女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  祝祭と商人6−6  

 ――まるで、そこだけ一瞬、時が止まったようだった。

「シルヴィア……?」
「アレクシス……?」
 聖エルティアの祝祭、その華やいだ空気に包まれた、王都ベルカルン。
 青空から茜色へ、ゆるやかに夕焼けへと染まっていく、空の下。
 祝祭のにぎわい、屋台の調子の良い呼びこみの声や、恋人たちの甘いささやき、子供たちの楽しげな笑い声……そんな祭りの盛り上がりを象徴するように、観光客と地元の人々であふれかえらんばかりの、大通り。
 屋台や露店商の方からは、ひっきりなしに客の興味を引き付けようと派手な呼びこみがかかり、食べ物の屋台からただよってくるこうばしい香りが、誘惑と共に鼻先をくすぐり、食欲をそそる。
 どこからか 軽快なる楽の音が響き渡り、大通りを行き交う人々の流れは、ほんの一時たりとも途絶えることがない。
 そんな祭りの華やいだ空気やにぎやさとは対照的に、そこ一ヶ所だけ、一瞬、あたかも時が止まったようだった。
 シルヴィアがその青年の名を口にした途端、ほんの一瞬、その場の空気が凍りつく。
「アレクシス……?」
 シルヴィアがそう、小さく唇を震わせた。
 祝祭でにぎわい、大勢の人々の行き交う大通り、ほんの少し、数歩も歩めば手の届きそうな距離に、シアとシルヴィア……そして、アレクシスはいた。
 道のこちら側と向こう側、わずかな距離をはさんで、彼ら三人の男女は向き合う。
 仲良さげに並んだシアとシルヴィア、彼女たちから少し離れた場所に、黒髪の青年は立っていた。
 彼、アレクシスは無言のまま立ち尽くし、その漆黒の瞳を彼女たちへと……否、シルヴィアへと向けている。
 その凍りついたような無表情が、無理矢理に動揺を押さえつけようとしたようなそれが、かえって彼の、アレクシスの動揺の大きさを思わせた。
 屋台の店主の呼び込み。
 遠くから聞こえてくる楽士の演奏。
 通りを歩く人々の波……。
 そんな祭りの真っ只中にいながら、それらが全く目に入っていないかのように、お互いを見つめる彼らの姿は、あたかも他の世界から切り離されたかのようで、一瞬、まるで時が止まったかのようだった。
「アレクシス……どうして?」
 そう言ったシルヴィアの表情には、純粋な驚きが見てとれた。
 どうして、とそう口にした唇は、小さく震えていた。
 驚きのあまりか、大きく見開かれた翡翠色の瞳は、真っ直ぐにアレクシスを、いとこでもあり元・婚約者でもあった青年を映している。
 どうして……?と問う声こそ穏やかであっても、そのシルヴィアの表情を見ていれば、アレクシスとの再会に強く驚いているのは、一目瞭然だった。
 美しい顔には、驚きと困惑のまじりあった、いささか複雑な表情が浮かんでいる。
 幼い頃から共に育った相手に、懐かしさはあれど、突然の再会に今は、驚きが先に立っているようだった。
「アレクシス……どうして、ここに?」
 彼の名を呼ぶシルヴィアに、シアは「え……?」と驚きの声を上げる。
 アレクシス、とそう名を呼ぶ声は、驚いていながらも、呼び慣れた風な親しみがこもったもので、とてもではないが、つい最近、知り合ったという感じではない。
 シルヴィアとアレクシスの関係を、何も知らないシアが、わけもわからず混乱するのも、当然といえば当然のことだった。
 何せ、彼女は彼らの口から、何の事情も知らされていないのだから。
「え……?」
 アレクシスとシルヴィアの間の位置に立ったシアは驚いて、目を丸くしながら、彼ら二人を交互に見る。
