女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  祝祭と商人6−7  

 雲ひとつなく、晴れた青空。
 窓からは朝日が差し込み、外の陽気はポカポカとあたたかい。
 この天気ならば、今日の聖エルティアの祝祭も盛り上がり、盛況となることだろう。
 昨日にもまして、祝祭は賑やかなものになるに違いない。
 絶好の祝祭日和というべき、爽やかな朝だったが、彼女、シアの心は爽やかとは程遠かった。
 爽やかな朝、晴れわたった青空とは対照的に、少女の心には暗雲が立ち込めている。

「はあ……」
 ため息、ひとつ。
 ごろん、ごろん、と寝台の上を転がる銀髪の少女。
 髪が乱れるのも、真っ白なシーツがしわくちゃになるのもかまわず、シアは何度も寝返りを打ち、ごろんごろん、と左右に転がった。
「はあ……はああ……」
 再び、大きなため息、ふたつ。
 ごろん、ごろん、ごろごろろん……
 大人が三人は楽々と寝られそうな大きな寝台の上で、シーツにくるまり、まるで芋虫のように体を丸めたシアは、この上なくダルそうな怠惰な表情で、右へ左へごろごろと転がる。
 ごろごろ、ごろん。
 もはや起き上がることすら面倒なのか、シアはシーツにくるまったまま、ごろごろ転がるだけで、起きようという気配は欠片もない。
 そもそも、起きようという気があるのかすら謎だ。
 仮にも年頃の乙女として、お世辞にも、模範的な態度とは言えなかっただろうが、今の彼女にとっては、どうでもいいことだった。
 理由はわからないが、なんとなくダルくて、起きたくない。
 ……いや、考えてみるまでもなく、その理由は明白だった。ただ、それを認めたくないだけだ。
 昨日のアレクシスとシルヴィアのことが、あれからずっと、頭から離れないのだ。
 あの時……
「――悪いが、ついで来ないでくれ」
 今まで見たこともないような険しい表情で、そう言ったアレクシスに、彼女は何も言えなかった。
 硬い声、明確な拒絶、今までだって小さな喧嘩はあったものの、あんな風に、理由も告げずに「ついて来るな」と言われたのは、初めてだ。
 言葉をかけることすら、シアには許されなかった。
「シルヴィアと一緒なのだろう?シア……頼むから、ついて来ないでくれ。俺は、彼女には……シルヴィアには会えない」
 きつく寄せられた眉も、何かに耐えるような苦しげな表情も、彼女にとっては覚えのないものだった。
 その前だって、そうだ。
 何か無茶を言って、たしなめられたり、軽い口喧嘩をすることはあっても、アレクシスがシアを無視するような態度を取ったことは、出会ってから今まで、一度も記憶にない。
 あの青薔薇との時ですら、無視はされなかったのに、今回は違う。
 些細なことで意見が食い違って、彼女が機嫌を損ねた時、彼はいつだって少し困ったような表情で、「シア」と穏やかに名を呼んで、正面から向き合おうとしてくれた。
 それなのに……
「……すまない」
 苦しげな表情でそう言って、自分から足早に遠ざかっていった彼の、アレクシスの背中。
 小さくなっていく青年の背中を見送りながら、シアは駆け寄ることも、その背を追いかけることも出来なかった。
 結局、アレクシスが去り際に口にした「彼女は、シルヴィアは俺の……」という言葉の意味も、謎のままだ。
 あれは、ただ単純に母方のいとこ、とそう口にしたかったのだろうか?
