女王の商人

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  絵画と商人 7−12    

 それより、二日後、リーブル商会の本部前にて――


「ひっでぇな。これ……まともな人間のやることじゃねぇよ」
 顔をしかめたアルトが、憤りもあらわに、そう吐き捨てる。
 鼻先では、生臭い、肉が腐ったような臭いがただよう。
 リーブル商会の前の通りに、まき散らされたそれは、あまりの惨さに、目を覆いたくなるような代物だった。
「嫌がらせにしても、悪質とかの域を超えてる……どこのどいつの仕業か知らないけど、捨てておけないな」
 つい先日も、切り裂かれた絵画の切れ端と、鋭利なナイフのようなもので、綿を飛び出させたぬいぐるみが、ここに捨てられていた。
 灰色の地面に飛び出さされた、白い綿はさながら臓腑を連想させて、嫌がらせにしても悪質だと、胸クソ悪くなったものだが……
 今回はもっと酷い、とエルトは口元にハンカチをあて、こみ上げてくる吐き気をこらえた。
「許せないよ。何の罪もない生き物に、こんな真似をするなんて……」
 日頃、ワンテンポずれたペースを貫いて、滅多に怒りを露わにすることのないカルトまでもが、拳を震わせ、その惨状を作り出した人間への憎しみを、隠そうともしなかった。
 通りにまかれたのは、前と同じ、絵画の切れ端のようなもの。それは、前の時と変わらない。だが……直視するのが忍びなく、エルトは目を逸らす。
 生気の感じられない、白く濁った眼球、血に染まった灰色の毛皮、丸まった小さな体躯……そして、裂かれた腹と、道々に散乱する、その中身。
 腹を裂かれたぬいぐるみの代わりに、ハラワタを裂かれた子猫の死骸が、そこに打ち捨てられていた。死肉をあさるためか、黒いカラスが、その亡骸に周りにむらがる。まるで、出来の悪い喜劇のような、その構図は、あまりにも凄惨で、猟奇的だった。
「許せねぇ、許せねぇよ。こんなん!嫌がらせにしても、もっとやりようがあるだろうーが!」
 怒鳴るアルトに、エルトも無言でうなずく。
 調子に乗りやすい性格に見えて、アルトは三つ子で一番、情の深い男だ。正義感の強いところもあるから、自分より弱いものを手にかけ、嫌がらせを仕掛けてくるという卑劣さに、激しい怒りを覚えているのだろう。
 カルトはといえば、何かに耐えるように唇を引き結んで、子猫の亡骸にむらがるカラスを、片手で追い払った。
 そのままにしておくのが、耐え難かったのかもしれない。
 血を同じくする兄弟たちの行動に、エルトは深く嘆息した。二人のように、露骨に感情を示すことこそないものの、見るに忍びないのは、彼とて同じだ。しかし、同じ日に生まれながら、三つ子のリーダー役を担うことが多い、比較的、冷静な彼には、もうひとつ、気にかかることがあった。
 ――前回の事は、きっと、ただのイタズラじゃなかった。
 あの時は、ぬいぐるみだった。今回の子猫の死骸……ならば、その次に犠牲となるのは?
 悪い想像をしてしまって、エルトはぶるりと身を震わせる。ゾッとした。
 もしも、自分の憶測が正しければ、これは自分たち三つ子が捉えている以上に、大変なことなのかもしれない。
「……どうする?エルト」
 不安げな面持ちで、そう問いかけてくるカルトを安心させるように、エルトは努めて、冷静な判断を心がけようとした。
「旦那様に、報告を。あと、そうだな……」
 エルト?と、名を呼んで来たアルトに、エルトは硬い声で答える。
「お嬢さんには、後にしよう。こんなの見たら、さぞやショックを受けるだろうし……」




