女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  絵画と商人 7−2  

「――失礼する」
 ギィ、と扉が軋んで、黒衣の影が踊った。
 そう声をかけながら、アレクシスは扉を押し上げ、一歩、リーブル商会の建物へと中へと足を踏み入れる。
 大きな窓から取り込まれた陽光が、その室内を明るく照らし、並べられた机や椅子の間では、大勢の商人たちが忙しく働いている。
 商談の打ち合わせをする者、帳簿の管理をしている者、ソファでくつろぎ休憩を取っている者……大勢の人間がいても、広々とした部屋は、まったく狭苦しい印象を受けない。
 アレクシスが扉を開けると、中で働いていた商人たちが、一体、誰が入ってきたのかと顔を上げた。
 しかし、騎士の青年の姿を見た途端、その者たちの大半がああ、という表情を浮かべる。
 この、リーブル商会の跡取り娘であるシアが、女王陛下の商人に任命されてから、はや半年以上、その相棒であるアレクシスが、ここを訪ねてくるのも、すでに慣れっこになりつつある。
「おや……ハイライン家の坊ちゃん、シアお嬢さんなら、そこのカウンターのところにいますよ」
 顔なじみの商人が、親切にそう声をかけてくるのに、アレクシスはうなずいた。
「ああ、ありがとう」
 仕事中に邪魔をして申し訳ない、と詫びると、彼は教えられたカウンターの方へと足を向ける。
 そちらに目を向ければ、むぅ、と真剣な眼差しで帳面を見つめている、銀髪の少女の姿が目に入り、アレクシスは思わず、無意識のうちに、かすかに唇をゆるめた。
 さらさらと流れる白銀の髪、ゆるく伏せられた睫毛、真剣な眼差しを、美しいと感じる。
 意識せずとも、唇がほころぶ程には。
 まあ、無意識というあたりが、彼の鈍感さであった。
 真面目な顔で、うつむいたシアは、しばしの間、己に歩み寄ってくるアレクシスに気づいていないようだった。だが、その足音を聞いてか、ゆっくりと顔を上げる。
 青い瞳が彼の姿を映し、確認するように、何度か瞬きをする。
「……あれ、アレクシス?」
 アレクシスの存在を理解した瞬間、少女の白皙の面にかすかな朱が差し、無意識だろう、うれしそうに微笑った。
 はにかむような少女の笑顔が、たいそう愛らしく、また魅力的に思え、アレクシスは心臓が早鐘を打つかのような、錯覚を覚えた。
 つられて、ゆるゆると緩みそうになる口元を、騎士としての矜持で耐えて、かろうじて対面を保つ。
 我ながら、情けなくも思うが、彼女への想いを自覚したゆえか、ふとした瞬間、意識せずにいられない。
 (いかんな、シアを困らせる気はないというのに……今は、まだ)
 未だシアの気持ちを知らないアレクシスは、彼女を困らせないようにしよう、普段通りに振る舞うのだと、気を引き締める。
 そんな彼の心境も知らず、シアは「よっ」とカウンターから飛び降りると、ぱたぱたと早足でアレクシスへと近寄る。
 彼と向かい合い、何か用事?と小首をかしげたシアに、アレクシスは答えた。
「あぁ、先ほど、使者の方にお会いした。畏れ多くも、女王陛下より言伝てだ。明後日、王城へ来るように――と」
「それで、使者さんの代わりに、わざわざ伝えに来てくれたの?」
「まぁ、そうだ」
 シアの問いに、アレクシスは正直に、だが、言葉少なに返す。
 久方ぶりに貴女に会いたかった、という本音を告げれるほど、彼は饒舌な男ではない。
 ふぅん、とシアは納得するように息を吐いた後、
「ん。わかった」
と、首を縦に振る。
 王城に行くのは、この間の祝祭以来だと、彼女は思う。
 女王陛下自らのお呼び出し、ということは、十中八九、何か依頼があるのだろうと、シアは判断する。ここ最近、何かとバタバタしていたが、やっと、商人本来の役目として、女王陛下のお役に立てるならば、それ以上、嬉しいことはない。――久しぶりの女王陛下のお仕事に、ワクワクし、腕が鳴る。
