女王の商人

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  絵画と商人 7−11   

 アインリーフ伯の領地から、王都ベルカルンへの帰途についてより数日後、女王陛下のお召しにより、シアたち一行は、王城へと上がっていた。
 謁見の間で頭を垂れるのは、何故だか、げっそりとした顔のシア、凛と背筋は伸びていても、どこか疲労の色が濃いアレクシス……そして、一人、すました顔つきで、疲労の痕跡すら感じさせない、ディークの三人だ。
 一人、余裕たっぷりの態度を崩そうとしないディークに、銀髪の少女がぎりぎりと歯噛みし、心底、恨めし気な目を向けていたことは、言うまでもない。そんなシアの額には、何やら軟膏のようなものがぬってあり、例のオフーダの名残りを感じさせる。
 その時、頭上から降る、涼やかな声に、彼ら三人は姿勢を正した。
「面を上げなさい」
 威厳あふるる、だが、どこか親しみを込めた口調で、そう言ったのは、エミーリア女王陛下だ。
 玉座から、澄んだオリーブ色の瞳で、慈しむようにシア達を見やる女王陛下は、裾のたっぷりした異国風のドレスに身を包み、孔雀の羽根の扇で、風を送っている。
 シャラララ、と結い上げた金髪に巻き込んだ、極彩色のビーズが軽やかな旋律を奏でた。
 一段低い脇には、今日も今日とて、女王陛下付きの女官ルノア=オルゼットが、さながら影のように控えている。
 シア、アレクシス、ディークの三人が、ゆっくりと顔を上げたのを見届けて、麗しの女王陛下は唇に微笑をはき、ねぎらいの言葉をかけた。
「三人共、よくぞ今回の依頼をこなしてくれたわね。幻の宮廷画家・シャンゼノワールの絵を、再び、城へ戻すことが出来たこと、お礼を言うわ。そうそう……アインリーフ伯も、貴女たちの訪問が楽しかったようで、また是非に……と言っていたわよ」
 上機嫌で、にこやかに続ける女王陛下に、シアは「勿体ないお言葉、光栄でございます」と、口にしながらも、ぴくぴくっと頬をひきつらせた。
 あの夜、アインリーフ伯夫人の亡霊に乗っ取られて、大騒ぎしたという記憶は、幸いというべきか、不幸にもというべきか、彼女の記憶からスッポリと、綺麗さっぱり抜け落ちている。とはいえ、(自分がやったというのが、到底、信じられないのだが……)、自らの手で、ビリビリに引き裂いたシーツや枕は、どうにもならず、翌朝まで、アレクシス共々、頭を悩ますことになった。
 その、どうにもならない事態を解決したのが、誰であろう、ディークだ。
 一体、どんな魔法のような手段を、あるいは怪しげな口八丁手八丁を駆使したのか謎だが、アインリーフ伯の機嫌を損ねることなく納得させ、のみならず、更に更に謎なことに、あの厳めしそうな老貴族に気に入れられて、今度、異国の話しを詳しく聞かせてくれるよう、ぜひにと乞われていた。
 商人としての技量うんぬんは置いておくにしても、どこをどうすれば、そういう話しの流れになりえるのか、正直、シアにはまっーーたく、理解できない。
 輪をかけてカチンと来るのは、その件に関しては、ディークが恩を着せるそぶりをみせないことだ。さも当然のように、フォローされた日には、さすがのシアも感謝するよりなく、文句のつけようもない。
 (あぁ、もう!この貸しは、絶対、いつか百倍にして返せって言われるうぅぅぅ!長年の経験と実績と、ほぼハズレなしの予測から、あたしにはわかってるのよ――っ!)