 それとも……
「あ―――!もう!わからないわよ!大体、あたしにわかるわけないじゃない!アイツの、アレクシスの考えてることなんてっ!」
 考えれば考えるほど、頭がぐるぐるしてきて、シアは「あ―――!もう!」と叫ぶと、再び、ごろんごろん、とややヤケ気味に寝台の上を転がった。 
 誰かに言われるまでもなく、こんなことをしていても不毛だと、彼女自身、わかってはいるものの、一向に思考というか、どうするべきか考えがまとまらないのだ。
 このまま放っておいたら、きっと良くない。自分にとっても、おそらく、アレクシスにとっても。
 そんな予感に胸が騒ぐものの、どうすればいいのか、彼女にはわからなかった。
「……」
 窓から差し込んでくる朝日に、寝返りをうったシアはまぶしげに青い瞳を細め、ハーッと重い息を吐く。
 よく晴れた青空は、絶好の祭り日和と言えるだろう。
 屋台の店主やら祭りの関係者も、雨が降らず、今頃、胸を撫で下ろしているに違いない。
 毎年、聖エルティアの祝祭の三日間は、快晴、天候に恵まれることが多いが、もしかしたら、祝祭の由来である聖女エルティアのご加護なのかもしれない。
 しかし、そんな気持ちの良い天気も、シアの気分を浮上させるには至らなかった。
 もう日が昇って大分たつというのに、まだ起き上がる気になれず、寝不足で赤い目をこすりながら、彼女はぎゅっと体を丸めた。
 寝不足の原因は……語るまでもない。
「はぁ……」
 わけもなく心細くなったシアは、思わず、手近にあったウサギのぬいぐるみに手の伸ばす。
 彼女が、ようやく両手で抱え込めるほど大きなそれは、カイルおじさまからの贈り物である。
 置き場所に困って、寝台に寝かしておいたウサギのぬいぐるみを、シアはぎゅうううううう、と抱きしめた。
 ふわふわなそれは、抱きしめていると心地良いが、不安を解消させるまでには至らない。
 ぎゅうう、とウサギを抱きしめながら、シアは唇をとがらせて「アレクシスの分からず屋……」と、呟く。
 昨日、逃げるように何も語らずに背を向けたアレクシスといい、何かを知っているらしいのに何も話そうとしないシルヴィアといい、何もかもわからないことだらけだ。
「何なのよ、昨日のあれは……」
 ただ母方のいとこに会っただけにしては、シルヴィアに対する、アレクシスの態度は妙だった。
 決して、嫌っているとか、親しくないという風ではない。
 むしろ、彼と彼女、シルヴィアとアレクシスの表情や雰囲気からは、単なる母方のいとこというよりも、もっと深い何かが感じられた。
「シルヴィアと一緒なのだろう?シア……頼むから、ついて来ないでくれ。俺は、彼女には……シルヴィアには会えない」 
 何かに耐えるようにそう言い、いとこのシルヴィアとちゃんと話すこともなしに、逃げるように足早に立ち去ったアレクシスの態度も妙だったが、それに対するシルヴィアの反応もまた解せなかった。
 あからさまに避けるようなアレクシスの態度に、文句を口にすることも、怒ることもなく、ただ受け入れていたのがふにおちない。
 切ない、寂しげな顔をして、どこか諦めている風でさえあった。
 なぜなのだろう……?
 アレクシスのこと、シルヴィアのこと、カイルおじさまのこと……ここ数日、いろいろなことがありすぎて、シアの頭の中はぐちゃぐちゃだ。
「……」
 気持ちの整理がつかぬまま、シアはむくっと半身を起こすと、手を伸ばし、鏡台の横に置かれたものを手にとった。
 精緻な細工が施されたそれは、美しい宝石箱である。
 彼女のお守りともいうべきそれは、大好きだった母の形見の品だ。
 (……どうしよう?母さま)
 宝石箱に向かって語りかけるが、残念ながら、亡き母からの答えは返ってはこない。
 彼女は諦めて、宝石箱を再び、鏡台の横に置いた。
 しばらくの間、寝台に座って悩んでいたシアだったが、やがて、そんな自分に嫌気が差したのか、「ああ、もう!我ながら、いい加減、うっとうしいわ!」と、頭をかきながら立ち上がった。
 いつまでも、ここでグズグズしていても、何の解決にもならない。
 何にせよ、行動しないことには、何も出来ない!
