女王の商人
祝祭と商人6−12
ふと気がつけば、太陽は沈みかけ、夕陽が王都を照らしていた。
オレンジの光に染め上げられた、王都ベルカルンは美しい。昼とも夜とも違う顔を見せる、麗しき西の覇者――女王陛下の都。
王都の中心を流れる川、その橋の欄干に手をつきながら、シアはぼんやりと、夕陽に照らされた、対岸の風景を見つめていた。
ぴちゃんと魚が跳ね、川面に波紋が広がる。
わずかに赤くなった、少女の頬の熱をさますように、涼やかな風が吹いた。
その風は、シアの頭の花冠から花びらを散らさせ、さながら妖精の羽にも似た、背中の白いリボンを揺らす。
風が銀髪を遊ばせるままに、欄干から対岸の風景を見つめる、シアの青い瞳は、実際のところ何も映してはいない。ただ、ぼーっとしているだけだ。
(あーあ)
そんなシアの耳に、軽快な、踊るための曲が聞こえる。
近くの広場からだろう。
――毎年、聖エルティアの祝祭の、最後のイベントといえば、ダンスと決まっている。
祝祭の終わりを惜しむように、夕暮れから夜まで、恋人同士でも夫婦でも、友人でも、飛び入りの旅人でも、次々とパートナーを変えて踊るのだ。夕焼けに照らされる都、楽師の伴奏に合わせて、軽やかに、舞うように、ステップを踏みながら、いくつもの影が踊る。
今頃、広場には老若男女と問わず、大勢の人が集まり、パートナーと手を繋ぎながら、笑顔で踊っていることだろう。
(ここに居てもしょうがないし、広場でも行ってみようかな。たぶん、リタやジャンヌも、いるんだろうし……)
別に、広場で相手を見つけて、踊りたいというほどの気分でもなかったが、ここに居てもしょうがないし、とシアは思う。
おそらく広場に行けば、話し相手には困らないだろうし、あるいはリーブル商会に戻って、誰かの仕事でも手伝っていようかとも思う。
どちらにしても、ここでボーとしているよりは、はるかに有意義だと思う……。けれど、それがわかっていながら、なぜか動く気になれない。
夕陽を映し、時折、きらきらと黄金にきらめく川面を見つめて、シアは小さく息を吐く。
その理由は――
「こんな場所にいたのか……探した」
背中からした声に、シアは振り返る。
そうする前から、声の主はわかっていた。
「アレクシス……」
彼女と視線を合わせて、アレクシスはああ、とうなずく。
少し疲れた風な、けれど、どこか晴れやかな、スッキリとした顔つきの彼に、シアは「シルヴィアさんとは、ちゃんと話せた?」と問いかける。
アレクシスの表情を見れば、それは聞くまでもないことに思えたけれども。
「ああ。貴女のおかげで、何とか間に合った」
「そう、良かったじゃない」
しっかりとした、淀みない口調で答えたアレクシスに、シアは良かった……安心したように、やわらかく微笑する。
いつになく、優しい少女の表情に、一瞬、目を奪われたアレクシスだったが、小さく首を横に振ると、漆黒の瞳でシアを見つめ、一言、一言、かみしめるように言った。
「その……貴女には、礼を言う。ありがとう。シルヴィアを話せて、良かった。もし、会わずに逃げていたら、きっと後悔しただろう……」
騎士の青年はそことで一度、言葉を切ると、
「本当に――シアのおかげだ」
と、ありったけの感謝の気持ちをこめて続けた。
その熱のこもった言葉や、まっすぐに己に向けられた漆黒の瞳に、頬が赤くなりそうで、シアは照れたように、ついと視線を逸らす。
「褒めたって、何も出ないわよ。これで貸し一つだから、覚えておきなさいね」
我ながら、ホント可愛くないと思いつつ、ついつい照れくささから、そんなことを口走ったシアに、アレクシスは「わかった」と至極、真面目な表情で応じる。
「承知した。この借りは、必ず」
「ただの冗談よ、アレクシス……アンタは、本気にしそうだけど」
騎士の生真面目さを知るシアは、本気で恩返しをされそうな予感に、冗談だからね、と念を押す。
