女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  祝祭と商人6−11  

(あの子は……アレクシスは、今、どうしているかしら……?)
 ほのかに花の匂いがする風に、ゆるやかな黄金の髪をあそばせながら、シルヴィアは空を仰ぎ見る。
 青という青をとかしたような、どこまでも抜けるような晴天だった。
 めいいっぱい手を伸ばせば、天まで届きそうな、そんな錯覚すら抱くほどの――。
 先ほどまで、何発もの花火が派手に打ち上げられていたそこは、今はすでにその余韻もなく、静かなものだ。
 白い鳥が翼をひろげ、羽ばたいている。
 祝祭の乙女のパレードの名残りか、はらはら、と色あざやかな花びらが宙を舞う。赤い花びらを運んで、ふわっ、とあたたかな風が頬を撫でた。
「……」
 そうして、青い空を仰ぐシルヴィアの耳に、何処からか楽の音が聞こえた。
 場を盛り上げるような楽師の演奏、興の乗った観客の高らかな歌声、大聖堂から聞こえる調子っぱずれな祝福の声……。さまざまな音が、いまだ冷めやらぬ祝祭の熱気と共に、彼女の耳へと流れ込んでくる。
 高まる歌声や興奮、あちらこちらで交わされる、浮かれた風な笑う声や、明るいさざめき。
 そんな祝祭の高揚した雰囲気は変わらずとも、女王陛下と祝祭の乙女のパレードを境に、祝祭は終わりに向けて動き出しつつある。
 しゃららん――一曲の演奏を終えた楽師が、さっさと緑の帽子をぬいで、そこにぱらぱらと銅貨が投げいれられるのを見ると、リクエストに応じて、次の曲を奏で始める。前の明るく踊りだしたくなるような、祝祭の最中に相応しい曲とは異なり、しっとりした静かな余韻を残すような、祝祭のクライマックスに向けた曲を。
 そう、三日間に及んだ、聖エルティアの祝祭もあと少しで終わる。……終わってしまう。
 もうすぐ祝祭が終わってしまうことに、一抹の寂しさと、胸にささった棘のようなものを感じながら、シルヴィアは翡翠色の目を伏せた。
 (ああ、祝祭が、終わってしまう……結局、アレクシスとは一度もちゃんと話せなかったわね……)
 祝祭の終わりを待たずして、彼女は夫のカイルと共に、ここ――王都を去る。
 幼い日をずっと共に過ごしたアレクシスと再会しながら、一度もちゃんと話せなかったということは、シルヴィアの胸にかすかな棘のような痛みと、寂しさをもたらす。けれども、しょうがないことなのだとも思った。
 心残りがないと言ったら、嘘になる。だが、仕方ないことなのだ、と。
 それでも、シルヴィアは、自分と言葉を交わすことを拒んだ、アレクシスを責めようとは思わない。理由もなく、人を避けるような子ではないから、きっと、彼には彼の考え方があるのだろう。
 シルヴィアはそう思い、小さく首を横に振ると、再び、いずこからか聞こえる楽師の演奏、ゆるやかな音色に耳を傾けた。その時、
「……シルヴィア」
と、背中から名を呼ばれて、彼女は振り返る。
「あなた……どうしたのですか?」
 そこに立っていたのは、夫のカイルだった。
 相も変わらず、彫像のような無表情、幼い子供なら泣き出すかもしれぬほどの強面であるが、決して、それで機嫌が悪いわけではないと、妻のシルヴィアなればこそわかる。
 妻が振り返ったのを見ると、カイルは淡々とした声音で「支度はもう済んでいるか?」と尋ねる。
「ああ、馬車の用意が出来たらしい。帰り支度はもう済んでいるか?シルヴィア」 
 夫の問いかけに、シルヴィアは一瞬だけ翡翠の瞳を揺らすと、ええ、と少し寂しげに微笑して、首を縦に振る。
 華やかで夢のような祝祭は、もう間もなく、終わりを迎えようとしている。帰りの道中、かかる時間を考えれば、そろそろ出立するべきだった。
 心残りや、気がかかりなことがないわけではない。ただ、シルヴィアは今、それを口にするべきではないと思ったし、またその想いを言葉にする気もなかった。
 未練も心配も、過ぎ去った過去の、うつくしい、美しい思い出も全て……この土地に、王都ベルカルンに置いてゆく。己自身のためにも、彼のためにも、そうするべきなのだと。
 どこか切なげな妻の表情に、カイルはシルヴィアにしかわからぬほどかすかに、黒みがかった灰の瞳を細めたが、結局、それに触れることはなく、ただ「そうか」とうなずく。
 そうして、すっ、と無言で手を差し出してきた夫に、シルヴィアは小さく唇をほころばせ、そっと白くやわらかな手を重ねた。
「はい」
 シルヴィアとカイルが馬車の方に向かうと、そこには彼らより一足先に、亜麻色の髪の優男が待っていた。クラフトだ。
 クラフトは彼女たち二人の姿を視界に入れると、笑顔で「やあ」と片手を上げる。
