるような歓声、重ねる楽の音、空には花火が打ち上げられる。
 色あざやかな紙ふぶきと、手から離れた花びらが、風に吹かれて飛んでいく。
 祝祭の乙女たちが歩くたび、ひらりひらり、と白いスカートが揺れて、それがまるで白い花のようだった。
 人、人、人で、うめつくされた大通りの中、一目、祝祭の乙女の姿を見ようと、警備隊に止められるギリギリまで、いや、止められても身を乗り出す人々。ぴゅぃぃぃ、と笛を鳴らす、警備隊の青年。
 可憐な少女たちの姿に、ぽぅと見惚れている若者。
 母親に手をひかれ、わけもわからず、きょとんとした顔をしている小さな女の子。
 お父さん、見えないっ!と地団駄を踏み、父親によいしょと肩車をされて、「おねえちゃーん!」と叫びながら、ぶんぶんと祝祭の乙女に手をふる男の子。隅の方で「今年の祝祭の乙女も綺麗ですね、おじいさん」「そうだね、お前」と、穏やかに微笑みあう、老夫婦。祝祭の乙女をしている姪っ子の晴れ姿に、「おおぃ、メイ―――っ!頑張れよ―――!」と大声で叫ぶ、気のいい服屋の親父……。
 あふれそうなほどの歓声、笑顔、活気、エネルギー、華やかさ、それは圧倒されそうになるほど、すさまじいものではあるが、祝祭の明るい雰囲気に満ちたそれは、決して悪いものではない。
 その華やいだ空気を全身で感じながら、祝祭の乙女の一人である銀髪の少女、シアは一歩、足を踏み出しながら、かごに手をいれる。
 手にしたかごの中には、色とりどりの花びらと切り花が、あふれるほどつまっている。赤い花びら、白い花びら、青い花びら、それらを軽く一掴み。
 かごから手を出すと、シアは握った拳を広げて、手にした花びらをぱっ、と勢いよく空中にまいた。太陽がまぶしい、青い瞳が細められる。蒼天に花が舞った。
 それらは風に流れて、パレードを見守っていた人々の方へと飛んでいく。
 ぱらぱら、と空から落ちてきた花びらに、観衆は「わあっ!」と喜びの声を上げた。――祝祭の乙女の手から受けた花には、幸福が宿るいう古い言い伝えゆえだ。
 おまけとばかりに、シアはかごから青い花を取り出すと、手を高くあげて、空へと投げる。少女の手からはなれた青い花は、うまく弧を描いて、ひらひらと小さな手のひらの上に落ちた。
 いきなり降ってきた幸運に、父親に肩車をされた幼い男の子は目を白黒させて、次にぱああっと満面の笑みを浮かべる。
 大切そうに、青い花を手にした男の子は、頬っぺたを赤くして、「おねえちゃーん、ありがとう――!」と、父親がよろめきそうになるほど、シアに向かって、大きく手をふった。
 にっこりと笑みを浮かべて、シアが手を振りかえしてやると、小さな男の子の頬は、ますます林檎のように赤くなる。
「おやおや、狙ったところに投げるとは……良い腕してるじゃない。シア」
 横からかけられた声に、歩く足と花びらをまく手を止めぬまま、シアはそちらへ首を向ける。
 決して小さな声ではないのだが、パレードを見守る人々の歓声に打ち消され、顔を近づけなければ聞こえない。
 シアは心もち、そちらへ身を寄せると、声をかけてきた幼馴染の名を呼ぶ。
「ジャンヌ」
 近くに寄ってきたのは、気心の知れた幼馴染の少女、ジャンヌだった。
 シアと同じ、祝祭の乙女の衣装を着たジャンヌは、実家のパン屋で鍛えた、一点の曇りもない看板娘スマイルを浮かべると、明るさと愛嬌をふりまきながら、ぱらぱら、とパレードを見守る観衆に向かって、花びらをまく。
 彼女の投げた赤い花を受け止めようと、若いカップルの男の方が、せいいっぱい手を伸ばす。
「そうは言うけど、ジャンヌこそ…さっきから、男の場合、好みのタイプを選んで花を投げてない?」
 歩く速度を緩めず、花びらをまく手も休めず、シアはジャンヌの耳に唇を寄せて、こそっと小声で尋ねる。
 花びらよりも数の少ない、花を誰に向かって投げるのか、あるいは贈るのか、それは祝祭の乙女の心ひとつである。
 シアは子供が多いが、ジャンヌは大人から子供まで、まんべんなく花を投げてやっているようだった。
 しかし、先ほどからジャンヌが男に向かって花を投げている場合、相手が決まって優男なのは……きっと、気のせいではあるまい。
