女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  絵画と商人 7−9  

 ビリヤードの台を前にして、ディークは濃緑の瞳をすがめて、不敵に笑う。
 キューを構えた姿は堂に入っており、不自然な力のいれようや、姿勢にブレがない。
 瞳孔がすう、と猫のように細まり、一瞬の静寂が訪れる。
 ――ピンと糸が張りつめたような緊張感の中、キューがボールを突く。
 流れるような動き、男の手から放たれたボールは、計算された角度で転がっていき、色あざやかなカラーボールの山を弾いた。 
 弾かれたボールは、さして力をこめたようでないにも関わらず、誤らず、台の四隅に転がっていき――まるで、穴に吸い込まれるように、落ちた。カラン、とかわいた音がする。
 良い腕だった。素人目にも、文句のつけようがない。
 は、と静寂を崩すように、ディークが息を吐く。
 それを境に、独特の緊張感に包まれた空間が、ゆるんだ。
「……お見事」
 壁際にもたれかかり、ディークのそれを眺めていたアレクシスは、穏やかな声音で称賛した。
 本物を前にしては、ゴテゴテと飾り立てた言葉など、不要である。
 彼自身は、この球戯に対する知識も経験も乏しかったが、武芸に長じた者の常で、洗練された、無駄のない動きというものは熟知してるつもりだ。アレクシスの眼に映る、ディークのそれは、紛れもなく熟練し、コツを掴んだ者のそれだった。
「どーも。騎士様に褒めていただけるなんて、身に余る光栄ですよ」
 ディークは「どーも」と慣れた風に、愛想良く笑い、片目をつぶってみせる。
 騎士様、という声は、いささか揶揄めいていたが、さほどの毒はないように思われる。
 スキのない物腰ながら、その屈託のない茶目っ気っぷりは、彼のエドワード=リーブルの若き日を彷彿とさせた。
 どこか柔らかな印象を与える、好青年風の面立ちは、シアの父であるクラフト似だが、その快活さや、他人を惹き込むような眼力は、やはり、彼の人の血筋であることを想わせる。
 じっとキューを見つめる、アレクシスの視線に気づいてか、ディークはふと口元を緩めた。
 大した腕じゃないけど、と言い、亜麻色の髪の青年は、
「昔、散々、クラフトさ……長に、手ずから鍛えてもらったからね。先代とは、子供の頃、よく賭けをしたものさ……久々だけど、案外、腕は落ちてないみたいだな」
と、懐かしそうに続けた。
 つい先日、東方から帰国したばかりである。飄々としたディークといえども、久方ぶりに母国の土を踏んだことに、感慨を覚えているのだろう。
 過ぎ去り日の、思い出を語るディークの声は優しく、その人々に寄せる信頼を示しているように、あたたかだった。
 小休止を挟んで、再び、キューを構えかけた亜麻色の髪の青年は、ふと思い出したように振り返り、先程から、何をするでもなく、その場に佇んでいる騎士の方を向く。キューを目線で示し、やるかい?と視線だけで尋ねた。
「騎士殿、ビリヤードは?」
「いや……残念ながら、勝負にもなりません」
 アレクシスは首を横に振り、ディークの誘いを断った。
 いろいろと嫌味を言われたのを、根に持っている、というわけでもなく、幼い頃から、厳しい父の教えの元、日夜、剣の稽古に明け暮れてきた青年は、こういった遊戯の類は、あまり得意ではない。なんとか嗜み程度には出来るが、ディークの腕前を見る限り、実力に差があり過ぎて、まともな相手にはならないだろう。
