女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  祝祭と商人6−9    

 金色の櫛がサラリサラリ、と癖のない銀髪をとかしていく。
 大きな鏡台の前におかれた椅子、ちょこんと花模様のクッションに腰を下ろしているのは、商会の跡取り娘である銀髪の少女――シアだ。
 その後ろには、三人のメイドたちがおのおの櫛を手にしたり、化粧道具やアクセサリーを手にして、それぞれの仕事に励んでいた。
 鏡の横から伸びてきた女の腕が、慣れた手つきで、銀糸の髪を結い上げていく。
 腰近くまである長い髪を、しゅるしゅると器用に、また丁寧に結っていく様は、さながら魔法のようだ。
 その間に、反対側に立っていた女が、白磁のような肌にパタパタと粉をはたいた。
 ともすれば、透けるような白い肌が、ほんのりと色づく。
 そうして、薄化粧をほどこした少女の唇に、細い筆が伸ばされて、すぅ、とまるでキャンバスに色でもつけるように、あざやかな紅をのせる。
 ――鏡の中に映った銀髪の少女、つまり自分が青い瞳で、こちらを見つめてくる。
 リタ、ニーナ、べリンダ、リーブル家の三人のメイドたちの手によって、鏡の中の己が変貌をとげていく間、シアはじっと大人しくしていた。
 銀髪が高く結われ、唇に紅をひかれた後、仕上げとばかりに黒髪のメイド、リタの手がシアの耳にふれた。軽く身をかがめた彼女は、少女の耳に花の耳飾りをつける。
 花開きかけたばかりの、淡いピンクのつぼみ――その耳飾りは、鏡の中の少女によく似合う。
 耳にそれをつけられた時、緊張がほどけてきたように、シアが唇をほころばせ、にこっと笑みにも似たものを浮かべる。
 それを見た黒髪のメイドも、ふふ、と満足気に微笑んで、しずしずと後ろに下がった。
 ほぼ同時に、ふわふわの金髪が可愛いメイド、ニーナがシアの肩に手をのせて、「完成です!」と誇らしげに宣言する。
「完成です!ふふっ、我ながら、完璧な仕事っぷり!……ねぇ、リタ?べリンダ?」
 そろそろ神の手とか呼ばれてもいい頃かしら、などと、自画自賛じみた世迷いごとを言い出したニーナの横で、べリンダ、亜麻色の髪のメイドは「そうよねぇ」とにこやかに笑って「これぐらいの出来なら、臨時ボーナスも期待できるかしら……新しい靴とバック、欲しいのよねぇ」などと、早くもボーナスの算段を始めている。
「ふふふ」
「おほほ」
「「「ふふふふふ……」」」
 リタが笑うと、それにつられたように、ニーナとべリンダも笑い出す。
 楽しい想像、もとい妄想をしてか、ふふふと不気味なほど高らかに笑い出した三人のメイドに、シアはひくっと顔をひきつらせた。
 ひょっとして……あたし、忘れられてる?
「ねぇ、ちょっと……リタ、ニーナ、べリンダ」
 シアが少しばかり呆れ顔で声をかけると、べリンダが思い出したように振り返り、「あっ、忘れてましたわ!もう完成ですから、立ち上がってもらっても、構まいませんよ。シアお嬢さま」と言う。
 そうして、呆れ顔のシアが何か言いかけたのをふうじるように、亜麻色の髪のメイドは、にっこり、と爽やかな笑顔で言い切った。
「大丈夫ですわっ!私たちの完璧な仕事っぷりに、誰も文句などあるはずもありません!あ……今は臨時ボーナスの使い道について、あと旦那様へのボーナスへの要求について、じっくり検討中なところですから、ご心配なく!」
「そ、そうなんだ……が、頑張ってね」
 あまりにも自信満々に言い切られ、勢いに押されたシアは、つい応援のエールをおくってしまう。
「はい!神の手と呼ばれる私たちに、任せてください!」
 さっき思いついたばかりのことを、堂々と宣言するニーナの辞書に、謙遜の二文字はない。
「いや、呼んでない、そんなの誰も呼んでない……というか、さっき考えたでしょう?」
 ぱたぱたと手を振るシアの言葉にも、ニーナは全く動じない。
「今日から呼ばれる予定だから、いいんです!」
 シアの冷静なツッコミも、テンションの上がったメイドたちの耳には響かないらしく、リタたち三人は「えいえい、おー!」と拳を振り上げている。
 新しいバック、可愛い靴、ついでに化粧道具もー!