 ニャア、ニャア、と猫がうるさく鳴いていた。
 ――王都の一角にある、とある貴族の邸宅。
 建国時より連なる血筋、王家とも深く縁のある家柄ということで、その外観は勿論、内装に至るまで、贅をこらした造りとなっている。とはいえ、使用人も少数、住人も少なく、何より、社交界で芳しくない噂が流れてからというもの、訪れる客もまばらになり、うら寂れた感がある。
 ニャアニャア、ニャア、と静かな邸内に、猫の鳴き声が響く。
 その鳴き声を聞きつけて、四十の手前であろう金髪の男は、飾り窓から光が降り注ぐ、長い廊下を歩いて、母親の部屋を訪ねた。
 ただの勘に過ぎないが、嫌な予感がしたからだ。
 あまり言いたくはないが……男の母の精神状態は、平穏からは程遠い。
 よく意味の分からぬことを叫んで、急に暴れだしたり、いきなり、物に辺り散らすことも珍しくはない。
 そうかと思えば、急に少女時代に戻ったような言動を取ったり、あまり満足に動かぬ足で、父を恋しがり、その姿を探し求めたりする。
 ここ数年、老いてからは、特にその傾向が顕著だ。
 少し前の祝祭の折にも、息子である男の目を盗んで、勝手に街中を徘徊し、肝を冷やしたものだった。その時のことを思い出し、男の翠の瞳に、束の間、濃い疲労の影がよぎる。
 重くなる足を叱咤して、彼は母の部屋へと急いだ。
 ニャー、ニャー。
 扉の前に立つと、更に猫の鳴き声が高く、大きくなった。
 軽くノックし、返事が返らないのを承知の上で、男は中にいる母へと声をかける。
「母上、失礼します」
 扉を開けた時、籐の椅子に座った母が、落ち着いた様子でいることに、男はどうしようもなく安堵した。
 その、どこか、ぼんやりとした横顔が、こちらへと向けられる。
 歳月を経て、くすんだ金髪、皺の刻まれた頬、されど、高貴なる血筋ゆえか、どこか浮世離れした雰囲気は、健在であった。
 その身に纏うは、喪服を想起させる、黒いドレスだ。
 翠の瞳を瞬かせ、籐の椅子に腰かけた初老の女は、「コンラッド……?」と、息子の、男の名を呼んだ。
「ニャー、ニャー」
 母親の膝の上で、怯えたように鳴いているのは、母が可愛がっている、白い子猫だった。
 ふさふさの毛並みが愛らしい猫は、母の手で撫でられているにもかかわらず、どうにも落ち着かない。
 今まで、どちらかといえば、大人しかったはずの子猫の豹変ぶりに、男は首をかしげた。
「どうかなさいましたか?母上」
 ニャー、ニャー、ニャア。子猫は高く鳴くと、母の膝の上から逃れたがるような、むずかる素振りを見せた。
 優しく撫でられているというのに、怯えているようですらある。
 息子に話しかけられた老女は、首を横に振った。
「何でもないのよ。この子が……」
 しょうがない子、と困ったように、紅い唇を歪めると、黒いドレスの袖が揺れ、透けるように白い手が、優しく子猫の毛並みをすいた。
 部屋の中を見回し、そこに在るべき姿がないことに、男は怪訝そうに眉をひそめる。
「母上。先週、引き取られてきた猫は、何処に?姿が見えないようですが……」
 今、母が膝にのせているのと、もう一匹、灰色の毛並みの子猫がいたはずだ。
 人懐っこい性格で、よく白い子猫とじゃれていたのを、男、コンラッドも覚えている。
 普段であれば、気に掛ける程のことではないだろうが、ニャーニャーという甲高い、怯えたような猫の鳴き声を聞くうちに、妙な胸騒ぎがした。
 喪服の老女は、息子の問いに、「ああ」とうなずくと、猫の毛を撫でていた手を止めて、寂しげに言った。
「逃げてしまったのよ。悪い子」
 まるで、幼い子供の不出来を叱るような口調で、女は唇を歪めた。爪が立てられる。
 腕から逃れようと、猫が暴れた。
 ニャア、ニャア、ニャー!
 猫が暴れるのも構わず、女は優雅な、優しげな微笑を浮かべる。
 そうして、悪い子には、とどこか楽しそうな声で言った。
「悪い子には、罰を与えないとね。失われたものは、取り戻さなくては……貴方も、そう思うでしょう?コンラッド」
 それは、至極、当たり前のことである。
 取られたものは、取り返さなくてはならない。
 人しかり、物しかり、愛もまた。
 逃げてしまった泥棒猫には、罰を与えて、彼女の大切なものを取り戻すのだ。
 あの女さえ、あの忌々しく、卑しい女さえ、居なくなればいい。彼女の視界からも、この世からも。一度目は、失敗してしまった。死んだはずの女が、遠くに追いやったはずの女が、また蘇ってきたのだ。……まったく、何度もいらぬ手間をかけさせる。今度こそ、本当に、消してしまわねばならない。
 そうしたら、今度こそ、今度こそ、あの人は、クリストファーさまは、自分を、自分だけを愛してくれるはずだ。
 幼い頃からずっと、あの御方に恋した日から、夢見てきた通りに――。
「母上……」
 まるで、恋する乙女のように、うっとりした顔で言う、年老いた母に、息子である男は何も言えなかった。
 喪服を、黒いドレスを着た女の翠の瞳は、壁に掲げられたタペストリーへと向けられていた。
 その壁に飾られたるは、一角獣《ユニコーン》の紋章――かつて、今は亡きシアの母が、娘に託した銀の指輪と同じものだった。


 もうすぐよ。もうすぐだわ。
 貴女に会える。
 お願いだから、今度こそ、消えてくれるわね。
 あの人の心が手に入るなら、何を犠牲にしても、惜しくはないわ。
 ただ、失われた愛を取り戻すだけ。そうでしょう?あなた、クリストファーさま――。
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