「あ、バレた?」
 ジャンヌは悪びれた様子もなく、茶目っ気たっぷりにそう言って、ぺろっと舌を出す真似事をすると、再び、かごに手をつっこみ、空に向かって赤い花を放る。
 それを受け止めたのは、道の端にいた老夫婦の夫の方で、赤い花を手にした老人は嬉しそうに、それを妻に手渡した。
 どこか微笑ましい、その光景を横目に見ながら、ジャンヌは小さく笑みを浮かべると、「それより……」と横を歩くシアに、耳打ちする。
「それより、シア……馬車の横を守っているあの騎士様、格好良くない?」
「んー」
 少しばかりはしゃいだ様子の、幼馴染の声に促されて、シアも前方の、女王陛下の馬車の方に目を向ける。
 黄金の馬車を守るは、四人の近衛騎士たち。
 おそらく、ジャンヌが言っているのは、そのリーダー格らしい黒髪の騎士だろう。年のころは、二十代後半か三十かそこら。シアやジャンヌとは、少々、年齢が離れているものの、ちょっと影のある感じの男前だ。
 そんな騎士たちの姿を見て、ここにいない彼のことを思い出し、かすかに胸の奥がざわめくのを感じ、シアは一瞬、苦笑にも似た表情をする。
 小さく首を横に振ることで、その葛藤を打ち消すと、シアはあえて明るい口調で、「長い付き合いのわりに、今まで知らなかったけど、ジャンヌって年上好みだったんだんだね」と言う。
 シアの感想に、ジャンヌは「当然じゃない」とうなずいて、続けた。
「当然じゃない。ガキに興味はないわ。男はやっぱり、大人の包容力がないとね!」
 大きな歓声のおかげで、周りに声が広がらないのをいいことに、ジャンヌは堂々とそう言い切る。
 いまだ恋の何たるかもよく知らないシアは、幼馴染の力説に「大人の包容力ねぇ……」と小首をかしげた。
「うーん。大人の包容力……エドワード祖父さんとか?」
 シアの言葉に、ぶっ、とジャンヌが吹き出しそうになる。とはいえ、この華やかなパレードの最中、祝祭の乙女としてそれはあんまりなので、頬の筋肉をぴくぴくっとひきつらせつつも、何とか耐えた。
「ぶっ!なんで、アンタはそこで身内を出してくるのよ!シア……しかも、何でクラフトさんを通り越して、なぜにエドワード祖父さん?」
「あれ?……違うの?ジャンヌ」
「シア、アンタって子は……ときどき突拍子もないボケをかますわね。……うん。ある意味、手強いわ」
 それって、どう意味?とでも言いたげに、首をかしげたシアに、ジャンヌは「もういいわ」と息を吐いて、パレードを見守る人々に向かって、笑顔で手をふる。
 祝祭の乙女として、そんな風に笑顔をふりまきながら、曲がり角で、パレードが折り返しに入ったことを悟ったジャンヌは、
「このパレードが終わったら、もうすぐ祝祭も終りね……」
と、呟いた。
 その声は決して暗くはないが、少しばかり未練というか、祝祭の終わりを惜しむようである。
 祭りが華やかならば華やかなほど、楽しければ楽しいほど、その終わりが近づきつつあるのを、さびしく感じる。永遠に終わらない祭りなどないと、わかっていても……。
 ジャンヌの言葉に、シアもそうだね、と相槌を打った。
「うん。そうだね。このパレードが終わったら、祝祭も終わっちゃうんだよね……」
 この祝祭の三日間、色々なことがあったと、シアはしみじみ思う。
 祝祭の最大の目玉、女王陛下と祝祭の乙女によるパレードが終われば、三日間に及んだ祝祭も、ほぼ終了と言っていい。
 一応、今日の夕方まで祝祭は続くとはいえ、このパレードが終われば、他国や地方から来た観光客たちの大半は、そろそろ帰り支度を始める。……そう、シルヴィアさんとカイルおじさまも、だ。
 ――もうすぐ、祝祭が終わってしまう。
 その現実を、シアは重く受け止めた。
 祝祭が終わってしまえば、シルヴィアさんとカイルおじさまは自分たちの町へ、フェンリルクヘと帰ってしまう……。そうすれば、アレクシスとシルヴィアさんが会う機会は、もう二度とないかもしれない。
 会いたければ、会うならば、今、この時しかないのだ。