 そう声を上げながら、きらきらと目を輝かせるメイドたちにとっては、たとえ主人の娘であるシアでも、今は眼中にないらしい。
 リタたちメイド三人娘のテンションの高さはいつものことだが、今日は、いつもに増して、三割増しで気合が入っているようだ。……その明るい話し声や笑い声は、どこか微笑ましく、決して嫌なものではないのだけれど。
 これも祝祭の華やいだ空気が、なせるわざだろうか。
 メイドのお姉さま方のハシャギっぷりに半ば圧倒されつつ、シアは「……っと」と椅子から立ち上がり、瀟洒な鏡台の前から離れた。
 そうすると、ドレスの白いスカートが、ふぅわり、まるで花びらのように広がった。
 なめらかな布地に、薄く光沢のある布を幾重にも重ねたそれは、朝の光をきらきらと弾いて、実に美しい。
 歩くたびに背中で揺れる、大きな白いリボンは、さながら蝶の羽を思わせる。
 窓から差し込んでくる、太陽の光のまぶしさに目を細めながら、シアは軽やかな足取りで、部屋の隅、全身が映る姿見の前へと移動する。
「……うん」
 頭のてっぺんから、つま先まで。
 鏡に映る、己の姿を見たシアはうん、と軽くうなずく。
 ビーズと銀糸で、見事な刺繍のなされた胸元。光沢のある薄い布を幾重にも、幾重にも重ねたスカート。年頃の少女たちに、よく似合いそうな可愛らしい白のドレス――祝祭の乙女の衣装だ。
 外見だけなら、非の打ちどころがない儚げ美少女、と周囲から評されるだけあって、それは彼女によく似合っていた。
 この前の衣装合わせの時と同じものだが、あの時と違うのは、本番である今日は、シアの銀髪はメイドたちの手によって、綺麗に結われており、また化粧やアクセサリーもぬかりのないところである。
 祝祭の乙女として、女王陛下と共に王都をパレードするのだ。恥ずかしい格好は出来ない……だが、この格好なら大丈夫だろうと、シアは安心する。
 神の手……はどう考えてもオーバーにしても、実際、リタたちの仕事ぶりは完璧と言ってもいい。文句なしだ。
 あとは、女王陛下とのパレードの時に、頭に色とりどりの花で編まれた花冠をかぶり、手には花かごを持つだけである。
 そう思い、シアはくるり、とワルツを踊るように、姿見の前で回る。
 ひらり、とスカートが弧を描くことに、小さく笑みを浮かべて、彼女は鏡の中の少女、自分と目を合わせた。青い瞳が、楽しげにこちらを見ている。
 にっこりと笑って、シアはメイドたちの仕事ぶりを称賛した。
「相変わらず、良い仕事っぷりね!ありがとう!リタ、ニーナ、べリンダ」
 シアがお礼を言うと、「いえいえ、どういたしまして」と言いながら、輪になってワイワイ話していたメイドたち三人が、姿見の方に寄って来る。
 鏡に映ったシアのすぐ横に、リタ、ニーナ、べリンダが立った。
 そうして、鏡の前に寄ってくると、リタがシアの肩に手をのせて、満足気に言う。
「よくお似合いですわ、シアお嬢さま。今日は、祝祭の乙女のパレードなんですもの、いつも以上に私たちも気合が入りましたわ」
 リタがそう言うと、ニーナもそうそうと相づちを打つ。
「そうそう!シアお嬢さまの、せっかくの晴れ舞台ですものね!……間違えても、金、ボーナス目当てなんかじゃないですよー」
「ちょっ、ニーナ!余計なことを……ええっと、お世辞抜きで、本当にお似合いですよ。シアお嬢さま……せっかくですし、パレードの前に、旦那様に見せてこられたらいかがです?きっと、喜ばれますわ」
 思わず、余計な本音を口走りそうになるニーナを、ぐいぐいと力づくで押しのけて、旦那様に見せてこられたらいかがですか、とべリンダが笑顔でそう提案する。
 父親のクラフトに見せてきたら、というべリンダの言葉に、シアは「えー」と声を上げ、微妙な顔をする。
 嫌……ではないが、ここまで着飾った格好を、わざわざ父に見せに行くのは、上手くいえないけれども、なんとなく恥ずかしい。
「えー、別にいいよ。この格好、わざわざ狸親父……じゃなかった、父さんに見せに行くの、なんか恥ずかしいし」
 照れた風に、ぶんぶんと首を横に振るシアに、べリンダは微苦笑して「そうはおっしゃっても、シアお嬢さま……」と、続けた。
「いざ、祝祭の乙女として、女王陛下とのパレードの時間になれば、めちゃくちゃ大勢の人の前に立つんですから……なにせ、この王都が人であふれかえるくらいの勢いですからねー。他国からも、大勢のお客様がいらっしゃいますしー」
「うぐっ……わ、わかってるわ」
 もっともなことを指摘されて、シアは「うぐっ」とうめいた。
 たしかに、祝祭の乙女として、いざ女王陛下とのパレードとなれば、それを見に王都中の人々が詰めかけてくる。その数は何と、王都の道という道をうめつくす勢いだ。
 また、べリンダが言うように、他国からも大勢の観光客がやってくる。
 一昨日、昨日も、たいそうな混みよう、にぎやかさではあったが、聖エルティアの祝祭の最終日である今日はおそらく、その比ではない熱狂的な盛り上がりを見せるに違いない。
 特に、女王陛下と祝祭の乙女のパレードは、祝祭の目玉にして、最大の華、並ぶものなきメインイベントである。
 そんな中で、祝祭の乙女の役をすることを考えると、今更ながら、ちょっぴり緊張してきたが……やりきるしかない!
 何とかなる。女は度胸だ!と自分に言い聞かせて、シアは「ところで……」と話題を変えて、リタたちに向き直る。
「ところで……リタたちは、今日はどうするの?祝祭のパレード、見に来る?」
 シアがそう尋ねると、リタ、ニーナ、べリンダの三人は顔を見合わせると、そろって口元に手をあて、にやけた顔で「むふふ……」と締りなく笑う。
 祝祭の雰囲気に酔ったのか、どうやら相当に浮かれているらしい。
 いつもに増して、ばっちりと化粧をしたリタが、さっ、と黒髪をかきあげて、艶やかな微笑みを浮かべて答えた。
「もちろん!今日はデートですもの……私たち、午後は三人とも旦那様から、お休みをいただいています」
 リタがそういえば、ニーナも負けじと、ふわふわの金髪をまとめている、銀のバレッタを見せびらかす。
 シアの見覚えのないものだが、もしかしたら、誰かからの贈り物だろうか?
