女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  絵画と商人 7−3  

「お帰り!ディーク」
「よう、よく戻ってきたな」
「東方は、どうだった?」
 いまだ壁際で伸びているシアを置き去りに、いや、むしろ存在すらも、綺麗さっぱり忘れ去られ……派手な登場をした、亜麻色の髪の青年――ディークの周りには、ガヤガヤと黒山の人だかりができる。
 遠く、遥か東の地より帰還ということで、商人たちの口からは次々と再会を懐かしむ声と、まだ見ぬ土地への質問が飛び出した。
 それまで、商会の仕事をしていた者たちも、その手を止め、「なんだ、なんだ」「あいつ、帰ってきたのか」などと言いながら、ディークの周りへと集まっていく。
 当然の如く、エルトたち三つ子も、半死半生の態のシアを放置して、その人だかりの方へと首を突っ込んでいった。先輩商人たちの後ろから、「ディークさーん!」「東方の話を聞かせて下さいよう」などと声をかける。
 ――どうか薄情と言うなかれ、賑やかな方に吸い寄せられるのは、人の性というものだ。
 まるで、どこぞの舞台の花形のように、その青年の周りには人の輪が出来ている。
「ははっ、そんなに一度に話しかけられても、答えられないよ」
 四方八方からかかる、旧知の商人たちの声に、ディークは苦笑する。
 しかし、そう言いながらも、細められた緑眼には懐かしさがにじんでいた。
 やわらかく目を細めると、その顔はますます、商会の長であるクラフトに似てくる。
「なにせ二年ぶりだからね、みんな、金勘定は忘れなくっても、もう僕のことなんか忘れてるかと心配だったよ」
 長年の付き合いである商人たちを前に、ディークがそう冗談を飛ばすと、周りがいっせいに「ばっか野郎!」と叫ぶ。
「ばっか野郎、たかだか二年ぐらいで、お前の顔を見忘れる奴なんざ、このリーブル商会にはいねぇよ!」
「むしろ、お前さんのことだから、まーた流れもんみたいに、帰って来ないじゃないかと心配じゃったわ。よう、帰ってきたな」
「俺ぁ、酒場のツケは忘れても、娼館のねーちゃんと、お前の名前だけは忘れないと決めてんだぜ……わかってんのか、ディーク!」
 同世代の若者から、長老格の商人に至るまで、息つく間もなくかけられるそれに、ディークはうれしそうに口元をゆるめた。
 久々の再会に興奮してか、バンバンと肩を叩かれたり、ふざけて抱きつかれたり、いささか手荒い歓迎を受けてもいるが、それでも、強い信頼関係があるのだろう。彼の顔からは、笑みが絶えない。
「あー、この空気、帰ってきたって実感するなあ」
 いっそ騒がしいほどのそれに、ディークは微笑とも苦笑ともつかぬ表情を浮かべると、周りからせがまれるままに、東方での土産話、自分が見聞してきた珍しいものの数々を語り始めた。
 まだ見ぬ異郷の地への憧憬に、その場にいた若者たちは目を輝かせて、ベテランの商人たちは、話の裏にある東国の情勢などを読み取りながら、熱心に聞き入る。
 語り部である青年が、巧みなのだろう。
 ただの土産話としても面白く、その裏に己が見聞きした様々な情報を織り交ぜ、笑いあり、涙あり、驚天動地の新展開あり……は、必要かどうか疑問であるが、ふと気が付けば、巧みな語り口に、皆、引き込まれている。
 生来のものであろう、愛想の良さや、語り口の上手さはあれど、それのみではこうはなるまい。
 やはり、この男、ディーク=ルーツの魅力であり、ひとつの才である。
 リーブル商会の創業者エドワードや、二代目クラフトとはやや異なるタイプだが、自然と周りに人を引き寄せるという一点において、通ずるものがあった。
 さて……そんな盛り上がりの影で、忘れ去られた一人の少女がいた。
 扉のそばで伸びていたシアは、なんとか、ふらふらしながら身を起こすと、魔王とまで言い切ったディークに、恨めし気な目を向ける。
 泡を食って逃げようとした挙句、逃亡まで阻止されては、その心中は出口のない暗闇にも等しかった。
