女王の商人

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  海賊と商人 8−1     

 ――フェンリルク。
 王都からは少し離れ、その昔、貴族たちの避暑地として持て囃されたそこは、気候温暖かつ、風光明媚な街として、今も昔日の名残りを残す。
 その町の一角、一際、大きく立派な邸宅があった。
 赤い屋根のそこは、以前はとある貴族の所有物であったのだが、三十年ほど前に売りに出され、現在は、商売で財を成した男が、年の離れた妻とふたり、ひっそりと、穏やかに暮らしていた。
 日頃、喧騒とは無縁のその屋敷に、旧知の客人が訪れたのは、ただの偶然ではない。
 
 過ぎゆく夏の匂いを感じさせつつも、木陰を涼やかな風が吹き抜ける、昼下がり。
 さわさわ……と木々の枝葉がかすかなさざめきを奏で、地面に落とされたパン屑を求めて、小鳥がチチ、とさえずる。
 瞼にかかる黄金の陰影、降り注ぐ陽光のまばゆさに、女は翡翠の瞳を細めた。
 気まぐれな風が、ゆるやかに波打つ髪を遊ばせる。
 持ち主の人柄を反映したような、光あふるる、美しい中庭に面したテラス。
 ゆるりと庭を鑑賞しながら、ティータイムを楽しめるよう、設えられたテーブルで、二人の女が向かい合い、談笑をしていた。
 穏やかに言葉を交わす、女たちの面立ちは、余り似ていない。だが、二人の間に流れる空気は、他人行儀なものではなく、くつろいだ、身内への親しみに満ちたものだった。
 ニャアア、と己の足元で、きいろい蝶々とじゃれる愛猫の白銀の毛並みを撫で、向かい合っていた女の片方が、唇をひらいた。
「シルヴィア……」
 齢、四十手前といったところだろうか。
 淡い金髪と、聡明そうな灰色の双眸、色合いこそ全く異なるが、その凛とした眼差しと、歪みのない真っ直ぐな姿勢は、彼女のひとり息子である、かの騎士の青年へと受け継がれたものと相違ない。
 やや低めの、落ち着いた声音で、その女、ルイーズは「シルヴィア」と向き合って座る、若い女に話しかける。
 親戚であり、かつての息子の許婚でもあり、幼い頃から実の娘同様に、慈しんできた存在に――。
「ごめんなさいね。急に訪ねてきたりして、貴女も忙しいでしょうに……」
 今も、実の娘のような気持ちが抜けきらず、かといって、もう、そういう立場ではないことを重々、承知しているルイーズは、少し寂しげに口元を緩める。
 その声も眼差しにも、どこか遠慮がにじんでいた。
 いくら、幼い頃から実の娘のように見守ってきた相手とはいえ、眼前にいるのは成熟した大人の女であり、正式に嫁ぎ、他人の妻となった身だ。
 風になびく黄金の髪も、美しい翡翠の瞳も、優雅で柔らかな物腰も、森で息子のアレクシスや、執事の息子と戯れていた、少女だった時と同じ。されども、身にまとう雰囲気は既に、少女のものではない。純白の蕾が花開くように、しなやかに、美しく。
 それも忘れて、昔と同じように接するなど、許されるはずもないのだ。
「まあ、」
 アレクシスの母の葛藤を見抜いたように、シルヴィア、と呼ばれた女は、朗らかに微笑う。
 春の陽だまりを想わせる、あたたかい笑みだった。
 翡翠の瞳が、悪戯っぽくきらめいた。
「何を仰るのですか、ルイーズ伯母様。会いに来てくださって、本当に嬉しいわ……そんな風に、他人行儀では、逆に困ってしまいますわよ?」
 ふふふ、と優雅に、けれども、珍しく、おどけるような言い回しをした姪に、その気遣いに、ルイーズもまた微かに口元をほころばせる。
 貴婦人の足元でくつろいでいた白銀の猫が、飛んできた蜜蜂に驚いて、にゅあ、と飛びのいた。かと思えば、虫に興味をひかれたように、青い目を真ん丸んにして、おそるおそる肉球を近づける。
 そんな愛猫のパールに目を細め、片手で「あちらで、遊んできなさい」と促し、ルイーズは再び、シルヴィアと向き合う。
「元気そうで、安心したわ。シルヴィア、ずっと、貴女に会いに来なければと思っていたのだけれど、伸び伸びになってしまって……」