 リーブル商会を率いる長ともなれば、祝祭の最中である今は、さぞや多忙だろうに、わざわざ見送りに出て来てくれたらしい。そんなクラフトの心遣いに、シルヴィアは申し訳なさと同時に、感謝の念を抱く。
 馬車のすぐ横に居るクラフトに、彼女の夫であるカイルは足早に歩み寄ると、「待たせて、すまなかったな」と声をかけた。
 カイルの言葉に、リーブル商会の長であり、シアの父親である男は「いいや、僕も今、出てきたところさ」と首を横に振り、彼らしい穏やかな笑みを浮かべて、続けた。
「本当に……もう帰るのかい?カイル」
 答えを承知している、クラフトの問いかけに、カイルは相変わらずの愛想のなさで、感情の読めない無表情のまま、「ああ」とうなずく。
 簡潔極まりのないカイルの言葉にも、クラフトは「相変わらず、らしいなぁ……」と穏やかな笑みを、更に深くした。
 その寡黙さの裏に隠された、あたたかな感情を読み取れるのは、若い時分からの付き合いであるクラフトだからこそだ。
 カイルは灰の瞳に真っ直ぐに、長年の友人の姿を映すと、淡々とした声音で礼を言った。
「この三日間、本当に世話になったな。クラフト。礼を言う」
 ともすれば、冷ややかにさえ感じられる声の調子を、クラフトは笑顔で受け止めた。
 娘が生まれる前からの、十数年来の親友なればこそ、そのカイルの言葉に込められたのが、真摯なものであると伝わってくる。
 クラフトは、ずっと前から知っているのだ。――この感情を表すのが下手な友人が、本当はどんなに優しい男か。
「いやいや、そんなことないさ。こっちもバタバタしてて、大したことが出来なくて悪かったよ……そっか、君が帰ると、寂しくなるね」
 ゆえに、リーブル商会の長の口から出たそれは、社交辞令ではなく、本心だ。
 国内外に名を馳せる商人・カイル=リスティンの仕事ぶりは、同じ商いの道を生きる者として、よくわかっているつもりである。
 祝祭の三日間の滞在ですら、おそらく長年の友人であるクラフトの為に、何とか都合をつけてきてくれたのだろう。
 ただ、それとは別に、友人との再会の喜びと等しく、別れの寂しさいうのは、いつだって消えることがない。
 まあ、お互いに家庭があり、また商人としての立場もあるし、何も本気で引き留めようとしているわけではない。だから、クラフトはふっ、と小さく笑うと、「シアも寂しがるよ」と穏やかな声で続けた。
 大好きなカイルおじさまが帰れば、きっとシアは寂しがるに違いない。
 あの子は君に懐いているし、シルヴィアさんにも仲良くしてもらっていたみたいだしね……クラフトがそう言うと、シルヴィアの夫、鷹のような鋭い目をした男は「ふむ……」とあごに手をあて、考えこむような素振りを見せると、そうか、と至極真面目な口調で応じる。
「そうか、クラフト、お前がそう言うならば、あと半年ぐらいは滞在できるんだが……冗談だ」
 冗談なのかはたまた本気か、いまいち判断がつかず、ひどく複雑な百面相をするクラフトに、カイルはニコリともせず「……冗談だ」と、言った。
 まったく表情を変えず、至極真面目な口調でそんなことを言ってくる旧友に、クラフトは苦笑するしかない。
 相も変わらず、ひどく淡々とした声音で、「わかりにくかったなら、すまん」などと真面目な顔で言われれば、尚更である。
「カイル、君は昔っから、本当に変わらないなぁ。たまに、すっごい真顔で冗談いうところとか、特にね」
「……そうか?」
「自覚がないのかい……」
 首をかしげるカイルに、クラフトはがくっとうなだれた。
 そんな夫と気心が知れた長年の友人との会話を、カイルの隣で、微笑んで聞いていたシルヴィアだったが、やがて耐えきれないという風に、彼女の唇から、ふふ、と軽やかな笑いがもれる。
 シルヴィアは品良く口元に手をあて、くすくす、と鈴の音を鳴らすような声で笑い、「まあ……」と言う。
「まあ、あなたったら、相変わらずですのね。ふふ……」
 なおも、ふふ、と笑みを崩そうとしないシルヴィアに、夫である男はちょっと情けなさげに、声のトーンを下げ、「シルヴィア……」と妻の名を呼ぶ。
「ふふ。ごめんなさい。あなた……どうしても、可笑しくて……」
 ごめんなさいと謝りつつも、かすかに肩をふるわす妻に、カイルは少し照れた風に横を向く。
 そんなカイルとシルヴィアの姿を見て、クラフトは微笑ましげに目を細めると、どこか安心したように口元をゆるめた。
 本人たちはともかく、そんな二人の姿は、はたで見ている分にはおしどり夫婦そのものだ。
 心配はどうやら杞憂だったようだと、クラフトは安堵した。
(最初に、カイルが若い貴族のお嬢さんと結婚したって聞いた時は、大丈夫かなって気をもんだものだけど……これは、取り越し苦労だったかな?)