「あたしも、出かけますよー。せっかくの祝祭ですもの!良い男を捕まえなきゃ。目指せ、玉の輿っ!」
 高らかにそう言って、拳を突き上げる真似をするニーナに、べリンダも「うんうん」と同調する。
「今日のために、新しい服も買ったし、せっかくだから買い物もしたいし……あ、もちろん、シアお嬢さまの、女王陛下のパレードも見に行きますわ。彼に、良い場所を取ってもらってますから」
 新しい服を買ったというべリンダの言葉に、ニーナが「いいなあ、どんなの?」と聞いて、またまたお喋りの花が咲く。
 服がどうの、夏の新作がどうの、ときゃいきゃいと騒いでいるニーナとべリンダの横で、シアとの向かいに立ったリタが、三人の気持ちをまとめるように、年長者らしい落ち着いた声音で言う。
「聖エルティアの祝祭といえば、未婚の乙女にとっては、欠かせない一大イベントですもの。今日だけは外せませんわ。おまけに……祝祭の日、一緒に過ごした恋人たちは幸せになれる……という古くからの言い伝えもありますし」
 シアお嬢さまもよくご存じでしょうけど、と笑顔で話しかけてくるリタに、シアはつられたように微笑しかけ、だが、なぜか顔を伏せて、うつむいた。
 ふっ、と陰りが差す顔は、何かを憂いているようにも見える。
 唇を開きかけて、それが叶わず、結局、シアは何も言わずに押し黙った。
 我ながら、不自然だと思う。でも、どうにもならない。
「……シアお嬢さま?」
 急に黙ってしまったシアに、リタは軽く首をかしげ、怪訝そうな声を出す。
 シアはゆるゆると、力なく首を横に振る。
「ごめん……何でもないわ、リタ」
 みんなが祝祭を楽しみにしている時に、暗い顔をしていてはいけないと思うのに、おまけに自分は今日、祝祭の乙女の役をしなければならないのに……
 それを、よーく自覚していても、シアはどうしても笑顔を浮かべることが出来なかった。
 恋……恋って、なんなんだろう?今の自分には、難しくって、よくわからない。
 聖エルティアの祝祭は、恋人たちの祭りとも言われる。それなのに、こんなあたしが、祝祭の象徴である<祝祭の乙女>の役をしていいんだろうか、とシアは悩む。
 今さら、悩んでもどうしようもないのだけれど。
「シアお嬢さま……?」
 あからさまに悩んでいるとわかるシアの様子に、またそれを口に出さない頑なさに、リタはちょっと困ったような顔をして、優しい声で「シアお嬢さま……?どうかしましたか?」と尋ねる。
「……ううん、何でもない」
「何事も、口に出さなければ、相手には伝わりませんよ、シアお嬢さま……私たち相手に、意地や虚勢を張る必要はないでしょう?」
 そう言って、リタは「ねぇ、ニーナ?べリンダ?」と後ろに同意を求める。
 ふと気がつけば、ニーナとべリンダもお喋りを止めて、こちらの方を見ていた。
 リタの言葉に、二人は当然だという風に、無言でうなずく。ね、シアお嬢さま?と再度、リタに促されて、シアはためらいがちに口を開いた。
「ねぇ、人を好きになるって……幸せなことなのかな?リタたちは、どう思う?」
 お嬢さまの唐突な問いかけに、三人のメイドたちは顔を見合わせて、首をかしげる。
 だって、とシアは、どこか焦ったように続けた。
「だって、苦しいじゃない。恋って、そんな楽しいばかりじゃないでしょう?悩んだり、焦ったり、悲しんだり……嫌なことも大変なことも、きっと沢山あるのに、何で人を好きになって、幸せって言い切れるの?」
 もちろん、楽しいことも幸福を感じる時もあるのだろうけど、それだけじゃないと、シアは思う。
 実際、アレクシスへの恋心を自覚してから、シアは悩んだり、迷ったり、色んな感情に振り回されている。グダグダな自分は、格好悪いと思うし、今まで知らなかった感情は、時にドロドロしていて気持ち悪い。……嫉妬なんて感情、知りたくなかった。
 昔は、祖父さんがいて父さんがいて、リタたちがいて幼馴染のジャンヌがいて、商会のみんながいて……母さまがいないのが寂しかったけど、それでも、大切な人たちがいて、きっと幸せだったのだ。なのに、どうして、それだけで満足できなかったのだろう?
 (これから……あたしは、どうしたらいいんだろう?)
 今、この瞬間だって、そうだ。
 自分がどうしたらいいのか、何をしたらいいのか、シアには全然、わからない。
 アレクシスの気持ちを考えるなら、シルヴィアさんと会わせない方がいいのだろう。
 それに心の片隅に、二人を会わせたくない、という気持ちもある。
 シルヴィアさんとアレクシスが、今更、どうこうなることはあり得ないにしても、アレクシスの気持ちが、今もシルヴィアさんを向いていたら、と想像すると、怖かった。
 シアはただ、黙っていればいい。目をつぶって、耳をふさいで、何も知らないフリをしていればいい。きっと、彼はシアを責めない……けれど、本当にそれでいいのだろうか?
 逃げるな、とアレクシスに言ったのに、自分だけ逃げていいのだろうか?自分に嘘を吐いて、己の気持ちを誤魔化して。
 それで本当に、彼の前に、好きな人の前に胸を張って立てるのだろうか?そう考えると、なんだか胸が苦しくなってきて、彼女はぎゅっ、と何かにすがるようにドレスの裾をつかむ。
「……そんなの、わかりませんわ」
 しばしの沈黙の後、リタは悩んだ風でもなく、あっさりとした口調で答えた。
 あまりにもあっさりした声に戸惑いながら、シアは恐る恐る、伏せていた顔を上げる。
 そうして、ゆるゆると顔を上げたシアに、リタはやわらかに微笑すると、だって、とあっけらかんとした声で言う。
「だって、私の好きとシアお嬢さまの好きは、当たり前ですけど、違うものですもの。それに、何が幸せかなんで、人それぞれですし」
「それは、そうだろうけど……」
 リタの返事に、シアは口ごもる。
 それはそうかもしれないけど、自分が聞きたかったのは、たぶん、そういうことじゃない。
 納得いかないとでも言いたげな顔をするシアに、姉のようなメイドは優しい目で彼女を見て、穏やかな、諭すような声で言った。
「ただ、みんな、それを知りたくて、恋をするのですわ。きっと」
 リタの黒い瞳が、優しく、こちらを見ていた。
 言われた意味がよくわからず、シアはきょとんとした顔で、首をかしげてしまう。
「リタ……?」
 リタは直接、呼びかけには答えず、にこっと微笑を浮かべると、シアの背を軽く扉の方へ押して、そちらに行くように促した。
 どうやら、これ以上、それについて喋る気はないらしい。
「さっ、シアお嬢さま……もう支度は終わりですから、その格好を、旦那様に見せてきてください……そして、あわよくば、私たちの臨時ボーナスを」
 最後、熱のこもった口調でつけくわえると、リタはぐいぐいとシアを扉の方に押しやる。シアが「ちょ、ちょっと……リタぁ?」と動揺するのも、おかまいなしだ。
「ほらほら、頑張ってくださいねー。シアお嬢さま」
「私たちの賭け……もとい栄光は、お嬢さまにかかってるんですからね!」
 ニーナやべリンダもそう言うと、にっこりと良い笑顔で、シアの背中を押した。
 賭けとか何だか、妙な言葉が聞こえたのは、果たして幻聴だろうか?