 張り切るような笑みを浮かべた彼女に、どこか優しい目を向け、アレクシスはやや名残惜しげに「ではな」と踵を返しかける。
「ではな、明後日はよろしく頼む」
 もう少し話していたいという思いはあれど、相手も仕事があるだろうし、用も済んだのに、長居するわけにはいかない。
 そう考えたアレクシスの背中を、シアが「ちょっと……」と呼び止めた。
「わざわざ伝えに来てくれたのに、お茶も出さずに帰したんじゃ、リーブル商会の名がすたるわ……すぐに茶の一杯も用意してくるから、そこの椅子に座ってなさいよ。アレクシス」
 少女の言葉に、アレクシスは気持ちは有難いが、と苦笑して、首を横に振る。
「いや、そんな手間をかけさせる気は……」
 会いたい、話したい、という我がままに、これ以上、恋人でもない彼女を付き合わせるわけにはいかない。
 ましてや、シアはリーブル商会の跡取り娘で、己と同じく、背負うものがあるのだから、とアレクシスは思う。けれど……
 首を横に振る彼を仰ぎ見、軽く睨んで、ほんのり赤い顔をしたシアは、照れ隠しのように早口で言う。
「南方から、良い茶葉が入ったのよ……それとも、あたしの茶が飲めないっていうの?」
 いささか拗ねたように続けられた言葉も、上目使いで睨んでくる青い瞳も、アレクシスの目には、微笑ましく、可愛らしいものとしか映らない。
 もし、この場に彼をこよなく敬愛する従僕がいれば、「いい加減にしてくれ!」と我慢できずに叫ぶか、あまりに鈍い二人に、きりきりと胃を痛めたことだろう。
 しかし、そこで両想いだと気づかない辺りが、アレクシスのアレクシシスたる由縁であった。
 我ながら、重症だな……と己自身に呆れながら、彼は「わかった」とうなずく。
「南方の茶か……そういうことなら、喜んで頂こう」
 そう応じたアレクシスに、シアはにっこりと笑い、「わかればいいのよ」と満足気に言う。
「とびっきりのお茶なんだから、そこで待っててね!」
「その、本当にいいのか?忙しいなら、無理には……」
 尚も遠慮するアレクシスを、今から休憩だから大丈夫、と説得し、椅子に座らせると、シアはお茶の用意をするため、奥の方へと歩いていく。
 そんな彼女の背を見送り、椅子に腰をおろしたアレクシスは、ふ、と息を吐く。
 何をするでもなく、シアを待つ間、窓越しに空を眺めていた。
 しかし、そんな彼の穏やかな時間も、長くは続かない。
 シアの姿が奥に消えたのを見計らったように、ごそごそ、と隣が慌ただしくなったからだ。
 それまで横で商品の納期について話し合っていた三つ子が、急に身を寄せ合い、顔を近づけ、どうする?とひそひそ話を始めた。
 声をひそめてはいるが、すぐ隣にいるアレクシスには、ほぼ筒抜けだ。
「……どうする?エルト、カルト」
「どうするって、言われても……」
 ひそひそ。
「話すつもりなら、今じゃないと遅いぞ」
「アレクシスさんがいる前なら、シアお嬢さんも、そう突拍子もない行動に出ないだろうし……」
 ひそひそ。
「……でもなぁ、じゃあ、誰の口から言う?」
 ぽりぽりと頬をかきながら、エルトと己と同じ顔をした兄弟たちを、交互に見つめ、そう決断を求める。
 見習い三つ子たちの間に、深い深い沈黙が落ちた。
 誰しも、面倒な役回りは引き受けたくないものだ。
 エルトとの手には、一通の手紙が握られている。
 その手紙が……さらに言うならば、その手紙の差出人こそが問題であるのだが、そんなことを商会の仲間でもない、アレクシスが知る由もない。
 唐突にひそひそ会議を始めた三つ子たちに、騎士の青年はただ、不思議そうな目を向けるだけだった。
 聞き耳を立てるつもりはなくとも、こうすぐそばで、ひそひそ話をされれば、気にならぬなどウソになる。
 (一体、何の話だ……?)