首をかしげるアレクシスに、シアはふーっと息を吐いて、肩をすくめた。
二人の間に、しばしの沈黙が落ちる。
アレクシスもシアの隣に歩み寄り、二人は並んで、夕陽に染まる王都を見つめた。彼も彼女も、無言だった。とはいえ、その穏やかな沈黙は、決して、居心地の悪いものではない。
その沈黙を崩すように、シアがゆっくりと唇をひらく。
「きっと……あたしが力を貸さなくたって、アレクシスは逃げないよ」
「……シア?」
唐突なシアの言葉に、アレクシスは不思議そうに、彼女の名を呼ぶ。
きらきらと黄金に煌めく川面から、目を離さぬまま、シアは穏やかな口調で続ける。
恥ずかしくって、照れくさくって、頬に熱がこもるから……面と向かっては言えぬ言葉を。
「アンタは、ううん、貴方は迷わないほど強いわけじゃないけど、逃げ出してしまうほど、弱いわけじゃない」
「シア……」
「どんなに回り道をしても、最後には必ず、向き合うべきものと向き合う……」
言葉を切り、シアは顔を上げると、アレクシスに微笑みかけた。
「それが、アンタの良いところでしょう。アレクシス……不器用過ぎて、ホント呆れるけどね」
呆れる、と言いながらも、少女の声は優しい。
彼へと向けられる、シアの青い瞳には、あたたかな光が宿っている。
アレクシスはふっ、と苦笑を浮かべて、どうだろうな、と言った。
「どうだろうな……今まで、守らねばという気持ちばかり強くて、愚かにも、ずっと守られていたことにすら気づかなかった」
アレクシスは、うつむいて「いつも迷ってばかりだ、俺は」と呟く。
その背中に、迷ったっていいよ、という声がかけられる。
「迷ったって、いいよ。アレクシスが、あたしを守ってくれたように、今度、迷ったら、また必ず、あたしが背中を押してあげるわ」
「シア……」
青年と少女の間を、風が吹き抜けた。
夕陽に照らされた対岸に、いくつもの影が踊る。
きらりきらりと川面が光を反射して、まぶしい。
広場の方から、音楽が流れてくる。先ほどまでの軽快なメロディと対照的な、ゆったりとした、静かな曲調――。
まるで、夢の終わりを歌うような。
それは、この華やかな祝祭の終わりが近づきつつあることを、彼らに感じさせた。
「祭りも、もう終わりか」
「……そうだね」
アレクシスの言葉に、シアも静かに相槌を打つ。
その、しっとりとした、美しい調べに誘われたように、騎士の青年は少女の方へ向き直ると、す、と洗練された所作で、手を差し伸べる。
きょとんとした顔で、差し出された手を見つめるシアに、手を差し伸べた青年は、優しく微笑みかけると、穏やかな声で言う。
――まるで、美しい姫君の手を取る、お伽噺の騎士のように。
「一曲、踊っていただけませんか?姫君」
アレクシスの顔と、差し出された手を交互に見つめて、シアはふるりと首を横に振る。
「あたしは、姫君じゃない。シア=リーブル……商人よ」
少女の言い分に、騎士はうなずいて、
「失礼した。では、改めて、俺と一曲、踊ってもらえないだろうか?シア」
と、言い直す。
シアは笑って、彼の手を取った。
「喜んで、騎士さま」
くるり、くるり……夕焼けの空の下、青年と少女は踊る。
しっとりとした優雅な調べに身を任せ、時折、微笑みあいながら。
歌うように、舞うように、シアのスカートがふわり、とひるがえる。
騎士の手がしっかりとリードし、軽やかな足取りでステップを踏む少女の頬は、夕陽に光を受けて、ほのかに紅く染まっている。
それは、いつまでも続くかのように思えたのだけれども、やがて曲は終わり、彼らは名残惜しげに、指先を触れ合わせ、ゆっくりと手を離す。
「アレクシス……」
「シア……」
踊り終えた後も、その余韻がさめぬように、青年と少女は見つめ合う。
「あの、ね……」
頬を赤くしたシアが、恥かしそうに、何かを言おうとした瞬間だった。
きゅうううう、と彼女のお腹から、大きな音がなる。
