女王の商人

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  祝祭と商人6−5   

 一夜あけ、聖エルティアの祝祭の初日―― 
 その日の朝、王都ベルカルンの中心にある大聖堂で、七回、鐘が鳴らされる。
 リン、ゴーンゴーンゴーン、と王都に鳴り響くそれは、三日間の祝祭の開始を告げる鐘の音だ。
 それと同時に、アルシャン広場からは真っ昼間から、バンバンバンッと何発も、雲ひとつない青空に花火が打ち上げられる。
 かくして、華やかなりし、聖女の祝祭がはじまる。

 リーブル商会の敷地内にある食堂は、美味い、安い、早い、を何よりのモットーとしてかかげている。
 ……というのも、リーブル商会の創業者であるシアの祖父・エドワードの、「良い仕事をさせるにゃあ、まず、働いている奴らにうまくて栄養のあるメシを、十分に食わせやらねぇとな」という、彼なりの持論ゆえだ。
 そんなエドワードが、商会で働く者たちのためにつくった食堂と持論は、今の長であるクラフトにも受け継がれ、食堂はリーブル商会の関係者はもちろん、近所の人々にとっても憩いの場となっている。
 あたたかみのある木のテーブルと椅子、大通りに面した窓から陽光がふりそそぎ、テーブルの上にはさりげなく、一輪のピンクの花が飾られていた。
 窓から差し込む光に照らされた店内には、人々の明るい談笑の声が響きわたり、カウンターからは豆を挽いたコーヒーの香りがただよってくる。
 ちょうど朝食の時間が終わったばかり、昼食時にはまだ早いとあって、食堂はそれなりに人はいても、慌ただしさはなく、ゆったりと落ち着いた時間が流れていた。
 アルゼンタール王国、三大祭りのひとつである、聖エルティアの祝祭の初日とあって、窓から見える大通りは、人、人、人……でうめつくされる勢い、通りに並んだ屋台は地元、観光客がいりまじり、大いに賑わっているが、その喧騒も窓のこちら側、食堂の中には無縁のものだ。
 そんな食堂の一角、日当たりのいい窓辺のテーブルで、二人の女が向き合って座っていた。
 テーブルに座っている二人のうち、紅茶のカップに口をつけているひとりは、銀髪の少女。
 ここ、リーブル商会の跡取り娘である、シアだ。
 もうひとりは、白く細い指で、ゆったりと優雅に紅茶のカップを唇に運ぶ、金髪の女。
 シアの父親の親友であるカイルの、親子ほども年の離れた若い妻、シルヴィア。
 外の、祝祭のにぎわいや騒がしさからは少し離れた、穏やかな時間の流れる食堂の窓際で、彼女たちはのんびりとお茶をしていた。
 大通りに面した窓から差す、やわらかな陽の光が、テーブルの上に二人の影をつくりだしている。
「……」
 ティーカップを持ち上げていた手を止めて、シアはちらっと上目づかいに、シルヴィアの方を見る。
 窓からふりそそぐ太陽の光が、きらきらした金色の粒が、かすかに睫毛を伏せたシルヴィアの横顔に、細かな陰影を落としていた。
 それを見たシアは、あたたかな日差しにやや眩しげに目を細めて、コトリッ、とティーカップを皿の上に戻す。
 ――昨日、知り合ったばかりの人と、二人っきりで向き合うというのは、シアでなくても緊張する。
 いくらシルヴィアが、父の古くからの友人である、カイルおじさまの奥さんであっても……。
 普段、めったに物怖じしない性格のシアであっても、だ。
 ちなみに、シアの父、クラフトとシルヴィアの夫、カイルは仕事やら積もる話やらが色々あるとかで、この場にはいない。
 そもそも、なぜ彼女たちが食堂でこうしてお茶をしているかといえば、カイルとクラフトが仕事の話とやらをしている間、お客さんであるシルヴィアの話し相手を、シアが父から頼まれたからだった。
 とはいえ……二人っきりで何を話したらいいんだろう ?と思いつつ、シアはやや遠慮がちに、唇を開いた。
 正面のシルビアに、あの……と声をかける。
「あの……シルヴィアさん」
 シアの声に、シルヴィアはわずかに伏せていた顔を上げ、こちらを見た。
 翡翠色の瞳が、シアを映す。
「はい。何でしょう?シアさま」
 そう言って、シルヴィアが小首をかしげると、それに合わせるように、ふわっ、とゆるやかに波打つ金髪が揺れた。
 色白の肌にはえる、黄金の髪が美しい。
 そんなシルヴィアに、シアは「えっと……」と気にかかっていたことを尋ねた。
「えっと…良かったんですか?あたしと一緒にいて……その、カイルおじさまと、旦那様と一緒じゃなくて……」
 シアの問いかけに、シルヴィアは気になさらないで、という風に、ええ、と軽くうなずく。
 その声は穏やかで、残念がったり後悔しているようではなかった。
「ええ、夫はクラフトさまと積もる話があるようですし、殿方同士のお話の邪魔をしてはいけませんから……」
「でも……」
 それはそうなのかもしれないが、シルヴィアさんはそれでいいのだろうかと、シアはちょっと納得いかないとでも言いたげな顔をする。
 今日は、王都中がお祭りムード一色になる、聖エルティアの祝祭の初日だというのに、本当にそれでいいのだろうか?