 悔いるように言ったルイーズに、それには触れず、シルヴィアはただ「伯母様もお元気そうで、安心しましたわ」と、明るく微笑う。
 早くに父を亡くし、実家の借金の為に、許婚と別れさせられた上に、親子ほども年の離れた、よく面識もない男に嫁がされたにも関わらず、その笑みは綺麗で、言葉にも陰りらしきものは見えない。
 そんなシルヴィアの態度に、安堵にも似たものを覚えつつも、実の娘のように彼女と接してきたルイーズは、胸の傷が疼くのを感じた。
 幼い時から、自然と身についた優雅さと、淑やかさ、けれども、一度として驕ることなく、容姿以上に美しい心根の持ち主だった少女――。この優しい娘に、辛い思いをさせることも、実家の犠牲とすることも、己も娘の両親も、誰一人として、望んでいなかったというのに……。
 ごめんなさい。
 思わず、口をついて出た言葉に、シルヴィアは長い黄金の睫毛を瞬かせた。
 首をかしげた彼女に、ルイーズはポツリ、と呟くにも似た声で続ける。
「今更、言うべきではないのだろうけど、私たちの力が無かったばかりに、貴女にも、あの子……アレクシスにも、辛い想いをさせたわ」
 謝って済むことではないでしょうけれど、ね、とルイーズは灰の目を伏せ、口をつぐんだ。
 うつむいた伯母に、シルヴィアは「ルイーズ伯母様」と、静かに呼びかけると、困ったように、翡翠の瞳を和ませた。
 その声には、過去への懐かしみはあっても、怒りはなく、ただ優しい。
「どうか、そんな風に、ご自分を責められたりしないで、伯母様……私、ずっと、伯母様にも母にも感謝しているのですもの」
「なぜ……シルヴィア……?」
「だって……」
 とても意外そうに眼を見開いたルイーズに、シルヴィアはふわり、と柔らかく、はにかむように笑む。
「あの人に、巡り合わせてくれたのですもの。心から愛する人に出会えて、私は幸せだわ……そうでしょう?ルイーズ伯母様」
 翡翠の瞳はやわらかく、此処にはいない彼女の夫を映している。
 この屋敷の主人であるカイル=リスティン、シルヴィアの伴侶であり、商人の間では広く名の知れた男であり、彼のリーブル商会の長の親友でもある男は、今朝方から留守にしていた。
 妻の親類が訪ねてくるということで、ゆっくりと積もる話もあるだろうと、気を利かせた結果だろう。
 そんな些細で、不器用とも言える心遣いを、シルヴィアは愛おしいと思う。
 彼女の夫は、商人の世界で名を馳せたという割に、弁が立つわけでもなく、どちらかといえば、ひどく寡黙な人柄である。彫像のような無表情と相まって、時に誤解されがちではあるものの、本当は誰よりも愛情深い人だと、シルヴィアは知っている。光の加減によっては、黒にも見えるその瞳は、いつだって穏やかな慈しみをたたえて、周囲に向けられていた。
 そういう所が、彼女の愛したひとびとと、よく似ていた。例えば、目の前にいる伯母のような。
 厳しくも見える、灰色の双眸がふっ、と優しく和む。泣きそうにも、少し寂しげにも、でも、嬉しそうにも見えた。陽光に透ける、その色合いを、シルヴィアはずっと慕ってきた。今も。
 そう、とルイーズは深く、深く、うなずいた。
「……貴女は今、幸せなのね。シルヴィア」
 ええ、伯母様、わたくしは幸せよ。
 返された声には、何の迷いもなかった。
 ――ねぇ、伯母様。
 目を伏せたルイーズの耳に、やわらかく、歌うような声が響いた。
「ずっと、子供の時から、愛してきたものと、変わらずに共にいられるのは、とても幸せよ。でも、毎日、毎日、知らないことを知って、降り積もる雪のように、愛情を積み上げていけたら……そんな素敵なことは、ないでしょう?」
「ええ、そうね……その通りだわ。シルヴィア」
 幸せか、などと、この姪に問うまでもないことだったと、ルイーズは淡く苦笑する。
 シルヴィアの顔を見れば、すぐにわかった。
 元から、しなやかで美しかった少女は、揺るがぬ愛情を抱いて、それと同じだけのものを伴侶から注がれることで、ますます強く、そして、以前にも増して、綺麗になった。