「……」
「……」
いつになく甘いムードは、完膚なきまでにぶち壊され、思わず二人は無言になる。
「シア。今……」
黙っていれば良いのに、つい恐る恐る、余計なことを言ってしまうアレクシスに、別の意味で顔を赤くしたシアは「仕方ないでしょっ!」と叫んだ。
「仕方ないでしょっ!アンタを探すんで、走り回ったから、お腹が空いたのよ!」
少しどころではなく、言いがかりっぽいが、しょうがないといえばしょうがない。
顔を赤くしたシアに同情したのか、アレクシスは彼女の無茶な言い分に反論することもなく、素直に「それは……すまなかったな」と頭を下げる。
「お詫びと言ってはなんだが、何か食べに行くか?迷惑もかけたしな、何か奢らせてくれ……何がいい?」
うう、と恥ずかしそうに唸っていたシアだったが、そのアレクシスの言葉に、パッと顔を輝かせた。
「いいの?じゃあ、肉、肉、肉っ!」
全力で、肉がいい!と主張して、きらきらと青い瞳を輝かせるシアに、アレクシスは微苦笑して、その返事を受け入れた。
「肉しか選択肢がないのか……まぁ、いいが」
「よしっ、決まり!じゃあ、リーブル商会の食堂に行こうよ。うまい、安い、早い、がモットーだから!」
そう言うなり、「ステーキ、ステーキ定食……ふふん、ふん」などと調子の外れた歌を口ずさみながら、駆け出していくシアの背中を、アレクシスはのんびりと追いかける。
「シア、そんなに急がなくても、食堂は逃げないだろう……」
ゆっくりと歩く彼を待ちかねたように、先を行くシアが、顔だけ振り返った。
「アレクシス、遅いよ―」
振り返った少女の姿を、夕陽があざやかに照らし出す。
銀の髪にきらめく光の粒が散る、
普段、白すぎるほどに白い肌がほのかに色づいて、
澄んだ青い瞳が、彼を、彼だけを映していた。
(――ああ)
その刹那の、眩しいほどのきらめきに、アレクシスは目を逸らすことが出来なかった。
漆黒の瞳が、どこまでも愛おしげに細められる。
(ああ、綺麗だな……)
愛しい、と。
騎士の心に芽生えたのは、今までに感じたことのない、想い。
「アレクシスー、どうかしたの?」
急に立ち止まった彼に、シアが何?という顔をする。
「……いや、何でもない」
アレクシスは束の間、目を閉じると、小さく首を横に振った。
そうして、再び、シアの後を追って歩き出す。
やがて、夕焼けの下、二つの影が並んだ。
自覚したばかりの恋心は、まだ告げるには至らない。
でも、いつか、きっと……
同時刻、リーブル商会にて――
ひそひそ……。
ごにょごにょ……。
だらだら……。
シアとアレクシスが踊っている頃、リーブル商会の一室では、エルト、アルト、カルト、の商会の名物・見習い三つ子が、めいいっぱい顔を突き合わせて、何やら怪しげに、ひそひそと密談をしていた。
冷静に見ると、うさんくさいことこの上ない光景だが、彼ら三人の表情は真剣そのものだ。
「おい、どーするよ?シアお嬢さんが、この手紙を見たら……」
エルトがそう言って、ごくっ、と緊張したようにツバをのむ。
彼の手には、一通の手紙が握られていた。
宛て名は、リーブル商会……そして、流れるような文字で書かれた、差出人の名は――ディーク=ルーツ。
「シアお嬢さんがこれを見たら、たぶん家出するよ……」
その手紙を見ちゃったらね……と深刻な声で続けて、アルトはハーとため息をついて、がしがしと頭をかく。
手紙の差出人の名を見たシアが、どういう行動に出るのか、彼には容易に予想が付いた。
アルトの言葉に、さすがのマイペースなカルトも「そうだよね……」と重々しく、うなずく。
ひそひそ。ひそひそ。
そうして、再び、こそこそと内緒話を始めた三つ子の後ろから、コツコツと杖をつく音がする。
同時に、「おーい」と老人にしては張りのある、若々しい声がした。
「おーい。んなところで、何をひそひそやってるんだ?お前ぇら」