 敬愛する女王陛下からの、嬉しいはずのお褒めの言葉にも、どこか虚ろな目をしたシアの隣では、
「お褒め頂くには、及びません。陛下の臣として、忠実なる僕として、当然のことでございます」
と、欲がないというべきか、いつも通りというべきか、アレクシスが穏やかな声音で応じる。
「我らが女王陛下のお役に立てましたなら、このディーク=ルーツ、光栄の至りでございます。東方からの帰途、陛下のおわす王都のことを、夢見ぬ日はありませんでした。こうして、再び、ご尊顔を拝謁できたこと、身に余る名誉でございます」
 洒落た、品の良い衣服を身に包み、小奇麗に身なりを整えたディークが、商人らしい愛想の良さと、不快にならぬ程度の、おべっかをふくんだ台詞を口にする。
 サラリと流した亜麻色の髪、優しげな濃緑の瞳、口当たりの良いまろやかな口調と相まって、そうしている様は、貴婦人に愛を囁く、貴公子のようだ。
 とてもではないが、そのいっそ小憎たらしい程の外面の良さは、普段、魔王だのなんだのと言われているのと、同一人物とは思えない。
「相変わらず、ムダに外面が良いわね……この毒舌魔王……」 
 玉座におられる、女王陛下の耳に届かぬよう、シアがボソッと小声で呟くと、顔に笑みを張り付けたディークが、無言のまま、腕をつねってきて、思わず、「痛……っ!」と悲鳴を上げそうになる。
 横目に見たアレクシスが「懲りないな……」と、呆れたような、半ば諦めたような目をした。
 そんなドタバタぶりに目を留めてか、エミーリアはクスクスッ、と幾何学模様の織りの袖をひらめかせ、孔雀の羽根もあざやかに、「しばらく会わぬうちに、元気な少年が、随分と口が上手い商人になったこと……あなた、だんだんと、クラフトに似てきたかしら?ううん、茶目っ気が強いあたりは、エドワード似かしらね」と、オリーブの双眸を細める。
 王冠抱く彼女の脳裏に、昔日の、リーブル商会の長であったエドワードに、王城に連れて来られ、緊張した面持ちで、頬を上気させていた少年の横顔が浮かぶ。
 まだ王女だった己に乞われるまま、いまだ見ぬ海の果て、遥か異国への憧憬を、目を輝かせて語っていたものだ。
 いつか、異国との交易を結んで、必ずや、アルゼンタールの繁栄に尽くします。王女殿下には、異国のお菓子、ドレスや装飾品、書物をお持ちいたしましょう――まぁ、楽しみだわ、と微笑んだエミーリアに、あわく頬を染め、約束します、とかすれる声で誓った少年の面影と、今のディークが瞼の裏で重なった。
「それは……よく言われます」
 たっぷり間をおいて、茶目っ気たっぷりに答えたディークに、エミーリアはころころと優雅に、鈴の音を鳴らすように笑う。
 その時、赤毛の年若い女官が楚々とした足取りで、女王陛下の傍らに控えるルノアに歩み寄り、そ、と耳打ちした。初老の女官はうなずくと、「陛下、準備が整いましてございます」と、奏上する。
 側近の言葉に、エミーリアは「そう」と応じると、パンパンッ、と軽く手を鳴らした。
 それが合図だったように、重厚な扉が左右に開けられて、制服をまとった衛兵の男たちの手によって、紫の布がかかった“それ”が、謁見の間に運び込まれる。
 シアたちの視線が、存在感を示すそれに集中し、場が静まり返り、息を呑むような音がしたところで、満を持したように、女官の手が伸びる。
 ふわり、と光沢を放つ紫の布が取り払われて、イーゼルと、それに立てかけられた肖像画が露わになる。
 額縁の中で、微睡むように、夢見るように微笑む女……。
 ――シャンゼノワールの絵だ。
 絵の中から、ヘーゼルナッツの瞳が、此方を見たような錯覚を起こして、シアは忙しくなく睫毛をふるわせ、目を白黒とさせた。
 覚悟はしていただろうが、苦い思い出を回想してか、アレクシスもぎょっとしたように、それとなく目を逸らす。
 ディークだけが、動揺の欠片もない笑顔のまま、シャンゼノワールの絵を正面から見つめている。
 そんな三者三様の反応を、順繰りに見て、女王陛下は美しい羽根の扇を、パサッと閉じると、自らディークに声をかけた。
「貴方に言われた通り、シャンゼノワールの絵を持ってこさせたけれども……何を考えているのかしら?ディーク=ルーツ?古の亡霊が棲む絵画なんて、ロマンチックだとは思うけど、城内に飾るにも、宝物庫に置くにも、困ってしまうわね」
 事前の手紙で、大体の事情を飲み込んでいたからだろう。