「うう、ディー兄いいい……」
 満身創痍……は、いくらなんでも言い過ぎだが、まだふらふらしているシアを放っておく気にはなれず、またその姿が不憫だったこともあり、アレクシスは彼女へと歩み寄る。
 彼は、穏やかな黒い瞳に、しょうしょう心配そうな色をよぎらせると、「おい……大丈夫か?」と、シアに手を差し伸べた。
 そんな青年の優しさに、先程までのシアならば、かすかに頬を赤らめてみたり、もじもじと恥らってみたり、恋する乙女らしい反応が返せたかもしれないが、今はとても無理だった。
 少女の青い瞳は今、烈火の如き怒りを宿し、逃亡の元凶となった人物、魔王こと――ディークへと向けられている。
「くうう、ディー兄、いつか覚えてなさいよぅぅぅ……」
 まるで、小悪党の捨て台詞にも似た台詞を吐きながら、シアはうう、と呻く。
 が、悲しいかな、アレクシス以外、誰も聞いていなかった。
 その時、二階に続く階段の手すりから、二人の男が顔をのぞかせる。
 トントントン、と杖をつく音がした。
 初老の男と、その横に並んだ息子。
 エドワードとクラフトの父子だ。
 おそらく、この騒ぎを聞きつけて、仕事を中断し、様子を見にきたのだろう。
 エドワードは、ディークの顔を見て、くしゃと少年のように破顔すると、杖をついていない方の手を「おおぃ」と振る。
 そんな父親の隣で、クラフトはにこりと微笑を浮かべ、階段を下りてくる。
 ふたりは、ゆったりとした歩みで、その人の輪の中心に近づくと、話題の中心である青年へと歩み寄る。
 この商会の当代の長、そして、伝説の商人とまで謳われる先代の登場に、ディークを取り囲んでいた人の波が割れた。
 そうして、開かれた道を悠然と進むと、エドワードとクラフトの親子は、順番にディークに話しかける。
「よお、思ったより、早く帰ってきたじゃねーか。ディーク」
 エドワードは、そう親しみのこもった風に言うと、「しばらく見ねぇうちに、坊やが色男になったじゃねぇか」と、ゆるく目を細める。
 調子にのって「向こうで女を泣かしてきたんじゃねぇの」などと、余計なことを口走り、うししっと笑う不良老人を、横の息子、クラフトが肘で小突いた。
「お帰り、ディーク。慣れない土地で、よく頑張ってくれたね……こうして、無事に戻ってきてくれて、安心したよ」
 ねぎらうように声をかけ、微笑むクラフトの前に、人の輪の中心からディークが、するりと進み出た。
 彼ははい、とうなずくと、相変わらずの愛想の良さで、流暢な挨拶をする。
「ただ今、戻りました。長……先代もお変わりなく、お元気そうで、何よりです」
 シアに対しては、まったく遠慮のなかったディークだが、今はきっちりと背筋を伸ばし、エドワードとクラフトに向ける視線には、確かな尊敬の念がにじんでいる。
 クラフトには、長としての尊敬を、先代の長に対しては、それ以外の憧憬も交じっているようなそれ。
 また丁寧でありながら、青年の言葉の端々には、身内に向ける特有の、あたたかみが感じられた。
 懐かしげに、瞳を和ませたディークは、すっ、とクラフトの前に立つと、長と向き合い、東方で為してきた成果について報告する。
 彼が二年もの間、リーブル商会を離れ、戻ってきたのは、何も遊んでいたわけでも、物見遊山で行ってきたわけでもない。
 ひとえに、東国との貿易、それにまつわる交渉事を任されたからだ。
「東方との貿易は、上々でしたよ。長……数年前に、東国ムメイの国主が変わったらしく、現在は交易に力をいれているそうです。とはいえ、まだ南方の品は流通が乏しいようで、物々交換のおかげで、上質の絹が安く手に入りました。あとは、鉱物や茶葉も少々。他にも、色々と収穫がありましたね」
 すらすらと、よどみなく報告を述べるディークに、クラフトは「ふむ」と満足気にうなずいて、あごに手をあてる。
 つう、とクラフトの紅茶色の瞳が細められる。