 三人がかりで押されては、シアはそれに抗えず、「わわっ!」と動揺している間に、扉の外へと放り出された。その瞬間、すぐに部屋の扉がしめられる。
 しめられた扉を見つめ、シアはちょっぴり不服そうに、頬をふくらませる。
「一体、何なのよ……もう……」
 そう呟いたものの、リタたちの心遣いを無にする気にはなれず、狸親父……ではなく、父のクラフトに会うため、シアは階段をおりた。
 たしか、クラフトは今日、祝祭の最終日ということもあり、商会と家を忙しく、行ったり来たりしているはずだ。
 ひらひらするスカートをつまんで、一階への階段をおりながら、シアは父を呼んだ。
「父さん、父さーん!今、家にいる?」
 シアの声が届いたのか、階段下から、クラフトの声がした。
「ああ……ここにいるよ、シア。降りておいで」
 父親の声を聞いたシアは、待っててーと階段下に向かって声をかけると、トントン、と軽快に階段をおりる。
 階段をおりると、クラフトの姿が見えた。
「父さん!」
 シアが「父さん!」とその背中に呼びかけると、階段のすぐそばにいたクラフトは、ゆっくりと振り返った。
 やわらかな色合いの瞳が、祝祭の乙女の衣装をまとった、愛娘の姿を映す。
 同時に、驚いたように、クラフトは大きく目を見開いた。
 白いドレスを着た銀髪の少女が、笑みを浮かべながら、階段をおりてくる。真っ直ぐに、わき目もふらず、クラフトだけを見つめながら――ほんの一瞬だけ、その姿が誰かと重なった。
 優しげなスミレ色の瞳が、彼を、彼だけを見つめている。
『――クラフトさん』
 ほんの一瞬、夢か幻のように、クラフトの目には階段をおりてくる娘の、シアの姿と、今は亡き最愛の妻が重なって見えた。
 クラフトの唇が、彼の意思に反して、勝手に名前をつむぐ。
 祈るように、乞うように、今は亡き愛する人の名を。
「エステル……?」
 その声はささやくように小さかったので、シアの耳にはよく聞こえなかった。
 階段からおりてきた彼女は、父親のそばに歩み寄り、不思議そうな顔をする。
「父さん?」
「ああ、いや……」
 怪訝そうに、自分を顔をのぞきこんでくる娘に、クラフトは何でもないよ、と首を横に振る。
 ――なぜか一瞬、亡き妻とシアの姿が重なった。
 目の錯覚とはいえ、不思議なことだと、クラフトは思う。
 いくらエステルとシアが、外見上は瓜二つの母子であるとはいえ、他の部分はあまり似ていない。
 明るく、屈託なく笑うシアとは違い、彼女、エステルはいつも控えめに、淡く、どこか儚げに微笑んでいるような……そんなスミレの花のような女性だった。
 そんな二人を見間違えるなんて、やれやれ僕も年を取ったかな……などと、ちょっぴり苦く、切ない気持ちになりつつ、クラフトは唇をゆるめる。
 ごしごしと目元をこする真似事をしながら、彼は亡き妻との間に生まれた、たった一人の娘であるシアと向き合った。
「いやいや、何でもないよ。僕も年かな、最近、ちょっと目が悪くなってきてね……ははっ、面目ない」
 誤魔化すように笑うクラフトに、娘のシアはしらーっとした目を向けて、呆れたように言った。
「父さん……大丈夫?いや、目じゃなくて、心配なのは頭の方……」
「うぐっ……ははっ、相変わらず、我が娘は手厳しいねぇ……あんまり、そーいうことを言ってると、パパ、泣いちゃうぞ?……よよよっ」
「父さん……可愛い娘の拳なら、殴っていい?」
 ふざけた泣き真似をする父に、シアは何の躊躇もなく、晴れやかな笑顔で拳を振り上げる。
 クラフトは「ちょっと、待った!暴力はいけないよ、可愛い娘よ」と言いながら、どうどうと手を盾に娘の拳をふせぐ。
 シアがしぶしぶと拳をおろしたのを見届けると、クラフトは意外にも真面目な顔で「どうしたんだい?シア」と、尋ねてくる。
「えーっと……今日、シルヴィアさんとカイルおじさまは?」
 父親にまともな反応をされると、わざわざ祝祭の乙女の衣装を見せに来た自分が急に恥ずかしくなって、照れたシアはわざとそっぽを向く。
 照れ隠しに、シルヴィアさんとカイルおじさまは?と問うと、クラフトは、そんな娘の気持ちなど見通しているのだろう、ああ、と微笑して、
「カイルとシルヴィアさんなら、今日は夫婦水入らずで、祝祭見物をするって言っていたよ……今日は、祝祭の最終日だからね。夕方には、帰るそうだよ」
と、答える。
「へぇ、そうなんだ……」
 軽く相づちを打ったシアだったが、父親の「カイルとシルヴィアさんは、今日の夕方には帰る」という言葉に、ぐらぐらと心が揺れる。
 カイルおじさまとシルヴィアさん、二人が住むフェンリルクという町は、王都から遠いというわけでもないが、かといって、気軽にすぐ来れる距離でもない。
 一度、王都を離れれば、もう早々、ここには来ないだろう……
 ということは、祝祭の最終日である今日が終わってしまえば、アレクシスとシルヴィアさんがきちんと話す機会は、失われてしまう。次はあるかも、わからない。
 お互い、辛い記憶を抱えて、すれ違ったままで……それで本当に、悔いが残らないのだろうか?