 けれど……と、残された問題に、シアは頭を悩ませる。シルヴィアさんと会う前に、アレクシスを探して、しかも、あの堅物を説得しなければならない。
 あーもう、色々めんどくさい。なんで、あたしは、あんな頑固な男に恋しているんだろう、もしかしなくても、すごい馬鹿なんじゃないの?と己のことながら、彼女はそう思わずにはいれなかった。
 でも、不思議と見捨てる気はおきなくて、シアは彼の、アレクシスのことを考える。
 (アレクシス……結局、パレード、見に来なかったな。まぁ、あんなことを言ったら、無理もないけれど)
 (でも、このパレードが終わったら、シルヴィアさんは王都からいなくなる……)
 (祝祭が終わるまで、もう時間がないんだよ……わかっているの?アレクシス)
 もう、あまり時間が残されていない。
 意味もなく、焦りばかりが先に立つ。
 ――どこにいるのよ?と、そう叫べるものならば、叫びたかった。
 不安になりそうになる心を抑え込み、祝祭の乙女らしい晴れやかな微笑みを浮かべて、シアは手をふり、花びらをまく。
 今頃、パレードの先頭である旗持ちは、大通りからぐるりと回って、もうそろそろ、終着点であり出発地点でもあった王城へと、戻っていることだろう。
 最後尾であるシアたちも、もうパレードの道のりの、折り返しを過ぎている。
 女王陛下の『聖エルティアの祝祭は、王国の平和と繁栄……何より、民の幸福を祈るもの。そして、貴女たち、祝祭の乙女たちの役目は、その役目を通じて、人々に幸福を運ぶこと』というお言葉が、ふっ、と少女の頭をよぎる。パレードを見守る人々の笑顔と歓声、とても大切そうに、青い花をにぎりしめていた男の子の顔を思い出す。
『願わくは、貴女自身の身にも、貴女の大切な人にも、この国の全ての人々に、等しく幸福が訪れんことを』
 どうか、人々に笑顔を、そして幸福を……
 願わくは、彼にも……
 その時、ジャンヌがちょいちょいとシアの袖をひいたのと、「ねぇ……」と問いかけてきたのは、ほぼ同時のことだった。
「ねぇ、あの人、シアの知り合い?ほら、さっきから、こっちを見てる……あの背の高い男の人、遠くって、顔はよくわからないんだけど……あ、今、影に隠れちゃった」
 幼馴染の言葉に、シアははじかれたように、「どこ?」と言いながら、勢いよく顔を上げる。
「えっ!どこ?」
「ほら……」
 きょろきょろと周囲を見回すシアに、ジャンヌはほら、と店と店の間の、ちょうど影になっている辺りを指差す。
 そちらに顔を向け、よ―く見ようと、シアは目をこらした。
 少女の青い瞳に、こちらに背を向ける、長身の男の姿が映る。遠さと人の影に隠れて、顔や表情はよくわからず、ただ黒髪だということしかわからない。
 誰かもわからなそうな背中を、ほんの一瞬、見ただけで、シアは確信する。
 ああ、あの後ろ姿は……
 馬鹿みたいに真面目で、頑なで不器用で、勇敢なくせに時折、呆れるくらい臆病で……
 けれど、放っておけない……彼の、アレクシスのものだ。
「ジャンヌ!」
 感謝のあまり、シアは嬉しそうに微笑んで、幼馴染を呼んだ。
 何よ?と首をかしげるジャンヌに、にこにこと、さながら天使のような微笑を浮かべたシアは、「大好き!」と言う。
「ジャンヌ、大好き!ありがとう!大親友って、呼んでいい?」
「おほほっ、よろしくってよ……って、いきなり何よ?シア。いくら祝祭だからって、ちょっと浮かれすぎなんじゃない?」
 思わず、冗談みたいな台詞を返してみたものの、いきなりのシアの言動に、ジャンヌは苦笑し、やれやれと肩をすくめる。
 シアはえへへと照れた風に笑うと、正面を向いた。
 別に、何が変わったわけでもない。けれど、今日一日だけでも、シアと向き合うことなく、逃げ出したかったはずのアレクシスが、自分の意志で、ここに来た。
 それだけで、たったそれだけのことで、シアの胸はじんわりとあたたかくなる。だから……
 ――賭けてみようと、そう思った。
 その気持ちに、全てを。美しい過去だけじゃなくて、痛みはあっても、同じくらい大切な今を見つめるためにも。


 国旗がひるがえって、シャラン、と楽の音が鳴り響く。