「貴女は強い子ね、シルヴィア……昔から、強くて、優しい娘……」
 シルヴィアのたおやかでいながら、消して折れることのない若木のようなしなやかさを、その揺るがぬ微笑みを、どこか眩しいものとして、ルイーズは受け止めた。
 翡翠の瞳に宿る光は、別れた時と同じように、否、あの日よりもずっと澄んでいて、美しい。
 強い子、いや、強い女になった。喜ばしいことだ。一抹の寂寥が、胸をよぎりもするけれど。
 ふ、とルイーズは吐息を吐きだし、
「セシリアも、私の末の妹も、貴女と同じ位に強かったら……私もきっと、商人を憎まずにすんだのでしょうね」
と、過去への悔いと、祈りにも似たそれを口にする。
 商人に良い様に利用され、孤独の中で死んでしまった、幼い妹……もしも、あの子にシルヴィアと同じだけの強さがあれば、その運命は、今とは違ったものになっていただろうか。
 そうであれば、彼女が商人という存在に対して、自覚しているが、半ば八つ当たりめいた憎しみを抱くことも、なかったかもしれない。最早、願うことすら、叶わぬことであれど。
 少し寂しげに微笑って、ルイーズはうつむく。膝の上で組んだ手に、視線を落とす。
「おばさま……」
 シルヴィアは慰めるように呼び掛け、テーブルの下、かたく組まれた手に、そっと、己の手を重ねた。
 いついかなる場合も、凛然としているように見えて、実は繊細な気質の伯母の為に、彼女は「大丈夫ですわ。セシリア叔母さまのことは、本当にお気の毒でしたけれど……全ての商人が、非情であるはずもないですもの」と続ける。
 わたくしは信じていますわ、と朗らかに続けたシルヴィアの瞼の裏には、銀髪の少女の姿があった。
 活発で、銀貨の商人であることに、誇りを抱いていた彼女。悩んでも、走り続ける強さをもったあの娘なら、もしかしたら、いつか、アレクシスの心の傷を、伯母の過去を掬い上げて、癒してくれるのではないかと、そんなことを願わずにはいられない。
 やわらかな手を重ね、ゆっくりと、ひとつ、ひとつ大切な言葉を紡ぐように、シルヴィアは言う。
「アレクシスは優しくて、まっすぐな子ですもの。一緒にいる商人のお嬢さんも、明るくて、素敵な子です。あの子の人を見る目は、確かですから……いつの日か伯母様も、そう思われるようになりますわ」
 シルヴィアのそれは決して強引ではなく、それでいて、土に水が染み込むように、自然と胸に馴染んでくる言葉だった。
 姪の気遣いや、愛情は痛いほどに伝わったので、ルイーズもそれに応じるように、「そうね……いつか」と口元をやわらげる。
 息子のアレクシスは頑固で、融通の利かない所もあるが、他人の言に囚われることなく、自分の目で見たことを信じる子だった。あの子が信じたものならば、いつか、自分も信じられるのではないかと、言葉だけではなく、心からそう信じたくなる。
「ええ、きっと」
 笑顔でうなずいたシルヴィアに、ルイーズは伏せがちだった顔を上げる。そのまま、唇をひらきかけ、躊躇うように、吐息をこぼす。じっと、自分の方を見つめてくる伯母に、翡翠の双眸を瞬かせ、姪である女は「おばさま……?」と、首をかしげる。
 その瞳を静かに見つめ返し、シルヴィアの伯母であり、アレクシスの母である人は、アレクシスといえば……、と息子の名を口にした。
「――最近、亡くなった夫の部屋を整理していたら、日記帳が見つかったの。本棚の陰に、ひっそりと、隠すみたいに仕舞ってあったわ……」
 喋りながら、ルイーズは大きめの旅行鞄の中から、一冊の日記帳を取り出した。
 もともとは、枯葉色の表紙をしていたであろうそれは、歳月の中で変色しシミとなり、白かったはずのページも黄ばんでいる。最近のものではない、何年も、否、何十年も前のものであろう。だが、几帳面であろう書き手の性質を示すように、色以外は目立った汚れも、痛みも見つからない。
 三年前に世を去った夫、アレクシスの父、最後の騎士とまで称されたカーティス=ロア=ハイラインが遺したものだ。