 実際は情が深く、とても頼りになる男なのに、誤解を招きやすい態度や寡黙さゆえに、ずっとひとりでいた親友が、最良の伴侶を見つけられたことを、心の中で誰よりも祝福しつつ、クラフトは口をひらいた。
「王都まで来てくれて、嬉しかったよ。カイル。それに、シルヴィアさんもお会い出来て、本当に良かった」
 笑顔でそう言ったクラフトに、シルヴィアも柔らかな笑みを浮かべ、
「私もです。お会いできて、光栄でした。この三日間、本当に……素晴らしい祝祭でしたわ。クラフトさま」
と、言う。
「いつか、是非、我が家の方へもお立ち寄りくださいね」
 そう言葉を重ねたシルヴィアに、クラフトは「ええ、ぜひ」と穏やかに笑って、うなずく。
「それから……シアさんにも、よろしくお伝えくださいね。祝祭をご案内していただいて、お話も出来て、本当に楽しかったですわ」
 アレクシスのことには触れぬまま、直接、お別れを言えなかったのが残念ですけれど……とシルヴィアは続けて、ここにはいない少女への伝言を、彼女の父親に頼む。
「こちらこそ、娘と仲良くしていただいて……シアも少しは、シルヴィアさんを見習って、おしとやかなレディになってくれるといいんですけど」
 伝えておきますよ、とうなずいて、クラフトはまんざら冗談でもなさそうな口調で言う。
「あらあら、お上手ですのね」
 肩をすくめて、ひょいと片目をつぶった彼の言葉を、シルヴィアはくすくすと屈託なく笑って、本気にしない。
「シアといえば……クラフト」
 今はいない銀髪の少女の名前が出たことで、それまで黙っていたカイルが、ふと思い出しように唇をひらく。
 こちらを向いて、「何だい?カイル」と問うてくるクラフトに、心を許している長年の友に、小さな吐息をもらして、カイルは続けた。
「……似てきたな」
 彼の頭に浮かぶのは、いつも太陽のような笑顔で「カイルおじさま」と己に駆け寄ってくる、小さな銀髪の女の子。お世辞にも優しげとは言えぬ自分を、心から慕ってくれた。親友の、たいせつな、大切な愛娘。
『――カイルおじさまっ!』
 赤子の頃、力をいれれば壊れそうで、こわごわと抱き上げたシアのあたたかも、ぎゅう、と伸ばされた小さな手も、おそるおそるそれを握り返して、クラフトに「大丈夫だよ」と笑われたことさえ、昨日のことのように鮮明だ。――どこまでも無垢で、曇りのない青い瞳が、こちらを見ていた。
 母親を亡くした寂しさで、帰らないで、ずっとここにいて、と抱きついてきた幼い彼女に、あの時の自分はまた必ず王都に来るから、と頭を撫でて、約束したのだった。
『……本当?カイルおじさま』
『――ああ、約束しよう。シア』
 ああ――約束を果たすのが、ずいぶんと遅くなってしまった。
 数年ぶりに会ったシアは、もうすっかり綺麗な娘に成長していて、まるで花開く前のつぼみのようだった。もう、あんな幼い時の言葉なんて覚えていないだろうとは思ったのだけれど、それでも……約束を果たせて良かった、とそう思う。
「そうだね」
 誰に似てきたのか、それは問う必要もない。
 今は亡き妻のことを想ってか、クラフトはその瞳にかすかな哀切を宿して、穏やかな顔でうなずいた。
 そうして、彼は小さく笑うと、
「いつまでも、僕のかわいい、可愛い小さな娘でいてくれたらいいんだけどね、そういうわけにもいかないだろう?ましてや、シアは僕の……リーブル商会の娘であり、女王陛下の商人なんだから」
と、誇りに寂しさが入り混じった声で、続ける。
 わかっているなら上出来だろう、となぐめるように肩を叩いてきたカイルに、クラフトは「あー」と明るく苦笑して、冗談半分、本気半分の口調で言う。
「あー、でも、本音は嫁になんか出したくない。将来はパパのお嫁さんになるって言っていた頃が、懐かしいよ……いや、実際は商人になる!ばっかりで、そんなことは全く言ってくれなかったけどさ」
「親が寂しいくらい、成長しているなら、頼もしいことだ。きっと……彼女も喜んでいることだろう」
 淡々としたカイルの声音、されど、その声ににじむのは、長年の友人への、その愛娘への、切ないまでの優しさである。
 それを理解しているクラフトは、うん、と素直に首を縦にふる。
 たった一人の娘の成長を見届けることなく、あまりにも早く逝ってしまった妻のことを想うと、十年以上の月日が流れた今も、胸に鈍い痛みがはしる。けれども、それを忘れないでいてくれることこそが、この寡黙で不器用な友人なりの優しさなのだと、知っているから――。
「うん……そう信じているよ」
 カイルは「そうか」とうなずくと、ぽん、ともう一度、友の肩を軽く叩いて、常と変らぬ口調で言った。
「また酒でも飲まないか、クラフト……いつか、シアも連れて、うちに遊びに来るといい」
 そんな長年の友人の心遣いに、クラフトは「ありがとう。いつか必ず」とうなずくと、ちらっ、とずっと待たせている馬車の方を見やり、そろそろ出発した方がいいんじゃない、と促した。