 亡霊が出ると噂の絵画を前にしても、どこまで信じているかはともかく、麗しの女王陛下の貌に、怯えの色はない。
 むしろ、頬に手をあて、「厄介な代物だこと……」とぼやきながらも、その瞳は好奇心できらきらと光にあふれ、花の蕾のような唇は、隠そうとしても隠しきれない嬉しさで、ほころんでいる。さすがは、無類の珍品コレクターであられる、女王陛下――。美しく気品ある容姿、明晰な頭脳があっても、変わり者と言われる由縁である。
 何を考えているのかしら?と、ディークに尋ねる様子も、詰問ではなく、どこか面白がっている風だった。
 商人の青年が、一体、どんな反応を返すのか、期待し、愉しんでいるようでもある。
「その件ですが……どうか、これをお受け取りくださいませんか?女王陛下」
 ディークはそう言うと、わざわざ、その為に用意してきたのか、東国ムメイの扇、ワシ、と呼ばれる紙に、恐ろしいほど細やかな、異国の風景が描かれているそれを取り出し、その上に蛇が這ったような文字が記されている、白い紙をのせる。それは、たしか“オフーダ”というのだと、青年自身の他には、アレクシスだけが知っていた。
 雅やかな扇子ごと、さも貴重なものを扱うように、ディークは、引き取りに来た女官の手に、うやうやしくそれを手渡す。
 傍仕えの女官が、届けにきたそれ、雅やかで美しい東国の扇子に目を細め、エミーリアは「この紙は、何かしら?」と、問いを重ねた。
 東国のお守り、ソーリョという神官がもたらしました、ありがたーいありがたーい、オフーダという代物でございます。
 しれっとした顔で、そう答えたディークに、アレクシスは思わず目を剥き、げほげほっ、と咳き込みそうになる。――本気と言うか、正気か……っ!
 隣で、生真面目という言葉を絵に描いたような、黒髪の青年が口をパクパクとさせているのを、華麗にスルーして、ディークは堂々と言い切る。
「何でも、このオフーダ、というのは、東国ムメイでは悪鬼も逃げ出す、強力な魔除けとして、知られているそうです。東の果てには、「カナイアンゼン」という、魔王をも退ける、万能な聖句もあるとか……亡霊にも、効果がありましょう」
 どうぞ、肖像画の裏にでも、張り付けてくださいませ、と亜麻色の髪の青年は続ける。
 八割方、東方のソーリョ、という男の受け売りだが、嘘は言っていない。嘘は。
 ただ想像の余地を、たくましくしているだけだ。
 ディークの言葉に、東国への知識が少ないシアもアレクシスも、「なるほど、そういうものか」と感心したような顔をしているが、真実を知れば、顔を赤くし、ついで血の気が引いたことだろう。
 しかし、幸いにもというべきか、この場において、その偏った知識を正せる者はいなかった。
 東の果てよりもたらされた、オフーダ、と扇子に、エミーリアは興味深げな目を向けたものの、ゆるり、と浅く首を横に振る。
「嬉しい申し出ではあるけれど、そんな希少なものを、何の対価もなしに受け取るのは、気が引けるわ。その気持ちだけで十分よ、ディーク=ルーツ」
 優しく笑んだ女王陛下に、遥か異国を旅してきた商人の青年は「いいえ」と応じ、
「オフーダは偶然、手に入れたものですし、どうか、お受け取りくださらねば、困ります。その“扇子”も。――私は、王女殿下とのお約束を、忘れてはおりませんゆえ」
と、言う。
 身振りで、扇子を見るように促され、その意をくんだ女官が、サッ、と扇子をひろげる。花が咲いた。薄紅の花びらが、ひらひら、春を告げる花の名は。
 その扇子の絵柄に、エミーリアはほぅ、とため息をこぼす。
 昔、と青年の声は続いた。
「王女殿下は、東の花が見たいと仰せになりました」
 陛下の麗しさには叶いませぬが、東の果てに咲く、可憐なる花です。お納めください、と頭を垂れたディークに、女王陛下は「本当に口が上手くなったこと……その女泣かせなところは、一体、誰に似たのかしらね?」と、苦笑交じりのため息をこぼす。
 亜麻色の髪の青年は、それには答えず、ただ微笑するのみだった。
「つまらぬものではございますが、今後とも、リーブル商会をご贔屓に」
 そう話を締めくくったディークに、この状況でも宣伝を忘れないとは、筋金入りの商人であると、アレクシスはもとより、シアも舌を巻くよりなかった。



「ねえ、アレクシス……」
 王城からの帰り道、シアは名を呼びながら、前を歩く青年の袖を引っ張る。