 前を行く女王陛下の馬車に遅れること少し、パレードの最後尾だったシアら≪祝祭の乙女≫たちも、終着点である王城へと戻ってきた。
 パレードの終わりと共に、まだ果たすべき公務がある女王陛下は城内へ、近衛と警備隊の面々は慌ただしく、それぞれの配置へと散っていったが、祝祭の乙女たちは、その場に取り残される。すると、時間を見計らっていたように、祭りの世話役である男が歩み寄ってきた。
 つつがなく祝祭の乙女の任を果たした少女たちに、祭りの世話役は祝いと感謝の言葉を口にした後、同じ口で“解散”を告げる。
 何事もなく祝祭の乙女の役目を果たし、パレードが終わったことに安堵したのか、祭りの世話役の口から「もう帰っていい」と言われても、白いドレスをまとった少女たちは、なかなか王城の前から離れようとしなかった。
「すっごい緊張した」
「祝祭の乙女って、見るとやるのじゃ大違いね……」
「ああもう、おじさんが張り切っちゃって、恥かしかったわよ!」などなど……花冠をかぶった少女たちは、興奮で頬を赤く染めながら、どこかホッとした様子でガヤガヤと輪になって騒ぐ。
 そうして、ワイワイと盛り上がる女の子たちの輪に入ることなく、シアは王城に背を向けると、勢いよく駆けだした。――時間がない。急がなきゃ!
 白いリボンがひらひらと揺れるのを視界の端にいれ、その迷いのない動作に驚いたように、駆けていくシアの背中に向かって、ジャンヌは「ちょっと、シア……!」と、大きな声を上げた。
「シア……!そんなに急いで、どこにいくのよ?」
「ごめん、ジャンヌ!いつか、きっと話すって約束するから!」
 幼馴染の声に、首だけ振り返って返事をすると、シアは再び前を見て、脇目もふらず走っていく。
 その銀髪が陽光をはじくのを、華奢な、だが何かを決意したような背中が遠ざかっていくのを、ジャンヌはどこか眩しげに目を細めて見送る。
 走っていくシアとちょうど入れ違いに、パン屋の親父、ジャンヌの父親が王城の方へと歩み寄って来た。
 ジャンヌが「父さん」と声をかけると、小さくなっていくシアの背中を見て、陽気なパン屋の親父は目をパチパチさせ、首をひねる。
「あんなに急いで……シアは、どうしたんだ?」
「さぁ……」
 父親の問いに、ジャンヌはさぁ?と、軽く肩をすくめる。
「さぁね……恋でもしてるんじゃない」
 そう続けて、商人の幼馴染であるパン屋の看板娘は、にこっと何処か悪戯っぽい目をして笑った。
 後ろで、そんな会話がかわされているなどとは夢にも思わず、アレクシスを探そうと、シアは走った。
 祝祭の乙女のひらひらしたスカートは、ひどく走りにくいし、踵の高い靴は足が痛む。けれど、立ち止まることはなく、彼の姿を探しそうと、シアは必死で足を動かす。
 人の多さゆえに、思うように走ることは出来なかったが、それでも背が低いなり、人の波にのまれそうになるたび、背伸びをし、アレクシスを見つけようと努力する。――彼は、どこにいるのだろう?まだ、あの辺りにいると信じたい。
 そんなことを考えながら走っていたら、途中で、人にぶつかりそうになり、シアは「ごめんなさい!」と叫んで、慌てて道の端によけた。
「わっ、ごめんなさい!」
 ぶつかりこそしなかったものの、不注意だった。
 ごめんなさいと頭を下げる銀髪の少女のすぐ横で、「いいえ……」という穏やかな女の声と、首を横に振る気配がする。
 シアがゆっくりと顔を上げると、黒手袋、黒いドレス、顔の半分ほどおおう黒いベールに、揃いの黒い帽子をかぶった、全身、黒づくめの老女と目があった。
 年齢は、シアの祖父と同じくらいだろうか。
 白くそまった灰髪、端整な顔に刻まれた深いシワ、黒づくめにもかかわらず、その顔色だけが不健康なまでに青白い。
 どこか優雅な雰囲気をもつ、その老婦人は唇に穏やかな微笑をのせ、翠の瞳でシアを見ていた。
 青白い顔の中、その翠の瞳だけ奇妙な輝きを放っている。とはいえ、シアはそれには気づかず、その黒づくめの服装の方に、目を奪われた。
 (黒いドレス……黒い手袋、黒いベール……もしかして、喪服?)