 カイルとシルヴィアが住む、フェンリルクという町は、王都から少しばかり離れている。
 いつまでも話していたいのは山々だし、久しぶりに会った友人同士、話題は尽きないが、帰りの時間を考えれば、途中で宿を取ることになろうし、日が高い今のうちに、王都を出発した方がいい。
 カイルとシルヴィアが顔を見合わせ、うなずきあったのを見て、クラフトは「それじゃ」と手をふる。
「それじゃ、カイル、シルヴィアさん、道中、気をつけてね。また会える日を、楽しみにしているよ」
「ああ、お前も壮健でな」
 そう応じると、さんさんと差す、眩しいばかりの太陽に目を細め、カイルはシルヴィアに手を差し伸べた。
「お忙しいのに、見送りまでしていただいて、ありがとうございます。商会の皆様にも、よろしくお伝えくださいませ」
 シルヴィアはにこりと柔らかく微笑うと、軽くスカートに裾をつまんで、優雅な、流れるような所作で、頭を垂れる。
 そうして、夫の手を取ると、馬車の方へと歩き出した。

 御者の鞭がしなり、馬が高くいなないて、車輪が小石を弾き、馬車がゆっくりと走り出す。
 濃い臙脂色の座席に、夫と並んで腰を下ろしながら、シルヴィアは窓へと視線をやり、流れていく景色を見つめた
 パレードが終わったとはいえ、祝祭は今日の夜まで続く。
 その証拠に、馬車の窓から見える、王都の通りはまだ人、人、人で埋め尽くされる勢いで、ワイワイとにぎやかだ。屋台の前にも行列が出来ており、酒場は開店準備を始めている。おそらく、今日の夜まで、この賑やかさは続くのだろう。
 流れていく景色を、窓越しに見つめながら、彼女はそんなことを思う。
 クリーム色のクッションに腰をあずけ、その唇から、かすかな吐息がもれた。
 翡翠の瞳に、一瞬、ふと切なげな色がよぎる。
 ふるりと長い睫毛がふるえ、胸によぎる言いようのない想いに、シルヴィアはうつむく。
(これで、王都ともお別れね……)
 静かなため息と共に、彼女が胸によぎった感情に蓋をし、心の奥底にそれを閉じ込めようとした時だった。
 まるで、そのタイミングを見計らっていたように、横から声がかけられる。
「何か心残りがあるのか?シルヴィア」
「あなた……」
 夫の声に、シルヴィアはゆるゆると顔を上げ、横を向いて、彼と目線を合わせる。
 彼女と同じく、臙脂色の座席に腰をおろした男が、こちらを見つめていた。その鷹のような鋭い目に、心配の色を感じるのは、彼がシルヴィアの夫であるがゆえだろうか。
 カイルは落ち着いた、静けさすら感じる気配を身にまとうと、その瞳に己の妻の姿を映し、穏やかな声音で言う。
「……寂しそうだ」
 言葉と同時に、彼の骨ばった大きな手が、繊細な硝子細工にふれるように優しく、そっと、妻の白い頬に撫でる。武骨な、硬い指先が、やわらかな頬にふれた。
 頬にふれた手から伝わる体温、そのぬくもりに、シルヴィアは愛おしげに目を細める。
 けぶるような睫毛を揺らして、彼女は翡翠色の瞳を伏せると、右頬にふれた大きな手に、己の手を重ねた。
 重ねられた指先が、微かにふるえた。
 そうして、頬にふれた夫の手に、己の手を重ね、シルヴィアは優しい、穏やかな口調で言った。
「心配をおかけして、ごめんなさい。あなた……でも、もう過ぎたことですわ」
 切ないほど、穏やかな声だった。
 カイルはそんな妻を見つめて、何か言いたいことがあるように、シルヴィア、と名を呼ぶ。
「シルヴィア……」
「仕方のないことなのです」
 シルヴィアは切なげに微笑うと、一言一句、噛み締めるように、ゆっくりとそう言う。
 まるで、他の誰よりも、己自身にそう言い聞かせようとするように……。
 夫であるカイルに、心配をかけたいわけでは、決してない。
 でも、今の彼女にそうすることしか出来なかったのだ。
 そう言うと、シルヴィアは再び、クリーム色のクッションに背を預け、窓の外を、流れる景色を見つめた。
 馬の蹄の音、車輪が回り、彼女たちを乗せた馬車が走る。窓越しに目に入る街の様子は、次々と忙しなく流れていき、その景色を長く目に留めることは叶わない。ガヤガヤという喧騒が、だんだんと遠ざかっていく。
 さようなら……誰にもともなく、心の中でそう呟きながら、女はゆるりとまぶたを閉じる。
「――――シルヴィアっ!」
 その瞬間だった。
 馬車の後ろから、「―――シルヴィアっ!」と、大声で彼女の名を呼ぶ声がする。
「え……」
 シルヴィアの唇から、驚きの声がもれた。
 大声で名を呼ばれた彼女は、ひどく困惑したように、パチパチと何度も瞳を瞬かせると、身をうずめていたクッションから跳ね起きて、慌てて、窓の方へと身を寄せる。
 シルヴィア、とそう己の名を呼んだのは……
 この声は……
 あの子の……
 窓に身を寄せた美貌の女は、その顔に驚きと困惑を均等に宿すと、馬車の後方へと目を向ける。