 シルヴィアさんだって、シアと二人だけで祭り見物をするより、カイルおじさまと一緒の方が嬉しいだろうに……。
 いいのだろうかと首をかしげるシアに、シルヴィアはやわらかく微笑んで、「それに……」と続ける。
「それに……私、こうしてシアさまとお話させていただいていると、とても楽しいですわ」
 とても楽しいと笑顔でそう口にする、シルヴィアの瞳に嘘はなく、自然で、心からそう思っているようだった。
 シルヴィアがシアに向ける視線や、言葉の端々から、好意のようなものが感じられる。
 くもりのない翡翠色の瞳に、真っ直ぐ、正面から見つめられて、シアはちょっぴり照れた。
 知り合ったばかりの人であっても、純粋な好意の視線を向けられれば、悪い気はしない。
「それなら、いいんですけれど……あ、良かったら、私のことはシアと呼んでください。シルヴィアさん。さま、なんて、ちょっと堅苦しい感じですから……」
 照れ隠しでもないが、シアがやや早口でそう言うと、シルヴィアは「では、シアさんとお呼びしますわね」と、口元に微笑を浮かべながら答えた。
 その穏やかそうな微笑みに、シアは好感を抱く。
 穏やかで落ち着いた笑い方は、何となく、誰かに似ている気がした。
 誰に似てるかとと言われると、すぐに名前が浮かばないのだが……
 (ええっと、誰にだろう……?)
 誰に似ているのか、ちょっと考えれば、わかりそうなのにわからない。
 首をひねりつつ、シアが少しばかり歯がゆい思いを味わっていると、再び、シルヴィアが唇を開いた。
 先ほどまでとは異なり、やや心配そうな、憂い顔で。
「でも、今日はごめんなさいね。シアさん」
「……へ?何がです?」
 今日はごめんなさい、とすまなそうな顔をするシルヴィアに、シアは「……へ?」と不思議そうな声を上げ、きょとんとした顔をする。
 何がです?と言うシアに、シルヴィアは「夫から聞きましたわ……」と、遠慮がちな声で言った。
「夫から聞きましたわ……シアさんは祝祭での大事なお役目があるとか、私に付き合わせてしまって、申し訳ないわ。こうして、お話し出来るのは嬉しいですけれど、ご無理はなさらないで……」
 シルヴィアの言いたいことを理解して、シアは「ああ」と相づちを打った後、ゆるゆると首を横に振った。
 彼女が夫のカイルおじさまから聞いたという、シアの祝祭での大事なお役目というのは、きっと祝祭の乙女のことだろう。
 たしかに祭りの最終日は、祝祭の乙女の役目をきちんと果たされなければならないから、祭りの案内をしている余裕はないが、初日である今日は、まだ大丈夫だ。
 祝祭はリーブル商会の稼ぎ時だから、忙しくないわけではないが、今回は祝祭の乙女のこともあり、仲間の商人たちに事情を話して、仕事を代わってもらった。
 お客さんに王都を案内するという、父さんとの約束もあるし、シルヴィアさんに気を使わせるようなことはないと、シアは思う。
「ああ。いえいえ……」
 シアは首を横に振り、なおも心配そうな表情をしているシルヴィアを安心させるように、にこっと笑って、大丈夫ですと続ける。
「祝祭の乙女の出番は、祭りの最終日のパレードですから……今日、一日は大丈夫ですよ」
 シアの返事に、シルヴィアはようやく安心したように、ふっと口元を緩めて、表情を和ませた。
 そうして、やわらかな声で言う。
「そうおっしゃっていただけて、安心しましたわ。ありがとう、シアさん」
「いえ、そんな……カイルおじさまには、小さな子供の時から、本当に可愛がってもらいましたから、これぐらいは……」
 何でもないです、とシアは言う。
 父さんに言われたからというだけでなく、カイルおじさまが奥さんと王都を訪れるなら、それぐらいは当然のことだ。
 大げさではなく、カイルおじさまには、小さい子供の頃から、実の娘のように本当に可愛がってもらった。
 すごく忙しい人なのに、親友のクラフトに会いにリーブル商会を訪れた時には、必ずと言っていいほど一緒に遊んでくれたし、さんざん遊び疲れて眠った小さなシアを、背負って家に連れて帰ってくれたものだ。
 母・エステルが亡くなった時も、妻を亡くしたクラフトや母を亡くしたシアを心配し、忙しいカイルが仕事を犠牲にしてまで、王都に駆けつけてくれたことを、彼女は決して忘れないし、今でも鮮明に思い出せる。