 まずは、すぐ近くにいるシルヴィアを。
 ついで、少し離れた場所で、険しい顔つきで立ち尽くしているアレクシスを。
 シアは首を左右に振り、その青い瞳で二人を交互に見た。
 そうして、銀髪の少女は首をかしげながら、なぜ?とでも言いたげに、ひどく不思議そうな顔で尋ねる。
 答えを求めてというより、シア自身、頭の整理がついていないような声だった。
「え……?二人とも、知り合いなの?」
 どちらともなく……どちらかといえば、アレクシスに向けられた問いかけだったが、答えたのはシルヴィアの方だった。
「……ええ」
 驚きと困惑のまじった複雑な表情のまま、シルヴィアはええ、と小さく首を縦に振る。
 彼女は翡翠の瞳をちらっと、気遣うようにアレクシスへと向けると、ためらいがちに唇を開く。
「……ええ、アレクシスと私は……」
 その間ずっと、アレクシスは険しい顔で、唇を引き結んでいた。
 きつく寄せられた眉と、固く閉ざされた唇は、そうすることで何かに耐えるようだった。
 (アレクシス……)
 普段とは違う、彼の態度に、それを見ていたシアも何となく不安な気持ちになる。
「――失礼する」
 シルヴィアが唇を開いた時、アレクシスは感情を押し殺したような、硬い声でそう言うと、返事すら拒むようにさっ、とシアとシルヴィア……彼女たちに背を向けた。
 まるで、会話することすら強く拒むような青年の態度に、シアは驚き……同時に、呆然とした。
 今まで、ただの一度も、こんな態度を取られたことはなかったのに……。
 驚いて、上手く言葉が出てこない。
 そんな風に呆然とするシアと、憂い顔で、気遣わしげな目をしているシルヴィアを、そこに置き去りにして、彼女たちに背を向けたアレクシスは、足早にそこを立ち去る。
 遠ざかっていく彼の背中を、半ば呆然と見送っていたシアは、ハッと我に帰ると、その背中に向かって叫んだ。
「え、ちょっと……待ちなさいよ!アレクシス!」
 呼びかければ、アレクシスが足を止め、こちらを振り返ってくれると、彼女は疑いもしなかった。
 悪かったか、すまない、と言いながら。
 それなのに――
「……」
 呼びかけても、少しも変わらず、アレクシスとシアたちの距離は、だんだんと離れていく。
 まるっきりシアの声が聞こえていないかのように、黒髪の青年は立ち止まることも、歩調をゆるめることも、彼女たちの方を振り返ることもしようとはしなかった。
 遠ざかっていく彼の背中、ひらいていく距離が意味するのは――明確な拒絶だ。
 シアの声が、届いていないはずもないのに……。
 干渉するな、とでも言いたげに、彼女の存在を無視して、早足で歩いていくアレクシスに、シアは困惑と一抹の寂しさを感じる。
 今までだって、モメたり時に意見が食い違ったり、色々なことがあったけれど、ここまで露骨に無視されたことは、彼女の記憶にはなかった。
 ついで、シアの胸の内にわき上がってきたのは、ふつふつとした怒りだ。
 完璧に無視されたことに落ち込むよりもまず、アレクシスのありえない態度にたいする苛立ちの方が、強かった。
 遠ざかっていく青年の背中を睨んで、シアはぐっ、と拳をにぎりしめる。
 (アレクシスの奴ぅ……あたしを無視するなんて、良い度胸ねっ!)
 他人のことをどうこう言えるほど、自分自身、立派なわけではないが、それでも今のアレクシスの態度はどうなのかと、シアは思う。
 自分のことはともかくとしても、知り合いらしいシルヴィアさんに対して、失礼じゃないのか!
 大体、名前を呼んだのに、振り返りもしないって、いったい何様のつもりよ!
 ちょっとくらい、立ち止まってくれてもいいでしょ。ケチ!
