女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  祝祭と商人6−8  

「ねぇ、ねぇ、北から仕入れた商品、どこに置いたかわかるー?探したんだけど、まだ見つからないのよっ!」
 祝祭の喧騒の中、シアはそう声を張り上げた。
 いろいろな事があったが、こなさねばならない仕事もあるし、そうそういつまでも落ち込んでいるわけにもいかない。
 アレクシスに会えぬまま、ハイライン伯爵家の屋敷を去った後、彼女は人手が足りないリーブル商会の部署の手伝いに来ていた。
 商品の山が積まれた倉庫の中を、忙しい!ああ、忙しい!と言いながら、両手いっぱいに箱を抱えたシアは、銀髪が乱れるのも構わず、バタバタと忙しげに駆け回る。
 そうしながら、膨大な商品の管理をしている倉庫番に、在庫の数が足りなくないか、ちゃんと確認をしておくのも忘れない。
 すぐに品薄になりそうな商品があれば、お客の注文に合わせて追加しておくのも、彼女たちにとっては重要なのだ。
 両手に三つも四つも、あきらかに身の丈に合わないほど大きな箱を積み重ね、シアはおっとっと、時折、転びそうになりながら、商品の山を運ぶ。
 ほとんど前が見えず、よろよろと、なんだか箱が歩いているようにな見えるのは、ある意味、お約束というやつだ。
「あーもうっ!忙しい!忙しい、いーそーがーしーい……うっ!……舌、噛んだ……」
 忙しい、忙しい!とそう口にしながらも、シアはそれが嫌ではなかった。
 どんな時も、じっとしているよりは、忙しく働いている方が彼女の性格には合っている。
 それに、忙しく仕事をしていれば、あまり余計なことを考えずに済む。アレクシスとのことも、シルヴィアさんのことも、セドリックの言っていたことの意味も……。
 (何よ……アレクシスの奴、逃げることないじゃない!ああ、もう腹が立つ!……それとも、あたしじゃ、話す意味がないってこと……?)
 ぐるぐると出口のない方向に向かっていこうとする思考を、シアは首を横に振って、考えないようにした。
 アレクシスの気持ちがわからない今、シアが何を考えても仕方ないし、答えなど出ない。それをわかっていながら、考えてしまう自分自身に、彼女は呆れる。
 そんな自分に嫌気がさす前に、考えても仕方ないと強引に思考を打ち切ると、シアは目の前の仕事に集中しようと、そう心に決めた。
  ――女王陛下の生誕祭と並んで、この聖エルティアの祝祭の数日間は、一年中でもっとも王都が盛り上がる時であり、リーブル商会にとっても絶好の稼ぎ時だ。
 つまり、祝祭の三日間は一年を通じて、最も忙しい日々でもある。
 そんなわけで、シアは倉庫の中から、異国から仕入れた商品の箱をいくつも運びつつ、それと同時に、商会の者たちから話を聞いて、売れ筋の商品を足しておく。なにか商売の相談があればすぐに聞き、迅速に指示を出す。
 また祝祭の慌ただしさの中で、何かトラブルがあれば、すぐに行って対処することも、リーブル商会の跡取り娘である彼女の役目だ。
 祭りの世話役から、人手が足りないから手伝ってくれと言われれば、数人の見習いを連れて手伝いに行く。それから帰ってきた途端、いくつも相談事を持ち込まれ、自分で判断できるものは判断し、彼女では判断しかねるものは、長である父・クラフトの元へと持ち込む。
 上手く長である父と連絡がつかない場合、先代の長である祖父にも、その件の判断を仰ぐ。
 その間にも、働き通しだった何人かには休憩に出てもらって、その分の仕事を代わる。
 休む間の全くない、まったく目の回るような忙しさではあるものの、シアは忙しい忙しいと口にしても、愚痴や弱音を吐くことはない。それが、アルゼンタール王国一と謳われる、このリーブル商会の後継者である、彼女の役目だからだ。
 そういう意味では、これもまたリーブル商会の次代の長としての、修業の一つなのである。
「よ、よいしょ……っと!」
 気合をいれるために、かけ声ひとつ。
 シアが棚から取った、重い箱を二つばかり、胸の前で抱え込んだ時だった。
 横から伸びてきた腕がさっ、とその大きな箱を取り上げる。
「これぐらい俺が持ちますよ。シアお嬢さん」
 耳慣れたその声に、箱を取り上げられたシアは、慌てて横を向く。
「わっ、カルト」
 横を向いたシアの目に映ったのは、彼女から取り上げた重い箱を軽々と持つ、商人見習い三つ子のひとり、カルトの姿だ。
 いつも三人一緒に行動していることが多い、アルトたち三つ子だが、祝祭の今日ばかりは別行動らしく、そこにいるのはカルト一人だった。
 シアは箱を持ってくれたことに礼を言おうと、口を開きかけ、何故か、そのまま固まった。
「あ、ありが……」
 カルトの言葉も態度も、普段と何も変わらないものだが、その服装は絶句するしかないというか……何とも言いようがないものだった。
 黄緑のひらひら上着はともかく、いや、それもかなりイカれ……いや、なかなか個性的な一品だが、それにどぎついピンクの水玉シャツと派手な紫のズボンを合わせているあたり、やば……いやいや、常人には考えつかないファッションになっている。
 背中にクマとウサギの刺繍があるのも、もはや、どこで買ってきたのそれ!と叫びたくなるような、強烈な印象を与えてくる代物だ。
 祝祭の雰囲気に乗せられたのか、はたまた本人の趣味なのか、あるいはノリでやってしまったのか、普段は地味でも派手でもないカルトの、あまり変貌ぶりに、シアは思わず絶句し、あんぐりと口をあけた。
 と、とはいえ……それを露骨に口にすることはためらわれ、シアは「そ、その服は―――!」と絶叫したい気持ちを必死に抑え込み、「な、なんで……?」と気になったことを尋ねた。
 彼女の記憶が確かなら、アルトたちはポーカー勝負で交代の休み番を手に入れたと言っていたから、てっきり今頃、ナンパやらデートやらに繰り出しているものだと、そう思い込んでいたのだが……違ったのだろうか?