 死者を悼むための、喪服
 それは、華やいだ祝祭の空気の中にあっては、ひどく異質なものだ。葬儀の場でもない、祝祭で沸く大通りでは、奇妙でしかなかった。
 思わず眉をひそめたくなり、優雅な微笑を浮かべた老婦人と目があったシアは、慌てて、その表情を打ち消した。
 じろじろ見るのも失礼だったと反省し、喪服の老婦人にもう一度、「お騒がせして、すみませんでした」と二重の意味で謝ると、シアは再び、足早に歩き出す。
「母上ー、母上ー!どちらにいらっしゃるのですか?」
 どこからか、母上ー!と懸命に誰かを探すような、男の声がした。
 喪服の老婦人は、それには反応せず、無言で前を見つめ続ける。
 その翠の瞳は、どこまでも空虚で、ぞっと鳥肌が立つような狂気が宿っていた。
 夢見るような眼差しが、穏やかな微笑が、余計にその歪さを際立たせる。
 遠ざかっていく銀髪の少女の背中を見つめて、黒いドレスの老婦人は、
「――見ぃつけた」
と、紅をさした唇をつり上げた。


 息を切らせ、観光客や露店でにぎわう、大通りの人と人の間をぬうようにして、何とか急いでと焦りながら、シアは進んでいく。
 (間に合ってよ……!お願いだから!というか、待ってなさいよ!)
 さっき、アレクシスの姿を見たのは、この近くだった。
 あれから、そう時間も経っていない。まだ、この辺りにいるはずだ。
 何とか前に進もうと、必死な彼女の瞳に、周囲から頭ひとつ抜け出た黒髪の青年の、よく見慣れた背中が映る。その背中に向かって、シアは声を張り上げた。
「――アレクシス!」
 派手な花火の音や、周囲の騒がしさに邪魔されてか、シアの声がまるで耳に届いていないように、黒髪の青年は――アレクシスは、彼女の方を向こうとはしない。
「……」
 背を向けたまま、足早に歩いていく。
 まるで、シアの視線を避けようとしているかのようだった。
 それどころか、店と店の間の狭い場所を通り、望んで人通りの少ない路地裏の方に歩んでいこうとするアレクシスに、銀髪の少女は「待ちなさいよ……!」と、叫んだ。
「待ちなさいよ……!待ちなさいってば……!」
 アレクシスの後を追って、シアも入り組んだ路地裏へと入り込む。じゃり、と小石を踏んだ音がした。
 もういい加減、彼女の声は耳に届いていると思われるのに、青年は振り返ろうとしないどころか、無言で背を向けたまま、立ち止まろうとすらしない。――本当、腹が立つ!
「……っ!」
 何で先に行っちゃうのよ!と、怒りと苛立ちを宿した青い瞳で、アレクシスの背中を睨みつけながら、シアは必死にその後を追いかける。
 彼女は走り、前を歩く青年は早足であるにもかかわらず、なかなか彼らの間の距離は縮まらない。どうしても追いつけない。
 男女の歩幅の違いもあろうが、追いつけないのは、シアの服装もあろう。祝祭の乙女の衣装、ひらひらのドレスと踵の高い靴は、走りにくい。
 ふわふわのスカートは、軽くすそを持ち上げねば、ろくに走ることさえ叶わないのだ。
 (ああもう、足が、足が痛い……!しかも、この衣装、あとで洗って返さなきゃないならいのよ!そこんとこ、ちゃんとわかってるの?アレクシス……って、違う、そんなこと言いたいんじゃない!あーもう、何でもいいから、さっさと立ち止まりなさいよ!時間がないんだから!)
 混乱のあまり、心の中で愚痴とも本音ともつかぬことを呟きながら、シアは前を見据えた。
 アレクシスとの距離は、じょじょに広がっていく。
 あの時と同じ、彼の背中がひどく遠く見える。
 届かない、届かない、どうしても……
「はぁ……あ……」
 走り続けた膝がガクガクと震えて、シアは疲れたような息を吐く。
 (ああ、あたし、格好悪い……どうして、さんざん叫んでも、振り向いてもくれない奴を、こんなに必死に追いかけてるの?)