「リーブル家の家訓、その一、思い立ったら、即行動っ!」
 自分を奮い立たせるためにそう口にして、シアは寝台から下りると、出かけるための支度を始めた。
 今日は午後から、リーブル商会の人手が足りない部署の手伝いをすることになっている。
 出かけるならば、今しかない。
 アレクシスの屋敷に、彼に会いに行こう。
 会って、ちゃんと話して、それから……
 メイドたちにも手伝ってもらい、支度を終えたシアがハインライン伯爵家の屋敷へと出かけたのは、それからすぐのことだった。


 ハイライン伯爵家の屋敷、その門前へ到着すると、シアは小さく息を吐いて、正面を見据えた。
 結局、彼に会いに、ここまで来てしまった。
 あとは、アレクシスが出かけておらず、屋敷に居てくれることを祈るばかりである。
 何の約束もしていないが、何とかなるだろう。
 そう考えて、シアは屋敷に向かって、一歩、前へと踏み出した。
「あ……」
 門へと近づくと、門の中に入ってすぐのところに、人影が見えた。
 ちょうどいい、呼び鈴を鳴らす手間がはぶけたと、シアは小走りでそちらに近づく。
 駆け寄ってくる彼女の足音が聞こえたのか、門の中にいた人影も、こちらへ、正面へと向き直る。
 同時に、眼鏡越しの緑の瞳が、シアの姿を映す。
「あの、門、あけて」
 門の前へと駆けてきたシアが、そう中に呼びかけると、門の中にいた人影――金髪の青年は、ため息にも似たものをつきながら、やや渋そうな表情で、それでも、きちんと門をあけて外へと出てくる。
 そうして、門の中から出てきた青年、朝だというのに一分の隙もなく身なりを整えた従僕、セドリックはシアの前に立った。
 アレクシスの忠僕な従僕である彼は、くぃと眼鏡を上げ、やや怪訝そうな眼差しを、彼女へと向ける。
 よく教育されているのか、あからさまな不躾というほどの視線ではないが、その怪訝そうな表情は「こんな朝早くから、何の用ですか?」とでも言いたげだった。
 朝早く、しかも、何の約束もしていないのだから、その反応も無理からぬことではある。
 それをわかっているシアは、早く本題に入りたくて、ウズウズ焦りそうになる気持ちを抑えこみ、まずは朝の挨拶を口にした。
「おはよう」
 挨拶されたセドリックは、ふっ、と唇をゆるめて、やや嫌味っぽく笑う。
 それを見たシアが、眉を吊り上げるのも、おかまいなしだ。
 唯一無二の主人であるアレクシスには、最大限の敬意を払うものの、シアからは陰険メガネと称される従僕は、にこやかに微笑んで、おはようございます、と皮肉交じりの挨拶を返す。
「おはようございます。こんな朝っぱらから訪ねてくるなんて、一体、どこの誰かと思えば……貴女ですか。じゃじゃ馬娘」
 なんというか、どう前向きに受け止めたところで、嫌味でしかない。
「あ、あたしで悪かったわね」
 シアがぴくぴくと頬をひきつらせながら、そう言い返すと、セドリックは爽やかな微笑を浮かべたまま、さらり追い討ちをかけてくる。
「いいえ、構いませんよ。当家は誰であろうと、お客様を差別したりはいたしません。たとえ、じゃじゃ馬娘であっても、ね」
「むぐぐぐぐぐぐっ……この陰険メガ……腹黒め……」
 この陰険メガネが―――!と怒鳴り散らしたい気持ちを、シアはギリギリと歯を食いしばり、必死に我慢した。 
 口元にハンカチがなかったのは、幸運だった。
 あれば、きっと食いちぎっていたことだろう。
 一方、従僕といえば、あくまでも涼しい顔で肩をすくめている。
 何か、と首をかしげる仕草も、どことなく白々しい。
「おや?今、何かおっしゃいました?」
「うるさい!あたしはね、ちゃんと用事があって来たのよ!」
 軽いコミュニケーション、または普段通りの和やかな挨拶、もとい嫌味の応酬の後、シアはそう叫ぶと、やや落ち着いて声のトーンを下げた。
 そう、自分はちゃんとアレクシスに会うという目的があって、屋敷を訪ねて来たのだ。
「朝から押しかけて、悪いとは思ってるわ……アレクシスは、いる?」
 いつになく真摯な声で、そう尋ねたシアに、問われたセドリックの側も、どうやら本当に大切な用事のようだと判断したのだろう。
 表情をゆるめて、いいえ、と首を横に振った。
 そうして、皮肉のまじらない、穏やかな声で続ける。
「いいえ……若様ならば、今、外に出られています」
 セドリックの答えに、シアは青い瞳を丸くし、首をかしげた。
 出かけた?