 ついでに、さっき、大きなウサギのぬいぐるみを、土産だとプレゼントされたことを思い出し、シアはちょっぴり頬を赤らめる。
 さすがにもう、ぬいぐるみを土産に欲しがる年でもないのだが、カイルおじさまからみれば、もう十六歳になるシアは、まだまだ子供だと思われたのだろうか……
 そんな風にちょっぴり頬を赤らめるシアに、どこか微笑ましいものを見るような優しい目を向けて、シルヴィアはシアが思ってもいなかったようなことを口にする。
「夫から、シアさんのお話を聞いた時から、こうしてお会いできるのが、待ち遠しかったですわ。想像していた通り、可愛らしい方」
 いきなり、思ってもいなかったことを言われて、シアはちょっと面食らったように、頬をさらに林檎のように、赤く染める。
 シルヴィアのように綺麗な人に、こんな風に面と向かって可愛らしいなんて言われると、たとえお世辞だろうと、何となく照れくさいと思わずにはいられなかった。
 どう返事をしていいものかわからず、シアはもごもごと言葉をにごす。
「それは……どうも」
 照れた風なシアを見て、シルヴィアは口元に手をあて、ふふ、と軽やかに笑う。
「ふふ」
 にこやかに微笑んで、ふふ、と品良く笑うシルヴィアに、シアはほんの一瞬、見惚れた。
 わざとらしくない、自然と身に付いた優雅さというべきか、何気ない仕草のひとつひとつが、洗練されたものに感じられたからだ。
 見事な黄金の髪に、優しげな翡翠色の瞳をしたシルヴィアは、清楚な印象の美女である。
 しかし、容姿も美しいが、それ以上に所作が優雅というか、気品がある人だと、シアは思った。
 どこか、貴族的というか……。
 貴族……と考えた時、シアの頭を、ふっとアレクシスのことがよぎった。
 ハイライン伯爵家の名を継ぐ、彼のことを。
 (アレクシス……今頃、どうしてるかな……)
 彼のことを考えると、ちりりと胸の奥がうずいたが、シアはそれに気づかないフリをした。
 (貴族……あれ……)
 その時、急にめまいにも似たものを覚えて、シアは額を手でおさえた。
 ぐらり、とふいに視界が揺らぐような、気分の悪さ……。
 これは、亡くなった母さまの……
 (貴族の方には近づいては、駄目よ。シア……)
 (黒いドレスの貴婦人には……)
 (お母様との約束は守ってね……そうでないと、貴女が……)
 めまいにも似た違和感、それは、ほんの一瞬のことだった。
 シア自身、気のせいだろうと、片づけてしまうぐらい。
 急に黙り込んだシアに、シルヴィアが少し心配そうな声で、彼女の名を呼んだ。
「……シアさん?ご気分でも?」
 名を呼ばれたシアは、慌てて、平気だと首を横に振る。
「あっ、丈夫です!今、ちょっと、ボーッとしちゃっただけなんで……体調は良いので、ご心配なく!」
「それなら、良かったですわ。でも、無理はなさらないでね」
「はい!」
 シアは力強く、うなずいた。
 実際、気分が悪いと感じたのは、ほんの一瞬のことで、 きっと気のせいだろうと思えた。その証拠に、先ほどのめまいにも似た違和感は、今は嘘のように消えている。
 それさえなければ、わりと気分はすっきりしていたし、体調が良いという言葉にも嘘はない。
 シアは息を吐いて、さて……と気を取り直した。
 しかし……
「……」
 気を取り直して、シアが何気なく周囲を見回すと、隣や前のテーブルに座っていた商人と、まともにバッチリ目が合う。
 ななめのテーブルも、同様だ。
 しかも、誰も彼もシアと目が合うと、慌てて後ろめたそうに視線をそらし、わざとらしくヒュルルーと口笛まで吹き始める始末である。
 (なんか……あっちのテーブルからも、そっちのテーブルからも、誰かの視線を感じる……)
 ふと気がつけば、食堂内のあちこちから向けられるたくさんの視線に、シアは閉口した。
 今まで特に気にとめてもいなかったが、気がつけば、食堂は昼時でもないのに、ザワザワ、混んできつつある。
 その理由は、明白だった。
 リーブル商会の男たちは皆、お客が美人だという噂を聞きつけて、シルヴィアを見に来たに違いない。
 例外なく、男たち鼻の下が伸びているのが、その証拠である。
 幸い、シルヴィアさんは気にしていないようではあるが、それにしても……!