 ふぅん、真面目一辺倒なアレクシスの受け答えを、愉快がるように、ディークは唇の端を吊り上げる。
 残念だな、ともらす声は、満更、社交辞令だけでもなさそうだった。
「そう、残念だな……せっかく、男同士で友好でも深めようかと思ったのに」
 台へと向き直ったディークの背中を、見るともなしに見て、アレクシスはぐるりと首を回し、室内を眺める。
 歴史ある貴族の屋敷らしく、ここ、娯楽室もまた、やや古めかしものの、豪奢な内装をしていた。
 アッシュ・グレイの壁には、立派な牡鹿の頭部の剥製が飾られており、部屋で遊戯をするものを睥睨している。
 夕刻ゆえに、その真なる美しさは伝わらないが、昼間ならば、その精緻なステンドグラスが、さまざまな光彩を振りまくことだろう。
 天井のシャンデリアから降る光が、冷えた夜の空気にぬくもりを与え、アレクシスは己は何故ここにいるのだろう……と思いながら、つと目を伏せる。
 ――カン、とショットを打つ音がし、グリーンの球が穴へと吸い込まれていった。


 
 和やかに始まりながら、最後、アインリーフ伯が「あの肖像画には、亡霊が棲むのです……」との不穏な台詞を口にしたことから、晩餐は微妙な空気の中、幕をおろした。
 ディークはどことなく愉快そうに、アレクシスは普段通りに、シアは微かに顔色を青くし、冴えない表情で……さわやかな香気ただよう、食後の紅茶をすする。
 カチャリ、カチャリ、と銀食器を触れ合わせる手が止まり、食後のブランデーを味わいながら、傾けたグラスに己の顔を映した老貴族は、「お客人方、」と同席の若者たちに、重々しい、威厳ある声で語りかけた。青、漆黒、濃緑、色合いの異なった三対の、二人の青年と少女の瞳が、まるで示し合わせたように、アインリーフ伯へと向けられる。
 お客人方……生き抜いてきた歳月の重みを感じさせる、深い皺の刻まれた口元を動かし、アインリーフ伯は言った。
「繰り言のようですが、先程、お話した通り、当家所有のシャンゼノワールの絵画をお譲りすることに、いささかも異存はないが……もし、女王陛下が、心からアレをお望みであるならば、喜んで献上しよう。ただ……」
 叶うならば、我が家にとっては名誉なことと、迷いのない声音で言い切りながらも、アインリーフ伯は「先に申し上げた通り、あの夫人の肖像画には、その、薄気味の悪い話が幾つもありますからな……」と、眉を寄せ、言葉をにごす。
 その言葉が、先ほどの、愛する騎士に裏切られて、その生涯の大半を、狂気に蝕まれて過ごしたという未亡人、アインリーフ伯夫人の件を差しているのは明らかだ。
 いくら女王陛下たっての希望であり、当代のアインリーフ伯自身は、絵画に対する執着が皆無とはいえ、それらの事情を踏まえれば、二の足を踏まずにはいられまい。
 絵筆をとったシャンゼノワール自体、何かと血生臭い逸話に事欠かぬ、異端の画家なのだ。 
 おまけに、肖像画のモデルとなったアインリーフ伯夫人の悲劇が、老貴族の葛藤に拍車をかけていた。
 そのような悲劇が纏わりつく肖像画を、はたして、このアルゼンタールにおいて、光きらめく至尊の座におわす方、愛し、敬うべき女王陛下に献上して良いのか、実直な老人は腹を決めかねているようだった。
「ええ、お気持ちはよく……」
 燭台の炎がゆらめき、白い貌に、伏せた長い睫毛にあわい陰影を映す。
 きわめて神妙な表情で、相槌を打ちながらも、シアの胸中は複雑だった。
 (女王陛下なら、むしろ……そんな逸話があると聞いたなら、それはもう、大喜びされるんじゃないかしら?)