 馬車の後方から、走ってこちらを追いかけてくるのは、黒い影。
 走る速度が違うにもかかわらず、その長身の影は諦めることなく、荒い息を切らせながら、懸命に馬車を追いかけてくる。走っても、走っても、縮まらぬ距離を必死で……。黒い短髪が、風にあおられていた。
 その走ってくる彼の姿から目が離せず、周囲の露店や炉端のガヤガヤという喧騒も、どこからか聞こえる楽の音色も、シルヴィアの耳にはどこまでも遠いもののように響いた。
 ――ほんの一瞬、その場だけ時の流れから切り離されたかのような、そんな錯覚を、彼女は抱く。
 馬車は走り、景色は流れているのに、こちらに走ってくる黒髪の青年の姿しか、シルヴィアの目には入らない。彼の足が地面を蹴り、マントが風になびいて、身体が弾丸のように弾んで、馬車を追いかけてくる、追いかけてくる。
 ――たとえ、その姿が遠くとも、青年の漆黒の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめているであろうことが、彼女には伝わった。
 馬車を追いかけるのは辛いだろうに、それでも、決して諦めることなく、懸命に走っているに違いない。息が苦しくても、互いの距離が一向に縮まらずとも、その瞳はまだ力を失わず、強い光をたたえているはずだ。
 言葉を交わさずとも、彼女にはわかる。
 あの子は、彼は……昔から、そういう人だった。
 強い驚きと、胸にこみ上げてくる感情に、窓枠についた手にぐっと力をこめると、シルヴィアはたった一人で馬車を追いかけてくる彼の、黒髪の青年の名を呼ぶ。――アレクシス、と。
「アレクシス……どうして……」
 思わず、どうして、と彼女はそう呟かずにはいられない。
 街中で速度を抑えているとはいえ、こちらは馬車である。
 走って追いかけてくる彼――アレクシスとの距離は、縮まらないどころか、懸命の努力もむなしく、だんだんと開いていく。
 大声で叫んでも、届かない距離。
 息を切らせ、苦しげに顔を歪め、額に汗を流しながら、それでも諦めることも休むこともせず、必死に走るアレクシス……その姿に、やりきれないものを感じて、シルヴィアは少しだけ泣きそうな顔をする。
 もし、許されるならば、あの子に駆け寄って、額の汗をぬぐってやり、もう走らなくていいの、無理しなくてもいいのよ、とそう声をかけてあげたかった
 けれど……実際は、何をするでもなく、シルヴィアはただ走るアレクシスの姿を、歯を食いしばり、息を切らした苦しげな表情を、呆然と見つめるだけだ。
「……」
 手を差し伸べられない。
 声すらかけられない。
 ただ馬車と彼の距離だけが、無情にもひらいていく。
「止まらなくていいのか?」
 妻の葛藤を読み取ったように、それまで何も言わず、沈黙を守っていたカイルが、シルヴィアにそう尋ねた。
 後ろから走ってくる青年の為に、そうしなくとも良いのかと。
 尋ねてくる声は、常と変らず静かで、何を強要しているわけでもなかった。きっと、妻が何と答えても、カイルは穏やかにそれを受け入れるつもりなのだろう。
 そんな夫の切ないまでの優しさに、胸が苦しくなりながら、シルヴィアは彼の方へと向き直る。
「あなた……」
 カイルは軽くうなずくと、ちらっと後方へ視線をやり、馬車を追いかけてくるアレクシスの姿を見やる。
 そうして、再び妻と目線を合わせると、「あの青年が……」と続けた。
「あの青年が、前に話していた彼か?」
 カイルの問いかけに、シルヴィアは小さく息を吐くと、ゆっくりと首を縦に振る。
「……ええ」
 結婚してから、シルヴィアは己の少女時代のことについて、全てではないが、カイルに語ったことがあった。
 両親のこと、幼い頃を過ごした故郷の森の美しさ、愛していた人々のこと、そして、ずっと同じ思い出を重ねてきた、セドリック……アレクシスのことも。
 記憶力の良い夫は、そのことを覚えていたようだった。
 懐かしさと切なさと、憂いと、何とも複雑な妻の横顔を、カイルは穏やかに見守る。
 そうして、彼は窓へと近寄り、馬車に向かって走ってくる黒髪の青年の姿に、灰色の目を細める。
「あの青年は、何か貴女に話したいことがあるようだな、シルヴィア……随分と必死に走っている」
 そんなカイルの言葉に応じたはずもないが、後ろから張り上げたような声が響いた。
「――シルヴィア!」
 アレクシスの声だ。
 シルヴィアはそっと目を伏せると、夫にはわかりにくいのを承知で、独白にも似た言葉を口にする。
「今の私に……あの子と話す資格があるのか、わからなくなりましたわ。私のしたことは、ただ、彼を、アレクシスを傷つけただけなのかもしれません」
 婚約者だったアレクシスと別れたのも、傾いた実家を支えるために、カイルとの結婚を受け入れたのも、他の誰でもない、シルヴィア自身が選んだ道だ。貴族の誇りを守るため、己を犠牲にしたなど、悲劇のヒロインを演じる気はさらさらない。