 こんな朝早くに?
 いや、今日は聖エルティアの祝祭の二日目だから、出かけるのは何らおかしなことではないだろうが、それにしても行動が早い。
 まるで、ただの偶然かもしれないが、シアに会うのを避けたようなタイミングだ。
「外へ?こんな朝早くから……」
 不思議そうに首をかしげたシアに、従僕の青年はうなずく。
「ええ、ついさっき、早朝に屋敷を出られましたよ」 
 首を縦に振りつつ、セドリックはそれが何かと言う風に、問い返してくる。
 いきなり訪ねて来たシアといい、早朝から慌しく出かけたアレクシスといい、従僕の彼にとっても、わからないことだらけだろう。
 そのセドリックの問いかけには答えず、シアは顔をしかめて「……逃げたわね」と、呟いた。
「……逃げたわね」
 シアの言葉に、セドリックは眉をひそめ、不愉快そうな声で言った。
「逃げた……ですって?それは、どういう意味ですか?若様に対する侮辱は、許しませんよ」
 不快感を隠そうともしない青年に、シアは違うわよ、と首を横に振る。
「違うわよ。別に、そんな意味で言ったんじゃないわ。あたしは、ただアレクシスに聞きたいことがあるだけ……」
「若様に、聞きたいこと?」
 従僕の青年は首をひねりつつ、シアの言葉を繰り返す。
 その直後、続けられた彼女の言葉に、彼、セドリックは息をのんだ。
 シアはちょっとためらうように、一拍おいた後、その名を口にする。
 美しい、その女性の名を。
「そう。シルヴィアさんのことで……」
 シルヴィア。
 そうシアが口にした瞬間、セドリックは大きく目を見開いて、言葉を失ったように沈黙した。
 強く驚いているのが、呆然と立ち尽くす、彼の表情から見て取れる。
 長いようにも短いようにも感じられる沈黙の後、セドリックはようやく、喉の奥からしぼり出すような声で言った。
「なぜ?……どうして、貴女があの方のことを、シルヴィアさまの名を知っているのですか?」
「それは……」
 シアの返事も待たず、従僕の青年は眉をひそめると、まさか、と信じられなそうな声で続けた。
「まさか、若様が自ら、シルヴィアさまのことを話されたのか……いや、しかし……」
 自分で口にしておきながら、セドリックはすぐに、その考えを打ち消した。
 シルヴィアさまの事は、あれから数年の歳月が流れた今も、若様にとって癒えない心の傷であるはずだ。自分から好んで話すとは、到底、考えられない。
 そもそも、若様は何か辛いことがあっても、良くも悪くも一人で抱え込んで、じっと耐える性格の持ち主である。
 若様が自ら、シルヴィアさまの事を話すとは考え難いにも関わらず、なぜ、このじゃじゃ馬娘が、シルヴィアさまの名を知っているのか?