 (しかも、自分の為じゃないのに、何でこんなに必死になってるんだっけ?あたしが損するわけじゃなし、シルヴィアさんとアレクシスの問題なんだから、こんなことしないで、放っておけばいいじゃない)
 (ただ好きって気持ちだけで、何でも片付かないわよ!)
 一瞬、立ち止まってしまおうとかという考えが、彼女の頭をよぎる。
 そうすれば、楽になれると……でも……
 顔を上げ、アレクシスの背中を見つめて、シアは微苦笑を浮かべる。
 可憐で美しい祝祭の乙女の衣装、でも、こうして歯をくいしばって走っている己の姿は、優雅さとは程遠い。結局、自分は一生、シルヴィアさんのようにはなれないのだと思う。
 ああいう、しなやかで強く、美しい人には。
 これは、意地だ。ただの下らない、愚かなまでの意地だ。でも、だからこそ、諦めたくないものもある。
「きゃ……!」
 その瞬間、シアの唇から、甲高い悲鳴が上がった。
 足がもつれる。
 ぐらりっと体が揺れて、彼女は前に倒れこむ。
 花のつまったかごが、その手から離れた。
 バァァァァァンと乾いた音がして、シアは盛大な勢いをつけて、頭から地面に突っ込んだ。べしゃ、と体がすべる。
 ひどく痛そうな、ばた―――ん!という音がして、少女の両手が地面に叩きつけられた。
 転んだ拍子にぬげた、彼女の白い靴が、ころころと石畳の上を転がっていく。
 それっきり、その場は嘘のように静まり返った。
 地面に倒れこんだっきり、シアは呻き声すらもらさず、辛そうに顔を伏せて、じっとうずくまる。
 痛みをこらえているのか、うつむいたその表情を見ることは、叶わない。
 うつ伏せになって、いっこう立ち上がろうとしないシアに、異変に気がついたアレクシスが、驚いた顔で後ろを振り返る。
「シア……?」
 足を止めた彼は、振り返り、地面に倒れこんだシアを目にした瞬間、さっと顔色を変えた。
 その顔によぎるのは、苦く重い、後悔という感情。
 うずくまって動かないシアの姿を見て、アレクシスは今まで振り返らなかった理由を忘れたように、ひどく焦ったような表情で、彼女の元へと走り寄る。
 心配ゆえか、その顔は青い。
 シア!と彼女の名を呼びながら、アレクシスは地面に倒れこんだっきり、微動だにしない少女の傍らに膝をついた。
「すまない!俺が悪かった。……大丈夫か?」
 青い顔で駆け寄ってきたアレクシスは、転んだっきり、地面に手をついて動こうとしないシアのそばに膝をつくと、少女の手を取って、その華奢な身体を抱き起す。
 怪我はないか、と問う声は真剣で、少しかすれていた。
 下手な痛みを与えないように気をつけながら、彼はそっとシアの手のひらについた砂や泥をはらうと、ついでに硬い指先で、乱れて顔をおおっていた銀髪を、頬の方によけてやる。
 そうした時に、彼女の額がこすれて赤くなっているのを見て、アレクシスは眉をひそめた。その漆黒の瞳に、後悔という名の痛みがよぎる。
 彼は無言で、シアの手のひらについた砂を、手ではらってやる。
 手と手が重なる。
 言葉はない。けれど、その不器用な触れ方は、ひどく優しい。
「立てるか?シア……無理はするな。転んだ拍子に、骨にヒビが入ることもあるからな……」
 痛みゆえか、いまだ顔を伏せたまま、何も言おうとしないシアに、心配そうな顔をしたアレクシスは、無理はするな、と言葉を重ねる。
 シアの赤くなった額を見ると、自分のせいでもあると思い、彼はギリリと胸がしめつけられるような気分になった。すまないと、強く強く、そう思う。
「……た」
 その時、うつむいていたシアの唇が、かすかな音をつむいだ。
 ささやくような小さな声に、アレクシスは耳をそばだてて、「何だ……?もう一度、言ってくれ」とシアに頼む。
「つかまえたって、そう言ったの!」
 勝利宣言にも似た、高らかな声が、アレクシスの耳元で響く。と、同時にぐいっ、と強引に肩を掴まれて、彼は彼女の方へと引き寄せられる。
 こちらを見るシアの微笑みは、まるで天使のように愛らしく、だが、したたかだった。
 事態についていけず、あ然としたアレクシスは、シアの青い瞳と目が合い、その何処か勝ち誇ったような表情を見て、ようやく……「つかまえた」という言葉の意味と、己の置かれた状況を悟った。
