女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  絵画と商人 7−10  

「な……」
 アレクシスはしばし、間抜けにも口をぱくぱくと震わせていたが、ついで眉を吊り上げた。
 凛々しく、端整な面に、怒りにも似た色がよぎる。
 とっさに、腹の底から声が出た。
「何を考えているんだ……!」
 夜も更けた時刻、若い男女が寝室でふたりっきりなど、冗談で済ませられるようなようなものではない。
 ガウンも羽織らず、薄く透けるようなネグリジェで、部屋を訪ねてきたシアを、アレクシスはそう一喝せずにはいられなかった。
 レースの襟ぐりからは華奢な鎖骨や、なだらかな丸みを帯びた線がかいま見え、若い男の性として、あられもない妄想に囚われそうになり、彼は慌てて目を逸らす。
 あわく開いた唇は、ほのり薄紅の色で……やわらかそうなそれに、ゴクリッ、と無意識のうちに唾をのむ。
 もともと、繊細な容貌の持ち主であるものの、普段のシアは明るさや元気さが表に出ており、年齢よりも幼く見られがちだ。
 くるくるとよく変わる表情といい、ちょこまかと小動物めいた動きといい、いわゆる色気の類とは無縁である。
 しかし、身体のラインが透けてしまう寝衣、己の上に伸し掛かるような姿勢で、宵闇に白く浮き上がるような少女は、いつになく艶めいていて、咲き初めの花にも似た匂いをまとっている。
 好意を寄せる相手から、そんなしどけない恰好を見せられて、何も感じない男はいまい……頭がくらくらと、まるで、悪い酒に酔ったようだ。
「……っ」
 低く、声も出さずに唸って、アレクシスは己の浅ましい欲望を断ち切った。
 ようやく、彼の腹の上からはのいたものの、いまだ寝台の隅に座りこんだシアは、はたはたと長い睫毛をふるわせ、青い瞳に不思議そうな色合いを宿し、アレクシスの方を見つめてくる。わずかに身をよじると、銀糸の髪が流れ、ましろく細い首筋があらわになる。
 あまりの無防備さに、彼は自分の事を棚に上げて、怒りにも似た衝動にとらわれた。理性という枷がなければ、きっと、怒鳴り散らしていたことだろう。
 そんな恰好でいたら、誰かが邪な欲望を抱かないとも、不埒な真似をしないとも言い切れない。……いや、その可能性は多いにある。
 心配だ。否、心配という言葉では、言い足りない。
 寝台の上にふたりっきりという状況を、客観的に判断すれば、もっとも危ないのは、彼自身なわけだが、動揺したアレクシスの脳裏からは、それはスッポリと抜け落ちていた。
 ふかい皺の寄りつつある眉間をおさえ、アレクシスは嘆息すると、いつになく鋭い目つきで、シアを睨む。
 そうして、腹の底から絞り出すような声で、彼は言った。
「こんな時間に、そんな恰好で男の部屋に来るなんて……」
 ――不埒な真似をされても、文句は言えんぞ。
 何を考えているんだ、と説教しかけて、寝台で向かい合っているという現状に気づき、アレクシスは自分を棚に上げていたことに、気まずさを覚える。
 罪悪感を感じるようなことはないはずなのに、何とはなしに後ろめたさを覚えるのは、その肌の白さを妙に意識してしまったからだろうか。
 コホッ、とわざとらしく咳払いをし、戸惑うように眦を下げた青年は、やや語調をやわらげた。
「その……風邪をひくだろう」
 自分でも、ヒドい。なんて間の抜けた言い訳だ、と悔いつつも、気を抜くと、そちらに吸い寄せられそうになる視線を逸らして、アレクシスはそう言った。
 己のものとは違う、ふわりとやわらかな匂い、甘い砂糖菓子のような。華奢な鎖骨が、いつまでもいつまでも目に焼き付いて……。