 (ああ、もう……!これだから、男っていうのは……!)
 呆れのあまり、頭を抱えたい気分にかられつつ、シアは椅子から立ち上がった。
「シルヴィアさん!そろそろ祭りを見にいきましょう。案内します!」
「はい」
 シアの言葉に、シルヴィアは嬉しそうにうなずいた。


 シアとシルヴィアの二人が、リーブル商会の食堂から出て、一歩、大通りに足を踏み出すと、そこは見渡す限りの人、人、人……でうめつくされていた。
 大通りは、大人から子供まで老若男女、一体、王都のどこにこんなに人がいたのかと、思わず問いたくなるほど、ワイワイと大勢の人であふれかえっている。
 おそらく、この大勢の人々の中には地元の人間の他に、他国から来た沢山の観光客がまじっているのだろう。
 王都生まれで、祝祭のにぎわいに慣れているシアですら、お祭りの熱気に圧倒されそうになった。
 思わず、口から感嘆の声が出る。
「わあ……!すごい……!」
 大通りを行き交う男女たちの多くは、祝祭に合わせて、赤やら黄色やら派手な色の服やら、とっておきの一張羅やらでめかしこんでおり、特に若い娘たちの着飾った姿は、花々が咲き乱れるように美しく、実に華やかだ。
 別称、恋人たちの祭りとも言われるくらいなので、通りを歩く男女の中には、仲睦まじげに手を繋いだ恋人たちの姿も多い。
 もちろん、華やかに飾り立てているのは、人々だけではない。
 王都をあげた一大イベント、三大祭りのひとつとあって、大通りに並んだ店々も、これぞ稼ぎ時とばかりに張り切っている。
 大通りに並んだ、ほぼ全ての店が目立つ場所に、聖エルティアの象徴ともいうべき色あざやかな花々を飾り、祝祭のにぎやかな雰囲気を盛り上げている。
 店と店の間には、たくさんの屋台やら露店やらが並んでおり、歩きながらつまめる菓子やら、ちょっとした軽食やらアクセサリーやら、あやしげな占い屋やら……色々ありすぎて、目移りするくらいだ。
 それらの屋台の前では、少しでも他の店より客を惹きつけようと、店主たちが派手な身ぶり手振りで「うまいよ!」だの「そこの綺麗なお嬢さん!ウチのアクセサリーが似合いそうだよ。ちょっと見ていかない?」だの、それぞれ大きな声を張り上げている。
 近くの広場では、大道芸人が派手な曲芸を披露し、観客から拍手喝采をあびていたり、また流しの楽士が祝祭のための曲を軽快に奏でて、帽子にあめあられのように銅貨を投げこまれたりしていた。
 それに気をよくした楽士は、またまた祭りの盛り上げるような、明るくテンポの良い曲を演奏しはじめる。
 ありとあらゆる色と音であふれたそこは、普段の王都とは違い、まるで別世界のようだった。
 ――この華やいだ空気、この明るさ、この賑わいこそが、王都中の民が待ち望んだ、聖エルティアの祝祭なのだ。
 食堂の窓から見て、大体、予想はしていただろうが、予想を上回る祝祭の盛り上がりに、シルヴィアは翡翠色の瞳を見開いて、はぁ……と息をもらす。
 そうして、彼女は「……すごいですわね」と、驚いたような、圧倒されたような声で言った。
 シルヴィアが驚くのも、当たり前といえば、当たり前のことだ。
 うんうん、とシアは大きくうなずいて、本当に、と口にする。
「本当に……いつもにも増して、すごい人ですね」
 生粋の王都生まれの王都育ちであり、聖エルティアの祝祭の時の王都のにぎわいに慣れているシアでさえも、思わず驚くほどに、今年の祝祭は盛況のようだ。
 他国からも、大勢の観光客が来ているのだろう。
 いつもの祝祭と比べても、より人の数が多く、にぎわっている。
「今年の祝祭は、いつも以上に華やかというか、盛り上がっているみたいですね」
 そう言って、シアはにっこりと笑う。
 いつもにも増した、にぎやかさと人の多さに圧倒されつつも、シアはそれが嫌ではなかった。
 元々、にぎやかなのは嫌いな方ではなく、祝祭の乙女をすることを考えれば、祭りが華やかなのは喜ばしいことだった。だが……気がかかりなことも、ないわけではない。
 シアはちらっと、シルヴィアの方を向いて、「あの……」と声をかける。
「あの……シルヴィアさん、大丈夫ですか?」
 王都育ちのシアですら、一瞬、驚くほどの祝祭の人の多さだが……シルヴィアさんは大丈夫だろうか?