 そんなシアの葛藤を知る由もなく、白いドレス――祝祭の乙女の衣装を着た、娘の姿を見つめて、クラフトは目を細める。
「……綺麗だね」
 目を細めたクラフトは、いつもの冗談をいう口調とは異なり、真摯な、優しさのこもった声で言う。
 その気になれば、流れるような商売の口上でも、ありとあらゆる交渉術も、歯の浮くような美辞麗句でも、思うがままに言える男にしては、意外なほど素朴な、ありふれた言葉だ。
 穏やかに微笑んで、クラフトはもう一度、「本当に綺麗だよ。よく似合ってる」と繰り返した。
「そ、そう?」
 意外なほどマトモに褒められて、シアは戸惑う。
 クラフトはうなずいて、どこか懐かしそうな声で続けた。
「その姿を、母さんに……エステルに、見せたかったな。昔の彼女にそっくりだ」
「……そんなに似てる?」
 母の若い頃と、そんなに似ているのかと、シアは首をかしげた。
 彼女が幼い時に儚くなってしまった母・エステルは、鏡に映したようだとか、瓜二つだとか、事あるごとに言われてきたし、自分でもかなり似ていると思っている。
 でも、シアは当然ながら、自分が生まれる前の母のことは知るはずもない。父が言う、昔の彼女とは、いつ頃のことだろうか?
 その疑問に答えるように、クラフトは「うん」とうなずいて、懐かしそうに過去を語る。
「うん。僕が彼女に、エステルに出会ったのはね、ちょうど彼女が君と同じくらいの年のことだったよ」
 今でもはっきり覚えているよ、と目を細める。
 出会った時の彼女も、いつも悲しげな顔をしていた少女が、初めて笑顔を見せてくれたあの日のことも……白い花びらが舞う中、赤ん坊のシアを抱いて、幸せそうに微笑んでいた妻の姿を。
『あなた……今、この子が笑ったわ』
 我が子を抱いた時の妻の笑顔と、今のシアの姿が重なって……また、ゆっくりと記憶の中に沈んでいった。
「そっか……ねぇ、父さん……」
 母のことを思い出し、しんみりした気持ちで、シアは父を呼ぶ。
「何だい?」
「あのね……」
 亡くなった母さまのことで、父であるクラフトに聞きたいことが、シアには沢山あった。
 貴族に近づかないで、と幼い娘に言い聞かせた母、なぜ、母さまはあそこまで貴族を嫌い、否……恐れていたのか。
 母が形見として残した、一角獣の紋章の指輪について……あれは普通の庶民に持てるようなものでは全くないとか。母さまはなぜ、自分の生れについて、一切、娘であるシアに教えなかったのかとか……知りたいことは、山のようにあった。
 それらのことを聞こうか迷い、上手く言葉にならず、結局、違うことを尋ねる。
「あのね……父さんにとって、母さまって、どんな人だった?」
 娘の問いかけに、クラフトは愛おしげに目を細めて、ふっ、と微笑う。
 そうして、亡き妻が生きていた時と、まったく同じ台詞を口にした。
「大切な人だよ。いつまでも、いつまでも……永遠にね」
「……そう」
 父の返事に、シアは少し切なそうに、でも嬉しそうに笑う。
 そうして、彼女は顔を上げると、母親にそっくりな顔に、確信に満ちた微笑みを浮かべて、クラフトに言った。
「ねぇ、父さん……きっと、母さまは幸せだったよ。ずっと、ずっと、想い続けてくれる人に出会えたんだもの」
 それは、きっと奇跡のようなものだ。
「シア……」
 思いにもよらなかった娘の言葉に、クラフトは虚をつかれたように、目をぱちぱちと瞬かせた。
 自分の言ったことに、何か言われるのが照れくさかったのか、シアはそれだけ言うと、父親に背を向けた。
「それじゃ、行ってきます!」
 照れ隠しのように、大きな声で言うと、シアはバタバタとせわしない足取りで、扉の方に駆けていく。
 幾重にも重ねられたスカートがひらひらと揺れ、背中の大きなリボンが揺れるのを見ているうちに、娘の姿はだんだんと小さくなり、クラフトの目に映らなくなった。
「父さん。シアはもう出かけましたら、出てきてもらっても、大丈夫ですよ」
 そうして、シアの姿が見えなくなったのを見届けてから、クラフトは腕組みをしたまま、振り返りもせず、だが、当たり前のように後ろに声をかける。すると、後ろからコツコツ、と杖をつく音がした。
 壁の死角になっていた場所から、コツコツと杖をつきながら、何の気配もなく出てきた父親に、クラフトは少年めいた、悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「盗み聞きとは、感心しませんね。父さん……まあ、あの子は気づいていませんでしたが」
と、言う。
「盗み聞きとは、人聞きが悪ィな。クラフト……俺ぁ、ただ大事な息子と孫娘の会話を見守っていただけさ。わかってんだろ?」
 咎めるような息子の言葉にも、彼の父、シアの祖父であるエドワードはひょうひょうと、涼しい顔でうそぶいた。
 妙なところで、血の繋がりを感じる父親に、クラフトは「まぁ、そういうことにしておきますか」と肩をすくめた後、それにしても……と続ける。
「あの子は、まだまだ幼い子供のような気がしていたんですがね、いつの間にか……僕が気づかないうちに、僕の小さな娘は、あんなことを言うようになったんですね」
 娘の成長が嬉しいような、自分の元から少しづづ離れていっていることが寂しいような、クラフトは何とも複雑な心境だった。
 複雑そうな息子とは対照的に、彼の父であるエドワードはカッカッ、と高らかに笑う。