 首をかしげるアレクシスをよそに、相談を続けていた三つ子は、ようやく話がまとまったらしい。
 手紙を手にしていたエルトが、「よし、やっぱり、三人で言おう」と宣言し、あとのふたり、アルトとカルトも同意する。
 その時、ちょうど良く、というべきか悩むが、お茶の支度を終えたシアが戻ってくる。
「お待たせー。支度してきたから、エルトたちも飲む?」
 そう言った少女の両手には、ティーカップ、スプーン、砂糖壺の乗ったトレーがある。
 戻ってきたシアに、三つ子は顔を見合わせ、今しかない、という風にうなずき合う。
 何事だと首をひねるアレクシスを尻目に、エルトたちは揃って椅子から立ち上がると、「シアお嬢さん」と銀髪の少女の方へと歩み寄った。
 急に立ち上がった三つ子に、シアは怪訝な顔をする。
「シアお嬢さん、これ……」
 何よ?と怪訝な顔をした彼女に、エルトはわざと改まった声で言うと、神妙な顔つきで手紙を渡す。
 彼の後ろに控えた、兄弟たちも同様だ。
 ただ事でない空気に、シアは困惑気味に手紙を受け取ると、ややためらいがちに、手紙の宛て名をたしかめようとする。と、その差出人の名を見た瞬間、彼女は「ひっ……!」と悲鳴じみた声を上げた。
 思わず手がすべり、落ちそうになったトレーを、アルトが「のわああああっ!」と慌てながら、奇跡的に受け止め、ほっと胸を撫で下ろす。
 そんなアルトの奮闘ぶりも気づかぬように、ふるえるシアの指が、すでに封の切られた手紙をひらく。
 一体、さっきから何事かと、訝しく思うアレクシスの目の前で、手紙を読んだシアの顔色が、みるみるうちに青ざめていった。
 サーッ、と血の気が引く音すら、聞こえるような形相だ。
 ぶるぶると少女の唇が震えて、
「魔王が……あの魔王が帰ってくる……」
などと、意味不明なことを口走る。
 唐突に、しかも、ガクガクと身を震わせながら、世迷言としか思えないことを言い出したシアに、アレクシスは不思議そうな顔で、首をかしげずにはいられない。
 騎士の青年の視線は、少女の手にある手紙にそそがれている。
 シアがおかしくなったのは、あの手紙が原因だろうか。
 魔王とは、一体……?
 アレクシスがそんなことを考えている間に、青い顔をしたシアは、絶望したように天を仰いで、うががと頭を抱える。
「あたしの平穏な人生は、幸せな時間は今日、この瞬間に終わったわ!……うわああああん!」
 思わず、哀れささえも感じるような、悲痛な声で叫ぶと、シアはよろりと床に崩れ落ちる。が、次の瞬間には、がばっと立ち上がると、「こうしちゃいられない……魔王が、ディー兄が戻ってくる前に、どっかに行かなきゃ……」と階段の手すりに手をかけ、二階に駆け上がる。
「シ、シア……?」
 急展開についていけず、アレクシスはただ呆気にとられる。
 その後ろでは、こうなることは予想していたのか、三つ子たちがため息をこぼしつつ、やれやれと肩をすくめていた。
 二階に駆け上がったシアは、恐るべき速さで支度を終え、バタバタと二段飛ばしで階段をおりてくる。
 つばひろの帽子をかぶり、大きなトランクを抱えた少女の姿は、まるで、どこか遠くに旅に出ようとしているようだった。
 ――って、何処へ?