「あれ、なんで……?せっかくの祝祭だし、アルトたちとナンパだがデートだかに行くって、前にそう言ってなかった?今日の午後は休みでしょ、カルト」
 予定が変わったの?とシアが言葉を重ねると、カルトは「いやー」と頭をかいて、首をかしげながら言う。
「いやー、それが街中で可愛い子はいたんですけどねー。まあ、祝祭だし、そういう子は大体、男と一緒で……だけど、そんな感じに独り身のわびしさを噛み締めていても仕方ないんで、広場にいた綺麗なお姉さんや、ケーキ屋の看板娘の可愛い子に、明るく声をかけてみたんですよ……でも、残念ながら、駄目でしたねー」
「……へぇ」
 どこか遠い目をして相槌を打つシアに向かって、カルトは落ち込んだ風でもなく、うーんと腕組みをしながらしゃべり続ける。
「うーん。何がいけなかったんですかね?なぜか今日だけ、俺と目が合う人、合う人、ぎょっとした表情になるのが……めちゃくちゃ不思議なんですよ。もしかして、俺の顔に何かついてます?シアお嬢さん」
「いや、そういうんじゃなくて、その服が原因じゃ……ううん、何でもない」
 間違いなく、その服が原因じゃあああ!という台詞を、シアは喉の奥で、かろうじて飲み込んだ。
 そんな彼女の精一杯の努力も知らず、カルトはどきつい黄緑の服を指でつまんで、シアの忍耐力の限界を試すような言葉を吐く。
「ま、いいんですけどね。今日の夜も、アルトたちと飲みに行くし……ところで、この服、どうですか?シアお嬢さん。近所の服屋の親父から『ええっ?お客さん、本気でその服装で行く気かい?……え、いやいや、アンタがそれでいいんなら、こっちはいいんだけどさ……え?似合ってるかって?いや、うん、凡人には考えつかないセンスなのは、間違えない……え?そのファッションに合う帽子……そこのシルクハットがいいって……いや、もう十分だと思うよ。お客さん』……という感じに、服屋の親父からも、涙ながらに絶賛されたんですけど」
「うっ……服屋のおじさん、ごめん」
 同じリーブル商会の仲間として、シアは名も知らぬ服屋の親父さんとやらに、深く同情した。
「あれ?どーしたんですか?シアお嬢さん、なんか疲れてるみたいですけど……」
 あっけらかんとした口調で、そう言ってくるカルトに、シアは明後日の方向を見ながら、ため息をつくしかなかった。
「何でもないわ……疲れたっていうか、疲れが蓄積していくというか、忍耐力の限界に挑戦してるだけだから、気にしないで」
「そーですか?相変わらず、シアお嬢さんは時々、妙なことしますねー。俺にはとても、真似できません」
「誰のせいだと思ってんのよおおっ!カルトおお!とりあえず、あたしとその服屋の親父に、謝れえええ!」
 見習い三つ子の中でも、カルトが一際、マイペースな性格であることをよく知っているシアは、ぜいぜいと肩で息をすると、何とか気を取り直し、「それより……」と話題を変えた。
「それより、今日は休みなんでしょ?カルト……手伝ってくれる気持ちは有難いけど、せっかくの祝祭なんだし、遊びに行って来なさいよ。ね?」
 せっかくポーカー勝負までして勝ち取った休みなんだから、楽しんできなさいよ、と続ける。
 にっこりと笑顔を浮かべて、シアはそう言うと、カルトの手から商品の入った箱を取り上げ、再び、自分の胸の前で抱え込んだ。
 俺ならいいですよ、シアお嬢さん……とカルトが箱を手放そうとしないのを、彼女は半ば強引に「いいの、いいの!」と説得し、首の高さまである箱を抱えたまま、おっととと、危うい足取りで歩いていく。
 やる気だけは感じられるが、いろいろな意味で、危なっかしい。
 カルトは弱ったように頬をかいて、前を歩くシアの背中を数歩、早足で追いかけ、「手伝いますよ」と声をかける。
「シアお嬢さん、手伝いますよ。どーせ、今まで仕事してて、昼メシも食ってないんでしょう?」
 カルトの言葉に、シアはちょこっと首だけ振り返り、彼を安心させるように、にこっと軽く微笑んだ。
 その笑顔が、どこか無理をしているように見えたのは、カルトの気のせいではないだろう。
 いくら気丈に振る舞おうとも、付き合いの長い相手には、本心を隠し通せるものではない。
「大丈夫、大丈夫!これぐらいで疲れるほど、ヤワじゃないわよ!いいから、あたしに任せておきなさいってば!祝祭は、稼ぎ時よ!」
 から元気かもしれないが、シアは明るい声でそう言い、んしょと箱を抱えなおすと、前を向いて歩いていく。
 そうまで言われては、カルトとしても、あまり強引には出れない。
 ゆっくり遠ざかっていく、少女の背中を見送りながら、彼は「はぁー」と深く息を吐いた。
 そうして、誰に聞かせるでもなく、呆れと感心が入り混じった声で呟いた。
「はぁー、張り切ってるな。シアお嬢さんは」
 カルトのそれは、誰に聞かせる気もないただの独り言だったのだが、なぜか横から「うんうん」という相槌が聞こえる。
「うんうん。本当にねぇ……まあ、あの子は忙しければ忙しいほど、張り切る子だけれど」
 何の気配もせず、いきなり横から声をかけられても、カルトは慌てる素振りも見せず、落ち着いて横を向く。
 これが、同じ三つ子でもアルトやエルトなら驚くなり、声を上げるなりしただろうが、カルトはあくまでもマイペースな性格だった。
 さほど驚くもこともなく、カルトは声をかけてきた、亜麻色の髪の男を呼ぶ。
「旦那様」
 その旦那様――という呼びかけに、亜麻色の髪の男、リーブル商会の当代の長であり、またシアの父親であるその人は、「やあ」と応じて、穏やかに微笑む。
 商会の長である以上、稼ぎ時である祝祭での忙しさは娘のシアとは比較にならないだろうが、それでも髪一筋乱すことなく、余裕の笑みを浮かべ、疲れた表情すら見せないあたりは、さすがに娘とは年季が違うと言うべきだろう。
 穏やかに微笑するクラフトに、カルトは首をかしげながら、少々、気になったことを尋ねる。
「旦那様、いつからここに?」
「いやいや、ついさっきだよ」
 カルトの問いかけにそう答え、クラフトは「君の方こそ……」と、髪と同色の瞳を細めた。
「君の方こそ……今日の午後は、休みじゃなかったのかい?カルト」
 そのクラフトの声に、部下を咎める響きはない。だが、穏やかながら、静かな威厳を感じる声だった。
 若くして、リーブル商会を率いる長の問いかけに、カルトは口をつぐんで、一瞬、黙り込む。
 しかし、結局、その長の声が持つ響きに抗いきれず、渋々と答える。
「アルトとエルトの奴が、シアお嬢さんのことが心配だから、様子を見て来いって……俺は大丈夫だと思うよ、って言ったんですけど……まったく、過保護な兄弟で、ホント恥ずかしいです」