「そんなもんさ。ガキってのは、親が思ってるより、たくましいもんだ。でもまあ……心配ねぇさ。迷った時はまた、親の出番もあらぁな」
 だから、まっ、元気出せよ、とバンバンと肩を叩いてくるエドワードに、クラフトは肩をすくめる。
「……そういうものですかね」
「ああ、俺から見れば、おめぇだってまだケツの青いガキだぜ、クラフトよ」
「父さん……」
 ガキと言われて、クラフトは苦笑し、ゆるりと頬をゆるめる。
 国一番のリーブル商会の長である自分を、正面からケツの青いガキと評するのは、父であるエドワード以外にいないだろう。
 相変わらず、口は悪いが、その言葉には息子への揺るぎない愛情と、あたたかみが感じられた。
「またヒマになったら、一緒に酒でも飲みに行こうぜ。じゃあな」
 にかっ、もう老人と呼ばれる年齢にもかかわらず、茶目っ気をみせて片目をつぶると、エドワードは踵を返し、ひらひらと息子に手を振った。
 そんな風に、軽やかな足取りで去っていこうとする父を、クラフトはにっこり笑って、「父さん」と呼び止める。
「父さん……どこに行く気ですか?」
 ぎくっ、と足を止めたエドワードに、息子はすかさず追い打ちをかける。
「仕事はまだ終わってませんよ?」
 息子の言葉に、リーブル商会の創業者、伝説の商人であるエドワードは、何とも情けない顔で振り返り、勘弁してくれ、とうめいた。
「おいおい……せっかくの祭りだぜ、ジジィひとりぐらい好きにさせろよ」
 今から、酒場の別嬪さんに会いに行く予定だったのによー、とぶつぶつ呟く父親に、クラフトは爽やかに笑って、トドメとも言える一言を吐く。
「仕事がまだ残ってるんですよ。飲みに行く前に、手伝ってくれませんか?……大事な息子の頼みを、まさか断ったりしませんよね?」
「はあ……俺ぁ、子育ての仕方を間違えたか?」
 急にげっそりしたエドワードを見て、クラフトはくっくっ、と喉を鳴らす。
「立ってるものは、親でも使えが貴方の教えてくれた、リーブル家の家訓でしょう。さっ……父さん?」
「へいへい。まったく……お前ぇはホント、よく出来た息子だよ。クラフト」
 投げやりに答える父親と対照的に、クラフトは「そうでしょうとも」と言って、にこやかに笑う。
 良い笑顔を見せる息子に、降参とばかりに白旗を上げて、エドワードは息子の後に続いて歩き出す。
 そうして、扉の方に向かって、似てないようで似ている父子が、並んで歩いて行った。


 ――祝祭の乙女のパレードは、女王陛下のおられる王城より始まる。
 ピシッ、とした鞭がしなる音と車輪の軋む音と共に、リーブル商会の印が刻まれた馬車が、王城の正門のそばにとまる。すると、御者がおりる手助けをする間すらもどかしく、銀髪の少女が馬車から飛び出した。
「ロベルト、ありがとう。今日は、先に戻ってて」
 御者にそう早口で言うと、 王城の門に向かって、シアは駆け出す。
 わっ、と飛び出し、優雅な白いドレス姿にもかかわらず、全力疾走していく少女の背中に、御者の青年は呆れたように声をかけた。
「そんなに焦ると、転びますよー。シアお嬢さんー!」
「わかってる!うわああっ、集合時間ギリギリじゃない!遅刻するうぅぅ」
 祝祭の混雑に巻き込まれて、やっと王城に着いたと思ったら、集合時間ギリギリだ。
 道が混んでいたなんて言い訳にもならないし、祝祭の乙女が遅刻したなんて、もっとシャレにならない!
 あわわわっ、と叫びながら、大騒ぎで走っていくお嬢さんの背中を見つめて、御者の男は肩をすくめ、「やれやれ……」と頬をかいた。

「ぜぇぜぇ……」
 シアがぜいぜいと肩で息をしながら、王城の門のところにたどり着くと、その門のところに、よく見知った女官が立っていた。
 白の混じった金髪を一糸の乱れもなく結い、濃紺の女官服を一部の隙もなく着た、初老の女性――女王陛下付きの女官・ルノア=オルゼットだ。
 彼女は灰色の瞳で、シアを見る。
 そうして、女官道一筋数十年の謹厳実直な老婦人は、実に重々しい、威厳のある声で言った。
「祝祭の乙女は、貴女で最後ですよ。シア=リーブル様」
「いっ……申し訳ございません!」
 身を縮めて本気で謝るシアに、ルノアは息を吐いて「まぁ……」と続けた。
「まぁ……一応は、集合時間の前ですし、よしといたしましょう……こちらへ」
「はっ、はい!」
 シアは慌てて、うなずく。
 そうして、女王陛下付きのルノアに案内されて、シアは王城の中へと足を踏み入れた。
 緑豊かな庭園や、大理石の回廊を歩いていくと、ある大きな扉の前で、女官は足を止める。
 それに合わせるように、女官の後ろについて歩いていたシアの足も自然と、その部屋の扉の前で止まった。
 深い深い飴色に輝く、その大きな扉の前には、部屋を守るように、屈強な兵士が二人、扉の両側に立ち、油断なく、鋭い視線で周囲を見回している。
 不審な人間を室内に入れないように、隙のない警備をしている二人の兵士に向かって、女官のルノアが何事かを話しかけた。
 扉を守る兵士と女王陛下付きの女官の、そう長くない話し合いはすぐに終わり、兵士は心得たとばかりに、重々しくうなずく。
 そうして、兵士たちは二人がかりで、その重厚な扉を左右に開けた。
 ギィィィ、という音と同時に、室内の光が目に飛び込んでくる。
「さぁ……どうぞ、お入り下さい」