よく耳慣れた、その声に、エルトたち三つ子は後ろを振り返り、「大旦那さま」と声をそろえた。
そこにいたのは、象牙の杖を手にした、ダンディな初老の男――シアの祖父、リーブル商会の初代の長である男、エドワード=リーブルだ。
大旦那さま、と声をそろえたエルトたちに、エドワードはにっ、と片頬をつり上げると、「何やら、面白そうな話じゃねぇか……この、人畜無害なジジィにも聞かせてくれよ」などとうそぶいて、三つ子の方へと歩み寄る。
しかし、コツコツというよどみのない歩みも、エルトの手にある手紙の宛て名を見た瞬間、止まった。
ディーク、という名前を見た途端、エドワードは緑の瞳の糸のように細めて、ほぉ、と感嘆の息をもらす。
「あいつが、帰ってくるのか……こりゃあ、でっけぇ嵐が来るなー」
そう言って、エドワードは、伝説の商人と謳われる男は愉快そうに、かっかっ、と高らかに笑った。
場所は変わって、エーゲルデという名の、とある港町――。
セイレーンの看板が目印の酒場、「渚の人魚亭」は夜のちょうど良い時刻ということもあって盛況で、あちらこちらで乾杯のジョッキが打ちならされ、いっそ騒がしいほどに賑わっている。
船乗りは勿論、さまざまな人間が集う港町ということで、その客層もさまざまだ。
丸太のような太い腕をした、屈強な船乗り。浅黒い肌に入れ墨、ターバンを巻いた異国人……怪しげな儲け話を、まことしやかに語るペテン師と、それに目を輝かせる若者……。
酒の杯は瞬く間に空になり、空のジョッキを逆さにして振る者、「ねーちゃん、追加」と言いながら、豪快に一気飲みをする船乗り、あちらこちらで、女がらみの冗談や野次が飛び交い、がははっ、と豪快な笑いが響き渡る。
「おい、おめぇ、最近、女房とはどうなんだ?てめぇが海に出てる間に、肉屋の親父を家に引っ張り込んでるって、もっぱらの評判だぞ」
「うるせぇ!てめぇこそ、とうとう馴染みの娼婦に愛想つかされたって、アイツが教えてくれたぞ」
「おい、聞いてるか、坊主っ!おらおら、もっと飲め!」
どのテーブルもたっぷりの酒が入って、好き勝手に騒いでいるが、それでも店の雰囲気は悪くない。
酒場の熱気に浮かされたように、客たちは、後で財布の中身を心配することなど忘れたように、次々と酒やつまみを注文する。
お世辞にも上品とは言えない、冗談や野次の声にまじって、テーブルから看板娘の名を呼ぶ声が聞こえた。
「レジーナ、こっちのテーブルに、酒を追加だ!どんどん、持ってきてくれ」
「おいおい、たまにはこっち来てくれよ。レジー、酒場の人魚姫に会わねぇと、ここに来たかいがねぇ」
テーブルのあちらこちらで上がる、レジーナという呼びかけに、金髪の若いウェイトレスが酒のグラスを持って、飛び回る。
「はいはい、今、注文とりにいくよ!まったく……海の男ってのは、気が短いねぇ。まあ、おかげでこっちは商売繁盛さぁ!」
そう快活に応じて、酒場の人魚姫こと、看板娘であるレジーナは、グラスやジョッキを手に、テーブルとテーブルの間を、海を泳ぐ魚のように、注文を取って回る。
派手な顔立ちや、遠目にも豊かなバストは、酒に酔った客たちには刺激的らしく、そろりそろりと尻に手を伸ばす不埒者もいる。だが、酒場の看板娘として百戦錬磨であるレジーナは、にっこり笑って手をつねり、相手にしない。
痛たたた……とつねられた手をさする客に、「酔いはさめたかい?」など駄目押しして、看板娘はけらけらと笑う。
そうして、いったん厨房に戻ろうとする彼女を呼び止めたのは、ちょっとばかしタチの悪い客だった。
「おらよ、追加だ。もっと強い酒をくれよ、レジー」
かけられたそれに、それまで笑っていたレジーナは、ちょっと眉をひそめつつ振り返る。
空のグラスを片手に、ヨロヨロふらつきながら、そう言ったのは、でろんと泥酔した目をした、四十がらみの男。その真っ赤な顔を見れば、したたかに酔っているのが一目でわかる。