 一刻も早く、彼女たちから距離を取りたいというように、スタスタと足早に歩いていくアレクシスの背中を睨みつけて、シアは苛立たしげにギリッ、と唇を噛む。
 どうして、彼が呼びかけても返事をせず、あたかも無視のような態度を取って、こちらから距離を取ろうとするのか、何の事情を知らないシアには、ひどく理不尽なことに思えた。
 苛立ちとモヤモヤと、とにかく気持ちがすっきりしない。
 (何でなのよ?アレクシス……)
 このまま、何も話さないまま別れてしまうのは、どうしても嫌だった。
 だから――
「シルヴィアさん」
 シアがシルヴィアへと向き直り、そう声をかけると、心配気な表情でアレクシスの背中を見つめていたシルヴィアは、かすかな瞬きの後、シアの方へと視線を向ける。
 不安そうに揺れる、翡翠の瞳が、シアを見た。
「ええ、何でしょう?シアさん」
 そんなシルヴィアに向かって、シアは言葉を続ける。
「すみません。シルヴィアさん、ちょっとここで待っていてくれませんか?」
 尋ねられたシルヴィアは、軽く目を伏せ、長いまつげを震わせ、小さくうなずく。
 彼女が何を想い、何を考えているのか、その表情からは読み取りにくかった。
「ええ、大丈夫ですわ。シアさん。どうか、私のことは気になさらず」
「ごめんなさい。すぐに戻ってきますから!」
 シアはすまなそうな顔でそう叫ぶと、遠ざかっていくアレクシスの背中を追いかけて、勢いよく駆け出す。
 走り出した彼女の長い銀髪が、風でなびく。
 そんなシアの背中を、シルヴィアは頬に手をあて、どこか複雑そうな表情で見送った。
 祝祭で混みあった道を、人と人の間をぶつからぬように上手くぬいながら、速いペースで前を行くアレクシスの背中を、シアは走って追いかける。
 駆けて、駆けて、駆けて。
 シルビアと話している間に、早足で歩き去ったアレクシスとの距離は、やや離れていた。
 しかし、長身の彼は常に、周りよりも頭ひとつ抜け出ているので、幸い見失うことはない。
 大通りを歩く、わいわいと談笑する人と人の間をぬうように苦労して走り、シアはようやく、アレクシスに追いつく。
 広い背中、周囲から浮き上がるように抜け出た黒髪の頭に向かって、彼女はちょっと、と声を張り上げる。
 近くにいた数人が、少し驚いたようにこちらを見たが、さほど気にならなかった。
 一瞬、何だろうという顔をした人々も、すぐに興味を失ったように、前へと向き直る。
 それらを気にかける余裕もなく、シアはもう一度、ちょっと、と声を張り上げた。
「ちょっと、アレクシス……あたしの声が、聞こえないの?」
 シアの声が届いても、アレクシスは全く、顔をこちらに向けようという素振りを見せなかった。
「……」
 声が聞こえていないはずもないのに、黒髪の青年は無言をつらぬく。
 真っ直ぐ、前を見据えたま、揺らぐことのないアレクシスの頭に、シアは苛立った。
 あからさまな無視ほど、腹の立つものはない!
 薄情な彼の態度にイライラしつつ、それでもシアは諦めずに、その背中を見つめて、彼の名を呼び続けた。
「ちょっと、待ちなさいよ。アレクシス!」
「……」
「待ちなさいっ。いい加減、待ちなさい、ってば!」
「……」
 何度も、何度も、喉が痛くなるほどに呼びかけても、結果は同じだった。
 返事のない呼び声が、むなしく響き渡る。
 軽く息を切らせるシアのことを、振り返りもせず、全くの無反応をつらぬくアレクシスは、無言でスタスタと足早に歩いていく。
 それどころか、心なしか先程より、彼の歩みは速くなったようだった。
 一時、近くなった距離が、再び、離れていく。
「待って、待ちなさいよ……!アレクシス……」
 それでも、冷たいといっていい態度を取られてなお、シアは根性でアレクシスの背中を追った。
 再び、遠ざかっていく青年の背中を見失わぬよう、人混みの中で背伸びをし、時折、小さく息を切らせながら、彼女は彼を追いかける。
 ただ、アレクシスとちゃんと話したいという、その気持ちだけで……。
 しかし、祝祭での道にあふれかえらんばかりの人の多さに加えて、彼と彼女、男女の歩幅が違うせいで、頑張っても、なかなか追いつけない。
 アレクシスはせいぜい、少し歩く速度を上げている程度なのに、シアは必死に追いかけても、ひらいた距離が一向に縮まらないのだ。
 しばらくして、シアがそれに焦れてきた頃、ようやく状況に変化があった。
 アレクシスが唐突に足を止め、その場に立ち止まる。
「……シア」
 そうして、アレクシスは名を呼びながら、ゆっくりとシアの方へと振り返った。
 漆黒の瞳が真っ直ぐに、彼女へと向けられる。
 視線をそらさぬまま、彼はもう一度、シア、と静かな声で言った。