 照れたように横を向いて、ボソボソと言うカルトに、クラフトは「おやおや」と目を細め、さらに笑みを深くした。
「おやおや、不肖の娘が心配をかけてしまって、すまないね。後で、あの子は僕がよ――く説教しておくから、許してくれるかい?でも……あえて言うなら、君もけっこう過保護だと思うよ。カルト」
 クラフトの全てを見透かしたような言葉と、穏やかな微笑みに、カルトは肩をすくめて、「お手柔らかに」と言った。
「どうか、お手柔らかにお願いします。旦那様」
 自分にも、おまけでシアお嬢さんにも……二重の意味をこめてのカルトの言葉に、クラフトはわかっているよという風に、鷹揚にうなずく。
 そうして、リーブル商会の長であると同時に、シアの父親でもある男は、カルトの肩に手をのせると、心のこもった声で言った。
「心配してくれて、ありがとう。感謝するよ……あの子は、本当に良い友達をもった」
「旦那様……」
 何も言えなくなるカルトに、クラフトはふっと優しい表情を浮かべて、「それじゃ」と言った。
「それじゃ、君の心配性なご兄弟にもよろしく。ここは僕に任せて、どうか、祝祭を楽しんでおいで。カルト」
 優しい声でそう言うと、娘の後を追いかけるため、クラフトは踵を返した。
 よどみなく歩いていく、その颯爽とした長の後ろ姿を見つめて、カルトは「はあ」と感嘆の息を吐いた。
「はあ……旦那様には、たぶん一生、叶わないな」
 それは、決してお世辞ではなく、カルトの本心である。
 天才商人と言われる、クラフト=リーブル。
 創業者であるエドワード=リーブルに劣らぬ、その優れた商才を評価する者は多いが、本当に評価するべきなのは、いかなる時も人の心を掴む、その才能であると思う。
 それは天性のものであり、シアお嬢さんが父親を時に、狸親父と呼ぶゆえんだ。
 ああして、シアお嬢さんを心配してるのは、きっと狸も人の親であるからだろう。
「せっかくだし、夜はアルトたちと飲みに行くか……あ、ついでに服屋の親父も誘おうかな」
 そう言いながら、己の役目は終わったとばかりに、カルトは伸びをした。

「シア」
 一方、その頃、後ろから声をかけられたシアは、歩くのをやめて、立ち止まった。
 彼女は後ろを振り返り、小首を傾げ、「父さん……?」と言う。
「あれ、父さん……?祭りの世話役との話は、もう終わったの?」
 クラフトはうなずいて、シアの手から重い箱を取り上げた。
「うん。ついさっきね……これは、僕が持っていくよ、シア。まだ昼も食べてないんだろう?少し休憩を上げるから、外に出てくるといい」
 父親の言葉に、シアはふるふると首を横に振る。
「んー、別にいい。そんなにお腹も空いてないし、大丈夫よ。父さん……それより、他にも仕事が残ってるでしょう?こっちは、平気だから」
 クラフトは心配ないと爽やかに言い切り、
「いや、大丈夫さ。僕の仕事も、手分けして、父さんに手伝ってもらってるしね」
と、続けた。
「祖父さんが?」
「そうそう」
 全く心配ないと、自信満々に請け負うクラフトに、シアはじーと何処か白い目を向けた。
 クラフトの父であり、シアの祖父である、エドワード。たった一代でリーブル商会を国一番へと押し上げた手腕は、奇跡を通り越し、伝説でさえある。商人としてはこの上なく優秀、仕事が出来ることは疑いようもないが、しかし――
「そんな任せて、大丈夫?毎度毎度、祝祭っていうと、祖父さんが酒に酔ってるイメージしかないんだけど……」
 いささか不安を感じて、シアはそう言わずにはいられなかった。
 祖父は伝説の商人だが、同時にどうしようもない酒好き、女好きでもある。
 なんというか……不安だ。
「ははっ……あれでも、父さんはリーブル商会の築いた人だからね、大丈夫だよ。まあ、息子の僕でも毎度毎度、祝祭の時期になると、酔っぱらってる姿しか見たことないけど、たぶん平気さ!……たぶん、ね」
 微妙に不安を煽る言い方をしながらも、クラフトは明るく笑うと、ぐっ、と親指を立て、シアの体をぐいぐいと無理やり、倉庫の出口の方へと追いやった。
 どうやら、是が非でも、シアを外へ出したいらしい。
 根を詰めすぎないで、ちょっとは休憩しろという親心なのかもしれないが、正直、強引すぎる。
「ちょっ、父さん、何するのよっ!」
 シアはぐぐぐ、と足に力を入れて、その場に踏み留まろうとしたが、結局、クラフトに背中を押されて、倉庫の外へ出された。
 彼女は頬をふくらませ、納得いかなげな不満顔で、自分を外へと出した父親を見たが、クラフトは穏やかな微笑を浮かべたままだ。
「いいから、ちょっと外の空気を吸ってきなさい。周りに心配ばかりかけるようじゃ、しっかりした一人前の商人とは言えないよ。シア」
 穏やかな笑み、だが、反論を許さぬ口調でクラフトはぴしゃりと言うと、しばらくは入れないというように、シアの目の前で倉庫の扉を閉める。
 ギシシ、と音を立てて、倉庫の扉が閉められるのを、シアは青い瞳を見開いて、半ば呆気にとられながら見ていた。
 しばらくし、ようやく我に返って、倉庫の中にいるクラフトに、シアは「ちょ、父さん、父さん!」と呼びかけたが、予想通り返事はない。
 どうやら、父は本気のようだった。
 それを悟ったシアは、扉を開けてもらうのも、仕事に戻ることも諦めて、深々とため息をつく。
「はー、みんなして何なのよ?もう……」
 ため息をついて、首を横に振り、でも、とシアは小さな声で呟いた。
「……本当は、わかってるんだけどね。何かと、心配してくれてるってことは」
 父さんやカルトたち……みなが自分のことを心配し、時に厳しいことを言っても、見守ってくれていることには感謝している。
 でも、それを素直に受け止めきれないのは、やっぱりシアの心が未熟で、子供だからなのだろう。
 ……悔しいが、父さんの言う通りだ。
 周囲に心配ばかりかけているようでは、一人前の商人になることなど、夢のまた夢である。
 しっかりしなければ、とシアは唇を噛み締めた。
 そう、頭ではわかっている。皆に心配をかけたいわけでは、決してない。落ち着いて、普段通りでいるべきなのだ。でも、それが、どうしても出来ない。アレクシスのこと、シルヴィアさんのこと、考えるたびにシアは嫌でも心を揺らされる。そんなことを、少しも望んでいないのに……。
 (ああ、なんか頭がぐるぐるする……恋って、人を好きになるって、こんなに大変なことだったっけ?恋って、もっとふわふわして、綺麗で楽しいものだと思ってた……)
 (そう思ってたのに、なんか胸が痛いし、苦しいし、不安ばっかりなのに……なんで、あたしはアレクシスのことを、こんなに気にかけてるんだろう……これって、本当に恋なのかな?)