それにもかかわらず、更に酒を注文する男に、レジーナはため息をつくと、飲みすぎだよ、と、最初は優しい声でたしなめる。
面倒ではあっても、客は客だ。
「ちょいと飲みすぎだよ。いい加減、その辺にしておいたら、どうだい?」
看板娘の忠告に、赤い顔をした男は「うるせぇ、余計な世話だ」と眦をつり上げる。
げんなりとするレジーナに、したたかに酔った男は、空のグラスをかかげた。
「余計な世話だ。いいから、さっさと酒をもってこいよ。俺ぁ、退屈してんだ……それとも、代わりに今晩、アンタが相手をしてくれるなら、考え直してもいいぜ。レジーナ」
女の豊かな胸に下卑た視線を向け、ニヤニヤといやらしく笑う男に、レジーナはハンっと小馬鹿にしたように笑う。客とはいえ……少々、やんちゃが過ぎるようだ。
「はっ、そんな台詞は鏡を見てから言うんだね。色男……そんな台詞を言う前に、まずは、さんざんためたツケを払っとくれよ」
そうしたら、少しは考えてあげてもいいけどねぇ、と。
紅い唇を歪めて、妖艶に笑いながら、キツイ言葉を吐いたレジーナに、泥酔した男が「何だと、このアマ……」と気色ばむ。
お世辞にも、穏やかとは言えない会話に、周りの客たちも「なんだ、なんだ?」とテーブルから身を乗り出す。
興味本位の目を向けてくる客もいるが、中には本気でレジーナを心配している客も、少なからずいるようだった。
周りの視線や、いい加減にしておけよ、という咎めの言葉にすら、かえってあおられたように、赤い顔をした男は千鳥足で立ち上がる。
酒でどろりと蕩けた目には、危険な光が宿っていた。
制止の声も無視して、拳が振り上げられる。
悲鳴が上がった。
「いいから、酒を持って来いって言ってんだろ!それとも、痛い目みてぇのか!」
レジーナに向かって、振り上げられた男の拳は……しかし、振り下ろされることはなかった。
スッ、と音もなく、横から伸びてきた腕によって、その拳は抑え込まれる。
同時に、その場の一触即発の空気にそぐわぬ、穏やかな声がした。
「おやおや、いくら酒が飲みたいからって、女性に手を上げるのは感心出来ないなぁ、お客さん……この酒場の酒が美味いからって、酔いすぎじゃない?」
間一髪、これ以上ないというタイミングの制止に、助けられたレジーナは言うまでもなく、周囲の客たちも、その声の主へと顔を向ける。
一方、拳を振り上げた男は、恥をかかされたとばかりに、己の腕を掴んだ男に、憎々しげな眼を向けた。てめぇ……とその唇から、怨嗟の声がこぼれ出る。
四方八方から、大勢の視線を向けられても、その声の主は怯むことなく、ひょいと肩をすくめると、先と変わらず、穏やかな口調で言った。
「悪いことは言わないから、その拳をおろしなよ。今ならまだ、ギリギリ引っ込みがつくよ」
泥酔した男の拳から手を離さぬまま、そう穏やかな声で忠告したのは、亜麻色の髪の男だった。
年は、たぶん二十を幾つか過ぎたあたりだろうが、どことなく落ち着いた物腰は、年に似合わぬ風格すら感じさせる。
亜麻色の髪、濃い緑の瞳、その優男と言っていい端整な容貌は、誰かさんによく似ていた。
仕立ての良い衣服や、洗練された物腰は、どこぞの良家の子息と言っても通用しそうな程だ。だが、甘い顔立ちに似合わず、その瞳の奥には猛禽にも似た鋭い光が見え隠れする。
どうする?とにっこり笑った、その青年の口調は穏やかなのにもかかわらず、どこか得体のしれない迫力があった。
その見えない脅威に気圧されたように、腕を掴まれた酔っ払いは「うっ……」と呻いて、振り上げた拳をおろす。
「ちっ……」
掴まれた腕を、強引に振り払うと、亜麻色の髪の青年に増悪のこもった視線を向け、赤い顔をした酔っ払いは、よろよろと扉へと近づいていく。
青年は肩をすくめると、扉に向かう男の背に、「忘れ物だよ」と片手をあげる。