「アレクシス……ねぇ、何なのよ?いきなり逃げるみたいに……」
 いつもと雰囲気が違うアレクシスに戸惑いつつも、ようやく彼に追いついたシアは、そう文句を言う。
 追いかけているうちに、幾分、怒りは治まっていたが、なぜという気持ちか消えることはない。
 そんなシアの言葉に耳を傾けることもなく、アレクシスはきつく眉を寄せ、漆黒の瞳に複雑そうな光を宿すと、険しい顔で言った。
「――悪いが、ついで来ないでくれ」
 声は硬く、唇から吐き出された言葉は、とても苦かった。
 ついて来ないでくれ。
 俺に、話しかけないでくれ。
 いまだかつて、された覚えのないハッキリとした拒絶に、シアは「え……」と思わず呆然とし、とっさに何も言えなかった。
「え……」
 言葉を失ったシアに向かって、硬い表情をしたアレクシスは、更に言葉を重ねる。
「シルヴィアと一緒なのだろう?シア……頼むから、ついて来ないでくれ。俺は、彼女には……シルヴィアには会えない」
 そう口にする彼の、声の調子は決して強くなく、むしろ静かだった。
 しかし、だからこそ余計に、その声にこめられた、アレクシスの苦悩のようなものが伝わってくる。
 きつく寄せられた眉、固く結ばれた唇、青年の歪められた端整な顔はどこか苦しげで、それを見たシアは唇をひらきかけ、だが、結局、何も言えずに口をとじた。
 彼女には……シルヴィアには会えない。
 シアにそう言ったアレクシスの表情からは、会話すら拒むような、そんな頑なさがあって……だから、何も言えなくなる。
「……」
 黙り込んだシアを見て、アレクシスはそっと目を伏せ、視線を逸らす。
「……すまない」
 どこか辛そうに、そう謝ると、アレクシスはシアに背中を向け、踵を返して、歩き去ろうとする。
 そうして、歩き去ろうとする彼の姿に、呆然としていたシアはハッと我に帰る。
 シアは顔を上げると、再び、遠ざかっていくアレクシスの背中に、疑問の言葉を投げつけた。
「アレクシス!シルヴィアさんは、アンタの何なのよ……!」
 祭りの喧騒にまぎれて、すぐにかきけされてしまう、そんな声。
 それでも、アレクシスは一瞬だけ、踏み出しかけた足を止め、
「彼女は、シルヴィアは俺の……」
と、呟いたっきり、唇を噛みしめ、彼はまた足早に歩き出した。
 シアの視界から、アレクシスの背中がどんどん遠ざかっていく。
 ついて来ないでくれ、と言われては、言葉をかわすどころか、追いかけることすら拒まれたのと同じだった。
「アレクシス!アレクシス!」
 その後、シアが何度、呼びかけても、前を歩くアレクシスが振り返ることはなかった。
 彼女は落胆しながら、とぼとぼと力のない足取りで……今、走ってきた道を引き返し、シルヴィアのところへ戻る。
 ――シルヴィアさんに、何と説明しよう?
 それを考えると頭が痛かったが、シルヴィアさんに待ってもらっている以上、戻らないわけにもいかない。
「シアさん……」
 何となく重い気分を抱えたまま、シアが来た道を戻ると、シルヴィアは約束通り、さっきの場所から動かずに待っていてくれた。
 どこか不安そうな面持ちで、こちらを見ていたシルヴィアは、翡翠の瞳に銀髪の少女の姿を映すと「シアさん……」と声を上げる。
 ようやく戻ってきたシアに、シルヴィアは気遣わしげな目を向けてくる。
 その瞳に宿る、不安の影を払拭しようと、シアは暗くなりそうな気持ちを浮上させ、あえて普通な声で言う。
「ごめんなさい。待たせて……」
 シルヴィアは小さく首を横に振り、
「いいえ、アレクシスは……?」
と、シアに尋ねた。
「何でかわかりませんけど、ろくに話も聞かずに、逃げられました。何なんでしょうね……?」
 シアは憤慨した風に、そう答える。
 しかし、同じような態度を取られたはずのシルヴィアは、ただ静かに目を伏せるのみだった。
 小さく震える長い睫毛が、透き通るような白い肌に、かすかな陰影をおとす。
「そう、アレクシスが……」
 目を伏せ、何とも言えない複雑そうな表情をしたシルヴィアに、シアはやや遠慮がちに声をかける。
「シルヴィアさん……」
 仮に、不躾と言われようが何だろうか、事情を尋ねずにはいられない。
「……あの、アレクシスとはどういう関係なんですか?」
 王剣ハイラインと称される、ハイライン伯爵家の嫡子である――アレクシス。
 商人の、カイルおじさまの妻である――シルヴィア。
 全く関わりがないように思える二人の間に、どんな繋がりがあるのか、シアには想像もつかなかった。
 シアの問いかけに、シルヴィアはええ、と首を縦に振り、彼女が予想もしなかった言葉を吐く。
「……ええ、アレクシスと私は、いとこ同士です」
 いとこ同士。
 シルヴィアの口から出た言葉に、シアは驚いて、目を丸くした。
 いとこ同士?