 (あたしは……どうしたいんだろう?あたしは、どうすればいいんだろう?)
 シアはうつむいて、答えを欲するように、そっと胸に手をあてた。
 恋を自覚した時は、怖いものなんて何もないように感じたのに、今ではまるで出口のない迷路に迷い込んだようで、不安で不安でしょうがない。本当は、引き返せるものなら、今にも引き返したくて仕方ないのだ。
 もし、胸に芽生え始めた、この感情を捨てれるものなら、捨ててしまう方が楽だと思う。でも、捨てられないし……本当は、どんなに苦しくても、捨てたくないのだ。
 ――この心を、この想いを。
「……」
 シアはちらり、と倉庫の方へと視線を向け、やがて、諦めたように祝祭でにぎわう、王都の中心部へと歩き出した。
 昼食を済ませて戻れば、父さんも納得するだろう。
 正直、あまり食欲はないが、何かお腹に入れた方が、気持ちも落ち着くに違いない。
 そう考えて、シアは王都の大通りをぶらぶらと歩いて、屋台かレストランか、とにかく何か食べれそうな場所を探した。
 聖エルティアの祝祭の二日目、初日や最終日には及ばぬとはいえ、大通りは相変わらず、人、人、人で埋め尽くされる勢いで、道行く人と肩がぶつかりそうになる。
 笑い声、歓声、あまり熟練したとは言えない吟遊詩人の演奏、恋人たちの甘いささやき。
 ただ大通りを歩いているだけで、聞くともなしに、大勢の音が耳に流れ込んでくる。
 そんな大通りの店先は、工夫をこらした飾りや季節の花々でうめつくされ、また夜の訪れにそなえて、色とりどりのランタンが吊るされている。
 ひとたび日が落ちれば、それらのランタンにはいっせいに灯りがともされ、祝祭の夜を美しく、あざやかに、また幻想的に染め上げるのだ。
 華やかな王都の街並みを横目で見ながら、シアはきょろきょろと首をふり、何処か入れそうな店を見つけようとする。
 普段なら、生粋の王都育ちの彼女にとって、このあたりはいわば庭のようなもので、入る店に困ることなどない。
 しかし、祝祭で込み合っている大通りのレストランは、昼食時はだいぶ過ぎているというのに、まだまだ混み合っていて、そうそう空いている席が見つけられそうになかった。祝祭の期間は、毎度、毎度のこととはいえ、凄まじい混みっぷりである。
 まあ、いいか、屋台でなんか買えば……そう思って、シアが屋台の方に足を向けようとした時だった。
 少し離れたところで、店から出てくる、黒髪の青年の姿が見えたのは。
 それは偶然というには、いささか出来すぎていて、たぶん運命というほどには重くはなかった。
 (……アレクシス?)
 大勢の人であふれかえる大通りで、彼の姿を見つけたのは、幸運だったのか、それとも……
 シアは大きく目を見開いて、店の中から出てきたアレクシスを見つめて、その場に立ち尽くした。
 どうしたらいいのか、会えて、姿が見れて嬉しいのか悲しいのか、もはや、それすらわからない。
 何とも言い難い、複雑な感情が胸を支配する。
 彼にこちらに気づいて欲しいという気持ちと、心が乱されるからシアの存在に気づかないでという想い、二つの矛盾するそれの、一体、どちらが強いのか、彼女自身、決められない。
 ――あたしに気づいて、でも、どうか、こっちを見ないで、お願いだから……。
「……」
 シアの声なき叫びが、アレクシスに聞こえたはずもない。だが、何か視線を感じたのか、黒髪の青年はふっと横を向いて、彼女の方を見た。
 彼女が心から恐れ、待ち望んでいた瞬間が、訪れる。
 アレクシスの漆黒の瞳が、シアの姿を映した。
 彼は、表情を変えない。
 一秒、二秒、三秒……彼と彼女は、一言すら発さず、ただお互いを見つめ合う。
「……っ!」
 先に、その空気に耐え切れなくなったのは、アレクシスの方だった。
 彼は苦しげな表情で、ふいっとシアから視線を逸らすと、昨日と同じように、彼女から逃げるように踵を返し、足早に歩き出す。
 逃げるという言い方は、正しくないのかもしれない。少なくとも、アレクシスは否定するだろう。
 そう、彼はただシアとまともに目を合わすことを、言葉を交わすことを拒んだだけだ。たったそれだけのこと、責められるようなことではない。
 でも、それはシアにとっては、逃げられたのと同じだった。
 去っていく彼の背中が、どこまでも遠く、願っても手が届かないものに思える。それが嫌で、どうしても許せなくって、シアは「待って!」と叫んだ。
「待って、待ちなさいよ!」
 衝動に突き動かされるように、シアはアレクシスの背中を追いかけた。時折、人と人の間にうもれそうになりながらも、彼を見失うまいと必死に、がむしゃらに追いかける。
 上手くは言えないが、アレクシスとこのまま別れたら、何も聞けない気がした。
 昨日と同じことを、また繰り返すわけにはいかない。
「……」
 祝祭でにぎわう大通りで、追いかけっこのような真似をすることに気がとがめたのか、アレクシスは店と店の間、細い路地のような場所に入っていく。
 シアも複雑な想いを抱えながら、そんな彼の背中を追いかけ、ついて行った。
 大通りを離れ、細い道に入ってからも、駆け足にも近い速さで歩いていたアレクシスだったが、やがて昨日と同じキリがないと踏んだのだろう。
 ゆるやかに歩調を緩め、嘆息しながら、彼はその足を止めた。
 そうしたことで、ようやくシアが彼に追いつく。
 彼女と正面から向き合わず、背を向けたまま、アレクシスはシアに問いかける。
「……俺に、何か用か?」
 低く、どこか重苦しい響きを持つ声に、シアは顔を赤くし、怒りと苛立ちをあらわにする。
「それを言う前に、アンタが逃げたんでしょーが!大体、あたしは用がなきゃ、いちいち人に話しかけることも出来ないの!……ちゃんと聞いてるの?アレクシス!」
 言葉や声の調子から、シアの怒りの度合いを感じ取ったのだろう。
 アレクシスは「すまん、悪かった」と言いながら、初めて彼女と向き合うと、まともに視線を合わせた。
 しかし、次に彼の唇から発せられた言葉が、またまたシアの神経を逆なでする。
「シルヴィアは……?」