 普段のおちゃらけた優男ぶりとも、娘に狸親父と罵られる姿とも違い、その眼差しには、辣腕で知られる商人としての鋭さと、長としての貫録があった。
 ご苦労だったね、と一言ねぎらった後、長は「ムメイで国主の代替わり、ね……」と続けた。
「当代の国主の方針次第では、あの閉鎖的な国も、だいぶ変わるかもしれないな……とはいえ、東方の絹や工芸品は、こちらでは桁違いの高値がつく。みすみす、ほかの商会に利を取られる気にはなれないね。ましてや、東方との交易は、女王陛下のお望みでもあるのだから……そうは思わないかい?ディーク」
 クラフトの問いかけに、ディークは承知してます、と首を縦に振る。
 異国との貿易は、大きな危険も伴うが、うまくいけば莫大な富を生み出す。
 二十そこそこの若さで、それを任されるディークの才覚、力量は推して知るべしだ。
「ええ、そう思いますよ。長……東国人は元来、手先が器用ですし、工芸品や美術品の類も高値がつきます。何より、他の商会がまだ確固たる流通ルートを確保できていませんから、それに先駆けるべきかと。ある程度の危険を背負っても、やる価値は十分にあるというのが、僕の私見です」
 自ら、東方の地を踏みしめ、そこで様々なものを見聞きし、現地の人間と言葉を交わすことで、見聞を深めつつ、積み上げてきたものに自信があるのだろう。
 ディークの凛とした、強い瞳や、自信ありげな物腰は、見た目だけでなく、信頼に足る何かを持っているようだった。
 それを見て取り、クラフトはわざわざ東方に行かせた甲斐があった、というように、穏やかに微笑すると、
「君がそこまで言い切るなら、前向きに検討するとしようか」
と、真摯な声で言う。
「ありがとうございます。長から命じられた、東国のものは、全て揃えておきましたので……それから、あちらで信用できる現地の者は何人か雇って、交渉にあたらせていますが、お許しをいただけますか」
「構わないよ。ディーク。東国での事は、基本的に君たちに任せている。やりやすいようにするといい」
「ええ、お言葉に甘えて、そうさせてもらいます。長」
 ディークが張りのある声で応じ、浅く頭を垂れる。
 クラフトとディークの会話がひと段落したところを見計らい、エドワードは場を仕切り直すように、パンパン、と手を鳴らした。
「ほらほら、堅苦しい話はそのへんにしとけよ。ディークの奴も、遠くから帰ってきたばっかなんだ。会いたい奴も、話したい奴も、沢山いるだろ……なあ?」
 ぐるり、と周囲に集まった商人たちの顔を見回し、にかっ、とまるで少年のように笑う老人に、ディークもクラフトもつられて笑う。
 その言葉はもっともだったので、当代の長である息子も、「そうですね、父さん」と応える。
 エドワードはそうだろう、そうだろう、としたり顔でうなずくと、コンコンと黒壇の杖をつきながら、ディークのすぐそばに近寄る。そうして、青年と同じ緑眼に、何やら期待をのせると、悪戯っぽく片目をつぶる。
「約束のあれ、手に入れてきてくれたか?」
 一瞬ののち、ああ、という顔をしたディークに、エドワードは我が意を得たり、と満足そうに笑う。
「ああ……ちゃんと買ってきましたよ。先代との約束ですから」
 ディークはうなずくと、いつの間に室内に運び込んだのか、ガサゴソと大きな鞄をあさる。
 鞄の底から取り出したのは、白い布で包まれた酒のボトルだった。
 取り出されたそれに、エドワードは「おおおっ!」と高らかな歓声を上げ、目を輝かせた。
 喜色満面の態度を隠そうともしない先代に、東国帰りの青年はくくくっ、と喉を鳴らすと、琥珀色の酒のボトルを手渡した。
「はい。頼まれていた、ムメ酒です……先代もお好きですねぇ、あ、あとで僕もご相伴にあずからせて下さいよ」
 酒を手に入れてくれた恩人の言葉に、エドワードは「おうっ、よくやってくれたな。ディーク!つまみは任せとけ!」と、力強く胸を叩く。