 シアは気を使って、そう声をかけた。
 子供の時から、祝祭の雰囲気に慣れているシアは平気というか、むしろワクワクするぐらいだが、慣れていない人ならば、この人、人、人の多さに、気分が悪くなってもおかしくない。
 しかし、シアの心配は杞憂だったようで、シルヴィアは「気を使ってくださって、ありがとう」と言った後、にこやかに微笑んで続けた。
「けれど、大丈夫ですわ。たくさんの人がいて、にぎやかて明るくて、みんな楽しそうで……本当に素敵なお祭りね、シアさん」
 素敵なお祭りね、と口にするシルヴィアは本当に楽しげで、シアもつられたように唇をほころばせた。
 そうですね、と首を縦に振ってから、シアは張り切って、明るい声で言った。
「じゃあ、早速、祭りを見て回りましょう!こっちの道が、近道ですよ!シルヴィアさん」
 シアは楽しげにそう言うと、はい、と誘うようにシルヴィアに手を差しのべた。
 シルヴィアをちょっと驚いたように、翡翠の瞳を見開いて、その次に唇をゆるめて、明るい微笑を浮かべる。
「ええ。そうしましょう」
 シルヴィアはうなずいて、シアの言葉に応じるように、差し出された手に、そっと手を重ねた。
 そうして、シアとシルヴィアの二人は大通りに並んだ店やら屋台やらを、いろいろと見て回った。
 遥か遠い、東国からやって来たという商人の、絹やら鼈甲やら珍しい品々を手にしたり、その流れるような口上に聞き入ったり……
 香ばしい匂いに惹かれて、食べ物の屋台を見て回ったり……
 また愛想の良い若者が売る、首飾りだの指輪だの、アクセサリーの露天をのぞいてみたり……
 あるいは大きな広場で芸を披露する、大道芸人を見に行ったり、その隣で楽士の奏でる軽やかな祝祭の曲に、二人で耳を傾けたりした。
 あちらこちら、祭りを見物していたシアたちが、さんざん歩き回った末、再び、リーブル商会のそばへと戻ってきた時だった。
「おーい!シア!」
 野太い、男の大きな声が、シアの名を呼んだ。
 いきなり、横から名を呼ばれたことで、シアは驚いたように目をパチクリさせる。
 それは、幼い頃から聞き覚えのある、馴染み深い声だった。
「えっと……」
 どこだろう?自分の名を呼んだ、その声の主を見つけようと、きょろきょろと周囲を見回すシアの耳元で、ガハハッ、と豪快な笑い声が響き渡る。
 同時に、「ちょいと、アンタ……遊んでるんじゃないの」と呆れた風に、たしなめるような女の声も。
 その女の声も、シアにとっては馴染みのあるものだ。
 ガハハッ、と再び、豪快な笑い声がした後、野太い声がもう一度、シアの名を呼んだ。
「おい!シアよ、こっちだ。こっち!」
 その声に導かれるように、シアが声の方を向くと、そこはパン屋のすぐそば、なにやら一軒の屋台があった。
 屋台からは、ぷぅーん、食欲をそそると焼きたての良い匂いと、同時に、あまーいあまーい蜂蜜の香りがただよってくる。
 どうやら、聖エルティアの祝祭の名物とも言うべき、焼き菓子を売っている屋台のようだ。
 その屋台で、美味しそうなきつね色の焼き菓子を売っている二人は、シアがよく知る夫婦だった。
 ひとりは、ガハハッと明るく豪快に笑う、陽気そうな中年男。
 男が身につけたエプロンには、パン屋「ベルル」という文字と、焼きたてのパンの絵が描かれている。
 その男の隣に立つのは、金髪の、ふっくらした中年の女だった。
 年齢はだいぶ違うが、女の顔立ちは、シアの幼馴染みである少女によく似ている。
 それもそのはずだ。
 彼女ら……いや、彼らは親子なのだから。
 焼き菓子を売る屋台の夫婦は、シアが幼い頃から、よ――く知っている人たちだった。
「あっ!親父さん、女将さん!こんにちは!」
 屋台にいる夫婦を見て、シアはそう声をあげる。
 リーブル商会のご近所さん、パン屋「ベルル」の店主夫妻。
 そして、シアの幼馴染みの少女、ジャンヌの両親だ。
「あら、お知り合いですか?シアさん」
 そう言いながら、シルヴィアはシアの方を見た。