 そもそも支度が早すぎるだろう!と、内心、問い詰めたい気持ちを、アレクシスと三つ子は必至にこらえる。
 彼らの忍耐の限界を試すように、シアはめずらしく、真面目そのものといった顔つきで、彼らを見つめ「皆さん、いままで大変お世話になりました」と、頭を下げる。
「旅に出ます。探さないでください」
 皆さん、お元気で……などと続けながら、トランク片手に、扉の方に向かっていくシアを、アレクシスが引き留めた。
「待て!何がなんだかわからんが、とりあえず落ち着いてくれ。話せばわかる……多分な」
 肩をつかまれたシアは、仕方なく後ろを振り返り、キッ、とアレクシスを見据えると、いやいやと首を横に振る。
「離してっ!あの魔王が、ディー兄が帰ってくる前に、どこか遠くに雲隠れしなきゃ、あたしに未来はないのよ!」
 そう強い口調で言い切った後、シアはへにゃりと顔を歪め、瞳を潤ませると、「うわあああん、でも、皆と離れたくない!」と、彼に泣きつく。
「どうしたんだ?いきなり……」
 困惑するアレクシスだったが、急にシアにすがりつかれたことで、かすかに頬を赤らめた。
 シアにとっては、深い意味のない行動なのかもしれないが、こちらは心臓に悪い。
 腕に触れる、華奢な少女の身体を意識するだけで、アレクシスの体温は上がり、鼓動が速くなる。
 今までも、事故で抱きとめたり、誘拐された際のこと……などはあったのだが、想いを自覚した途端、このていたらくだ。
 心臓に悪い、離れて欲しい。だが――本当はこの腕の中から、離したくない。このまま、抱きしめていたい。
 相反する感情を抱え、騎士らしくもなく軟弱なことだ、とアレクシスは自嘲する。
 もしも、天国の亡父が知れば、叱責はまぬがれぬだろう。
 己のものとは異なる、甘く、やわらかな匂いに、騎士の青年は落ち着かぬ感情を押し込めながら、顔を伏せたシアに頼み込む。
「その、少しだけ離れてくれないか……」
 決して嫌ではないが、その……何と言うか、困る。
「うぅ……」
 拳で顔をぬぐったシアは、何やら思いつめた様子で、顔を上げる。
 うるんだ目元、きゅ、と結ばれた唇、折れそうに細い手首は、見た目だけなら、非の打ちどころがない、儚げ美少女と言われるだけあって、庇護欲をそそる。
 もちろん、アレクシスといえども、例外ではない。しかし――
 その可憐な唇からもれる、「ディー兄めええ……」「先手を打つなら、今しかないか」「殺られる前にやれ、って、どこかのエライ人も言ってたわよね」……等々、凶悪な呟きを、アレクシスは聞かなかったことにした。
 いや、くわしく聞くと、絶対ロクなことにならぬと本能が囁いたので。
「とにかく!あたしは、どこかに身を隠すことにするから!」
 後ろめたいことを、堂々と宣言し、シアは身の丈に合わぬトランクをよっせよっせと引きずりながら、外に出て行こうとする。
 彼女が扉のノブに手をかけた時、今度は、三つ子たちがそれを押しとどめる。
 周囲で仕事をしていた商人たちも、一体、何の騒ぎだと、手を止めて、シアたちのやりとりを見つめていた。
「シアお嬢さん、どこに行こうっていうんですか」
 カルトがそう言えば、アルトもそうそう、と言葉を重ねる。
 ここで出て行かせたら、あとでどうなるか、知れたものではない。
「どうしたって戻ってくるんだから、誤魔化せませんよ」
 ノブを握りしめたまま、シアは「わ、わかってるわよ」とうめく。
「ううう……わ、わかってるわよ!でも……」
 少女がでも、と反論しようとした瞬間、何の前触れもなく、ばんっ、と勢いよく扉がひらいた。
 あまりに勢いに、ノブを握っていたシアが、まきぞえで横に吹っ飛ばされる。勢い余って、壁に激突した彼女は、ずるずると床に崩れ落ちた。
 それで慌てたのは、すぐそばにいたアレクシスだ。
「おい、シア、無事か……?」
 哀れにも、壁に激突した後、床で伸びているシアに、彼は焦りながら、助けの手の差し伸べようとする。
 その瞬間だった。
 己が作り出した惨状も気に留めず、「やあ……二年ぶりだけど、ここは変わらないね」と、場違いな程に、陽気な声が響く。
 その声に引き寄せられるように、アレクシスは開け放たれた扉の方を向く。
 扉を開けたのは、亜麻色の髪の男だった。
 歳は若い。まだ二十を幾つか過ぎた位だろう。
 一見、優しげで端整な面立ちは、この商会の誰かによく似ている。
 少々、歳が離れてはいても、この王国に名を馳せた、偉大なる商人と血の繋がりがあるゆえか。
 その青年が濃緑の瞳で、商会の中をくるくると懐かしそうに見回しているうちに、誰かが「ディークだ……」と声をもらす。
「ディークだ……東方から、帰ってきたのか……」
「おお、懐かしいな。二年ぶりか……」
「あいつぁ、変わんねえな。まったく……」
 そんな声が、商会の者たちの間で、さざ波のように広がっていく。
 皆、唐突な登場に驚きつつも、その声にふくまれるものは、あたたかく、仲間への好意に満ちている。
 それが、わかっているのだろう。
 懐かしむような声音の数々に、亜麻色の髪の青年――ディークは爽やかに笑って、
「どうも。ディーク=ルーツ、只今、東方より戻りました」
と、よく通る声で言った。
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