 アレクシスと……このシルヴィアさんが?
 いきなり告げられた血の繋がりに、シアは目を丸くしたものの、言われてみれば、思い当たる点がいくつかあった。
 シルヴィアの何気ない仕草や笑い方が、誰かに似ていると思ったのは、よーく考えてみればアレクシスだったし、更によくよく見れば、シルヴィアの顔立ちはアレクシスの母親と、まとう雰囲気は違えど、少しばかり似通っている。
 言われなければ、たぶん気づかなかっただろうが、言われてみれば納得できる話だった。
「……いとこ同士?」
 確認するように、いとこ同士?と繰り返したシアに、シルヴィアはうなずく。
「ええ。私の母とアレクシスの母親が姉妹で、子供の時、そう遠くない場所に住んでいたので……幼い頃から、よく一緒に過ごしましたわ」
 そんな風に過去について語りながら、シルヴィアはどこか懐かしげに、優しげな翡翠の瞳を細める。
 きっと、美しく、あたたかい思い出なのだろう。
 ただの想像でしかないが、シアはそう思った。
 シルヴィアの言葉を聞いて、頭の中にぼんやりと、直接、見たことはない、その光景が思い浮かぶ。
 ――黒髪の小さな男の子と、金髪の美しい少女が、花畑で手を取り合い、仲良く遊んでいる光景を―― 
 シルヴィアは小さく微笑んで、優しい、どこまでも優しい声て続けた。
「お互いが、成長するまで、ずっと……」
 そう懐かしげに言うシルヴィアに、シアはチリリ、と胸の奥が焦げるような気がした。
 少し、ほんの少しだけ、心が痛くなる。
 (この人は、シルヴィアさんは、あたしの知らないアレクシスを、たくさん知っているんだ……)
 それは、軽い嫉妬のようなものだったかもしれない。
 しかし、アレクシスとの子供時代の思い出を語るシルヴィアにシアが感じたのは、軽い嫉妬よりもむしろ、何も知らない自分への虚しさだった。
 彼のことを、自分は何も知らない。
 出会ってからの日々が浅いから、しょうがない部分はあるが、自分と知り合うまで、アレクシスがどんな人生を送ってきたのか、シアは全くと言っていいほど知らないのだ。
 つい最近まで、赤の他人だったのだから、仕方ないとは思いつつも……一度、彼への想いを自覚すると、そんなことまで気になってくる。
 シルヴィアに対してどうというのではなく、自分が彼のことを何も知らないことを思い知らされて、ちょっと苦しくなった。
「そう、なんですか……」
 意識して、それを表に出さないようにしながら、シアは相づちを打つ。
「はい。それも私が嫁ぐ前までの話ですけれど……」
 シルヴィアはどこか寂しげにそう言うと、同時に、すまなそうな顔をする。
「ごめんなさいね。シアさん、つまらない昔話をしてしまって……」
「いえ、そんなことはないです」
 シアは、いえ、と首を横に振る。
 自分たちから逃げるように去って行ったアレクシスには、色々と言ってやりたいことが山ほどあったが、シルヴィアさんが謝るようなことは、何もない。
 どうして、シルヴィアさんと顔を合わせるなり、アレクシスがあんな態度を取ったのか、気にならないと言ったら嘘になるが、話さないことを無理に聞き出すのは、相手に悪い気がした。
「そろそろ、日が落ちてきましたね……帰りましょうか?」
 しばらくの間、その場に立ち尽くしていたシアとシルヴィアの二人だったが、ふいに空を見上げたシルヴィアが、そう話を切り出す。
 ふと気がつけば、先ほどから茜色に染まりかけていた空は、もうすっかり夕焼けの色に染まっている。
 辺りを見回せば、大通りに並んだ店や屋台も、それぞれ灯りを準備し始めていた。
 太陽が沈んで、夜が訪れたところで、祝祭の熱気がさめることはない。
 むしろ、店や道に灯された色とりどりの 幻想的な灯りや、そんな美しい夜の王都ベルカルン、麗しの女王陛下の都を楽しむことこそ、昼間とはまた違う、聖エルティアの祝祭の醍醐味なのだ。