「はい。あの……せっかくなんで、ちょっと寄っていってもいいですか?シルヴィアさん」
 シアはうなずいて、少し遠慮がちな声で、シルヴィアに尋ねる。
「ええ、もちろんですわ」
 シルヴィアがそう、快く答えてくれたことに安心して、シアは屋台をかまえている、パン屋の店主夫妻の元へ歩み寄った。
 屋台に近づくたびに、ぷぅーんと焼き菓子の良い匂いが、鼻をくすぐる。
 タッタッタッと小走りで屋台に近づくシアの後ろを、 シルビアは長い裾をさばきながら、ゆったりとした足取りでついていく。
「よう!シア」
 シアとシルヴィアが屋台に近づくと、店主、ジャンヌの父親は人懐っこい笑みを浮かべて、「よう!」と陽気に片手をあげた。
 隣では、その妻、優しげな中年の女、ジャンヌの母親でもあるパン屋の女将さんが「こっちにおいでよ。シア」と手招きしている。
 そうして、店主――パン屋の親父は、好奇心旺盛そうな青い目に、シアとシルヴィアを交互に映して、愉快そうな声で言った。
「今日は、どうしたんだ?シア……えっらい別嬪さんと、一緒じゃねぇか。クラフトさんやエドワード祖父さんなら、いつものことだから、驚かねぇが」
 彼のいう、えっらい別嬪さんとは、シアの隣にいるシルヴィアのことだ。
 その、パン屋の親父の言葉の意味を考えて、シアはぴきっと額に青筋を立てる。
 やや顔をひきつらせながら、「父さん、祖父さん……あの女好きどもめ!」と心中で罵りつつ、シアは店主に問い返した。
「どういう意味よ?それ」
 ぴきっとシアが額に青筋を立てたのを見て、隣にいたパン屋の女将さんが「ちょいと、アンタ……」と呆れたように言いながら、旦那を小突いた。
 娘のジャンヌによく似た顔に苦笑を浮かべて、店主の妻である女は、シアに話かける。
「シア、悪いねぇ。この人、昔っから口が悪くて、ろくなこと言わないもんだから……ホントに困ったもんさ」
 困ったもんさ、と口にしながらも、どこか愛情のこもった風な妻の愚痴に、パン屋の親父はまたまた豪快に笑った。
「ガハハッ、悪い。悪い……」
 しばらく豪快に笑った後、パン屋の親父は「せっかく、ウチに寄ったんだ……」と続けた。
「せっかく、ウチに寄ったんだ。良かったら、これを食っていけよ!俺の奢りだ」
 そう言いながら、親父は屋台で売っていた焼き菓子をひとつ、さっと紙にのせて、シアに手渡した。
 シアの手にのせられたのは、香ばしい匂いのする、きつね色の焼き菓子。
 花の型をした焼き菓子の中には、歯ごたえのあるナッツとドライフルーツ、サクサクした表面には、とろっと黄金の蜂蜜がかかっている。
 舌がとろけるほどあまーく、見た目も可愛らしいそれは、祝祭の名物とも言うべき、エティアーヌ、という菓子だ。
 その菓子を受け取ったシアは、焼き菓子とその菓子をくれた親父を交互に見て、「いいの?」と首をかしげる。
「いいの?親父さん」
「おう。子供は遠慮するもんじゃねぇさ。さっ、あったかいうちに、食えよ」
 親父の言葉に、シアは「わぁい!ありがとう!」と素直に喜び、うれしそうな顔をした。
 ありがとうと、シアがお礼を言うと、親父は「ああ」とうなずく。
「ああ。明後日は、ウチの娘と一緒に祝祭の乙女をやるんだろう。楽しみだ。しっかりやってくれよ……」
 ウチの娘とは他でもない、シアの幼馴染みのジャンヌのことだ。
 明後日のパレード、祝祭の乙女である娘・ジャンヌの晴れ姿を想像してか、パン屋の親父は優しげに、青い目を細めた。
 そこで黙っておけば、心あたたまる、良い話だった。が……
「おまけに、祝祭では美人が着飾ってるからな、目の保養だ」
 つい、うっかり口を滑らせ、本音を口にした親父は奥さんに容赦なく、耳を引っ張られる。
 ぎゅううううと妻に耳を引っ張られた旦那は、「イタタ……」とうめいた。
 哀れにうめく旦那の様子など、歯牙にもかけず、パン屋の女将さんはシアに、にこりと明るい笑顔を向ける。
「しっかりやっとくれよ。シア……祝祭の乙女は、祭りの花形なんだから。――王都のみんなに、笑顔で幸福をふりまいとくれ」