「ワザとか……」
 普通ならば、はめられたことに怒りを覚えてもしかるべきだろうが、アレクシスの心をよぎるのは、怒りよりも、むしろ呆れだった。
 怒鳴ろうにも、シアの赤くなった額や、砂まみれになった手のひらを見ると、ここまでさせたのは自分が原因だとも思い、怒りが持続しない。
 ため息ひとつ、アレクシスは不機嫌そうに「二度とするな」と言う。
「頼むから、もう二度と、こんな真似をするな。シア……悪かったし、俺にも責任はあるが……もし、本当に怪我をしたら、どうするつもりだ?」
 貴女が傷つくのは、見たくない……と、アレクシスが絞り出すような声で言うと、その気持ちは伝わったのか、シアも「心配させて、悪かったわ」と素直に謝る。
「心配させたのは、悪かったわ。約束する。もう二度としない……でも、あたしの話もちゃんと聞いてよ。アレクシス」
「……っ」
 話を聞いて、というシアの言葉に、アレクシスは無言で唇を噛みしめる。
 真っ直ぐに、こちらを見つめてくるシアの瞳が、今日の空のように澄んだ青い瞳が、逃げるなと、目を逸らすなど許さないと、どんな言葉よりも雄弁に語っていた。
 もう肩は掴まれていない。けれど、目を逸らすことなど、彼には最初から出来はしないのだ。
 ――その鮮烈な光を宿した青に、引き込まれそうになる。
「今日の祝祭が終わったら、シルヴィアさんは王都からいなくなっちゃうよ。すれ違ったまま、何も言わないで別れて……本当にそれでいいの?」
 シアがそう問うと、アレクシスは辛そうに眉を寄せ「俺が迷わなかったと、そう思うのか?」と、苦悩がにじむ声で言った。
 今、この瞬間でも、まともに向き合えるのならば、とっくにそうしている。だが、それをするのがお互いの為になるのか、彼にはわからない。
 シルヴィアとセドリック、そして、アレクシス……三人で共に過ごした日々は美しすぎて、愛おしい思い出で、与えられたものは大きすぎて、今更、どう返せばいいのか?
 まだ何も失っていなかった、失う怖さも知らなかった、幼い子供の時とは違う。力がついても年を重ねても、失う痛みを知れば知るだけ、人は臆病になる。
 何が、王剣の騎士だ、誇り高きハイライン伯爵家の嫡子だ……自らの弱さを悟って、アレクシスは自嘲する。これでは、ただ臆病なだけの子供ではないか、と。
 彼の弱さを見ても、シアは失望の表情を浮かべることなく、その代わり、「今更、そんなのはどうでもいいわよ」といっそ清々しいくらい、きっぱりと言い切る。
 清々しいくらいの割り切りように、何も言えなくなるアレクシスに、シアは「それで?」と重ねて問う。
「それで?結局、アレクシスはシルヴィアさんと会って、ちゃんと話をしたいの?それとも、本当にしたくないの?どっち」
 重ねられた問いに、アレクシスは諦めたように息を吐いて、本心からの言葉を口にする。
 己の弱さゆえに、心の奥底に押し込めていた、本当の気持ちを。
「ああ。会いたいさ……あの日、シルヴィアを守れなかった俺でも、会うことを許されるならば、な」
 シルヴィアに、許されたいとも許されるとも、彼は思わない。でも、もし、もう一度、言葉をかわすことが許されるならば、伝えたい言葉があった――
「それなら、シルヴィアさんに会いに行けばいいじゃない。会って、伝えたい言葉があるんでしょう?走れば、まだ間に合うわよ」
「だが……」
 なおも躊躇うようなアレクシスの背中を押すように、シアはにっこりと明るく笑って、安心させるように「大丈夫だよ」と言う。
「大丈夫だよ。走れば、きっと間に合う……伝えたい言葉があるなら、走らなきゃ、言いたいことがあるなら、叫ばなきゃ……そうしなきゃ、何も伝わらないでしょう?」
 アレクシスの漆黒の瞳を見つめながら、シアは「信じてるから」と続けた。
 ――本当は、こうしている瞬間だって、怖くてしょうがない。これだけ言いたいことをぜんぶ言えば、アレクシスはあたしを、嫌うかもしれない。
 彼の抱える過去を、たった数日で知ったかぶりして、酷なことを言っているかもしれないとは思う。
 でも、シアはアレクシスを、自分の好きになった男を信じると決めたのだ。