 驚異の珍品コレクター……もとい、珍しいものに目がない、麗しの女王陛下のことだ。
 求めているシャンゼノワールの絵画に、そんな興味深い(シアには、到底、理解得出来ないが……)伝承が、オマケでついてくるとあらば、もろ手をあげて大歓迎、狂喜乱舞ではなかろうか。
 優雅に微笑んだエミーリアが、きらびやかな羽扇を広げ、「まあっ!古の亡霊が憑いてくる絵画なんて、ロマンチックね!」などと、オリーブ色の瞳を輝かせる姿が、容易に想像できて、シアはふーーっと心中でため息をつき、ふるふると首を横に振った。
 まったく問題ないどころか、珍しいもののためならば、悪魔に魂も売り払いかねない、我らが女王陛下が相手のみ、値打ちが跳ね上がることであろう。
 しかし、それを素直に口に出すことは、少なからず不敬にあたる気がして、シアは寸前で、かろうじて思い留まった。
 付け加えるならば、シアは聡明で麗しく、可愛らしいところもある女王陛下の事を、心から敬愛しているし、そんなエミーリアに《女王の商人》としてお仕えできることを、何よりの誇りにしている。
 ……ただ、女王陛下が珍しいものをこよなく愛することに、疑問の余地がないだけだ。
「今宵は、もう遅い。ご使者殿も、一晩、じっくり考えられたいことだろう……長旅で、お疲れでしょうし、よろしければ、今夜は、当家にお泊りください。古いだけが取り柄の、面白みのない屋敷ではありますが、どうか、我が家とも思い、くつろいでいただきたい」
 ――詳しいお話は、また明日いたしましょう。それで、いかがかな?ご使者殿。
 アインリーフ伯のあたたかな申し出に、シアは恐縮しつつ、「お心遣い、ありがとうございます。ご当主様」と頭を垂れる。
 日も暮れ、晩餐に誘われた時点で、執事からもそれとなくほのめかされて、半ば予想していたことでもあったが、女王陛下の使者とはいえ、貴族ですらなく、ただの小娘に過ぎないシアには、過ぎたる厚情だった。
 先触れもなく、屋敷に押し掛けてきたというのに、世話をかけっぱなしなことに、申し訳なさと、いたたまれなさを覚える。
 何からなにまでお世話をおかけして、申し訳ございません、と詫びるシアに、祖父と孫ほども年の離れた老貴族は、慈しむような、優しい眼差しをそそぐ。
 その眼差しの意味が分からず、きょとんと小首を傾げた少女が顔をあげると、先程、頑固さと厳しさを宿しているように思えた、アインリーフ伯の鋼色の瞳が、存外、やわらかな、あたたかみを備えていることに気づく。
 なに、と鷹揚に笑って、アインリーフ伯は言った。
「妻を亡くして以来、この屋敷もめっきり寂しくなりましてな。子や孫がいれば、多少は、にぎやかだったでしょうが……なればこそ、ご使者殿のような、お若い客人がいらしてくださると、屋敷で働く者たちも、張り合いが出るというもの」
 ですから、お気になさらんでください。
 亡き夫人を偲んでか、そう語る老人の声音は穏やかだった。
 なあ、ハンス?語りかけられた執事は、かなり涙もろい性分なのか、柱の影で「旦那様ぁ……」とハンカチを目頭にあて、ぷるぷると小太りな体躯を震わせている。 
 そんな執事に、いつものことだと苦笑しつつ、アインリーフ伯は、ディークに声をかけた。
「ご滞在中、退屈でしょうからな。施錠してある部屋以外、屋敷内は自由に歩いていただいて、構いません。書斎、娯楽室などもありますのでな、暇つぶしには困らんでしょう……客室で、何か入用のものがあれば、用意させましょうぞ」
「わたくしのような者にまで、寛容なお言葉、深く感謝いたします。わたくしとしては、例のシャンゼノワールの絵を見せて頂ければ、それで十分です」
「あの部屋は、普段、施錠しておりませんのでな。どうぞ、ご自由になさるといい」
「そう伺って、安心いたしました。ありがとうございます」
 商人らしく、愛想の良さを発揮し、ディークは微笑んだ。
 その表情は、どこをどう見ても、爽やかな好青年にしか思えず、魔王と罵られているのと、同一人物とはとても思えない。
 アインリーフ伯は、うむ、とうなずいて、晩餐の間中、時折、相槌を打ったりする他は、ほとんど喋らなかった寡黙な騎士へと、目を向けた。
 低く、威厳のある声で、アレクシス殿、と名を呼ばれて、黒髪の青年はそちらへと首を向ける。
 その歪みのない眼差しに、厳めしげな顔つきの老人はふと、なつかしげに相好を崩した。
「……よく似ていらっしゃる。貴方のお父上のカーティス殿も、寡黙な方だった。けれども、話しかけると必ず、凛とした真っ直ぐな眼で、此方を見てきたものです……誇り高く、弱い立場の者に優しく、真の勇敢さを兼ね備えた方だった」