「知ってるも何も……」
 疑惑の眼差しを向けてくるセドリックに、シアは肩をすくめ、呆れ顔で続けた。
「シルヴィアさんは、今、ウチに泊まっているもの」
「え……?」
 当然ながら、さっぱり理解できないらしい青年のために、シアは説明のために言葉を重ねる。
「シルヴィアさんの旦那さん、カイルおじさまと一緒にね……カイルおじさまは商人で、ウチの狸親父……じゃなかった、父さんとは昔からの友人なのよ」
「……」
「それで、今、ウチに泊まってもらっているの。意味、わかった?」
 シアの説明に、セドリックは疲れたように息を吐き、それでも納得はしたのだろう。
 そんな繋がりでしたか、とうなずく。
「……なるほど。そういえば、シルヴィアさまの夫のカイル=リスティン氏は、名の知れた商人でしたね。商人同士、そんな繋がりもありますか」
 納得しながらも、どこか複雑そうな表情を崩そうとしないセドリックのことが、気にかからないといったら嘘になるが、彼の知っているらしい何かを知りたくて、シアは更に言葉を続けた。
 たとえアレクシスには会えてなくても、彼の従僕であるセドリックならば、シルヴィアさんのことを何か知っているかもしれない。
「父さんが、カイルおじさまとシルヴィアさんに、手紙を送ったのよ。久しぶりに会いたいから、祝祭見物をかねて、王都に遊びに来ないか……っていう手紙をね」
「……そうでしたか」
 セドリックは、静かにうなずく。
 その彼の表情には、言葉にならない、複雑そうな感情がにじんでいた。
 いつも顔を合わせれば、皮肉や嫌味の言い合いになる相手の、意外な様子に戸惑いつつも、シアは昨日、シルヴィアに聞いたばかりのことを口にして、どういうことなのかと問う。
「昨日、シルヴィアさんに聞いたのよ。アレクシスとは、母方のいとこ同士なんだって……」
 それなのに、とシアは唇を噛む。
 彼女の言葉を、セドリックは口をはさむことなく、黙って聞いていた。
「……」
「それなのに、昨日、道でシルヴィアさんと会った時、アレクシスは何も言わずに、逃げるみたいに去っていくし……」
「……」
「何なのよ、一体……?シルヴィアさんも、アレクシスの態度に怒るでもなく、それを当然みたいに受け入れているし、あの二人はどういう関係なの?」
 シアがそう言った時、それまで黙っていたセドリックが、ようやく唇を開く。
「お二人は……」
 その唇からつむがれる声は、過去を懐かしむようでも、あるいは決して戻れないことを悔いるようなものでもあった。
 あくまでも静かな声で、セドリックはシアに告げる。
 アレクシスにとっても、シルヴィアにとっても……そして、セドリック自身にとっても、もう戻れない美しい過去のことを。
「お二人は……若様とシルヴィア様は、幼い頃からの許婚、将来を約束した婚約者同士だったのですよ」
 アレクシスとシルヴィアさんが、幼い頃からの許婚?
 将来を約束した婚約者?
 婚約者……だった?
「え……?嘘……そんな……」
 信じられない言葉に絶句し、思わず呆然とするシアに向かって、セドリックはあえて感情を脇に追いやったような、淡々とした口調で語った。
 もう決して戻れない過去を語ることは、彼にとっても、心に痛みをもたらすことであったけれども。
「本当ですよ。もともとは、お二人のご両親が決められたことでしたが、若様とシルヴィアさまは幼い頃から本当に仲睦まじく、そんなことを関係ないくらいに、お互いの強い絆がありました……愛というには、家族のような繋がりであったかもしれませんが、それでも、私はお二人がこれからもずっと一緒に歩かれるのだと、信じて疑っていませんでした……あの時までは」
 セドリックはそう言って、ほんの一瞬、まぶたを伏せ、目を閉じた。
 今でも、まぶたを閉じれば、鮮明に思い出せる。
 幼い頃の、あの美しい、美しい日々のことを。

 ――幼い子供の頃、若様とシルヴィアさまとセドリックの三人で、近くの森にピクニックに出かけた。
 どこまでも広がる森の緑、小鳥のさえずり、木々の間から差し込んでくる木漏れ日の優しかったこと!