 不幸になるためではない、大切な、愛する人々を守るために、またシルヴィア自身が幸福でいるために、その道を選んだのだから。
 でも、それがアレクシスの心を傷つけたであろうことに、癒されぬ傷をつけてしまったことにも、ひどく胸が痛んだ。
 幼い頃から、誰よりも近くにいた、不器用で頑なで、でも、優しい男の子を傷つけることは、決して本意ではなかったのに――
 妻の少女時代を共に過ごしたわけでもない、カイルからすれば、それは酷くわかりにくい言葉であっただろう。だが、彼は何も言うことなく、ただ黙って、彼女の言葉を受け止めた。
 もう一度、後ろから声が響いた。
 かすれた、でも、真摯なアレクシスの叫びは、シルヴィアの胸を打つ。
「シルヴィア!……頼む、止まってくれ!一度でいい、どうしてもちゃんと話がしたいんだ!」
 その声を聞いたカイルが、ふっ、とめずらしく口元をゆるめた。
 彼は再び、アレクシスの方を見やり、何か眩しいものを見るように目を細める。
 妻やシアとは異なり、馬車を追いかけて走る黒髪の青年のことを、カイルは妻から聞いたこと以外、何も知らない。今まで会ったことさえない。
 しかし、縮まらない馬車との距離を、諦めることなく懸命に駆けてくる姿に、往来で叫ぶのは恥かしいだろうに、それでも躊躇わない必死さに、唇をかみしめた表情の真剣さに、わずかなりとも心を動かされる。
 その青さが、むしろ微笑ましく、また好ましく見えるのは若者の特権だ……と、ほんの一時、己の青春時代を振り返りながら、カイルは妻に語りかける。
「なかなか良い目をした若者だ。貴女が慈しんだのが、よくわかる。シルヴィア」
 そうして、行っておいで、と彼は言葉を重ねた。
 でも、とシルヴィアは迷うように、首を横に振る。
「あなた。でも……」
「迷うならば、行ってくるといい。その時にしか話せないこともあるだろう」
「……」
 うつむいた妻を励ますように、カイルはゆるやかに波打つ黄金の髪を手に取り、軽く口づけを落とす。
 そうした後、ここで待っている、と続けた夫の言葉に、どれほどの信頼と愛情がこめられているかを感じながら、シルヴィアは、はい、とかすれる声で答え、うなずいた。
「はい……すぐに戻ってきますわ。あなた」
 それから幾らもしないうちに、御者が手綱を引いて、馬車がとまった。
 ようやく、立ち止まったアレクシスは、何度か荒い息を吐いて、呼吸を整える。
 そうして、どこか呆然としたような表情で、その場に立ち尽くすと、シルヴィアたちが乗る馬車を見つめた。
 やがて、馬車の扉が開いて、ゆるやかな黄金の髪を風にあそばせながら、美しい女が降りてくる。翡翠の瞳が、黒髪の青年の姿を映し、唇が微かに震えて、アレクシス、と彼の名を紡いだ。
「アレクシス……」
 名を呼ばれたアレクシスは、一度、ぐっ、と唇を引き結ぶと、真剣な眼差しで前を見据える。
 わずかな間の後、彼は口を開くと、名を呼び返した。
 幼い頃を共に過ごした、かつての婚約者。美しく、優しく、時に厳しく、姉のように慕い、誰よりも近くにあった彼女の名を――。
「シルヴィア」
 そう名を呼んだっきり、上手く、言葉を続けることが出来ず、アレクシスは押し黙った。
 奇妙なことだ。
 シアに背中を押してもらって、あれほどシルヴィアと話さねばと思い、息が苦しいほど必死に走り、馬車を追いかけたというのに、いざ、こうなったら何も言葉にならない。そんな己が情けなくも歯がゆくもあり、アレクシスはきつく手のひらに爪を立てる。
 シルヴィアとセドリックと共に過ごした幼少時代、あの美しい四季の日々、大好きだった馬が死んでしまった日、手を繋いで見上げた星空の輝き、重ねたシルヴィアの小さな手のあたたかさ……そんな思い出ばかりが、あふれるほどに頭をよぎり、肝心な言葉が出てこない。
 ――言いたいことは、伝えたいことは沢山あるのに、それを言葉にする術を知らない。
「……アレクシス」
 そう名を呼ばれて、アレクシスは顔を上げた。
 顔を上げると、優しく微笑んだシルヴィアと目が合う。
 大丈夫、焦らなくていいのだと、その瞳が言っていた。
 やわらかな木漏れ日にも似た、翡翠の瞳が、彼を見つめている。あたたかく、慈しむような目だった。
 そんな彼女の表情は、アレクシスにとって、よく見慣れたものだった。
 幼い頃、彼が嬉しい時、悲しい時、寂しい時、シルヴィアは決まって、やわらかく微笑んで、彼の手を引いてくれたものだ。いつしか、成長するにつれて、アレクシスは彼女の背を追い抜いて、子供の時のように、手を繋ぐことはなくなったけれども、その優しい眼差しは変わらなかった。
 恋、というには淡すぎたが、それでも、彼はそんな彼女が好きで、守りたかった。大切な人々を、シルヴィアを守れる男でありたいと、そう願っていた。だが……
