女王の商人
絵画と商人 7−1
――銀の刃がきらめく、ザシュ、とキャンバスにナイフが突き刺さった。
絢爛なる女王陛下の都、ベルカルン。
そんな華やかな王都の中でも、上流貴族の邸宅ばかりが立ち並ぶ、瀟洒な通り――その一角に、周囲と比べても、一際、大きな屋敷があった。
外界から閉ざされた、高い高い黒鉄の門をくぐり、広がる緑の芝生をぬければ、その屋敷に辿り着く。
広大な敷地、よく管理の行き届いた庭、その高貴な家柄を象徴するように高く閉ざされた門、その屋敷の外観は、歴史と、洗練された美意識を感じさせる。
それは、それは見事な屋敷だった。
さんさんと降り注ぐ陽光を、飾り窓が弾いて、硝子を反射したそれが七色の光をまき散らす。
ひどく明るい光に満ちているように見えるのに……
その屋敷の上に、暗く重い、灰色の雲が立ち込めているように感じられるのは、ここに住む住人達の心を映しているのかもしれぬ。
もし、芝生の上に立ち、窓を仰ぎ見れば、その部屋を遠目に見つめることが出来るだろう。
もはや、日も高い時刻だというのに、きっちりと閉ざされた、その窓を。
その屋敷の一室、わざわざカーテンを閉め切り、太陽の光をさえぎった部屋の中に、ひとりの老女がいた。
真っ昼間だというのに、何を好んでか、カーテンをひいた部屋は薄暗い。
飾り窓の隙間から差す、あわい光だけが、床にかすかな陰影を落としている。
部屋の中心で、老女が籐の椅子に、ゆったりと腰をおろしていた。
その老婦人が身にまとうのは、黒いドレスだ。
喪の色に身を包んだ老女は、何が楽しいのか、小さく唇をほころばせ、微笑みを浮かべているようだった。
元は金髪であったはずの髪は白く染まり、顔には深いシワが幾つもきざまれていたが、その整った面立ちからは、往時の美貌を思い浮かべるのは難しくない。
ゆるく翠の瞳を細め、微笑んだ老女は優しげであり、どこか侵しがたい気品すら感じさせる。
その黒いドレスの老婦人が見つめているのは、一枚の絵画だった。
イーゼルに立てかけられた、あざやかな彩色をされたキャンバス。
すでに乾ききった絵の具が、過ぎ去った歳月を感じさせる。
その絵に描かれているのは、二十の齢を数えぬだろう、若い娘だった。
白金の髪に、青紫の瞳の。
籐の椅子に座り、くつろいだ様子で微笑んでいる、絵の中の娘は美しい。ミルク色の真珠のように滑らかな肌からは、瑞々しい若さを感じさせる。
紺色の質素な衣服に身を包んでいても、そのまばゆいほどの若さと、儚げな美貌は目を引いた。
本職の絵師の手によるものではないのか、その絵自体の完成度は、さほどのものでもないが、モデルにこめられた愛情と……絵師が注いだ、慈しむような眼差しが、伝わってくるような絵である。
心を許した相手と、向き合っていたことがわかるように、絵の中の娘は優しげに、さながら春の陽だまりのような微笑を浮かべて、青紫の瞳をこちらに向けていた。
ミルクの肌を、ほんのりと薔薇の色に染め――愛されていることを疑いもせず、絵の中の娘は微笑んでいる。
……ああ。
その瑞々しい若さは、愛されているという幸福感は、何十年も前に老女の手から消え去り、もう二度と手に入らぬものだった。
老婦人は、クスリ、と小さく笑うと、鏡台へと手を伸ばす。
「母上ー、母上ー」
その時、どこからか声が聞こえたが、老婦人は無視し、気にも留めなかった。
今の彼女にとって、絵の中で微笑む女と……己だけが全てだ。
それ以外は例え、己を呼ぶ息子の声であっても、ただの耳障りな音でしかない。
「……ふふ」
喪の色の袖を振り上げ、老婦人はどこか愉しげな声を上げる。
「母上ー、母上、お返事をなさってくださ――」
キャンバスに向かって、振り上げられたその手には、銀の刃が握られていた。
「ふふふ」
虚ろな笑いが響いて、絵の中の女に向かって、その刃が振りかざされる。
そして、一瞬の躊躇や迷いすらなく、ナイフが振り下ろされる。
ガッ、と布が裂ける嫌な音がする。
ザシュ、ザシュ、布が裂ける。
銀の刃が、絵の中で微笑む女を、容赦なく切り裂いていく。
その儚げな面に、亀裂のような線が走り、
あざやかな青紫の瞳に、黒々とした穴があく、
やわらかく微笑んだ唇は、真一文字に切り裂かれ、
――キャンバスに、きらめく銀の刃が突き立てられる。
何度も、何度も、飽くこともなく、何度でも。
「――母上っ!」
その時、悲鳴が上がった。
えんえんと刃を振り下ろし続けた老女は、その叫びに、ようやく動きを止めた。そうして、どこかきょとんとした、あどけない、年にそぐわぬ無垢ささえただよわせた表情で、「――母上っ!」と声のした方を向く。
そうした彼女の翠の瞳に映ったのは、開け放った部屋の扉の前で立ち尽くす、男の、己の息子の姿だった。