 だから、その背中を押す。胸の苦しさを押し込めてでも、その価値はある。
「シア……」
 驚いたような顔をするアレクシスに、シアはふっと優しく微笑うと、背伸びをし、少しうつむいた彼の額に、そっと唇を寄せた。
 ほんの一瞬、額にふわり、とあたたかいものが触れる。
 風が銀の髪をなびかせる。花冠の花びらが、風で飛んでいく。寄せられた唇は、薄紅の花びらにも似て……
「シ……」
 その続きは、音にならなかった。
 アレクシスが何も言わぬうちに、シアはさっと彼から身を離し、真っ赤な顔でそっぽを向く。そうして、瞳を潤ませ、見たこともないくらい恥かしそうな顔をしながら、「上手くいくように、おまじない。――祝祭の乙女の祝福を」と、彼と目を合わせぬまま、あえて素っ気ない口調で言う。
「シア……?」
 今のは?と尋ねかけて、それが余りに間の抜けた台詞だと、アレクシスは気づいた。――シアがたった今、教えてくれたではないか。キスは祝福の意味、祝祭の乙女からの贈り物だ、と。
 あまり余計なことを言われたくないのか、赤い顔をしたシアは照れ隠しのように、「ほら、急がないと間に合わないわよ!」と叫ぶ。
「ほら、早く行かないと、時間がなくなるわよ!シルヴィアさんとカイルおじさまは、たぶんまだギリギリ出発してないはずだから、リーブル商会のそばにいると思う……急いで!」 
「わかった。礼を言う……何とか、間に合わせてみせる」
 今度ばかりは、アレクシスも覚悟を決めて、シアの言葉を正面から受け止めた。
 年下の、守るべき少女にここまで背中を押されて、何も行動しないようでは、騎士としても男としても、ただの臆病者を通り越して、もはや大馬鹿者だ。
 間に合うと、シアは言ったが、間に合うかは賭けだ。だが、走るしかない。
 ――伝えたい言葉があるなら、走りなさいよ。
 その言葉に、差し出された誠意に、報いるためにも。
 心を決めると、シアに背を向け、走り出そうとしたアレクシスの背中を、シアは「ねえ……」と呼び止める。
「どうせなら、この花を持っていきなさいよ……せっかくの祝祭なんだし」
 シアはそう言いながら、今日一日、さんざん花をまいていたかごに手を入れ、中から一輪の青い花を取り出す。
 そうして、振り向いたアレクシスの手に、その青い花をのせた。
 幸福を運ぶという、祝祭の乙女の花を。
 アレクシスは少しだけ唇をゆるめると、花を握りつぶさないようにそっと、得難いもののように受け取った。
「ありがとう。この恩は、必ず返す」
 そう言って、リーブル商会の方へと走っていくアレクシスの背中に、「そんなの気にしないでいいから、シルヴィアさんと、ちゃんと話しなさいよねー」と声をかける。
 あっという間にシアのそばに走り抜け、どんどんと小さくなっていく青年の耳に、果たして、その声が届いたかどうか、定かではないけれど。
「よっと……」
 アレクシスを見送り、シアはパンパン、とドレスについた埃をはらうと、よいしょ、と立ち上がった。
 すりむいた額や、赤くなった手のひらが痛むけど、まぁ、自分でしたことだから、しょうがないと思うしかない。
 んんー、と手を上に伸ばしながら、シアは青い空を仰いだ。これで良かったのだという思いと、一人で耐えねばならないさびしさと、相反する二つの気持ちを抱え込んで、少女はまぶたを伏せ、一瞬、目をつぶる。
 自らが望んだこととはいえ、アレクシスをシルヴィアさんに会いに行かせるために、背中を押した。
 たとえ、今の二人の間にあるのが恋愛感情ではないとしても、かすかな嫉妬にも似た感情が、シアの胸を焦がすのは、しょうがないことだろう。
 後悔してはいないけれど……少しだけ悔しかった。
 遠くから、花火の音が聞こえる。
 シアはまぶたを上げると、その音が全てを消してくれますようにと願いながら、すぅ、と息を吸い、思いっきり叫んだ。
「あーもう、あたしの馬鹿――――――っ!」
 再び、見上げた青空は、どこまでも悔しいくらい晴れやかで、だから、そう叫ばずにはいられなかったのだ。
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