 アレクシスはハアと息を吐くと、絞り出すようにたった一言、
「……不思議だな。あれほど言いたいことがあったのはずなのに」
と言う。
 いつだって、そうだ。
 本当に言いたいことは、伝えるべきことは、いつだって上手く言葉にならない。
「私もよ。アレクシス……貴方とは沢山、話したいことがあったはずなのに、いざとなると言葉にならないわ」
 そう言って、シルヴィアは困った風に微笑する。
 迷うような、躊躇うような彼女の表情は、アレクシスがあまり見慣れないもので、少し不思議な感じがした。――思い出の中とは、違う風に微笑う、シルヴィア。
 いつだって、幼い自分の手を引いて、優しく、自分を導いてくれた、美しい少女。
 親同士が決めた婚約者というだけでなく、ずっと共にいて、お互いのことは何でも知っている気がしていた。けれど、それは違ったのだと、アレクシスは悟る。
 シルヴィアと離れてから三年、彼には彼の時があったように、彼女には彼女の時があったのだと、そんな当たり前のことに今更、気づかされた。
 それは寂しくもあるが、きっと、お互いにとって必要な時間だったのだ、と。
「シルヴィア……ひとつだけ、聞きたいことがある」
「ええ……何かしら?アレクシス」
 わずかに首を傾げたシルヴィアを、まっすぐに見つめて、アレクシスは唇をひらく。
 美しい過去、過ぎ去ったもの、失ったもの……そして、今、この瞬間、全ての感情をこめながら、彼は静かな声で言った。
「――今、幸せか?」
 どんな返事が返ってくれば満足なのか、それすらわからぬまま、アレクシスは問いかけた。
 黙ったままのシルヴィアに、まとまらぬ己の感情を不甲斐なく思いながら、彼は言葉を重ねる。
「最初は……もう一度、シルヴィアと話せたら、あの時、守れなかったことを謝るつもりだった。けれど、自分の意思で、自分の道を決めた貴女に、そうするのは相応しくない気がして……情けないが、何を言えばいいのか、よくわからない」
「……」
「貴女と過ごした日々を、与えてもらったものを、ありがとう、とか、すまない、とか、それだけの言葉で括ることなんて、俺には出来ない。ただ……貴女には、幸福であって欲しかったんだ。シルヴィア。共にいた時も、離れてからも、ずっと……そう願っていた」
 そう言うと、アレクシスは口を閉ざす。
 ここに至るまでに、不安も、悲しみも、後悔も山のようにあった。でも、最後に残ったのは――ただ幸福であって欲しい、というそれだけの、ささやかな、他愛もない願いの欠片だった。
 彼の言葉に、シルヴィアは、何も言わない。
 鏡を見たわけでもなかったが、自分が不安そうな表情をしていることを、アレクシスは知っていた。幼い子供でもあるまいに、情けないと自嘲する。
(不甲斐ない男で、すまないな。シア……貴女はあんなに力を貸してくれたのに、俺は結局、これしか言えなかった……)
 何度も冷たく拒んだのに、それでも見捨てず、シアは自分の背中を押してくれた。
 額に落とされた祝福の印、真っ赤な顔をした祝祭の乙女は、臆病な己に勇気をくれたと、アレクシスは思う。
 信じている、そう言ってくれた銀髪の少女の笑顔が、彼の胸をよぎる。
 果たして、自分はその気持ちに、ほんの少しでも報えただろうか――
 ふっ、と眼前のシルヴィアが微笑う気配がした。
 同時に、彼女の手が高く伸ばされて、ほんの一瞬、青年の前髪を撫でた。とはいえ、それは本当に一瞬で、幼い時のように頭を撫でられることはない。
 子供の時から慣れ親しんできた、やわらかな手が離れる。
 まるで子供時代に戻ったようなそれに、アレクシスが驚いて目を見開くと、シルヴィアはふわりと笑みを浮かべる。
 星空を仰いだ、あの幼い春の夜と同じ、懐かしく、優しい笑みだった。
 幸せよ、と彼女は答える。
「私は幸せよ、アレクシス……だから、どうか貴方も幸せであって」
 その言葉と微笑みで、アレクシスは気がつく。
 ああ……自分はずっと、大切な人たちを守るつもりで、守られていたのだと。――それは愚かだったかもしれないが、多分、泣きたくなるくらい幸福なことだった。
 ささやかな幸福感と、ほんの一瞬、胸をよぎった感傷に浸りながら、アレクシスは目をつぶり、そして、まぶたを上げると、晴れ渡った青空を仰ぎ見た。
 幼き日に心を奪われた、満天の星空とは違う、だが、同じくらい綺麗な空だった。
 あの少女の瞳にも似た色合いの青空を見つめて、アレクシスは慎重に、握りつぶさぬようにしていた一輪の青い花を、シルヴィアに手渡す。
 祝祭の乙女、シアがシルヴィアに渡せと、彼にくれた花だ。――手ずから、それを受け取れば、幸福を運んでくれるという。
 頬を赤く染めながら、「どうせなら、この花を持っていきなさいよ……せっかくの祝祭なんだし」と言った彼女の顔を思い出す。
 差し出された青い花を見て、シルヴィアは私に?と首をかしげる。