 彼女に歩調を合わせ、ゆっくりと歩いていたアレクシスが、後ろを振り返った。
 漆黒の瞳が、少女の姿を映す。
 身長差をもどかしく思いながら、シアは心持ち背伸びをすると、アレクシスと目を合わせ、「そこ」と首を指差す。
「そこ、首のところ、怪我してない?」
 どうして、そんな風に思ったのか、シア自身、はっきりとはわからない。
 パッと見は、襟で隠れている箇所なのに、何となく、そこが赤くなっている気がしたのだ。そんなもの、影も形も見えないのに。
 大きな青い瞳で見つめられて、アレクシスは「ああ、」と微苦笑を浮かべると、とっくに痕が消えてしまっている……今や、首を絞められたという事実さえも、忘却しかけていたそこを、大きな手のひらで隠した。
「ここは、その、気のせいだ。何でもない」
 基本的に、嘘が吐けない性質なのか、下手な言い訳をするアレクシスに、シアは「ふーん……」と不思議そうな相槌を打った。だが、やはり気になったのか、少女の手がためらいがちに伸ばされて、いたわるような繊細さで、一瞬、青年の首にふれた。
 予期せぬ想い人の行動に、アレクシスの心臓が跳ねる。
「……シア?」
「ごめんなさい」
 アレクシスが目線を下げると、シアが苦しげな顔で、何かに耐えるようにうつむいていた。
 亡霊に乗っ取られていた、あの時のことを気に病んでいるのかとも、彼は思ったが、そういうわけでもないらしい。どうして謝るんだ、と彼が問うと、わからないと首を振る。
「わからないの。何故だか、思い出せない。けれど……謝らなくっちゃいけない気がするのよ」
 覚えてもいないことを謝るなど、失礼な話だと思う。それでも。
 シアは、ズキズキと鈍く痛む額を押さえた。
 その手に重ねるように、大きな手のひらが、くしゃと前髪を撫でる。
「いいんだ」
「でも……」
 反論しようとしたシアに、アレクシスは彼にしては強い口調で、「いいんだ」と繰り返した。
「いいんだ。忘れることも、ひとつの優しさなんだから」
 あまりにも迷いのない声に、シアは自分が何だか、とても幼い駄々をこねているようで、いたたまれない気持ちになる。けれど、と言葉が喉をつきかけた時、まるで、それを見計らったように、三歩、先を歩んでいたディークが、「おや、僕には何もないのかい?」と、何とも呑気な調子で言う。
「僕も僕なりに、力を尽くしたつもりなんだけどなー?いまだ、お礼のひとつもないとはね、やれやれ恩知らずなことで……」
 肩をすくめ、ふーっと芝居がかった仕草を見せる、ディークに、シアはムカッとし、眦を吊り上げた。が、しかし、指摘されるまでもなく、色々と助けてもらったのは、事実である。いかに魔王相手とはいえ、人として、人として、守るべき礼儀というのはある。
「どうもありがとうございました。助けていただいて、ホントウニカンシャシテマス」
 思いっきり、棒読みで言ったシアのそれを、亜麻色の髪の青年は、はっ、と鼻で笑う。
「可愛いげがない。ついでに、色気もない……シア、君、そんなんだから、いまだに恋人のひとりも出来ないんだよ」
 なっ!図星をさされて、シアはうろたえた。
 そんなこと、思っていたとしても、口に出すことないではないか!
 しかも、アレクシスの前で!
「ななななな……なんで、ディー兄にそんなことを、言われなくちゃいけないのよ……っ!一体、何の権利があって、そんなことばらすわけ!」
「おやおやおや、図星を差されたのが、丸わかり。まだまだだねぇ」
「うるさい、うるさい、うるさいっ!」
 あたしに何の恨みがあるっていうのよ!と、シアは吠えた。その顔は、悲しいくらい、真っ赤だ。
 そばにいたアレクシスはといえば、想い人である少女の反応に、同情半分、ホッと安堵する気持ち半分で、そんな自分に、何を考えているんだ……と自己嫌悪を激しくしていた。彼は彼で、忙しい男である。
 シアの言葉に、何か思うところがあったのか、ディークはふっと真顔になると、「本当にいないのかな、じゃあ、」と含みのある声で言う。アレクシスよりも幾分、日に焼けておらず、剣よりペンが似合いそうな男の手が、すい、と少女の銀髪をひとふさ、すくいあげた。
 耳元に近寄り、あまい声で囁く。
「――僕が名乗りを上げても、支障がないってことだよね?」
 耳元で囁かれたそれに、シアは頭が真っ白になった。
 思わず、間の抜けた声しか発せられないほどに。
「は……?」
 ご冗談、ですよね?