 女将さんの言葉に、シアはふっとやわらかく笑って、真摯な声で答えた。
「はい」
 最初は、あまり乗り気でなかった、祝祭の乙女の役目。
 でも、今日の祝祭のはじまりを待ち望んでいた王都の人々を見ているうちに、また一生懸命、祝祭の準備をしていた祭りの世話役の人たちや、祝祭の乙女の衣装を丁寧に縫ってくれたお針子たちと接するうちに、シアの心も少しづつ、ゆるやかに変化していった。
 いつも、ただ見ているだけだった、聖エルティアの祝祭――でも、その祝祭は実は大勢の人の支えで、成り立っていたのだ。
 全ては、祝祭に参加した人々の、笑顔のために。
 幸福な時間のために。
 そんな当たり前のことに、今更、気づいた。だから……
「はい」
 シアはもう一度、心をこめて、うなずいた。
「頼んだよ。シア」
 女将さんは笑顔で、ぽんぽんと励ますようにシアの肩を軽く叩くと、彼女の隣にいたシルヴィアにも焼き菓子を紙にのせて手渡した。
 可憐な花の型をしたそれは、シアのと同じ、エティアーヌという菓子だ。
「ほら、そちらのお嬢さんも、良かったら一緒にどうぞ」
 焼き菓子を受け取ったシルヴィアは、翡翠の瞳でそれを見つめて、小さく首をかしげた。
「私も……よろしいのですか?」
 小さく首をかしげたシルヴィアの姿を見て、シアは一瞬、本気で案じた。
 シアは屋台の食べ物に何の抵抗もないし、むしろお祭りの空気の中で、そういうのを食べるのは大好きだが……果たして、シルヴィアさんはどうだろうか?
 そう思い、シアはそっとシルヴィアの、整った横顔を見つめる。
 優雅な物腰といい、洗練された所作といい、どこぞの名のある貴族のご令嬢と言っても、十分すぎるほどに通用しそうな、この綺麗な人が、立ったまま焼き菓子を……屋台の食べ物を食べれるんだろうか。
 シアは少し不安というか、心配だったが、かといって断れば、好意でそれをくれた、パン屋の親父さんと女将さんは、きっと傷つくことだろう。
 それは、出来ない。
 大丈夫だろうかと思いながら、シアが心配そうに見守っていると、シルヴィアはにっこりと微笑んで、
「ありがとうございます。いただきますわ」
 と、焼き菓子を一口、食べる。
 きつね色の焼き菓子を、一口、食べた唇から、すぐに素直な言葉がもれた。
「……おいしい」
 短い、だが、最大の賛辞に、焼き菓子を作ったパン屋の親父はガハハッと、心底、うれしそうに笑う。
「美人にそう言ってもらえると、嬉しいねぇ、ガハハッ」
「アンタって人は、まったく……」
 こりない旦那に、女将は再度、親父の耳をぐぐぐっと引っ張った。
「あははっ!親父さんも女将さんも、相変わらずだね」
 そんな夫婦の会話を聞いたシアが、あははっ!と愉快そうに笑う。
「ふふ」
 それにつられたように、シルヴィアも笑った。

 その後、パン屋の夫婦と別れてからも、シアとシルヴィアはいろいろな場所を見て回った。
 道を歩いていたら、いきなり占い師の老婆に話しかけられたり……
 珍しい品々を扱っていた店の前で、商人魂がうずいたシアが、ついつい長居をしたり……
 祝祭の人の多さに、うっかり離ればなれになりそうになったり……
 くわしく語れば長くなるが、まあ、色々なことがあった。
 そんなこんなで、楽しい時間はあっという間に過ぎて、そろそろ家に戻ろうかなと……そう考えながら、シアが夕焼けに染まりつつ空を仰いだ時だった。
 シアの隣を歩いていたシルヴィアが、ふっと何かに気づいたように、歩みを止める。
 その瞳は、道に布をしいただけの露店商、首飾りだの指輪だの……アクセサリーを売っているそこに向けられていた。
「……シルヴィアさん?どうかしました?」
 急に歩みを止めたシルヴィアに、シアが不思議そうな顔で尋ねる。
「ごめんなさい。少しだけ、待っていてくださる?シアさん」
 シルヴィアはそう言うと、その場にシアを残して、アクセサリーを売っている露天商の方へと歩み寄る。