 おそらく、長旅の疲れもあって、シアは寝惚けた末に、こんな行動に出たのだろう。そうだ。きっと、そうに違いない。というより、頼むから、そうであってくれ。誘われているのでは、というあられもない想像が、頭の片隅をよぎり、即座に打ち消す。
 騎士たる者、欲望に流されるようなことがあってはならない、と、ご先祖様のありがたくもお節介な教えを、己自身に何度も言い聞かせながら、アレクシスは椅子の上にかけてある、マントに手を伸ばそうとする。
 じぃぃぃぃ、と曇りのない青い瞳で、彼を見てくる少女は純白のネグリジェ一枚、フリルの裾からのぞく足は裸足で、ひどく寒そうだ。放っておけば、風邪を引きかねない、というのは、ただの言い訳にすぎず、ようは目のやり場に困るというのが、彼の本音だ。
(俺のマントでも、ないより、余程マシだろう……)
 そっぽを向いた純朴な青年は、実際のところ、耳まで赤らめていたのだが、夜半の部屋は暗く、幸い、それは誰にも咎められることはなかった。
 マントを手に取り、とりあえず、これでも羽織っていろ。すぐに部屋まで送る、と早口で言いかけたアレクシスの唇を封じたのは、ほっそりとした指一本だった。
 やわらかな指先は、つーっ、と青年の鋭角的な顎から、唇へのラインをゆるりとなぞる。
 日に焼けた肌を、しろい指先が、愛おしむように撫でて、ふふふ、と愉しげな笑声がこぼれた。
 少女の笑い声に、アレクシスは怪訝そうに眉を寄せ、眼差しが険をおびる。
「……シア?」
 ころころと鈴を鳴らすが如き笑声をこぼしたシアは、夢うつつをさ迷うような、とろんと熱のこもった目をしていた。
 ――あまく、媚びるような、だが、どこかしら空虚な……それは、少女が一度として、見せたことのない顔だった。
 青年の腕にあるマントをやんわりと跳ね除け、シアは、ふふ、と愉しげに微笑みながら、アレクシスの側へと更に一歩、じりじりとにじり寄る。そうして、薄い布地、浮かび上がる身体のラインを強調するようにし、かすかな衣擦れを音をさせ、両の腕を回し、青年の肩を抱く。銀の光を弾く髪が、男の黒髪に触れ、耳元に息がかかる。
 ふぅ、と耳朶をなぞる吐息に、アレクシスは声を張り上げた。
「――――――シアっ!」
 いい加減にしろ、という意味をこめた怒声は、空気を震わせた。そうしなければ、守るべきものを守れない気がして、男の方も必死だった。傷つけたくはない、例え、己自身であっても。少女からただよう甘い香り、耳をなぞる吐息がどうしようもなく……理性を惑わす。――この華奢な肢体を組み敷いて、腕に抱いて、我がものにしてしまえたら。
 それは、ひどく魅力的な誘惑だった。けれども。
 臓腑から湧き上がってくる衝動に耐えて、アレクシスは握りしめた拳、その手のひらに、きつくきつく爪を立てる。血が滲みそうになることさえ、理性を保つためならば、まったく気にならなかった。
 欲望のままに、獣になり下げるのは、容易い。だが、それは、大事に大事に慈しんできた花を、乱暴に手折ってしまうのと等しい。
 なびく様子のない彼に、シアは少しだけ身を離すと、不思議そうに目を瞬かせた。
 じぃぃぃ、と硝子玉のような瞳が、アレクシスを凝視する。
 青年の顔色に、耐えるようなそれを見て取って、シアはクスッ、と喉を鳴らす。その奇妙に大人びた笑い方に、アレクシスは違和感を感じた。……違う。何かが、おかしい。姿かたちは同じなのに、纏う空気がまるで別人のそれだ。そんなこと、ありえるはずもないのに……。
 シア?という再度のそれは、既に名を呼ぶものではなく、疑惑の響きをはらんでいる。
 アレクシスの疑念を、愚かだと嘲笑うように、銀髪の少女は青年の胸にもたれかかると、唇の端を吊り上げる。――欲しいでしょう?