 ふかふかの草の上の布を敷き、若様と二人で横になって、どこまでも見上げた空は青かった。
 シルヴィアさまの作ってくれたサンドウィッチが美味しくて、もっと食べたいという幼い少年たちに、少しお姉さんな金髪の少女は「また今度ね」とちょっと困った風に言って、空っぽになったバスケットをふった。
 近くに流れる春の小川は、水面がきらきら輝いていて、若様と二人で足をつけたら、ぽちゃん、と水がはねた。
 小川の底の石が光の加減で、きらきら宝石のように見えて、若様と二人で両手を入れたら、銀の魚が驚いたようにはねて、ぴちゃん!と小さな飛沫を上げた。
 春とはいえ、小川の水は少し冷たくて、でも、それが気持ち良かった。
 シルヴィアさまは水につかるのをためらっていたけど、若様が手を引いたら、おそるおそる爪先だけ水につけて、ふふ、と楽しそうに笑っていた。
 帰り道、すっかり遅くなってしまって、三人で手を繋いで帰った。
 見上げれば、空には一番星が光っていて、だから心細くなかった。
 何の躊躇もなく手を繋ぐアレクシスとは違って、セドリックは少し照れくさかったのだけれど、それでも、しっかり繋いだシルヴィアさまの手をやわらかくて、あたたかかった。

 ある年の春、若様の大好きだった賢い馬が死んでしまった時、悲しみのあまり、どこかに行ってしまった幼い若様を探し出して、無事に連れて帰って来たのはシルヴィアさまだった。
 星の綺麗な夜、小さな二つの影がよりそっていた。
 あの時も、真っ赤な目をした若様は、シルヴィアさまの手をしっかり握っていた。
 離さぬように、離れぬように。
 自分も必死になって、若様を探していたセドリックはほんの少し悔しくて、でも、シルヴィアさまだったら仕方がないか、と思ったものだった。
 若様を見つめる、シルヴィアさまの翡翠の瞳はいつだって、深い深い優しさに満ちていたから。

 めぐりめぐって、何度目かの春。
 どこまでも広がる平原、緑の草の海の先で、シルヴィアさまが微笑んで手をふっていた。
 金髪がきらきらと陽光にきらめいて、花の香りのする春の風になびいていた。
 若様が、黒髪の少年のそちらに駆けていくのを、セドリックはまぶしいものを見るように見て、我に返って、慌てて、その背中を追いかけた。
 どこまでも、どこまでも。

 いつしか月日は流れ、若様の背はシルヴィアさまの背を追い越して、もう誰も幼い子供ではなくなっていたけれど、それでも、お二人はずっと寄り添っていくのだろうと、セドリックは疑っていなかった。
 ずっと、ずっと、この楽園のような日々が続くのだと。

 ああ、美しい。
 美しい思い出だ。
 もしも、過去に戻れるならば、あの優しく愛しい時間が取り戻せるならば、セドリックはきっと何だってするだろう。それが決して、叶わない願いだと知ってはいても――

 閉じていた目をひらけば、セドリックの眼前には美しい過去ではなく、現実がある。
 現実へと意識を向ければ、彼の目の前では銀髪の少女が、大きな青い瞳を不安気に揺らして、こちらを見つめていた。
 セドリックはハァと嘆息すると、大切な美しい思い出とは異なり、あまり思い出したくない辛い過去を語り出す。
「ですが、数年前にシルヴィアさまのお父上が亡くなると、穏やかな時間は長く続きませんでした……シルヴィアさまの実家であるシューレンベルク家は、当主の死を境に没落し、ついには借金を抱え込むようになったのです。そのすぐ後、不幸にも先代の当主が……若様のお父上も亡くなり、ハイライン伯爵家の側にも、シルヴィアさまの実家を助ける余裕はなくなりました」
 相次ぐ身内の死、不幸な出来事を語るセドリックは、冷静であろうと心がけているようだった。
 淡々とした声がかえって、それが彼にとって、いかに辛いことであったかを示しているようだ。
「……」
 過去を語るセドリックに、シアは口を挟むことも、何か言葉をかけることも出来なかった。
 たぶん、彼女に何か喋って欲しいということもないのだろう。
 黙って、自分の話を聞いているシアに、セドリックはその後どうなったかを語る。
「シルヴィアさまに限らず、没落した貴族の令嬢というのは哀れです。ただでさえ、貴族が衰退している今の時代、助けの手が伸ばされることもなく、悪意あるものたちに財産を根こそぎ奪われる。たとえ絆があっても、引き裂かれることになる……若様とシルヴィアさまのように」
「そんなっ!」
 とても黙っていられず、シアは声を上げた。
 その言いようではまるで、アレクシスとシルヴィアは一緒にいたかったのに、無理やり別れさせられたのような言い方ではないか!