「そんなの見ればわかるでしょ!シルヴィアさんとは、一緒じゃないわよ!」
 怒ったような声で、シアがそう答えると、アレクシスは「……そうか」と小さくうなずいて、その身に帯びていた張りつめた空気を、やっと少し緩めた。
 そうした彼の態度を見て、シアも苛立ちと怒りで熱くなっていた頭が冷え、落ち着いてくる。
 彼女はわずかに上向いて、うつむくアレクシスの横顔を見つめ、どうして……?と問いかけた。
「どうして、そんな逃げるような真似をしてまで、シルヴィアさんに会いたくないの?だって……」
 一瞬、それを言葉にすることをためらい、迷ったものの、シアは続けた。
「だって、聞いたわ。アンタとシルヴィアさんは、母方のいとこ同士で、子供の頃から一緒に育ったんでしょ?姉弟みたいに、仲が良かった……って、それなのに、どうして会わないように逃げたりするのよ?」
 シアの言葉を、アレクシスは目を伏せ、黙って受け止めた。
 彼が何も答えない以上、自分から婚約者云々の話を持ち出すことには抵抗があり、シアも口をつぐむ。
 長くも短くもない沈黙の後、重苦しいため息と共に、アレクシスが唇を開いて、シアに問い返す。
「それだけか?シア……俺とシルヴィアのことで、他に聞かされたことはなかったか?」
 彼の問いに、シアは答えたくなさそうに口をつぐみ、視線を逸らしかける。彼女にとっては、あまり己の口から言いたいことではなかった。
 しかし、こちらを見てくるアレクシスの静かな眼差しに折れて、シアはそれを口にした。
「アンタとシルヴィアさんは、親同士が決めた婚約者だったって、あたしはそう聞いたわ。シルヴィアさんが、カイルおじさまに嫁ぐまでは……それって、本当のこと?」
 商人に金で買われた、没落貴族の妻という言葉を、シアは口にしなかった。
 二人の間に何があったのかを、彼女は知らないし、そんなカイルおじさまとシルヴィアさんの人格を貶めるようなことを、口が裂けても言いたくない。
 お互いを大事にしているとわかる、仲睦まじい夫婦の姿を見ていれば、尚更だ。
「その通りだ……俺とシルヴィアは、親同士が決めた婚約者で、幼い頃からずっと一緒に育った。セドリックも一緒にな」
 隠そうとか偽りを言う気は、最初からないのだろう。
 覚悟を決めたように、過去について話すアレクシスの口調には、迷いがなかった。
「親同士が決めた婚約だったからな……幼い頃は、その言葉の意味すら知らなかった。子供の時は、ただシルヴィアと一緒に過ごせるだけで、それだけで良かった。春は皆で野原を駆け、夏は小川で水をかけあい、秋は森に果実を拾いに、冬は一緒に夜空を見上げた……」
 過去の思い出を語るアレクシスの表情が、どこか切なげで、でも優しくて、シアは何も言えなくなる。
 四季折々、共に積み重ねた月日と絆、その思い出は彼にとって大切なものなのだと、何があっても捨て去ることのない記憶なのだと、それがわかってしまったから。
 知りたかった。でも、知りたくなかった。だって、それは彼女には絶対に、どうしたって手に入りようのないものだ。
 どんなに望んでも、過去を想いを、自分のものには出来ない。
 胸がしめつけられるような、そんな切なさを味わいながら、シアはかすかに震える声で、アレクシスに問いかけた。
「シルヴィアさんのこと……好きだったの?」
「……大切な人だった」
 言葉を選ぶような一瞬の沈黙の後、アレクシスは静かな声で言った。
「シルヴィアは……幼い頃から共に居すぎて、婚約者というより、大切な家族のような存在だった。おそらく、恋とか愛とかいう言葉は、あまり相応しくはないだろう。だが……」
「……」
 シアは前を向いて、口を挟まず、アレクシスの言葉を受け止める。
 大切な人だった、と彼は言った。
「だが……大切な人だった。俺はシルヴィアを守りたかったし、彼女に幸せであってほしかった……失いたくはなかった」
 それは、アレクシスの偽らざる本心だった。
 嘘をつかないという意味では、その言葉は誠実であっただろう。でも、それだけにシアの胸は痛んだ。嘘をついてくれても良かったのにと、こっそり心の片隅で思う。
 そうしたら、自分もこれ以上、アレクシスの心に踏み込もうとは思わなかったのにと……。
 でも、その言葉に嘘がなかったからこそ、シアもそれに正面から向き合うしかなかった。
 彼女は顔を上げると、曇りのない青い瞳でアレクシスを見つめ、彼がそれに苦しげな表情をするのもかまわず、「大切な人だったなら……」と言う。
「大切な人だったなら……なんで、あの時、シルヴィアさんとちゃんと向き合おうとしないで、逃げるような真似をしたの?傷つけるのも、自分が傷つくのも、わかっていたでしょう?……答えてよ、アレクシス」
 真っ直ぐなシアの視線と言葉に、アレクシスは苦しげに眉をひそめ、顔を歪めた。それでも、答えないことは卑怯だと考えたのだろう。
 喉の奥から絞り出すような声で、彼は答える。
「大切な人だからこそ、だ……昔の俺は、婚約者だったシルヴィアを守れなかった。子供の時から、彼女はいつだって俺のことを見守り、姉のように導いてくれたのに……俺は彼女が大変な時、実家の為に己を犠牲にしようとした時、何もしようとしなかった。助けの手ひとつ、差し伸べようとしなかった」
「それはそうなのかもしれないけど……あたしの見る限り、シルヴィアさんは今、幸せそうよ。カイルおじさまも、優しい人だし……それじゃ、駄目なの?」
 シアがそう言っても、アレクシスは頑なな表情で、首を横に振る。
「シルヴィアだけが、問題じゃない。俺自身の気持ちの問題だ。俺は、彼女を守れなかった、過去の俺を許せない……シルヴィアも今更、俺に会いたい理由もないだろう。だから、もう話さない。話す資格もない」
「……」
「俺はそのことを一生、忘れずに、後悔を背負って生きていく。それが……俺がシルヴィアの為に出来る、唯一の償いだ」
 いろいろと言ってやりたいことはあったものの、シアは我慢して、アレクシスの言い分を聞いていた。が……その言葉を耳にした瞬間、ぶちっと我慢の糸が切れる。もう耐えきれない!