「父の……」
「ご子息が一番、よくわかっておられるでしょうがな。形だけでない、真実、騎士の名に相応しい方だった……誇りになされよ」
 亡き父を讃える言葉が、少しばかり照れくさく、けれども、やはり嬉しくて、アレクシスは白髪の老人を見つめ返した。
 鋭く思える、鋼色の瞳には、親しげな光が宿っていた。
 少しずつ、水が染み込むように、彼の心にあたたかなものが広がっていく。
 はい、と応じた声は、少しばかりかすれていた。
 亡き父のことを、そんな風に評してくれる人に出会ったのは、久しぶりだった。最後の騎士と呼ばれ、廃れつつある騎士道を何より重んじた、アレクシスの父は、新しい時代の風潮に、どうしても染まりきれなかった。議会による政治に移行し、貴族というものが没落していく時代にあって、矜持はあまりにも無力であったからだ。
 時代遅れの愚か者と、生涯、心無い陰口を叩かれ続けた父も、天国で喜んでいることだろう――そう思った。


 晩餐の後、用意してもらった客室に向かう途中で、大時計の前で足を止めたディークは「せっかく、ご当主の許可を頂いたことだし……ね」と、娯楽室へ行くと言った。
「――騎士殿、君も一緒にどうですか?」
 あまり、友好的とは言えない態度を取っているにも関わらず、にこりと微笑って、ディークが誘ってくる。
 その真意が読めず、アレクシスは当惑した。
 深い、底のしれない濃い緑の瞳が、こちらを見据えてくる。吸い込まれそうな、力強い眼差しだった。
 すう、と音もなく、目が細められる。
 嘲り、好奇心、あるいは敵愾心……否、どれも異なる。
 試されているようだ、と何の理屈も根拠もなく、アレクシスは本能で察した。いや、この人は最初から、その意図をもって動いているのだと。
 己の一挙一動、判断、あるいは些細な会話の流れに至るまで、計算され尽くし、その器を見極めようとしているような。反発するのか、屈するのか、あるいは……。
 ディークが一体、何のために、そんな真似をしてくるのか……謎ではあるが、騎士たる者、腰がひけての逃亡は恥とする。
「……お誘いとあらば」
 うなずいたアレクシスに、食後に出された少量のブランデーで酔ったのか、頬をほのりと朱くしたシアが、ぎょっとした風に目を見開いた。
 馬車でのやり取りを思い起こせば、それも無理からぬ反応である。
 ディー兄にねちねち苛められたらどうするの、とばかりに、シアはちょいちょいとアレクシスの袖を引っ張ったが、彼が言を取りけさないのを見て、吐息をこぼし、方針を切り替えた。
「じゃあ、あたしも行く……いいでしょ?ディー兄」
 眠そうな、とろんとした目で、唇を尖らせたシアの口調は、いつもよりも幼く、たどたどしい。
 ほんの一口、二口の酒で、ミルク色の肌を薔薇色に染めた彼女に、ディークはふふん、と鼻を鳴らして、
「やれやれ、お子様はこれだから……」
などとのたまい、指の先で軽くとん、と額をはじく。
 あによ……!と抗議の声を上げるシアに、ディークは「さあさ、お子様は、もう寝る時間だよ……言うこと聞かないと、ちっちゃい時みたいに、お尻ペンペンの目に合わせてあげようか」などと、人の悪い笑みを浮かべて、からかった。
「うががが……なによ、ディー兄なんて、ディー兄なんて……ああもう、悔しい!ありすぎて、何から言えばいいのかわからない!」
 可憐なドレス姿で、だんだんと地団駄を踏む銀髪の少女を見かねて、アレクシスは落ち着け、となだめる。
 仲が良いのはけっこうなことだが、下手に騒いで、ご当主や、この屋敷の人々に迷惑をかけるわけにはいかない。
 アレクシスは一度、首を左右にふると、身をかがめ、己よりも大分身長の低い少女と、目線を合わせた。
 いつかのように、とろんと微睡むような目をしたシアに、小さく微笑い、剣を握るかたい手のひらを、少女のやわらかな額へと押し付けた。
 ……子供や、小動物を抱いた時にも似た、あたたかなぬくもりが、手から伝わる。ほのかな酒の匂いが、鼻先をくすぐった。絹糸を思わせる銀髪が、指の先にからまる。
 (顔は赤いが、熱はないな。少々、体温が高いが、酒のせいもあるだろう……)
 納得し、身を引いたアレクシスが下を向くと、潤んだ青い瞳が、恨めし気な色合いをたたえて、彼を見つめていた。
 茹でた蛸もかくや、というほどに真っ赤な顔をしたシアに、アレクシスは、はて、と首をかしげる。
 さっきから、ずいぶんと血色がいいとは思ったが……ここまで、頬を赤くしていただろうか?