ひらひら振られた青年の手には、革の財布が握られていた。……もちろん、彼の財布ではない。酔っぱらった挙句、看板娘にからんだ、迷惑な客のものである。
「なっ!てめぇ、いつの間に!」
扉に向かっていた客は、妙に軽くなった胸ポケットを探るようにして、呆然と振り返った。
そんな客の目の前で、亜麻色の髪の青年はにこり、と楽しげに笑うと、酔っ払いの財布を握ったまま、レジーナに尋ねる。
「あの酔っ払いのツケは、いくら?レジーナ」
青年の問いかけに、レジーナは小首をかしげて、財布を指さす。
「そうさねぇ、その財布の半分もあれば、十分さ」
「なるほど……じゃあ、これでいいか」
レジーナの答えに、青年はうなずくと「ツケはちゃんと払わないとね」などと言いながら、かなり軽くなった財布を、扉の前で立ち尽くす酔っ払いに投げ返した。
呆然とそれを受け取った男の顔色は、泥酔しているにも関わらず、赤を通り越して、怒りで白くなっている。
こちらを睨みつけて、わなわなと手をふるわせる男に対して、亜麻色の髪の青年は、にっ、と唇の端をつり上げると、
「まだ何か用事があるなら、僕が代わりに聞くよ。お客さんに、僕と……それから、レジーナ贔屓の酒場の皆を敵に回す覚悟があれば、だけれどね」
と、よく通る声で言い放つ。
その食えない笑みは、伝説と言われるとある商人の血筋を感じさせた。
挑発とも取れる、青年の言動に、赤い顔をした酔っぱらいは「ふざけんじゃねぇ……」と、拳を振り上げかけたが、それを止めたのは周囲の客たちだった。
「ふざけんじゃねぇのは、てめぇだ!いい加減にしろよ!」
「こちとら、楽しく飲んでんだよ!気分が悪い、出てけ!」
「看板娘のレジーナに、手ぇ上げようなんざ、客の風上にもおけねぇな!帰れよ」
テーブルの客たちから、次々と上がる「出てけ、出てけ!」との声に、さんざんな振る舞いをしていた酔っ払いも、うっ、と怯んだ。
そうして、ちっ、と舌打ちすると、拳をおろし、一度、青年の方に凄まじい憎しみのこもった目を向けると、「二度と来るか!こんな店」と捨て台詞を吐く。
同時に、バンッ、と荒々しい音を立てて、扉が開けられる。
はた迷惑な客の背中を見送って、青年は余裕の表情で、ひらひらと片手を振った。
「素敵な別れの挨拶を、ありがとう。お客さんこそ、恨みを買ってそうだし、帰り道には、くれぐれも気を付けてねー」
バンバンッ、とさらに荒々しい音がして、扉が閉められたのが返事の代わりだった。
ひらひら、と手をおろした亜麻色の髪の青年に、周囲の客たちから「おお」というどよめきと拍手、称賛の声がかけられる。
「おおっ、優男なのに、やるな!兄ちゃん、見直したぜ!」
「あの客にゃあ、俺も頭に来てたんだ!すかっとしたぜ!ありがとよ」
酒場のあちらこちらから、かけられる称賛の声に、青年は得意がるでもなく、軽く「どーも」と片手を上げると、カウンターに腰をおろす。
そんな彼の後ろのテーブルでは、「アイツ……東国との貿易から、帰ってきたのか」という囁きが、ひそやかに広まっていく。
青年が上着を脱いだのを見計らい、レジーナが「奢りだよ」と言いながら、彼の前に琥珀色のグラスを置く。
いいのかい?と尋ねる青年に、看板娘は笑顔で片目をつぶった。
「助けてくれたお礼さ。ありがとね」
「あんなの、僕が勝手に首を突っ込んだんだし、気にしなくていいよ……でも、麗しのレジーナのお酒とあらば、有難く」
琥珀色のグラスをかかえた青年は、そう軽口を叩くと、くるっと後ろを振り返り、テーブルを見回す。酒場の中には、見知った顔がいくつもあるらしく、その顔に笑みが広がった。
亜麻色の髪の青年は、にこっと人好きのする笑顔を浮かべると、琥珀色のグラスを高く掲げて、酒場中に響くような、よく通る声で言った。
「酒場の女神から、最高の酒をもらったし……騒がせたお詫びに、僕が皆に、一杯、奢るよ!ついでに、僕の帰郷と、久しぶりの再会を祝してね!」