 途方に暮れたような少女の顔が、目に入っていないのか、気づいていて、あえて無視しているのか、ディークのそれは留まるところを知らない。
「いやー、懐かしいなぁ。昔は、大きくなったら、恋人になって、僕にあんなことや、こんなことをさせてくれるって……言ってなかったっけ?シア」
「言ってないわあああ!勝手に、記憶を捏造しないでよ。ディー兄いいいい!」
 またディー兄の悪ふざけか、とどこか安堵しつつ、いつも通りに流そうとしたシアだったが、その濃緑の瞳がいつもよりも真剣な色合いをたたえていることに、驚き、そして、叫んでいた唇を閉ざす。
 優男風の容貌ながら、その瞳の鋭さは存外、男っぽく、血縁たるクラフトにはない、野性味のようなものを感じさせる。
 軽く口角を上げて、ディークは「僕は本気だけど」と、笑う。
「考えてみなよ。自分でも言うのもあれだけどさ、そこそこの甲斐性はあるつもりだし……君にとっては、悪い条件じゃないと思うけどね」
 いつものような軽口だと決めつけて、無意識にしろ、逃げを打とうとしていたシアは、その台詞で逃げ場を失う。
 情けなくも、うろうろと視線をさまよわせるが、彼女と目が合ったアレクシスは、気遣うような眼差しを投げかけてきても、救いの手を差し伸べてくれはしなかった。
 恋人?条件?わからない、わからない。考えたこともない。そんなこと、考えなくても良かった。
 ふわふわ甘い恋心に酔っていられれば、それだけでも、幸せだったのに……。――ディー兄は、ズルい。いつだって、シアの弱さを、甘さをついてくる。留まることを許さない、嵐みたいに。
「シア――?返事は急かさないけど、あっちの世界に旅立っちゃわないで、帰っておいで」
 ディー兄の声に、我に返ったシアが取った手段は……敵前からの逃亡だった。
「アレクシス……ごめんなさいっ!あたしは、遠くに逃げなきゃいけないから、後はよろしく!」
「シア、おい、ちょっと……」
 結局、リーブル商会に戻るしかないのに、何処に逃げるんだ?という、アレクシスの極めて、冷静なる一言をも振り切って、シアは「うわあああ!ごめんなさい、ごめんなさい、つい我が身が可愛くて……!」などと叫びながら、猛スピードで駆けていく。
 騎士の青年はといえば、手を伸ばしかけた姿勢のまま、所在なさげに固まり、ディークは「おーお」と感嘆の声をもらして、風になびく銀の髪を、遠ざかっていく背中を見送った。
「あの子の、ああいうとこ、面白いよね。いろいろ育て甲斐があるというか、自分好みに染めてみたいというか……君も、男なら、そういうのはわかるだろう?騎士殿」
 話を振られたアレクシスは、伸ばしかけていた手を下ろし、いや、と首を横に振る。
「いいえ。俺がどうこうではなく、シアはシアですから」
「予想通りというか、お堅い、優等生的な答えだねー」
 組んだ腕を頭にのせて、ディークは軽く苦笑し、「君は、怒るかと思ったんだけどね……それとも、僕が本気じゃないと思った?」と、探るような目を向けてくる。その眼差しは、青年自身が持つ自信や活力を内包しているように、力強く、鋭い。
 それに気圧されることを、恥としつつも、アレクシスはシアの走り去った方角へと目をやり、明るい日差しに目をすがめる。
「貴方が、シアを傷つけるならともかく、それ以外のことで、俺が怒る理由はありません。彼女が決めることでしょう」
 俺に口を出す権利なんて、ありません……と、そう続けた声は、どこか苦しげな、切ない響きを帯びていた。
 へー、と相槌を打つと、ディークは「ならば、僕がどういう行動に出ようと、文句はないってことだね?」と髪をかき上げた。
 押し黙ったアレクシスに、亜麻色の髪の青年は口元をゆるめると、どこか諭すように言う。
「あの子はね、騎士殿、君が思っているよりも、ずっとずっと複雑な立場を抱えた子だよ。――君は、一体、何時、それに気づくんだろうね?」
 その言葉は、アレクシスの胸に、微かな棘にも似た痛みをもたらしたのだった。
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