 大丈夫なはずだが、少し心配になってくる。
「……シア、顔が赤いぞ。そんなに飲んではないと思うが、色々と疲れてるだろうし、今日は早めに寝た方がいい」
 純粋な親切心から、そう口にしたアレクシスだったが、シアはそうは受け取らなかったらしい。
 真っ赤な顔で、唇をぎゅっと引き結び、こちらを睨んでくる。そうして、アンタのせいよ、と恨めしげに呟く。
 そんな拗ねたような顔すら、シアならば、いとおしいと思えるのだから、つくづく己はおめでたい思考になってしまったようだと、アレクシスは自嘲した。恋とはつくづく、厄介なものだ。
 とはいえ、心配ではある。彼は部屋まで送ると、少女に手を差し伸べたものの、「いい!」と強い調子で拒まれた。
「心配だから、部屋まで送る……うん?」
「もういい!おやすみ!」
 嫌がられた風ではない。けれども、ぽかんと呆けるアレクシスの身体を押しのけて、耳まで赤く染めたシアは、ぶんぶんと忙しなく首を横に振ると、ダッ、と脱兎の如く駆けだした。
 去り際、ディークに「さっきみたいに、意地悪しないでよ」と、耳打ちしていくのも忘れない。
 己の手をすり抜けて行った少女の背中を、薄暗がりにあっても、光を放つ銀髪を、アレクシスは不思議そうに見つめた。
 あれだけ走れるならば、心配はないだろうが……いきなり、どうしたのだろうか。
 うかつに触れれば折れそうな、あの細い身体で、肉も魚も完食していたし、腹痛かなにかか、と勘繰りかけて、若様はこれだから……と、ため息をつく、セドリックの渋面が浮かんだので、やめておく。
 少女が走り去った方角から、「あーもう、ズルい!ズルすぎる……なんで、あたしばっかり、こんな風になっちゃうわけ!」などという叫びが、廊下に反響していた。
「急に、どうしたんだ。熱はなさそうだが……」
 首をひねりながら、そう呟いたアレクシスに、ディークがハッ、と小馬鹿にするように、笑った。
 なにか、と問うたアレクシスに、青年は例の如く爽やかな笑みで「いやー」と言う。
「天然で無自覚って、最恐だな、って思って……ものは相談なんですが、いっぺん、死んでもらっていいかな?」
「……いきなり、何を?」
「いやー、冗談、かるーい冗談ですよ……ハッハッ」
 半分は本気だけどね、と心中で舌を出しながら、ディークは娯楽室へと向かう。
 アレクシスも、ちらり、と少女の走り去った方へと目を向けて、彼の後を追った。
 ――そうして、話は冒頭へと戻る。


「……何を、考えているのですか?」
 いきなり声をかけられたことで、アレクシスはとっさにロクな反応を示すことが出来ず、ゆるりと顔を上げた。
 ビリヤードのキューを手にしたディークが、人を食ったような笑みを浮かべて、こちらを見ていた。
 面白がっているようにも、騎士らしくもない警戒心のなさに、呆れているようにも見える。
「……特には」
 淡泊に答えたアレクシスに、亜麻色の髪の青年は、片手で髪をかきあげ、へー、そうですか、とつまらなそうな声を出す。
 それっきり、興味が失せたように、ついと視線が逸らされる。
 たった今、意識したように、ディークはくるりと身体を反転させ、部屋の豪奢な内装を目に留め、「へえ……」と感心の声を上げた。
「昨今の流行りとは無縁だけど、どの部屋も見事な贅の尽くしようだね……当代の当主は、良さそうなおひとだけど、歴代の当主の中には、圧政で領民を苦しめたのも、居たかもしれないなあ」
 そう淡々とした声音で言い、ディークは笑う。
 にこやかな笑みの向こうには、強烈なまでの蔑みが込められていた。
 平民が汗水垂らして蓄えたものを、巻き上げるだけで暮らしていけるのだから、貴族っていうのも、昔は、良い身分でしたよね。……今は、大半が没落しているようだけど。
 それは、貴族であるアレクシスにとっては、胸を突き刺すような鋭さをもった、痛烈な皮肉だった。
「……っ」
 思わず、目を背けたくなる衝動を、アレクシスは耐えた。
 貴族、平民、という壁が存在する以上、それを受け止めえぬ者に、貴族たる資格はない。