気前の良い青年の申し出に、酒場中から「わっ!」という歓声が上がった。
カウンターでもテーブルでも「乾杯!」という声と、グラスが鳴る音が重なる。
青年の知り合いらしい男たちは、テーブルから立ち上がり、グラスを片手に彼の方へと歩み寄った。
また知り合いでなくとも、その気前の良さで、酒場の客たちの心を掴んだ青年の周囲には、わいわいと賑やかな人の輪が出来る。
あっという間に、酒場の中心となった青年は、がやがやと話しかけてくる客たちにも、疲れた顔ひとつ見せず、微笑を浮かべて「久しぶり」だの、「先週、東方から戻ってきたんだ」などと、愛想よく喋っていた。
そんな人の輪に圧倒されたように、そこには近寄ろうとしなかったものの、カウンターの片隅にいた客も、亜麻色の髪の青年に興味をひかれたらしく、酒を運んでいた看板娘を呼び止めると、「彼は……?」と尋ねる。
レジーナはああ、とうなずくと、ちらっと人の輪の中心にいる青年を見て、笑顔で答えた。
「ああ、あのお客はね、ディーク=ルーツ――商人さ」
と。
それから、しばらくして、人の輪の中心にいた青年――ディークは、上着をはおり、そろそろ帰るよ、と立ち上がった。
別れを惜しむ、周囲の客たちに「また来るよ」と明るく言って、彼はレジーナの方へと歩み寄る。
「レジーナ、お勘定よろしく」
そう言いながら、彼、ディークは財布を取り出すと、銀貨をテーブルの上にのせた。
足りるかい?というディークの問いに、レジーナは「十分さ」と答えて、「今日は、ずいぶんと早いね」と続けた。
「まぁね。明日から王都に出発だし、その支度をしないと……ああ、そうだ。レジーナ。これ」
ディークはそうだ、と思い出したように言うと、胸ポケットから見事な細工の施されたクシを取り出した。
何やら、見慣れぬ花の意匠が刻まれたそれは、異国の香りがする。
さりげなく、手のひらにのせられた異国の美しいクシに、レジーナははたと驚いたように目を丸くした。
「何だい?」
「東国の商人から買ったクシだよ。綺麗だから、お土産」
あっさりと、さも自然な口調で言ったディークに、レジーナはこの男は、まったく……と嘆息する。
恋人でもなんでもない女に、さりげなく気の利く贈り物をしても、見返りも求めず、しかも、それが全く嫌味にならない男なのだ。かといって、無駄な浪費家ではなく、一言でいえば、人の心を掴むのが上手い男なのである。
この男のそういうところに、一体、何人の女が落ちたことか……とは思うものの、それがさも自然な振る舞いであるので、レジーナとしても何も言えず、ありがとう、と美しいクシを受け取った。
「じゃあね、レジーナ。そのうち、また来るよ」
そう爽やかに言って、穏やかな微笑を浮かべるディークに、レジーナは苦笑した。
罪作りではあっても、どうしたって憎めない男なのだ。
「相変わらず、嫌味なくらい、いい男だね。ディーク」
「君もね。レジーナ。相変わらず、綺麗だし……しばらく会わないうちに、ますます美人になった」
「ふん。商人の世辞にはのらないよ。特に、アンタは口が上手いんだからさ」
手厳しいレジーナの言葉に、亜麻色の髪の青年は、はは、と愉快そうに笑う。
「はは、僕の本音なのに疑うなんて、ヒドイなぁ……これ以上、手厳しいことを言われないうちに、退散するよ。それじゃ、ほかの皆にもよろしく」
そう言って、扉に手をかけた青年の背中に、レジーナは声をかけた。
「楽しそうだね。王都には一体、何をしに行くんだい?」
問われたディークは首だけ振り返ると、緑の瞳に楽しそうな色を宿して、口角を上げた。
遠くから、波の音が聞こえる。
「シアに……僕の可愛い妹分に、会いに行くんだよ」
かすかな言葉の余韻の残して、酒場の扉が静かに閉められた。
――そうして、嵐がやってくる。
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