 夜の帳がおり、銀の星がきらめく中、幻想的な灯りに照らし出される王都は、さながら夜の貴婦人である。
 しかし、残念なことにと言うべきか、シアとシルヴィアにはその時間まで、外で過ごす気はなかった。
 明日のこともあるし、太陽が沈みかけ、空があざやかな夕焼けに染まった今、そろそろ家に戻るべきだろう。
「そうですね」
 シルヴィアにつられたように、夕焼けの空を見上げ、シアはうなずいた。
 綺麗な夕焼けが、どうしてか少し寂しげに見える。
 家路に向かって、一歩、踏み出す。
 その一歩が、なぜか重かった。


 もう時間も時間であるし、シアとシルヴィアは仕事場であるリーブル商会ではなく、家の方へ戻った。
 扉をあけ、玄関でメイドのリタに出迎えられた時に、「旦那様とお客様は、お二人とも、応接間にいらっしゃいますよ」と教えられる。
 彼女たちは家の中へと入り、真っ直ぐ、応接間の方へと歩いていく。
「君は、昔っから、ホント変わらないよね。カイル……」
「それは、お前も同じだろう。クラフト……」
 シアたちが応接間にやってくると、部屋の中では二人の男が長椅子に座り、酒のグラスを片手に談笑しているところだった。
 片や、亜麻色の髪の、明るい優男。
 片や、痩せた、眼光の鋭い強面の男。
 軽快にテンポ良く話をし、また柔軟に面白い話題をふる、クラフト。
 寡黙で、ぽつりぽつりとクラフトの話に相づちを打つ、カイル。
 二人の男は性格も話し方も全く異なるが、それでいて不思議と、気が合っているようだった。
 仲良く酒を酌み交わしつつ、談笑するクラフトとカイルの表情は、どちらもリラックスしているようで、本当に楽しげだ。
 お互い、多忙ゆえにたまにしか会えなくても、会えば違和感なく過ごせる、そんな気の置けない友人同士の姿だった。
「おや、祝祭見物から、戻ってきたのかい?シア……シルヴィアさんも」
 そのうち、シアたちの気配に気づいたのか、亜麻色の頭がこちらを向いた。
 扉の方を向いたクラフトは、そこに立つシアとシルヴィアの姿を目に映すと、そう声をかけてくる。
 楽しかったかい?と、その表情は言っていた。
 そんなクラフトの隣では、カイルおじさまが相変わらずの彫像のような無表情で、「おかえり」と言う。
「はい。ただいま戻りました」
 先程の、アレクシスとのことを気にしていないわけではないのだろうが、シルヴィアはやわらかく微笑んで、何事もなかったように振る舞う。
 シアはちらり、とそんな彼女の横顔を見たが、結局、何も言うことなど出来なかった。
「聖エルティアの祝祭は、どうでしたか?シルヴィアさん。なかなか盛大でしょう……それより、シアが案内役じゃ、ご迷惑をかけませんでしたか?たとえば、屋台から動かないとか……一体、誰に似たのか、顔に似合わず、ちょっと呆れるくらい食い意地の張った子で……」
 何の事情も知らないクラフトが、明るく、冗談めかした声で言う。
「ちょ……狸親父……じゃなかった、父さん!」
 勝手な想像に、シアは真っ赤な顔で怒鳴った。
 ぎゃーぎゃー騒がしくなりそうな中、カイルが静かにぽつりと、己の妻であるシルヴィアに尋ねる。
「今日は、楽しかったか?」
 愛する妻の前でさえ、無表情を崩そうとしないカイルは、眼光の鋭さとあいまって、ともすれば、冷淡にさえ感じられる。
 しかし、よくよく見れば、その黒の混じった灰色の瞳の奥には優しい光があり、声には穏やかな愛情が感じられた。
 それは、長い付き合いのクラフトか……彼の愛する妻、シルヴィアにしかわからない、ささやかな変化であったけれど。
「ええ、楽しかったですわ。あなた」
 シルヴィアも夫の態度を誤解することなく、小さな声にきちんと耳を傾けて、翡翠色の瞳でカイルを見つめる。
 やわらかな声には、夫であるカイルと同じく、穏やかな愛情がこもっていた。