 ひらいた扉の前で立ち尽くすシアに、どうぞ、お入りなさい、と女官が促した。
 シアは小さく首を縦にふり、一歩、部屋の中に足を踏み入れる。
「……ぁ」
 その劇場か何かのような、広々とした室内に足を踏み入れた瞬間――まばゆいほどの白が、彼女の視界を支配して、シアは青い瞳を見開いた。
 琥珀と金、まばゆいほどの白で彩られた室内に、色とりどりの花が咲いている。
 金髪、黒髪、赤毛、大人しそうな少女に、活発そうな顔立ちの少女……。
 まだ子供といっていい女の子もいれば、そろそろ少女の域を抜け出しそうとしている、大人びた娘もいる。十人十色、だが、みな、咲き初めの花のような、祝祭の乙女たちだ。
 揃いの白いドレスを着て、頭には色とりどり花冠をのせた、十数人の少女たちが部屋の中心に集まっている。
 これからのパレードへの期待と喜びに、頬を紅潮させ、同時にやや緊張した顔をした彼女たちは、大人しく輪になって座り、時折り、両隣の少女とこっそり言葉をかわし、ようやく少し緊張感がほどけたように、小さく笑いあう。
 くすくす、と小鳥のさえずりのような、ざわめきが広がる。
 華やかに着飾った祝祭の乙女たちが、一同に揃った様は、さながらいっせいに花という花が咲き誇ったようだ。
 部屋に入ったものの、どうすればいいのかわからず、シアは扉の横に立って、やや遠巻きに祝祭の乙女たちの輪を見つめる。
 そんなシアに向かって、
「こっち、こっちよ。シア」
と、少女たちの輪の中心から、名前を呼ぶ声がする。
 そう言って、ひらひらと片手を振っているのは、すらりと背の高い、金髪の少女だ。
「あっ、ジャンヌ!」
 シアは幼馴染みの名を呼ぶと、慌てて、そちらに駆け寄る。
 ジャンヌは、ここに座りなさいよ、と自分の隣の椅子を指さす。
「まったく……遅いわよ。集合時間、ギリギリじゃない」
 そう言って、シアの幼馴染みである少女は「ハラハラして心臓が止まったらどうしてくれようかと思ったわよ」と、にっと笑いながら、軽口を叩く。
 気心が知れたジャンヌの言葉に、シアは所在なさげに、肩をすくめた。
「ううっ、返す言葉もございません……心配かけて、ごめんねー。ジャンヌ」
「まぁ、結局、間に合ったんだからいいわ。ほら……シア、ちょっと頭を出しなさいな」
「……うん?」
 ジャンヌに言われた通り、シアが彼女の方に頭を向けると、ふわりっ、と上に何かがのせられる。
 シアの頭の上、結われた銀髪を飾るのは――色とりどりの花で編まれた、美しい花冠だった。
 いきなりのことに、目を丸くするシアに、ジャンヌは、ふふ、と楽しげに笑う。
「ほら!祝祭の乙女らしくなったじゃない。シア」
「ジャンヌ……」
 なおも目を丸くしているシアの肩を、幼馴染みの気安さで、ジャンヌはぽんぽんと景気つけのように軽く叩いた。
「ほら、笑顔!笑顔っ!笑いなさいよ、シア……今年の祝祭は、一度っきりよ。楽しまなきゃ損でしょ?それに……アンタが笑ってないと、なんとなく、調子がくるうわ」
 最後、ぼそっ、と呟かれた幼馴染みの言葉に、シアは再び目を丸くし、次の瞬間、えへへ、と本当に嬉しそうに笑う。
 そうして、にこにこと笑ったまま、シアは隣に座ったジャンヌの腕を、ぐいっと引っ張った。
「ねぇねぇ、ジャンヌ……」
 何よ?と、こちらを向いた幼馴染みに、シアはにっこりと微笑んで、ようやく、少しだけ迷いを吹っ切ったように言った。
「あのさ、ジャンヌと一緒に祝祭の乙女で良かったな、って……ホント、そう思ったの。ありがとね」
 唐突なシアの言葉に、ジャンヌはちょっぴり怪訝そうに眉を寄せ、首をかしげる。
「いきなり、何を唐突なことを言い出すのよ?水臭い……何か、妙なものでも食べたんじゃない?シア」
「妙なものなんて、食べてないわっ!勝手に決めつけないでよ、ジャンヌ!」
「見たところ、熱はなさそうだけど……」
「ちょっと、冗談抜きで、額に手をあてるのを止めてよ!ジャンヌぅぅぅ!あたしは、いたって正気だから!」
 熱を計ろうと、額に手を押し付けてくるジャンヌに、シアが必死に抵抗していた時のことだった。
 廊下側から、コツコツ、という高い靴音が聞こえて、その瞬間、サッと空気が変わる。
 それまで、隣同士でお喋りしていた祝祭の乙女たちも口をつぐんで、シーンといっせいに押し黙り、部屋は静かになった。
 大勢の人がいる、広々とした室内が静まりかえっている様は、 いささか不思議ではあったが、だが、その沈黙は決して不快なものではなく、部屋に満ちるのは厳粛な、侵しがたい空気だ。
 シアは、否、その部屋にいる祝祭の乙女たち、全員がその場の雰囲気で悟っていた。
 今から、この国で最も高貴な女性、麗しの女王陛下にお会いするのだと。
「――静粛に!」
 息をのんで、扉の方を見つめる祝祭の乙女たちの耳に、凛とした声が響いた。
「――膝をついて、頭を垂れよ!我らが主、女王陛下の御前である!」
 その凛とした男の声に導かれるように、シア……そして、祝祭の乙女たちはいっせいに膝を折り、女王陛下への 忠誠を示すため、進んで頭を垂れる。
 シアがそうしたのと、部屋の巨大な扉が左右に開かれたのは、ほぼ同時のことだった。
 護衛の騎士に手を引かれ、部屋の入り口に、一人の若い女性が立つ。
 女の背には、太陽の光が差して、神々しいほどに眩しかった。