「……言いたいことはそれだけ?」
 地の底を這うような低い声でそう言うと、シアはずんずんと荒い足取りで、アレクシスの方へと歩み寄る。
 虚を突かれたように、彼が一歩、後ろへ下げるのも気に留めず、あと一歩の距離まで、アレクシスに近寄ったシアは、怒りに燃える目で彼を睨んだ。白磁のような肌が、興奮で朱に染まっている。
 青い目の奥に、ちらちらと焔が揺れていて、その鮮やかさに、アレクシスは一瞬、状況も忘れて、その美しさに目を奪われそうになる。
 黒髪の青年に歩み寄った銀髪の少女は、すう、と息を吸うと、
「過去だの償いだの、何を馬鹿なことを言ってんのよっ!アレクシス!この弱虫がっ!」
と、大きな声で怒鳴った。
「……くっ」
 耳元で一喝されたアレクシスは、顔をしかめる。
 そんな彼に、シアは畳み掛けるように言った。
「守れなかっただのなんだの、ぐだぐだ言ってるけど、結局、アンタは怖いだけなんじゃないの?アレクシス!……シルヴィアさんと向き合って、責められるのが怖くて、嫌なんでしょう?だから、失った過去だけを見て、今を見ることを拒んでる。違う?」
「シア……」
 アレクシスが驚いたように、目を見開いた。
 ――強すぎる言葉は、時に、人を傷つけてしまう。
 それを知っていても、シアは言わずにはいられなかった。
「失った過去を後悔し続けることなんて、一人だって出来るじゃない!向き合うべき相手がいるのに、なんで勇気をもって、向き合おうとしないのよ!そんなの……そんなの悲しすぎるじゃない!」
 叫ぶようにそう言いながら、シアはこの男は……アレクシスはどうして、こんな不器用な生き方しか選べないのだろうと、そう思わずにはいられない。
 生きていく上で、過去を背負わぬ人間などいない。でも、過去に囚われて生きていくだけが正しいとは、どうしても思えない。
 それなのに、アレクシスもセドリックも……穏やかに微笑むシルヴィアさんでさえ、戻れない過去に囚われているように、彼女の目には映る。
 いや……シアだって、それは同じだ。
 本当に前だけを見れるなら、過去を振り返る必要などない。アレクシスがどんな過去を背負っていようが、見ないふりをして、気づかぬふりをしていればいい。それなのに……それなのに……!
「はっ、ぁ……」
 声を張り上げすぎて、息を切らせるシアを、アレクシスは複雑そうな表情で、でも、どこかまぶしげに見つめた。
「……シア」
 彼女の名を呼ぶと、アレクシスは手を伸ばし、震えるシアの肩にそっと手をおいた。
 シアは驚いて青い瞳を見開くと、仰向いて、己の肩に手をおいた青年の顔を見つめる。
 肩におかれた手、触れられた箇所が、熱く感じる。
 上からふってきた声は、怒りはなく、穏やかだった。
「きっと、貴女の言葉は正しいんだろう。シア……俺は臆病で、しかも、救いがたいくらい愚かな男だ。罵ってくれても、嘲笑われてもかまわん……前を向ける貴女を、心底うらやましいと、美しいと思う。でも……」
 シアを見つめる、アレクシスの漆黒の瞳は、どこまでも穏やかで、優しい。それなのに、続けられる言葉は、拒絶でしかなかった。
「――すまない。俺は貴女のようには、生きられない」
 己の肩から、彼の手が離れるのを、シアはただ見ていることしかできなかった。
 そんな彼女に背中を向けて、アレクシスは去っていく。
 ゆっくり遠ざかっていく彼の後ろ姿を、シアはどうしても追いかけられない。
 彼女は拳をにぎりしめると、遠ざかっていく青年の背中に向かって、大声で叫んだ。
「この……っ!アレクシスの分からず屋―――――――――っ!」
 シアの声が聞こえていないはずもないのに、アレクシスは背を向けたまま、一度として振り返ろうとはせず、どこかへ去って行った。


「はあ……」
 結局、その後、仕事しに戻ったシアは、アレクシスとは会えなかった。
 商品の宣伝や管理はもちろん、明日の祝祭の最終日の打ち合わせ、他にもやるべきことは色々とあり、彼女が家路を辿るころには、すでに日は沈みかけていた。
 夕焼けに染め上げられつつある王都は、相変わらず、どこもかしこも人にあふれていて賑やかだ。
 太陽に照らされた、女王陛下の都は麗しいが、夕日に染まりつつある王都もまた、昼間とは違う魅力がある。
 昼間は食事を出していた店は、いそいそと一度、看板を下ろして、夜は酒場へと姿を変える。そのための準備に走り回る店員もいれば、その横では小さな子供が親に手を引かれ、名残惜しげに家へと帰っていく。かと思えば、祝祭の夜を謳歌しようと、酒場へと繰り出す若者たちも多い。
 そう、祝祭の夜は長く、夜とは思えぬほど華やかで、そして、この上なく盛り上がる。
 老若男女、皆、楽しまなければ、損と言うものだ。
 夕闇に染まりつつある道を、シアはとぼとぼと……いささか疲れた風な、力のない足取りで歩いていく。
 遠くもない家までの距離が、なぜだか今日だけ、やけに遠く思えた。
 心なしか、足がとてつもなく重く感じる。
 そんな彼女の目の前で、向かいの花屋の看板娘が、店先に吊るしたランタンに灯りをともした。
 同時に、ふわっと柔らかな光が、周囲を照らした。
 夕闇に染まりつつある王都で、そのランタンの光はやわらかく、また何処か幻想的ですらあった。
 灯りをともした花屋の娘は、シアと目が合うと、にこっと微笑う。ランタンに照らされた、その金髪がきらきらと輝いて、美しかった。
 そんな花屋につられて、周囲のほかの店々も店先に吊るしたランタンに、次々と火をともしていく。
 闇夜を照らすランタンは、祝祭の乙女と同じく、聖エルティアの祝祭の名物とも言うべき存在だ。
 大通りに並んだ店々も、おのおの工夫をこらし、色や形もとりどりのランタンを店先に吊り下げている。
 まだ日が沈みきれぬ今は、ぼんやりとした淡い光であるが、もうすぐ周囲が夜の闇に包まれた時、それらの色とりどりの灯りが、さぞや映えることだろう。
 その美しさをよく知っているにも関わらず、今は少しも心が踊らないシアは、ただ黙々と家路を辿る。