 遊びに行ったわけでもないのに、ちゃっかり土産を頼んでいた父に、クラフトが「父さん……相変わらず、抜け目がないですねぇ」と、いささか呆れた目を向ける。が、しかし、ディークが「あ、長の分の土産もありますよ。ご心配なく」と告げると、「本当かい?じゃあ、許そう」などと、芝居がかった口ぶりで言い、声を上げて笑った。
 それにしても、とクラフトが続ける。
「君も、ずいぶんと人の扱い方を覚えてきたねぇ。ディーク」
「いえいえ、長には遠く及びませんよ……っと、ほら、みんなの分も土産あるから、取りに来てくれない?」
 狸と狐の応酬を、軽く流した青年は、周囲にそう呼びかけると、なんとも大きな鞄とその横の皮袋から、さまざまな土産を出して、机に並べる。
 東国の細工物の櫛やら酒やら、煙草入れやら美しい髪飾り、大陸流通の要、麗しの女王陛下の都と讃えられる、この王都・ベルカルンにあっても、なかなか手に入らない品々に、ディークが姿を現した時と同じく「おお、」と喜びの歓声が上がった。
「ここにいる皆の分ぐらいはあると思うから、好きなものを選んでくれていいよ。ここにいないメイドの娘の分もあるから……あ、この櫛なんか奥さんにいいんじゃないかな」
 売れば、それなりの値がつくものばかりであろうに、惜しげもなく、何とも気前のいいことだった。
 あっさりと、だが、太っ腹な発言をしたディークに、再び歓声が上がる。
 お土産を受け取った商人たちが、口々に礼を言うのを笑顔で受け止め、「そうそう、大切なことを、伝え忘れるところだった」と言い、再びクラフトの方に向き直る。
「長、ワタリ……ムメイの職人集団のひとつと、契約を結んでおきましたから、質の良い陶磁器や漆器が手に入りますよ。もう少ししたら、こちらにも運ばせます」
 その言葉に、おや本当かい?とクラフトが瞠目し、エドワードがやるじゃねぇか、と感心したように鼻を鳴らす。
 東国の職人たちは、その技術の高さもさることながら、頑固さでも有名だ。妥協を嫌い、己が納得いく相手でなければ、めったに契約を結ぼうとはしない。それが出来たのは、お手柄と言って良かった。
 周囲から「ほぉ、さすがだな」との声が、ささやかれる。
 とはいえ、ディークはそれらの賛辞交じりの声を軽く聞き流し、きょろきょろと周囲を見回す。――誰かを、探しているようだった。
 そうして、彼は思い出したように尋ねた。
「ああ、うっかりしてた……シアは?」
 己の行状を綺麗さっぱり無視して、朗らかな声で尋ねたディークの背中から、「ディー兄ぃぃぃ……」と怨念のこもった声がかけられる。
 くるり、と彼が後ろを振り返ると、真っ赤な顔をした銀髪の少女が、恨みがましい目つきで、こちらを睨んでいた。
 扉で吹っ飛ばされた怒りか、青い瞳は潤み、握りしめた拳はわなわなと震えていた。
 そんなシアのわかりやすい態度にも、ディークはどこ吹く風で、涼しい顔をしている。
 数歩、彼女の方に歩み寄ると、彼はにっこりと爽やかに笑いかけた。
「やあ、これはこれはシアじゃないか。僕の可愛い、可愛い妹分……しばらく会えなかったけど、元気にしてた?」
 爽やかな口調も、親しげな態度も、余計にシアを煽っただけだった。
 彼女は自分の父親によく似た面差しの青年を、キッ、ときつく睨みつけると、
「たった今、最悪になったわ!」
と、吠えた。
「あははっ、その罵倒、懐かしいな。帰ってきたって、嫌でも実感するよ。いやはや、元気そうで安心するなあ」
 まっこうから敵意をぶつけられても、ディークはどこか楽しげに笑うだけだった。まともに取り合っていないともいう。
 それがまた、シアの苛立ちに拍車をかける。
「どの口が言うかああぁぁぁ!ディー兄いいい!」
「こらこら、そう怒らない。怒らない。お土産あるから……ね?」
「……そんな言葉で、誤魔化されないわよ」
 お土産という言葉に、ちょっぴり心を動かされ、トーンを下げたシアだったが、なんだか話題をそらされている気がして、ぶんぶんと首を横に振った。
 ――毎度、毎度、こうやって煙に巻かれてきたのを忘れちゃいけない!