「そうか……」
 うなずいたカイルに、妻である女は控えめに、だが、期待をこめて問いかける。
「あなた、明日のご予定はいかがですか?」
「あいている」
 カイルの簡潔な返事に、シルヴィアは嬉しそうに、「では……」と言葉を重ねる。
「では、明日はぜひ、私と一緒に祝祭を回ってくださいね。あなた」
「ああ、わかった」
 カイルが明日の約束をすると、シルヴィアは嬉しそうに、本当に嬉しそうに、花がひらくように微笑んだ。
 相手に好意がなければ、絶対に見せないであろう、幸福そうな笑みだった。
 本来、清楚な美人はあるが、笑うと少し幼く、やや可愛らしい印象になる。
 その微笑みがあまりに綺麗だったので、シアはしばし、それに見惚れずにはいられなかった。そして、シルヴィアさんは本当にカイルおじさまのことが好きなのだと、そう思う。
 今、恋をしているシアからすれば、羨ましいくらいだ。
 (いいなあ……)
 親子のような年齢差だとか、冷たそうな外見とか、そんなことが気にならなくなるくらい、仲睦まじい夫婦の姿が、そこにあった。
「それにしても……」
 妻と明日の約束をした後、カイルは再び、クラフトの方へと向き直り、すまない、と声をかける。
「すまないな、クラフト。この祝祭の忙しい時に、三日間も夫婦で世話になってしまって……」
 クラフトは笑って、
「気にしなくていいよ。招待したのはこっちだし、シルヴィアさんのような美人と一緒なら、大歓迎さ。いつまでもいてくれても、良いくらいだよ」
と、答える。
「そうか……」
 クラフトの言葉に、カイルは至極、真面目な口調でうなずいた。
 冗談なのか本気なのか、にわかには判断しづらいそれに、クラフトはぴくっと頬をひきつらせる。
 お互い、まだ商人として駆け出しだった頃からの、長い付き合いで彼は知っていた。
 真面目で嘘のつけない性格ゆえに、カイルは時々、あからさまな嘘や冗談を真に受ける時があることを……。
「いや、さすがに、いつまでもは冗談だけど……」
 クラフトがややひきつった顔でそう言うと、カイルは無表情のまま、小さく首をかしげる。
「……そうなのか?」
「そうだよ。まったく……カイル、君は昔っから、人がいいというか、なんというか……」
 ……と言いかけたクラフトだったが、ふと、娘の、シアの様子がおかしいことに気づく。
 周りの会話が、まるで耳に入っていないかのように、ぼーっとした表情をしている娘に、クラフトはやや心配そうに、どうかしたの?と声をかけた。
「シア、どうかしたのかい?」
 父親の言葉に、シアは何でもない、とぶんぶんと首を横に振る。
「あっ……ううん。何でもない」
 仲睦まじげに寄り添う、シルヴィアさんとカイルおじさまの姿を見ていると、なぜか昼間のアレクシスの辛そうな表情を思い出して、シアは胸が痛くなった。
 なぜ、そう思うのか、彼女自身、上手く説明は出来ない。
 けれど――
「あ、あたし、今日は少し疲れたし、もう寝ます。おやすみなさい!」
 それ以上、その場にいると妙なことを口な出してしまいそうで、シアは慌てたように、もう寝ると言った。
 疲れたというのは嘘ではないが、理由はそれだけではない。
「……そうかい?じゃあ、おやすみ」
 クラフトは一瞬、怪訝な顔をしたものの、それ以上、娘の態度を追及しようとはしなかった。
「おやすみなさい。シアさん」
 シルヴィアがちょっと困ったような、申し訳なさそうな表情で言う。
「おやすみなさい。カイルおじさま、シルヴィアさん、父さん」
 そう言うと、シアは父親と友人、その妻に背を向けて、早足で自分の部屋へと向かう。
 疲れたから、もう寝る。
 そう言ったものの、今日はよく眠れそうもなかった。
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