 疲れた風な、重い足取りで歩いていたシアだったが、家まであと少しのところで、急にその歩みを止めた。
「あっ……」
 家のすぐ前に、人が立っていたからだ。
 ゆるやかに波打つ黄金の髪が、夜風にふかれてなびく。
 上を向いて、夕焼けから夜の闇へと移り変わる空を仰ぐその人の、翡翠色の瞳が何を見つめているのか、シアにはわからなかった。
 ただ、その祈るような横顔が美しく、簡単に声をかけてはいけないものに見えて、シアはその人の名を呼ぶことを、ほんの一瞬、ためらい、結局、ささやくような小さな声で、空を仰ぐ彼女の名を呼ぶ。
「……シルヴィアさん」
 シアの声が届いたのか、空を仰いでいたシルヴィアは、ゆっくりと彼女の方を向いた。
 黄金の髪がふわりと揺れ、薄紫のドレスの裾がひるがえり、翡翠の瞳がシアを映す。
 シアを見ると、シルヴィアは嬉しそうに微笑んで、「お帰りなさい」と言った。
「お帰りなさい。シアさん……ふふ、気がつかなくて、ごめんなさい。少し空を見ていたものですから」
 シルヴィアの言葉に、シアは首を横に振り、不思議そうな顔をした。
 ちらっと空を仰いだが、ようやく一番星が見えたくらいで、特に変わったことは何もない。
「いえ、空って……何かあるんですか?シルヴィアさん」
「そういうわけではないんですの。ただ、もうすぐ夜になるのが待ち遠しくて」
「夜になるのが、待ち遠しい?」
 きょとんとするシアに、シルヴィアは「ええ」と微笑んだまま、うなずいた。
「ええ、あの人が……夫が前に言いましたの。麗しの女王陛下の都、昼間の王都は美しいが、祝祭の夜の王都はさらに美しい、と」
「……カイルおじさまが?」
 シルヴィアはうなずくと、翡翠色の瞳を細めて、夫であるカイルに教えてもらった、とある詩人の言葉を口ずさむ。
 歌うような、やわらかな声で。
「『――麗しの女王陛下の都、太陽の下では貴女は優雅なる淑女、月光を受けし貴女は、無垢なる夜の乙女、いずれも恋の如く、我が心を掴んで離さぬ』……そう教えてもらったのですけど、あっているかしら?」
「ええ、あってますけど……あの、カイルおじさまが、本当にそう言ったんですか?」
 シアは何とも複雑そうな表情で、そうシルヴィアに尋ねる。
 それは、王都の美しさを讃えると同時に、詩人が想い人に捧げたという、熱烈な求愛の歌でもある。
 あの鉄面皮、普段、眉ひとつ動かさないカイルおじさまが、一体、どんな表情でそんなことを言ったのか、シアには想像もつかなかった。
「ええ、教えてくれたのですけど……あの人ったら、照れくさいのか、顔を詩集で隠して、絶対に手放そうとしないんですのよ。私、もう……そちらの方がおかしくて……」
 思い出したように、クスクスと軽やかに笑うシルヴィアに、シアも思わず、苦笑せずにはいられない。
「なんていうか……ロマンチックなんだか、何なんだか、でも、カイルおじさまらしいですね」
 シアがそう言うと、妻のシルヴィアもふふ、と笑顔でうなずいた。
「ふふ、私もそう思います」
 その笑顔に少しだけ、ささくれ立っていたシアの心も和む。
 シルヴィアは微笑みながら、肩にかけていたショールをはおりなおすと、その翡翠の瞳を、ランタンの灯りに照らされた大通りの方へと向けた。
 気が付けば、辺りはすっかり薄暗くなり、王都の至るところで、色とりどりのランタンの灯りがともされ、幻想的な光景を作り出していた。
 店と店の間に、ふわりとやわらかい光が、いくつも踊っている。
 色とりどりのそれは、まるで夜に咲く、花のようだ。
 夜の暗闇の中、その淡い光はひとつの奇跡のようで……言葉にならぬほど美しい。
「……綺麗ですね」
 それ以外の言葉など浮かんでこないというように、シルヴィアが言う。
「はい……本当に、綺麗ですね」
 色々なことがあり、ゆっくり祝祭を楽しむ余裕がなかったシアも、その言葉にはうなずくしかなかった。
 雲一つない夜空には、金色の月といくつも星々がきらめている。
 夜の闇に包まれた王都を照らすのは、ランタンの、淡い、淡い、光の華――。
 遠くからは、澄んだ楽器の音色と、誰かの歌声が聞こえてくる。
 夢のような幻のような、それほどまでに美しい、美しい光景だ。
 しばらくの間、彼女たち二人は言葉もなく、その幻想的な光景を見つめていた。
「シルヴィアさん、あたし……」
 どれほどの時間が流れただろう。
 シアが迷うように、ゆっくりと唇を開いた。
「はい、何でしょう?シアさん」
 穏やかな翡翠色の瞳で見つめられ、シアは一瞬、言葉が出なくなる。でも、精一杯、気持ちを奮い立たせて、その続きを口にした。
「今日……アレクシスと従僕のセドリックと会って、その時に、シルヴィアさんのことも聞きました。子供の頃から、ずっと一緒に育ってきた婚約者だったって……それが、いろんなことがあって別れて、シルヴィアさんはカイルおじさまと結婚することになった、と」
「……」
 シアの言葉を、シルヴィアは何も言わず、穏やかな顔つきで、ただ黙って聞いていた。
「美しい思い出は、失った過去は、もう二度と取り戻せないと、アレクシスもセドリックも、同じことを言ってました。シルヴィアさんも……」
 そこで言葉を切ると、シアは顔を上げて、正面からシルヴィアを見つめる。
 自分のことじゃないのに、泣きたいような、切ないような、この気持ちは何なのだろう。
 胸にこみあげてくる感情をこらえながら、シアはシルヴィアに問いかけた。
「シルヴィアさんも……もし、昔に戻れるのなら、戻りたいですか?美しかった過去に」
 それは、シア自身でも何が言いたいのか、よくわからない問いかけだったが、シルヴィアは決して笑わなかったし、曖昧に誤魔化すこともしなかった。
 シアの視線を正面から受け止めたシルヴィアは、微笑を浮かべると、はい、ともいいえ、とも答えず、まったく別のことを言う。
「あの、ウサギのぬいぐるみの約束……シアさんは覚えていらした?」
「え……?」
 予想もしなかったシルヴィアの言葉に、シアは目を丸くする。
 ウサギのぬいぐるみ……?