 ぞくりと頭の芯を痺れさせるような、妖艶な笑み。
 上から冷水を浴びせられたような、身の毛もよだつような悪寒に、青年は表情を凍りつかせた。理屈ではなく、本能が危険だと警鐘を鳴らす。
(違う)
(シアは、こんな風には……)
(こんな風には、嘲笑わない―――――っ)
 沸々とした怒りで、視界が黒く塗りつぶされ、されど、一拍おいて冷静になるまで、鍛えられた騎士の精神は、さほどの時間を要さなかった。
 すぅ、とアレクシスの漆黒の瞳が、抜き身の刃にも似た鋭さを宿し、細められる。甘えるように、すり寄ってきた華奢な身体を、男の腕が力をこめず、だが、ハッキリとした拒絶をもって、押し戻した。
 拒まれた銀髪の少女は、驚いたように目を丸くし、やや恨めし気に此方を見てくる。
 むぅ、と不服そうに、頬をふくらませる顔は、普段のシアと同じで、それが余計に、アレクシスを苛立たせた。彼女と同じ顔で、彼女と同じ姿で、彼女ではないものが“そこ”にいる。
 許せなかった。今は、ハッキリとわかる。同じ顔、同じ姿、同じ声をしていても、その心はあの少女のものでないのだと。
 目も眩む程の怒りを覚えながら、アレクシスはシアを、否、シアの姿をした何者かを見据える。
「お前は、何者だ。――答えろ」
 強い口調。青年らしからぬ命令にも似た響きが、彼の怒りの強さを物語っていた。
 ぴりぴりとひりつくようなそれを、痛いほど肌で感じているだろうに、シアの姿をした何者かは、余裕めいた微笑を浮かべる。
 常ならば、好ましいと感じるシアの笑顔。
 しかし、今のアレクシスにとっては、神経を逆なでするのみだった。
 再び、じりじりと青年の側に近づいて、上目遣いに、彼と目を合わせて、シアは「そんなことは、どうでも良いでしょう?」と、はぐらかす。その代わりに、無理やりにアレクシスの腕を引くと、己が胸へと引き寄せた。
 そうして、うふふと青年の顔色を伺い、見透かしたように言う。
「この子が、欲しいのでしょう?騎士様……目が、そう言っているわ」
 なんて綺麗な瞳、夜の闇をそのまま映したよう……シアの姿をかりた何者かが、頬を薄紅に染め、恍惚とした声音で呟いたのは、アレクシスの耳を素通りした。
 その声の調子が、つい最近、耳にしたものとまったく同一であったことに、戦慄する。ぞわと背筋があわだった。
 異端の天才、シャンゼノワールの描いた、アインリーフ伯夫人の肖像画――。
『ああ、戻ってきてくださったのね。騎士様。漸く、ようやく、ひとつになれる。これであなたは、永遠に……私のもの。私の。私の。私の。私の。……モノ』
 震えるような激情を孕んだ、あまいあまい女の声。
 あの時、幻聴だと切り捨てたそれが、シアの唇を動かして、切なくも、狂気としか言いようのない言葉を紡ぐ。
「愛しの騎士様、やっと戻ってきてくださったのね」
 その瞳に、夢見るような微睡むような色合いをたたえ、恍惚と語るシアの背中に、アレクシスは美しい女の幻影を見た。――なめらかな漆黒の髪、ヘーゼルナッツの瞳に、夢見るような微睡むような色合いをたたえ、絵の中の女は微笑んでいる。
 恋仲の騎士に裏切られ、悲しみの中、狂気に蝕まれて死んだという、アインリーフ伯夫人の肖像画と、今のシアの姿が何故か重なる。 
 魂描く画家と呼ばれたシャンゼノワールの筆が、夫人の妄執をも、絵の中に封じ込めてしまったのだろうか。
 アレクシスの目には、ふたつの影が重なって見えた。
 童女めいた無垢さで、おんなが笑う。
 このうえなく幸福そうに――。
「ああ、わたくしは、なんて幸せな女なのかしら、お慕いしていますわ……騎士様、貴方は私のもの、私だけのもの……」
 独りよがりな歓喜の言葉を、いくどもいくども繰り返す女は、もはや、シアの姿をしていてもシアではなかった。
 夢見るようなその瞳は、今ではなく、いつぞやの遠い過去を乞うている。
 アレクシスは、確信する。これは……過去の妄執、亡霊なのだと。
 シアの唇が、シアではない者の言葉を紡ぐのが耐え難く、彼は「ふざけるな!」と憤り、声を荒げた。
「いい加減、シアを返せ。彼女の身体から、離れろ。さもなくば…亡霊だろうが、何だろうが叩き斬る」
 本気の覚悟を込めて言い切ると、アレクシスは臆することなく、シアの姿を借りている亡霊を、正面から睨んだ。