自ら開け放った扉の前に立ち尽くした、四十の手前であろう男は、もう一度、「母上」と老婦人に呼びかけると、わなわなと唇を震わせる。
男の、息子の目は、老女の手に握られたナイフへと向けられている。
老女と同じ、男の翠の目には、驚愕と焦りの色が濃かった。
最悪の事態を想像してか、その顔はかすかに青ざめている。
わなわなと唇を震わせ、顔を強張らせながら、男はもう一度、母上、と叫んだ。
「母上、何を……何をなさっているのですかっ!」
そう悲痛な声で言うと、男はどんどんと荒々しい足音をさせて、老婦人のいる部屋へと足を踏み入れる。
――病んでしまった母の手から、刃を取り上げるために。
しかし、そうしようとした矢先、グチャグチャに切り裂かれた絵画を目にした瞬間、サッ、と息子の顔色が変わる。
無残に切り裂かれた女の絵、ゆったりと籐の椅子に腰かけたまま、ままごと遊びの道具のように、銀の刃をもてあそぶ、老いた母……。
それらを交互に見て、男は大方の事情を察した。
息子の目に苦いものがよぎり、眉がきつくひそめられ、その唇から落胆とも悲哀ともつかぬ、ため息がもれる。
深く嘆息すると、どこか寂しげな表情で、もはや見る影もなくなった絵画を見つめ、男はポツリ、と呟く。
「それは、父上の……」
けれども、深い悲しみとも、落胆ともつかぬ声で一言、そうもらしたっきり、男はそれ以上、何も続けようとはしなかった。
最早、口に出しても、詮無きことだ。
ふう、と諦めの息を吐くと、老女の息子である彼はゆるゆると首を横に振る。そうして、いまだナイフを握りしめたままの母を興奮させないよう、細心の注意を払いながら、男は椅子の方に手を伸ばした。
そうやって、母の手から刃を取り上げようとする息子に、老婦人はおっとりと微笑みかける。
「あら、コンラッド……?ちょうど良かったわ。今、やっと、この汚らわしい絵を片付けてしまうところよ」
コンラッド、と息子の名を呼び、嬉しそうに笑う老女の声からは、少女めいた無邪気ささえ感じられて、男は言葉を失う。
ザシュ、ザシュ。
制止しようとした息子の手は空を切り、老婦人は再び、絵画に刃を突き立て続ける。
グシャグシャに切り裂かれた絵の中の女は、すでに人の形を為していないにもかかわらず、そのナイフは執拗に、絵の中の女を汚し続け、その存在を、この世界から跡形もなく消し去ろうとしているようだった。
繰り返し、繰り返し、呆然と立ち尽くす男の前で、振り下ろされる――銀の刃。
あくまでも淡々となされるそれこそが、かえって老女の身にひそむ悪意と、底なしの憎しみを感じさせた。
ザクッとキャンバスの中心に、ナイフを突き立てて、喪服の老婦人はくすくすくす、と童女じみた笑い声を上げる。
不思議ね、とその唇が、歌うような音をつむいだ。
「ふふふ、不思議ね……忌々しいこの女は、何度でも何度でも、過去から蘇ってきて、私を苦しめるのよ」
本当に忌々しいこと、いつになったら、この女はこの世から消えてくれるのかしら?
そう憎々しげに続けた老女に、息子である男は、憐れむような目を向ける。
絵画に刃を突き立てて、もういない幻影を憎み続け、その影を追い続ける母が滑稽で、悲しく……哀れにさえ思えた。
「……母上」
その息子の声にひそむ悲しみが、母の胸に届くことはない。決して。
自分の手で切り裂いた絵を、うっとりと、どこか希望に満ちた眼差しで見つめて、黒いドレスの老婦人は、唇をゆるめる。その頬はほんのりと紅潮し、何かを期待している風だった。
どこか夢見るような声音で、老女は言う。
「もう一度、この女がいなくなれば、あの人は私の元に戻ってきてくれるかしら……ねぇ、コンラッド?」
愛しい、愛しい、私の子。あなたもそう思うでしょう?
何とも答えようもない問いを投げかけられ、男は唇を噛みしめ、ただ沈黙する。
そんな息子の沈黙をどう受け止めたのか、ふふ、と老女の口から笑みがこぼれた。
赤い唇をつり上げ、
「もうすぐ、もうすぐよ……」
と言う。
老女の頭に浮かぶのは、あの祝祭の日、すれ違った少女のこと。
銀髪に、青い瞳の、ここ数十年、ずっと変わることのない儚げな美貌の娘……姿かたちは多少、変わっても、間違いない。あの女だ。
彼女の愛しい人を奪い続ける、あの忌々しい女の。
その面影を頭に描きながら、黒いドレスの老婦人はもう一度、キャンバスで前で銀の刃を振りかざした。
もうすぐよ、という声はどこか楽しげで、待ち人を望んでいたようですらある。
ああ、もうすぐよ。
私から、あの人を奪ったあの女から、大切なものを取り戻すの。
この絵と同じように、消してあげる。
そうしたら、あの人は今度こそ、私を見てくれるでしょう?
ねえ、クリストファーさま――
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