 表紙を愛おしげに一撫でし、灰色の目を細めて、ルイーズはその日記帳を、シルヴィアの手に渡す。どうぞ読んでみて、と。
「カーティスおじさまの……」
 シルヴィアの白魚のような指先が、古い日記帳を傷つけぬよう、細心の注意を払い、ページをめくるのを見ながら、ルイーズはすっかり冷めてしまった紅茶を、一口、すする。
 カタリ、とカップをソーサーに戻し、最近のものではないの、彼女は続けた。
「私も知らなかったの。これは、あの人がずっと若い時の、アレクシスが産まれるどころか、私と結婚する前のことだから……あの人がまだ、アレクシスと、そう年の変わらなかった時かしらね」
 ルイーズの言葉に、控えめに相槌を打ちながら、シルヴィアは日記の文字を、今は亡きハイライン伯爵家の当主が綴った文字を、その生きてきた道を追いかける。
 几帳面な文字は、その人の性格や、生き方を物語っているようだった。どこか真面目そうな印象を受ける文字は、息子であるアレクシスの筆跡と、ほんの少し、似ているように感じられる。
 日記帳はありふれたもので、淡々と日々が綴られ、その日、感じたことや考えたことなどが、短く、簡素な文面で添えられていた。
 十代の前半から始められたそれは、時に子供らしい悩みが吐露されていたり、万が一、人に見られた時の為か、時折、インクで文面が消されていたりする。ただ、歳月の流れと共に、文面から垣間見える幼さはなりをひそめ、ともすれば、身の丈よりも背伸びした、若々しい青さも感じられる。
 そんな中でも、ほとんど欠かさず、毎日、きちんきちんと、その日の出来事が記されている辺り、さすがは、アレクシスの父親らしい生真面目さというべきだろう。
 家族のこと、友人のこと、悩みや迷い、本来、他人に見せるつもりではなかったであろうそれを、没後とはいえ、読んでしまうことに、かすかな罪悪感にも似たものを抱きつつも、目を逸らすことは出来ず、シルヴィアは日記帳を読み進めた。
 アレクシスの父は、どちらかといえば、寡黙な性質で、自分のことを話したがらない人だった。それでも、親族だけあって、日記帳に登場する人々は、直接の面識はなくとも、あの人のことだろうか、と、想像することぐらいは出来る。
 そう、唯一人を除いては――
 カーティスが生涯、妻であるルイーズにすら、明かさなかった、その人の名は……。
「日記帳、ビリビリに破いたのを、貼りあわせたようなページがあるでしょう?」
 そんなこと、滅多にしない人だったのにね、と微苦笑を浮かべたルイーズに促されて、シルヴィアはさらさらとページを飛ばし、一枚だけ、歪なページをひらく。
 力づくで破いたものを、無理矢理に貼り合わせたようなそれ。
 破かれたそれに書かれていた出来事を、駆け足で読み進めるうち、シルヴィアは顔色を変えた。
 大きく目を見開いて、ルイーズ伯母さま、と思わず、高い声を上げる。
 それは、彼女でも殆ど知らぬ、ハイライン伯爵家が隠し通してきた、最大の秘密ともいうべきものだった。
「おばさま。これは……っ」
 破られたページの末尾に、書かれていたのは、たった一言。
 ――畏れ多くも、国王陛下より賜った、聖剣オルバートは失われた。……と。
 シルヴィアの驚きは、よくわかっているのだろう。
「あの子に……アレクシスに、手紙を書かなくてはね」
 ルイーズはそう静かな声で言い、紅茶を口元に運んだ。


 王都ベルカルン。
 届いた手紙を片手に、アレクシスは立ち尽くしていた。
 便箋に綴られた端整な文字は、彼の母、ルイーズのものだ。
 きつく眉を寄せ、黒曜石のような瞳は、困惑の色が濃い。
 口を開けば、深く重いため息が、意図せずしてこぼれた。
「若様、どうかなさいましたか……?」
 脇に控えていた従僕のセドリックが、立ち尽くすアレクシスに、心配そうな口ぶりで問いかける。
 アレクシスは、答えない。
「父上……」
 はらり、とその手から、手紙が落ちた。
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