 アレクシスはうなずいて、受け取ってくれないか、と言った。
「これを……受け取ってくれないか?シルヴィア」
「私に?……いいのかしら?アレクシス」
「ああ。シアと……俺からだ」
 何かを思い出したのか、やや照れくさそうな声で「祝祭の乙女からの預かり物だ。きっと、貴女に幸せをくれるだろう」と続けたアレクシスに、シルヴィアは目を丸くして、次の瞬間、嬉しそうに笑った。
 彼の手から花をもらうと、彼女はそれを大切そうに、胸の前に抱えた。
 風が吹いて、青い花弁が揺れる。
「ありがとう。嬉しいわ」
 シルヴィアが礼を言うと、アレクシスは短く「……ああ」と応じて、うなずく。
 それが、彼なりの照れ隠しなのだとわかっていて、彼女はこっそりと笑みを深くした。
「あのね、アレクシス……」
 優しく、あたたかい気持ちになりながら、シルヴィアは昔のようにそう語りかけた。
 取り戻せない過去はあっても、失ったものがあっても、私たちは生きて、新しい絆をつむいでいく。大切な日々を重ねていく。だから、また笑いあえる。
 ね、そうは思わないかしら?アレクシス――


「あなた」
 馬車に戻ったシルヴィアが、そう声をかけると、臙脂色の座席に座り、ぼんやりと足を組んでいた男が、ゆっくりと彼女の方へと向き直る。
 その灰の瞳に、不安の影はない。ただ、待ちかねたという風に見えるのは、シルヴィアの、彼の妻であるがゆえの願望だろうか。
 もういいのか、と薄い唇が動く。
 相も変わらず、淡々としたカイルの問いかけに、翡翠の瞳を和ませ、シルヴィアはうなずく。
「はい、もう話したいことは話しましたわ。十分です」
 そう答えて、己の隣に腰をおろした妻に、夫である男は彫像のような無表情のまま「そうか」と、一切の感情が読み取れぬ声で言う。
 シルヴィアの笑顔と、大切そうに彼女がもっている青い花に、ちらりと目をやったカイルが、一体、何を想ったのか……それは余人には、とても察せられないことである。
 カタと座席が揺れ、馬車がゆるりと速度を上げ、再び走り出す。
 シルヴィアが先ほどと同じように、窓越しに流れていく景色を見ていると、横から「――シルヴィア」と声をかけられる。
「はい?」
 彼女が横を向くと、カイルが常になく緊張したような面持ちで、おまけに酷く歯切れの悪い口調で言った。
「その、シルヴィア……いいや、何でもない」
「何でもない、ですか?」
 今まで見たこともないような夫の表情に、シルヴィアは小首を傾げ、不思議そうな目を向ける。
 妻の眼差しに耐えかねたように、カイルはふ――と、深々とため息をつく。
 ほんの少しの間をおいて、彼は観念したようにポツリと、呟くような声で尋ねた。
「その、シルヴィア……本当にいいのか?私と一緒にいて」
 後悔しないのか、とカイルは続ける。
 いきなり何を言い出すのかと、きょとんとした顔をするシルヴィアに、ひどく複雑そうな目を向けて、カイルはボソボソ、と言い訳じみた言葉を重ねる。
「今更だが、お前にはもっと似合いの相手がいただろうと思ってな……私とは親子程も年が離れているし、ただ商売で財を築いただけの平民で、貴族でもない。おまけに、口下手で愛想もない……どう考えても、不釣り合いだろう」
「あなた。そんな……」
 シルヴィアは、困惑したように言う。
 彼女には全く理解できないが、夫は夫なりに真剣に悩んでいるらしく、なおも言葉を続けた。
「もし、私といることに嫌気が差したなら、無理だけはするな。お前が望むのならば、私は……」
 その先の言葉は、続けられなかった。
「先のことはわかりませんけれど、そんな日はきっと来ませんわ」
 彼の言葉を遮るように、シルヴィアはにっこりと微笑んで、その可能性を否定する。
「シルヴィア……」
「私は、幸せですわ。他の誰でもない、あなたと、愛する人と共にいられるのですもの……だから、どうか、そんな悲しいことをおっしゃらないで」
 彼女がそう言ったのと、カイルに抱き寄せられたのは、ほぼ同時だった。ぐい、と腕の中にとらえられ、少し驚いたように「きゃ……」と声を上げたシルヴィアの耳元で、低く、かすれたような声がする。
「すまなかった。もう二度は言わん」
「それなら、私は何度でも言いますわ。愛しています、と」
 シルヴィアはふふ、と微笑うと、コトッ、と夫の肩に首をあずけた。
 そうして、安心したように目をつぶる。
(もう一度だけ、言わせてね。どうか、貴方も幸せでいて。約束よ。アレクシス……)
(シアさん……アレクシスが前を向けるようになったのは、きっと貴女のおかげね。本当にありがとう……)
(さようなら。そして、また会いましょう……)
 信じているわ……そう心の中で呟いて、シルヴィアは馬車の揺れに身を任せ、髪を撫でる優しい手に、いつか来る幸福な夢を見る。
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