 知らない、そんなことは知らない。
 そんなことって……
「家が没落した後、シルヴィアさまの元へどんな話が持ち込まれたのか、私は詳しく知りませんし、知りたくもありません。ですが……」
 動揺するシアに、セドリックは更に、彼女のとって酷な事実を突きつける。
 続けられた言葉に、シアは耳をふさぎたくなった。
 しかし、いかに拒もうとも、その言葉は彼女の頭に入ってくる。
「婚約者であった若様とシルヴィアさまは、別れることになり、シルヴィアさまは殆ど会ったこともない裕福な商人の元へと嫁ぎました。その代わり、潰れかけていたシルヴィアさまの実家は、持ち直した……その意味は、今更、語るまでもないでしょう?」
 若様は、幼い頃から共に育ってきた、大切な大切な人を金で商人に奪われたのです。
 セドリックの声に、同じ商人であるシアへの悪意は感じられなかった。
 ただ、美しい思い出を失ってしまったむなしさだけが感じられる。
 どこか寂しげな、諦めともいえる表情を浮かべるセドリックに、シアは声を「嘘……」と声を震わせた。
「嘘……だって、アレクシスは一度だって、そんなこと言わなかった……」
「若様は、貴女に話すことはないと思ったのでしょう。若様のことですから、同じ商人である貴女に、わずかでも辛い思いをさせまいと思ったのかもしれません」
「……っ!」
 何も言い返せなくて、シアはただ無言で拳を握りしめた。
 常に若様、若様と……やや傍迷惑なぐらい主人命であるセドリックが、アレクシスを傷つけるような嘘をつくとは思えない。だから、その裏にこめられた感情はどうあれ、事実は事実なのだろう。
 それに、彼女にはひとつ、心当たりというべきものがあった。
 少し前、犯罪組織・青薔薇の首領に監禁され、脅された時、あのアシュレイとかいう男が言っていた。――ハイライン伯爵家の嫡男は、金で商人に婚約者を奪われたのだと。だから、商人のお嬢さん、貴女を助けには来ないと。
 あの言葉を、忘れていたわけではなかったが、全て本気にしたわけでもなかった。
 アレクシスに聞けるような内容でもなかったし、それに、シアを絶望させるために出鱈目を口にした可能性もある。だから、気にしないようにしていた。
 でも、違った。
 あの男、アシュレイは冷酷で、人を騙し傷つけるような悪人だったが、少なくとも、あの言葉だけは嘘ではなかったのだ。
 どうか、嘘であって欲しかったと、今更、シアは祈るような気持ちでそう思う。
「それなら……」
 セドリックの言葉に、心が痛まなかったといえば嘘になるが、それでも何とか気持ちを建て直し、シアは伏せていた顔を上げると、きっと正面を見据えた。
 そうして、幼い頃からアレクシスと共にあり、彼を見守り続けてきた従僕に、彼女が抱いた疑問をぶつける。
「それなら……アレクシスはどうして、シルヴィアさんを前にして、逃げるような真似をしたのよ?子供の時から仲の良かった、大切な人なんでしょう?……どうして、話して、ちゃんと向き合おうとしないのよ!」
 他の事はともかく、シアはそれだけ納得できない。
 アレクシスにとって、シルヴィアさんとの別れは、辛い記憶であることはわかった。
 シルヴィアさんは今、カイルおじさまの妻であるし、それについては今更、どうなるものでもないだろう。
 でも、だからといって、あんな風に言葉をかわすことすら拒絶するような、逃げるようなことをしなくても、良さそうなものだ。
 そんなアレクシスの態度を、シルヴィアさんも諦めつつ受け入れているようだったが、あれが最善だとは、シアにはとても思えない。