 誇り高くあるべし、されど、独りよがりな傲慢であってはならないのだ。
「ああ、お気を悪くされましたか?アレクシス殿……いえ、別に、貴方のことを言っているわけではありませんよ」
「あなたは……貴族のことが嫌いなのですか?」
 容赦なく言葉を重ねてくるディークに、アレクシスは逆に問い返した。
 とんでもない、と濃緑の目を細め、男は唇を吊り上げる。ああ、嫌いだよ、と答えて、傷つけてやろうかとも思う。貴族は、嫌いだった。――誰よりも尊敬する人を、傷つけた貴族なんざ、好きになれるはずもない。
 古きを否定し、新しい時代の申し子ともいうべき、商人の口調には迷いがなかった。
「ただ、貴族なんてものは、過去の遺物だとは思ってますよ」
 キューが最後のボールを弾いた、穴に滑り落ちていくそれを、アレクシスは瞬きもせず見つめる。
 次に顔を上げた時、ディークはもう嘲笑るような、それを浮かべてはいなかった。
 その代わりに、濃緑の瞳は、頑是ない子供を諭す時のような、物わかりの良さをたたえている。
 アレクシスの腰の剣を見やる、商人の青年の目は、どこか優しい。……憐れまれているのだと、わかった。
 君、という声は、さきまで慇懃無礼さとは違い、対等な響きを帯びている。
「――この時代で、君はその剣で何を、いや、誰を守れると錯覚しているのかな?」
 愚かだね、と憐れむような瞳が、そう言っている。
 愕然と立ち尽くした騎士には、返すべき言葉もなかった。
 
 ビリヤードの道具を片付けると、ディークはさて、と気を取り直すように、肩を回す。
 最早、アレクシスと会話する気は、殆どなさそうだった。
 他人を、奈落へ突き落しておいて、勝手なものだ。
 とはいえ、天才商人エドワード=リーブルの再来、リーブル商会の隠し玉とうたわれる男は、並大抵の神経を持ち合わせていないのか、罪悪感など欠片も感じさせない、爽やかな笑顔で、ディークは、じゃあ、とアレクシスの前から去ろうとする。
「お話できて、楽しかったですよ。騎士殿。じゃあ、僕は、もう一度、シャンゼノワールの絵を見に行くので、失礼……」
 立ち去ろうとするその背中を、アレクシスの意志に反して、足は勝手に追いかけていた。
 何故、そんなことをしたのか、彼自身、うまく説明できない。
 逃げることも、聞かなかったフリをすることも、やさしかった。けれど、なぜ、そうしなかったのかと問われれば、このディーク=ルーツという言葉の裏に、真実の一端を見出したからだ。
 腹立たしかった。
 未だかつて、味わったことのない屈辱だった。
 貴様に何がわかると、吠えることだって出来た。でも、そうしたところで、アレクシス自身の抱えるものが、解決するわけではない。であればこそ、歯を食いしばってでも、現状から逃げない道を選ぶ。
 ――彼が立ち止まった時、彼女は背中を押してくれた。その恩に、報いるためにも。
「おや、一緒に来るの?」
 振り返ったディークは、意外そうな顔をしていた。
 アレクシスが無言のうちにうなずくと、低く笑って、同行を拒もうとはしなかった。
「確か、この部屋だった……おっ、正解」
 昼間、一度だけ辿った道のりを記憶していたのか、ディークの歩みはスムーズだった。意識して覚えたわけではないだろうから、元来、記憶力が良いのだろう。
 かつて、当主の妻が暮らしていた部屋の扉を押し上げ、シャンゼノワール絵が飾られているのを確認し、正解、とおどけてみせる。
 アレクシスの反応の悪さは、最初から織り込み済みのように、気にも留めず、亜麻色の髪の青年は、さっさと窓際に歩み寄ると、ザッ、と閉ざされていたカーテンを開け放つ。
 天空に金色の月が浮かんで、そこからおちる一筋の光が、部屋に中に差し込み、その肖像画を照らし出した。
 ――なめらかな漆黒の髪、ヘーゼルナッツの瞳に、夢見るような微睡むような色合いをたたえ、絵の中の女は微笑んでいる。