 その漆黒の双眸からは、いつにない凄みが感じられる。
 亡霊などという存在を、本気で信じていたわけでも、ましてや、戦った経験などあるはずもないが、騎士たる彼は本気だった。もしも、剣が通じるなら、勝機がないとは言えまい。
 先程まで、狼狽気味だった青年の纏う空気が、冴え冴えと一変したことに、シアの姿をした亡霊は「まあ、」と、目を見開いた。
「ずいぶんと、乱暴なことを仰るのね。騎士様、悲しいわ……」
 いかにも憂うように言い、柳眉を寄せる。
 シアの背後に立つ、なめらかな漆黒の髪の、薄紫のドレスをまとった女は「出来るかしら」と、小さく首をかしげた。
 まるで、アレクシスがそう出来ないことを、見越しているようだ。
「――この身体は、私のものじゃないわ」
 その不穏な言葉の意味を、理解しようとした時、一瞬、アレクシスの心と身体に隙が生まれた。そのチャンスを逃さず、シアの姿を借りた何者か、――否、アインリーフ伯夫人の亡霊は、アレクシスの腹の上にまたがり、体重を乗せてくる。
 しまった、と彼が後悔する暇すらなく、暗闇にひらひらと舞うネグリジェの袖が、こちらに伸びてくる。
 白くほっそりとした指が、青年の首にあてられ、呼吸を奪うように、グッと力がこめられた。
 少女の非力さでは、男の首を完全に絞めるには至らず、けれども、呼吸の苦しさは隠しようもなく、アレクシスの顔が苦痛で歪む。
「ぐ……ぅ……」
 のしかかり、首を絞めてくるシアに、アレクシスは満足な抵抗を示すことが叶わない。
 歴然とした体格差を考えれば、押しのけるのも、突き飛ばすのも簡単だ。だが……のしかかってくる少女の軽さが、その腕の細さが目に入り、彼にそうすることを躊躇わせる。首を絞められている状況で、案じることではないだろう。――どうしようもなく、愚かだ。それでも、傷つけたくない。
 肺に酸素が行き渡らず、視界がにじんで、霞のようにぼやけていく。
「シ……ァ……」
 名を呼んだ声は、みっともないぐらい、かすれていた。
 こんな状況であるのに、不思議とアレクシスの心に怒りはなかった。ただ、のしかかってくるシアが、まるで仮面のような無表情で、それが辛かった。狂気を宿した女の目は、彼女のものではない。シア、シア、戻って来い。声にも、音にもならないのを承知の上で、何度も何度も叫ぶ。
 その時、ビクッ、と少女の身体が揺らいだ。
 同時に、ふっ、と腕の力が緩んで、急に肺に雪崩れ込んできたそれに、アレクシスは、かは、と背中を丸めて、咳き込む。
「……やだ」
 泣きそうな声がした。
 アレクシスが面を上げると、くしゃくしゃに顔を歪めたシアと、目が合う。
 瞳が潤んでいて、今にも泣き出しそうだった。
 普段の勝気さは、微塵も感じられない、途方に暮れた子供のような、心細そうな顔だ。
 ひっくと、しゃくり上げながら、シアはいやいやと首を左右に振る。
「やだ。こんなことしたくない……」
 逃げて、と少女の口から、声なき声がもれる。嫌わないで、とも。
 シアの腕が再び、男の首へとかかる。その手は、がくがくと小刻みに震えていた。
 アレクシスの目に映るのは、いまにも泣きだす寸前の少女の顔だ。
 己の背後にいる亡霊の、言いなりにはなるまいと、必死に歯を食いしばっている。
 辛いのか苦しいのか、シアの瞳が潤んでいくのを見て、彼は思わず苦笑せずにはいられなかった。ああ、自分は不甲斐ない男だ。これほど、泣かせなくないと、傷つけたくないと思っているのに、こんな表情をさせてしまうとは。けれども――。
 喉元に突きつけられた指に、再度、力がこもる。
 アレクシスを見つめるシアの青い瞳は、焦点が合っていない。背後に、薄紫のドレスをまとった女の幻が見えた。
 恐怖を覚えぬと言ったら、嘘になる。されど、
「……大丈夫だ」
 首を絞められそうになりながらも、アレクシスはまっすぐに少女の瞳を見つめて、穏やかな声で語りかける。
 逃げはしない。
 信じていればこそ、手は出さない。迷いもない。
「俺は、此処にいる。信じてるから、戻ってきてくれ。――――シア」
 彼に、諦めぬことを教えてくれたのは、信じると背中を押してくれたのは、他でもない、シアだった。だから、信じているし、知ってもいる。
 そんな亡霊の言いなりになるなんて、らしくはないだろう?