 シアがぼーっとその背中を見送っていると、シルヴィアはアクセサリーのひとつを手に取り、若い店主と何やら言葉を交わし、その手に銀貨をのせ、しばらくすると、こちらに戻ってくる。
 お待たせしてごめんなさい、と言うシルヴィアの手には、首飾りが握られていた。
「あ、買ったんですか?」
 こちらからも歩み寄り、シアはシルヴィアにそう声をかける。
 シルヴィアが買って来たのは、白薔薇の飾りと青い雫の形のビーズ、それを銀の鎖で繋いだ、繊細な細工の美しい首飾りだった。
 しょせん、祝祭の露天で扱っているものだから、値はそう張るものではないだろうが、繊細な作りと凝った細工は美しく、なかなかの掘り出しものと言えそうだ。
 何より、雫の形をした青いビーズ、空とも海とも言いがたい、その透き通った青の色合いが綺麗だった。
 その、白薔薇の首飾りを見たシアは素直に、それを口にする。
「綺麗ですね……」
 シアの言葉に、シルヴィアは微笑って「ええ。シアさんに似合うと思ったの……」と言い、言葉を続けた。
「ええ。シアさんに似合うと思ったの……よければ、受け取ってくださる?」
 受け取ってくださる?という、思いにもよらなかった言葉に、シアはまず驚いて、ついで、ふるふると首を横に振った。
 そんなつもりで、綺麗な首飾りだと言ったわけではない。
 気持ちはうれしいが、せっかくシルヴィアさんが買ったものを、そう簡単にもらう気にはなれなかった。
「え……そんな……いいです。シルヴィアさんが、買ったんですし」
 ふるふると首を横に振るシアに、シルヴィアは笑顔で、「今日のお礼ですわ。だから、気になさらないで」と言う。
 そう言って、シルヴィアはシアの背中の方に回ると、その細い首に、白薔薇の首飾りをかけてあげた。
 ひやりと首を撫でる鎖の感触と、しゃらという音、感じるかすかな重みに、シアは青い瞳を見開く。
 その唇から、あ……とため息にも似た声がもれた。
「あ……」
 繊細な細工のそれは、シアによく似合っていた。
 首飾りをかけたシルヴィアは、翡翠の瞳を細めて、満足気にうなずく。
「よく似合っていますよ。鏡がないのが、残念ね」
 シアはちょっとはにかみながら、でも、うれしそうに「……ありがとうございます」と、礼を言った。
「こちらこそ、祭りを案内していただいて、ありがとう。シアさん。とっても楽しいわ」
 シルヴィアから言葉と共に、まぶしいほどの笑顔を向けられて、シアはちょっと照れる。
 十分に祝祭を案内できたかはわからないが、少しでも喜んでもらえたのなら、何よりだった。
 ほっと安心したように、シアは唇をほころばせる。
「それは……」
 良かった、と彼女が言葉を続けようとした、その瞬間――
「――シルヴィア?」
 後ろから、そう息をのむような、驚いた男の声がした。
 それは、シアにとってもシルヴィアにとっても、聞き慣れた声だ。
 名を呼ばれたシルヴィアとシアは、ほぼ同時に後ろを振り返り、その声の方へと向く。
「……」
 振り向いたシアたちの目に映ったのは、背の高い、黒髪の青年だった。
 夕陽を背に立つ彼は、驚きと困惑のまじった目を、こちらに向けている。
 なぜ?と言葉よりも雄弁に、その目が語っていた。
 母から、シルヴィアが王都に来ることは手紙で聞かされていても、まさか祝祭で人があふれている中で、偶然、再会するとは、夢にも思わなかったのだろう。
 おそらく、覚悟もしていなかったずだ。
 それを証明するように、元・婚約者のシルヴィアを見る青年の表情は、驚きと困惑と……そして、動揺の色が濃い。
 きつく寄せられた眉からは、苦悩にも似たものさえ感じられたが、シルヴィアはともかく、彼らの関係を知らないシアが、彼の、アレクシスの葛藤に気づくはずもない。
 険しい顔でこちらを見る青年に、シアは首をかしげ、不思議そうな顔をした。
「あれ?アレク……」
 シアが彼の名を呼ぼうとした時、シルヴィアが先に驚いたような顔で、
「アレクシス……?」
と言った。
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