 カイルおじさまがお土産にくれた、あれのことだろうか?
 意味がわからず、きょとんとした顔をするシアに、シルヴィアは無理もないと言いたげにうなずいた。
「驚くのも、無理はありませんわ。十年近くも前、子供の時の約束でしょう?私、最初、止めたんですの……シアさんも忘れられているかもしれませんし、子供の時とは、欲しいものも変わっているでしょう?でも、夫は約束だから、どうしても……と」
「カイルおじさまが……」
 たかが六つか七つかの子供とした約束を、カイルおじさまはずっと、覚えていてくれたのだろうか。
 自分はとっくの昔に忘れてしまっていたのに、とシアは思う。
 そんな彼女に優しい目を向けて、シルヴィアは「ええ」とうなずく。
「ええ、ここに来る前に、夫がそう言っていましたわ。貴女のお母様がお亡くなりなった後、心配でしばらくリーブル商会に滞在していたけど、どうしても仕事の都合で帰らなくてはいけなくなって……その時に、泣いて抱きついてきたシアさんに、今度、またお土産をもって、必ず王都に来ると約束したと……」
 十年越しの約束なんて、律儀を通り越して、不器用な人でしょう?と、シルヴィアは呆れと、それ以上の優しさのこもった声で言った。
「ようやく今、思い出しました……やっと」
 シルヴィアの言葉を聞いて、シアはようやく、その時、約束したことを思い出した。
 母さまが亡くなった後、心配して来てくれたカイルおじさまが、自分の家に帰ってしまうのが寂しくて、小さかったシアはわんわん泣いて、「行かないで、ずっとウチにいて」とおじさまに頼んだのだ。
 子供の無茶な願いに、カイルおじさまは笑いもせず、実に真面目な顔で、今度、また必ず来るから、と約束してくれた。
『……本当?カイルおじさま』
『――ああ、約束しよう。シア』
 そう言って、子供が泣き出すくらい怖い顔のおじさまは、優しく、シアの頭を撫でてくれたのだった。
 ……シルヴィアさんの言うとおりだ。
 十年近くも前の、しかも子供とした約束を果たそうとするなんて、律儀を通り越して、不器用としか言いようがない。
 でも、不器用な人でしょう?というシルヴィアさんの声には、その人への深い愛情がこもっていたから、シアもすんなりとそれを受け入れられた。
「不器用な人ですけれど、それでも、私は夫を愛しているんです。だから……思い出がどんなに美しくても、過去に戻りたいとは思いませんわ」
 そこに至るまで、辛いことがなかったわけではないだろう。
 過去を無かったことに出来るほど、過ごした歳月は軽くもないはずだ。
 でも、そう言ったシルヴィアの表情に、嘘はないように思えた。けれど……
「そうなんですか……でも、シルヴィアさんはアレクシスのことを……」
 好きだったんじゃないんですか、とは、シアには言えなかった。
「ねぇ、シアさん……」
 そんな彼女の気持ちを読み取ったように、シルヴィアは穏やかな表情で、でも、迷いのない声で言った。
「朝、昼、晩、誰かを少しづつ知って、ゆるやかに恋して、愛していけたら、それはそれで素敵なことだと思いませんか?……たとえ、激しい恋でなくとも、穏やかにたったひとりの人を愛せたのなら、私は幸せです」
 その声は不思議と、シアの心に響いた。
 やわらかく微笑むシルヴィアを見て、ああ、綺麗な人だな……と思わずにはいられない。
 黄金の髪も翡翠色の瞳も、その優雅な所作も、素敵だとは思った。でも、きっとそうでなくても、この人は綺麗だろう、とシアは思う。
 しなやかで、強い人だと。
「……」
 黙り込んでしまったシアに、シルヴィアは優しい声で問いかけた。
「貴女は、どうかしら?シアさん……過去に囚われているあの子を、アレクシスのことを、愚かだと思います?嫌いになってしまったかしら?」
 シアは、首を横に振る。
 言いたいことは山ほどあるが、それでも、アレクシスのことを愚かだとは言い切れない……ましてや、嫌いになどはならない。絶対に。
「そんな……嫌いになんかならないです。でも、今、アレクシスが何を考えているのか、あたしにはわからない」
 だから、不安なのだ、とはシアは言葉には出せなかった。
 過去を守るといったセドリック、過去を背負い続けると言ったアレクシス、今を愛するというシルヴィア……色んな人の気持ちが重なって、何が正しいのか、シアには判断がつかない。
 (あたしは……どうしたらいいんだろう?)
 (……あたしは、どうしたいんだろう?)
 うつむいたシアの横で、大通りを照らす、あたたかなランタンの光を見つめながら、シルヴィアは「あの子は、アレクシスは……」と言った。
「アレクシスは……頑ななところもありますけど、優しい子なんです。人の痛みを、なかったことに出来ない……けれど、強くあろうとするあまり、時々、自分の本当の望みを見失ってしまう」
 その言葉の意味を、シアはすべて理解したわけではない。
 アレクシスが何を考えているのか、やっぱり、彼女にはわからない部分が多い。でも……
「あたしは……」
 きっと、ただ美しい思い出だけでは、人は生きてはいけない。
 そう思ったシアは、顔を上げ、美しい夜空を仰いだ。
 
 ――明日は、聖エルティアの祝祭の最終日、そして、祝祭の乙女の日だ。
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