 その女性は、優雅な微笑を浮かべて、一歩、 真紅の絨毯へと足をすべらせる。
「……」
 ――そこには、王がいた。高貴で、侵しがたい気品を持つ、アルゼンタールの華、我らが麗しの女王陛下、エミーリアが。
 その黄金の髪は高く結われ、銀のティアラがまばゆい光を放つ。
 ひとふさだけ垂らされた髪には、真珠が巻かれていた。
 聡明そうなオリーブ色の瞳は、穏やかな光をたたえて、真っ直ぐにシアたち祝祭の乙女らへと向けられている。
 瞳の色に合わせたのだろうか、女王陛下がまとうは、褐色がかった肌によく映える、あざやかな深緑のドレスだった。
 その豊かな胸元には、大粒のエメラルドが、燦然と輝いている。
 両脇に護衛の騎士に歩かせ、その長い裾を女官のルノアがうやうやしく持ち、エミーリア――女王陛下は堂々と、侵しがたい威厳すらただよわせながら、同時に、あくまでも優雅な足取りで、一歩、一歩、絨毯の上を歩いていく。
 その姿は、容易に言葉にならないくらいに美しく、また神々しい。
「……」
 息をすることすら躊躇われるような、静謐な空気に圧倒されながら、頭を垂れつつ、シアは自分の横を通る、エミーリアの、女王陛下の美しさに見惚れる。
 普段、珍品に目を輝かせたり、冗談を言ったりする時とは全く違う、女王としての姿。
 もともとエミーリアは南方の血を感じさせる、艶やかな美女ではあるが、容色が優れているから、神々しいわけではないのだと、シアは理解している。
 ダイアモンドが煌めく銀のティアラも、胸元を飾る宝石や美貌がなくとも、エミーリア女王陛下は何も変わらず、神々しく、優雅で、侵しがたい高貴さを感じさせることだろう。
 その身から放たれる、侵しがたい高貴さ、自ら進んで膝を折りたくなる気品、生まれながらの王族だけが持ちうる、高貴さがそこにはあった。
 それこそが、王。
 ――それでこそ、我らが麗しの女王陛下。
「皆……面を、上げなさい」
 部屋の中央で歩みを止めたエミーリアは、シアら……頭を垂れた祝祭の乙女たちに、そう声をかける。
 よく通る、穏やかな女王陛下の声に、シアやジャンヌ、祝祭の乙女たちは遠慮がちに、ゆるゆると顔を上げる。
 年若い少女たちの緊張と戸惑いを見抜いたように、エミーリアはやわらかに微笑むと、優しい声で言った。
「ようこそ、よく王城に来てくれましたね。今年の祝祭の乙女たち……この国の女王として、また祝祭の成功を願う者の一人として、心からお礼を言います」
 そう言いながら、女王陛下は端から端まで、横に並んだ祝祭の乙女たちの姿を見回す。
 オリーブ色の瞳に、祝祭の乙女である少女たち、ひとりひとりの姿を映しながら……。
 女王陛下を前にして、その優雅さと威厳に、立ち尽くすしかない少女たちを安心させるように、エミーリアはにこりと笑うと、穏やかな口調で、祝祭の乙女たちに語りかけた。
「祝祭の乙女たちよ……聖エルティアの祝祭における、貴女たちの一番大切な役目は何か、もうわかっていますか?」
 女王陛下自らの問いかけに、ある少女は小さく首をかしげ、その隣の少女は答えがわからず、ちょっぴり不安そうな顔をする。
 シアもまた、女王陛下の意図するところがわからず、隣のジャンヌとこっそり顔を見合わせた。
 少女たちのそれぞれの反応に、どこか微笑ましげに、愛おしげな眼差しを向けて、一呼吸おくと、エミーリアは唇をひらいて、その続きを口にする。
「聖エルティアの祝祭は、王国の平和と繁栄……何より、民の幸福を祈るもの。そして、貴女たち、祝祭の乙女たちの役目は、その役目を通じて、人々に幸福を運ぶこと」
 やわらかな声で、祝祭の乙女たちにそう語りかける女王陛下から、シアは目を逸らすことが出来なかった。
 穏やかな口調、やわらかな声、それは決して何も押しつけはしないのに、なぜか不思議と心に響く。
 再び、ひとりひとり、少女たちの顔を見回して、エミーリアは言う。
「貴女たちには、きっと大切な人がいるでしょう?……家族でも友人でも恋人でもいい、大切な誰かの幸福を祈るのと同じ気持ちで、祝祭の乙女の役割を果たしてくれると嬉しいわ。そうして……」
 願わくは、貴女自身の身にも、貴女の大切な人にも、この国の全ての人々に、等しく幸福が訪れんことを。
 女王陛下は微笑み、そう話を締めくくった。
 そのオリーブ色の瞳と、一瞬だけ目が合った気がして、シアはドキッとする。
 ほんの一瞬だけ、女王陛下がこちらを向いて、笑いかけてくれた気がした。
 気のせいかもしれないけど。
 ……祝祭の乙女の役割は、人々に幸福を運ぶことだと、女王陛下はおっしゃった。
 幸福って、何だろう?
 それに、幸せにしたい人って?
 シアは胸にそっと手をあて、己の心に問いかけた。
 あたしは、あたしは……
「さぁ……お立ちなさい。祝祭の乙女たち。もうすぐ、祝祭のパレードが始まるわ」
 あたしが、幸せにしたいのは、穏やかに笑って欲しいのは……
 エミーリアの声に、シアは一瞬だけ目をつぶり、次の瞬間、ゆっくりとまぶたをあげ、曇りのない青い瞳で前を見据える。
 心はもう、決まっていた。

 祝祭のパレードの始まりを告げる、大聖堂の鐘が、高らかに鳴り響く。
 かくして、祝祭の熱気は頂点に達する。
 わぁぁぁぁ、と王城の回りに、歓喜の声がこだました。
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