 たとえ余計なお世話と言われても、だ。
「……若様のお気持ちは、私にもわかるような気がします」
 シアの言葉を、セドリックは同意することも反論することもなく、ただ黙って受け止めた後、ポツリ、と呟くように言った。
「どういう意味……?」
 理解できないとばかりに、眉を寄せたシアに、セドリックはふっとかすかに微笑い、今日、初めて優しげな表情でシアを見た。
 眼鏡の奥の思慮深げな緑の瞳が、戸惑った少女の顔を映す。
 今まで見たこともないような従僕の青年の表情に、シアは戸惑い、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。
 普段、陰険メガネだのじゃじゃ馬娘だの何だの、他愛もない嫌味やら口げんかをしている時とは、全く違う。
 大切なものを失っても、日常と共にそれをやり過ごし、記憶の奥に沈めることを覚えた、そんな大人の顔だった。
 セドリックはいつになく優しい目をシアに向けると、穏やかな声で、諭すように語りかける。
「美しい思い出を、美しいまま守りたいと願うことは、罪ではないでしょう?あれから、お互いの立場も変わってしまいました。もう、あの時を取り戻すことは出来ないのです……ならば、せめて思い出だけは守りたいと、その願うのが人の情ではないですか?じゃじゃ馬娘……いえ、シア=リーブル?」
 新しい時代の流れと共に没落し、衰退していく貴族。
 失われたもの。
 幼い頃の遊び場だった美しい森も、あの土地も売り払い、人手に渡った。
 美しい日々、美しい土地、美しい思い出――今はもう、二度と取り戻せない。
「……っ!わからないわよ。いくら過去の思い出が美しいかろうが、それが、今から目を背ける理由にはならないじゃない」
 正直、セドリックの言葉に、気持ちが揺らがなかったとは言えない。
 それでも、それを受け入れてしまったら、何かを諦めざるを得ない気がして、シアはうなずく気になれなかった。
 真っ直ぐにセドリックを見つめて、そう言い切ったシアに、従僕の青年はやれやれ、と大きく息を吐き、聞き取れぬほどの小さな声で、独り言を呟く。
「お節介だけど、真っ直ぐな人ですね。貴女は……きっと、若様も、貴女のそんなところに惹かれたのでしょう」
「え……?聞こえない。今、何か言った?」
 声が小さすぎて、何も聞き取れなかったシアは、そうセドリックに問う。
 問われた彼は、元より彼女に聞かせるつもりでなかったのか、何でもないと首を横に振る。
「いいえ、気にしないでください。それでも……」
 首を横に振り、セドリックは「それでも……」と続ける。
 穏やかな、でも何かを諦めたような表情に、シアは胸が痛くなる。
 決して、そんな表情をさせるつもりではなかったのに。
「――私たちの守りたかったものは、あの穏やかな日々は、今はもう過去にしかないのですよ」
 何も言えなくなったシアに、セドリックは「今の話は、私が勝手にしたことです。若様には関係ありませんから、忘れてください」と言い残し、それっきり、彼女に背を向けて、門の中へと戻っていく。
 さっき開いたはずの門が、再び、鈍い音を立てて閉ざされる。
 その背中を見送りながら、シアは何も出来なかった。
 昨日の、アレクシスの時と同じように。
 門がゆっくりと、でも、彼女を拒むように閉ざされる。
 午後からの仕事を控えたシアは、とぼとぼと力のない足取りで、家に帰るしかなかった。
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