 首を横に振ったシアに、ディークはふぅ、とため息をつく。
「そう?残念だな。せっかく、君が好きな甘いものを、用意してきたんだけど」
「甘い、もの?」
 さも残念そうに言ったディークに、シアの心がぐらぐらと揺れる。
 先ほど壁に激突された恨みを、断じて忘れたわけではない。が、そうまで言われれば、土産の中身が気にならないといえばウソになる。ましてや、一度も足を運んだことのない異国の土産だ。本音を口にすれば、ものすごく気になる。
 (落ち着け、落ち着くのよ。あたし……腹黒魔人、暗黒魔王のディー兄が、こういうことを言い出す時は、大概、裏があるって決まってる……うう、でも……)
 果たして、信ずるべきか、信じざるべきか。
 ぐるぐると悩み、百面相をするシアを見ていれば、横にいたアレクシスにすら、彼女の葛藤は筒抜けだった。
 騎士の青年は嘆息すると、銀髪の少女を案ずるような目で見つめる。
 そんなシアの葛藤を見透かしたように、ディークはごそごそと革の袋を探ると、そこから黒い壺を取り出した。
 つやつやと黒光りする、見事な壺をかかげると、彼は緑の瞳を細め、優しい声で促した。
「東方人のソーリョという名の男からもらった、お菓子さ。ほおら、美味しそうな草色をしているだろう?名前は確か……ワサービとか言ったかな」
 ディークがつやつや光る黒壺から、パカッと檜のフタを取ると、ツーンという刺激臭がかおる。
 さらされた壺の中身は、綺麗な、綺麗なグリーンだった。
 前に知り合いからもらったことのある、東国ムメイのマッチャという茶を、もっと薄くしたような色合いだと、シアは思う。同じ国のものだし、通じるものがあるかもしれない。が、この鼻につく、ツンとした臭いは何だろう?――何だか、とんでもなく嫌な予感がした。
 横に立つアレクシスも、おそらく同様の気持ちなのだろう。
 眉をひそめ、胡乱げな目を壺に向けている。
 良くも悪くも、日頃、少女よりはよほど慎重な青年の顔には、うさんくさいものに対する、不審の念が色濃い。
 礼儀として、はっきり口にはしないが、そう目が語っている。
 そんな二人の反応を、まるで気にしていないように、ディークは何処からか取り出したる銀のスプーンで、一匙、たっぷりとワサービなるものをすくった。それだけ見れば、確かに綺麗な色をしている。異国の甘味、というのも信じそうだ。が、ツンとした臭いは、どうにも誤魔化せない。……それにも関わらず、何を考えたのか、東方帰りの青年は優しく微笑って、そのスプーンをシアに渡した。
 食べろ、と察するまでもなく、そういう意味だ。
「う……」
 渡されたシアは、そのスプーンを片手に、しばし固まった。
 果たして、本当にこれは、ディー兄のいうように、異国のお菓子なのだろうか?
 ……本当に、本当に?
 スプーンを差し出してきた際の、ディークの妙に良い笑顔といい、嫌な予感しかわいてこない。
 しかし、とシアは思考を巡らせる。
 (考えてみれば、あたしは東国ムメイに行ったこともないし……遠い、東の地なら、こういうツンとした臭いのお菓子もあるのかも……ワサービだっけ?もしかしたら、すごく美味しい可能性も……うん、全くなくはないかも……)
 今まで、さんざんひどい目に合わされてきたが、ここまであからさまなら、罠ではないかもしれない。
 儚い希望を抱いて、シアはディークを見た。
「ディー兄……?」
 なおも躊躇うシアに、亜麻色の髪の青年はふ、と優しく笑いかける。
「まあ、ものは試しさ。食べてごらんよ」
「でも……」
「そんな臆病風に、吹かれるほどのことかい?シア=リーブルともあろう者が」
 口角を上げ、挑発じみた声で言われてしまっては、シアもあとには退けない。
 思わず、スプーンを握りしめた。
「……っ!わかったわよ。いただくわ、いただけばいいんでしょ!」
 心配したアレクシスの制止の声は、間に合わなかった。
 女は度胸!と目をつぶりながら、シアはワサービのたっぷりのったスプーンを、はぐっと口の中に突っ込む。
 一瞬、もしかしたら、ふつうの味かもしれないなどと、甘い期待を持ちながら……。
 それは見事に裏切られ――口の中で、何かが弾けた。
 猛烈な苦みが、舌の痺れが、喉の奥の奥の奥まで広がっていく。
 目がチカチカした。
「みず、みず……水うううぅぅぅぅ!」
 シアは涙目になり、悲鳴を上げながら、転げ回った。
「そう簡単に、相手の口車に乗っちゃうとはね。まだまだ駄目だなぁ、シア」
 疑ったあげく、途中で流されるようじゃ、商人としては落第点だ……と辛口な評価を下し、ディークはやれやれと肩をすくめる。
 そうして、たった今、ようやく気づいたという風に、水ううう!と叫ぶシアの横にいる、黒髪の青年を直視する。 
 緑の瞳が、まっすぐにアレクシスの姿を映す。
 つられたように、アレクシスもまた、ディークを正面から見つめ返した。
「君は……?」 
 そう問う、ディークの声は穏やかだ。
 しかし、アレクシスは、その視線の鋭さに気圧されそうになる。
 優しげな笑みを浮かべているにもかかわらず、ディークの目は鋭く、まったく笑っていなかった。
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