 首にあてられた手に、すでに力は感じられなかった。だらん、と腕が垂れ下がる。
 その代わり、耳元で「アンタ、馬鹿よ……大馬鹿よ……」と、押し殺したような少女の声がした。否定は出来ないな、と口元を緩めたアレクシスに、顔を見られることを嫌ってか、シアは伏せた顔を上げない。前髪で隠れてしまったそこから、ひくっ、としゃっくりが聞こえた。
 手を伸ばしたアレクシスが、なだめるように、そっと、ふるえる頭を撫でてやる。
「酷いわ。騎士様、せっかく今度こそ、一緒にいてくださると思ったのに、今度もまた別の女を選ぶのね……」
 ポツリ、と独白にも似た声が響いた。
 シアから目を離した青年は、虚空を睨みつける。夢うつつをさ迷うような瞳をした亡霊の女は、深く深く、切なげな溜息をこぼし、両の手のひらで顔を覆った。
 美しい女だった。されど、先のような妖艶さは既になく、その身を包むのは、例えようもない孤独感。
 死してなお、絵画に宿る亡霊と成り果てた、女の妄執……決して癒えることのない、寂しさ。
 魂描く画家シャンゼノワールが描いたのは、果たして、裏切られた未亡人の狂気だけであったのだろうか。
 切実な叫びが、心をゆさぶる。
「あの人は逝ってしまうし、騎士様は去って行った……なぜ、誰も彼も、わたくしを置いていくの……ただ共に在りたいだけなのに、どうしてえぇぇぇ!」
 慟哭。
 鬼気迫る、亡霊の嘆きが、胸を打つ。
 かすかな憐みにも似たものを感じて、アレクシスは痛ましげに、目を伏せた。
 その瞬間、それまでうつむいていたはずのシアが、急に跳ね起きて、「うがああああああ!」と、獣のように叫ぶ。一体、何処にそんな力があったのか、シーツや枕をびりびりに引き裂いて、枕の中身、羽根が空を舞った。
 呆然とするアレクシスの肩を、どんっと強い力で突き飛ばし、銀髪の少女は扉の方に駆け出した。
 止める間すらなく、扉を開け放ち、シアは廊下を走り抜けていく。
「ゴホッ、待て……!」
 アレクシスはわずかに咳き込むと、すぐさま、遠ざかっていく彼女の背中を追いかける。
 亡霊に操られているせいか、シアの駆ける速度は、普段よりも数段、速かった。足の長さと、体力で格段に勝るはずのアレクシスでさえ、見失わないのが精一杯だ。
 ドタンバタン、という、廊下に響く彼らの足音を、不快に思ってか、とある客室の扉が開いた。
「うるさいよ。夜なんだから、もう少し、静かに出来ないのかい?」
 亜麻色の髪をかきあげながら、扉から出てきたのは、ディークだった。
 寝衣のうえに、上着をはおっただけの、くつろいだ格好だ。
 眠いところを、派手な物音で起こされたせいか、えらく不機嫌そうな顔をしている。
 いま何時だと思ってるのさ?という声には、少々、殺気がこもっているようだ。
 ギロッと、濃緑の瞳がこちらを睨んでくる。
「おどきなさい!」
 廊下に出てくるなり、立ちふさがるように、前に立ったディークに、シアの口を借りて、アインリーフ伯夫人、亡霊の女が叫ぶ。
 背中に、ゆらゆらと揺れる影のような亡霊の女を背負い、目は爛々とし、明らかに常軌を逸した様子のシアに、さしものディークも「おや?」と瞠目する。しかし、おどきなさい、と頭から怒鳴りつけられたにもかかわらず、意味をはかりかねているのが、一向に動こうという意思を見せない。
 けたたましい足音を立てながら、凄まじい速さで駆けてくるシアが迫ってきても、亜麻色の髪の青年は、常通り、柔和な笑みを浮かべて、おやおやと肩をすくめているだけだ。
 衝突しかねない真正面にいるにも関わらず、ディークは「んー」と呑気に上着のポケットを漁っている。
 何も考えていないとしか思えない、男の態度に、追いかけてきたアレクシスは舌打ちし、「――避けろっ!」と声の限りに叫んだ。