 成熟した女の色香を感じさせながらも、童女のような無垢な微笑みは、不釣り合いでさえあった。騎士との愛憎や、その後の悲劇を知ったうえで、改めて、このアインリーフ伯夫人の肖像画を見つめると、また先とは違った感慨を、抱かずにはいられない。
 歪な精神、どろどろに蕩けて、形を無くしてしまった愛は、歪んだ執着心へと変貌する。
 魂描く画家、シャンゼノワールの技巧は、素晴らしく、いっそ残酷でさえある。
 その者の魂の形まで、絵筆で曝け出すのは、芸術よりも、明確な悪意だった。
 騎士様、愛しい騎士様、どこにいらっしゃるのです……。
 わたくし、待っていてよ。
 ず――っと、ず――っと、待っていてよ……。
「ああ、何度見ても、残酷な絵だね。これは……そう思わないかい?」
 シャンゼノワールの描いた女を、じっと見つめていたディークが、冷めた声音でそう言った。
 絵の完成度とは別に、モデルや画家の背景に想いを馳せているのか、その声は嫌悪感すら感じさせる。
 うなずきかけたアレクシスの耳に、誰のものともしれない、震えるような激情を孕んだ、あまいあまい女の声がした。
『ああ、戻ってきてくださったのね。騎士様。漸く、ようやく、ひとつになれる。これであなたは、永遠に……私のもの。私の。私の。私の。私の。……モノ』
 耳障りなそれを、アレクシスは幻聴だと切り捨てた。
 胸の前で組み合わせた手が、肖像画の中のそれが、一瞬、動いたような気がして、彼は目を瞬かせる。
 気のせいだ、でなければ、己は疲れているのだろうと、アレクシスは小さく頭をふった。
 亡霊なんて、出ない。さっき、アインリーフ伯の口から、あんな話を聞いたから、そんなことを想像してしまうのだと。

 
 客室の、借り物の寝台に身を横たえながら、アレクシスは眠りに落ちることができなかった。
 どんな場所でも寝れるよう、訓練を積んでいるにも関わらず、そんなものが、まるで無駄だったように、肌触りの良いシーツも、やわらかな枕も、彼を眠りに誘うことは叶わない。
 らしくもなく、落ち着かなけに、何度も寝返りを打つ。
 灯りを落とし、目をつぶると、先程の、一筋縄ではいかないディークの言動が耳に蘇り、心の脆くやわい部分に、いくつもの引っ掻き傷をつけていく。
 何が正しいと、単純に判断できる問題ではない。だが――ずっと、悩んでいたことを、見透かされた気がした。
 (頭が重い……)
 (身体が動かない、息苦しい……)
 (夢か、現実か、ここに居るのは誰だ……)
 ようやく、眠りに落ちかけたものの、腹の上に妙な重さを感じて、アレクシスはまぶたを上げる。
 ぼやけた視界は、意識の覚醒と共に、じょじょに鮮明になる。
 目に映るのは、ひらひらの白いもの。
 白いひらひらのネグリジェが、アレクシスの胸へと、のしかかってくる。
 胸を圧迫されているが、体重が軽い故、さほど苦しいわけではない。アレクシスが凍りついたのは、まったく別の理由だった。
 まるで、押し倒すような姿勢で、上に伸し掛かってくるのは、彼が好意を寄せる少女だった。透けるような、薄いシルクのネグリジェの裾から、ほっそりした足首がのぞく。普段は結われることの多い銀髪は、背に流され、胸元をつたって、彼の頬の辺りまで落ちてくる。
 襟ぐりのあいたネグリジェは、男の身勝手な欲望を煽りそうで、華奢な鎖骨や、そのやわらかそうな薄紅の唇から、アレクシスは必死に目を逸らした。
 これは、夢か現実か。
 それとも、自分の欲が見せた、幻影なのか。
 いずれにせよ、そうしなければ、己が欲望に流されて、理性を捨て去ってしまう気がして、恐ろしかった。
 少女の青い瞳が、歓喜を宿して、此方を見つめている。――ああ。気が狂いそうだ。いっそ、状況に流されてしまえば、どれほど楽か。
「……シア?」
 名を呼ぶ声は、微かに震えていただろう。
 胸の上にのしかかってくる影に、アレクシスは、そう呼びかけずにいられなかった。
 シア、と名を呼ぶと、ひらひらのネグリジェを着た少女は、らしくもなく妖艶に笑った。
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