 シアがあと数歩の距離まで、迫っているにも関わらず、ディークは避けようという素振りすら見せない。
「おっ、あった。あった」
 走る速度を緩めないシア、そこから動こうとしないしないディーク、衝突は避けられないとアレクシスが覚悟した時、亜麻色の髪の青年はようやく、ポケットから手を出し、ひらりと身をかわした。
 その手には、紙切れのようなものが握られている。
 ディークはへらっと呑気そうな笑みを浮かべたまま、横を駆け抜けようとしたシアの、亡霊に乗っ取られた少女の額に、ぺたっと紙切れをはりつけた。
「ほいっ、オフーダだっけ?……どう?効いたかな」
 そう言ったディークの手から放たれたのは、何やら、蛇の這いずったような文字の書かれた、ただの白い紙切れであり、正直なところ、アレクシスにはまったく意味不明な代物であったのだが……効果は抜群だった。
 オフーダ?とやらを、額に張り付けられた瞬間、シアはピタリと制止し、かくっと膝を折ると、床に崩れ落ちた。
 支えを失った身体は、ゆっくりと横に倒れる。
 思わず、心臓が止まりそうになったアレクシスだったが、駆け寄ったシアから、すやすやと寝息が聞こえることに、どうしようもなく安堵する。
 傍らに跪いて、脈も確認したが、これといって異常はなさそうだ。
 額の真ん中に、妙な紙切れを張り付けられていること以外、よく眠っているのと変わりなさそうだった。
「へぇ……東方のソーリョ、という男からもらったものだけど、意外に役立ったね。この、オフーダとやら」
 アレクシスよりも、先にシアの傍に膝をついて、その無事を確認したディークが、安心したように、ゆるく目を細める。素直に、口には出さないものの、男の眼差しはどこまでも深く、優しかった。
 よいしょ、亜麻色の髪の青年は、最早、幼い子供とは言えないシアの身体を、抱え上げ、その背におぶる。
 うわぁ、昔より、だいぶ重い……などと愚痴りながらも、その声の裏には、揺るぎない愛情がにじんでいる。
「はー、騒がしいと思って出てきたら、まさか、本当に亡霊が出るとはねえ……」
 先程までの大騒ぎが嘘のように、背におぶわれたまま、すやすやと穏やかな寝息をたてるシアを横目に、ディークがはぁ、と呆れたような息を吐く。
 眠っていれば、天使なんだけど……と、あどけない少女の寝顔に、冗談とも本気ともつかぬ感想をもらしながら、亜麻色の髪の青年は、ふっと思い出したように、アレクシスの方を見て、首の辺りで視線を止め、わずかに眉をひそめた。
 その視線の意味を察し、アレクシスは「ああ」とうなずくと、さりげなく襟を引き上げる。
 気にしてもいないし、意識してもいなかったが、さっき首を絞められた際に、指のあとぐらいはついたのかもしれない。肌が赤くなっているのは、誤魔化しようもないが、それをディークに告げる気は、毛頭なかった。
 シアの性格上、どんな形であれ、他人を傷つけたことに、心を痛めるであろうと思ったからだ。
「俺自身の未熟さゆえです……何も見なかった、ということにしてもらえませんか?」
 アレクシスの言葉に、ディークは、はん、と面白くなさそうに鼻を鳴らして、ふいとそっぽを向いた。
 了承の意だと受け取り、アレクシスはホッと、小さく口元をほころばせる。
「……この子を傷つけなかったのは、褒めてあげるよ」
 よっこいせ、とずりおちそうになる少女を背負い直して、振り返らぬまま、そう言ったディークの表情は、アレクシスにはわからなかった。
モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2012 Mimori Asaha All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-