女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  絵画と商人 7−5  

「……ごめんね」
 王城に向かう、道中。
 馬車に揺られながら、窓にもたれかかっていたシアが、ぼそっと呟くように言った。
 腕を組み、まっすぐに前を向いていたアレクシスが、何がだ、と彼女の方に目を向ける。
 ごめんね、というのが、何に対してのことなのか、はっきりしなかったからだ。
 曖昧を嫌う少女の性格を思えば、おおよそ、見当はつくが……。
「……ディー兄のこと、騒がしかったでしょ?」
 彼の問いに、唇を噛んだシアは、ぎゅう、と膝の上の拳をにぎり、絞り出すように答える。
 過去、現在、さまざまな感情がいり混じったような、何とも言い難い声だった。
 そのことか、とうなずいたアレクシスが、別に気にしていないという風に、間をおかず、首を横に振る。それでも、シアはもやもやとした気持ちを、消化しきれないようだった。
 青い瞳に強い光をたたえ、少々、きつい調子で、「ディー兄は……」と言葉を重ねる。
 その目は、隣に座るアレクシスではなく、ここにはいない彼の人を見据えているようだった。
「ディー兄は、いつもああなのよ……十代の頃から、あっちふらふら、こっちふらふら、国内やら国外を移動して、渡り鳥みたいな人なの。妙に人好きするし、度胸もあるから、どこにいても上手くやってるみたいだけど……ああして、たまーに帰ってくると、騒がしいったらないわ!」
 喋っているうちに、たぶんに私情が混じってきたのか、シアの口調に熱がこもる。
 ――そうだ。ディー兄は、いつもそうだった!
 船乗りだった叔父さんについて、物心ついた頃から、あちらこちらを渡り歩いていた、ディーク。
 長じてからも、それが変わることはなく、リーブル商会に所属する商人として、独り立ちを迎えてからも、ふらり、渡り鳥のように、どこぞに旅立ってしまう性分は変わっていない。
 幼い頃から、何度、その羽が生えたような背中を見送ったことか、とシアは思う。かと思えば、帰ってきた途端、むちゃくちゃな騒動を巻き起こさずにはいられない男なのだから、迷惑きわまりない。
 エドワード祖父さんが言っていた通り、ほんとう、嵐みたいな男だ!
「ディーク殿か……オスカー殿から聞いた、異国の言葉に堪能で、優秀な商人だと……」
 アレクシスが何気なく、オスカー=ライセンスとの会話で得た情報を口にすると、シアがはたと何度か瞬きをする。
 驚く、という程ではないが、ちょっぴり意外そうだ。
「オスカーおじさまから?」
 確認するように問うてくる少女に、アレクシスはうなずいた。
「さっき偶然、道ですれ違った時に、少しな……確か、ディーク殿は貴女の、その……遠縁にあたるとか」
 先ほど、オスカーと言葉を交わした際に聞いた、シアの婿候補云々というあれが頭をよぎり、アレクシスは不自然に言葉を切った。
 幼い時の戯れのようなものでも、気にならぬといったら、嘘になる……。
 しかし、そんな子供じみた独占欲を口に出来るはずもなく、彼は結局、当たり障りのないことを口にするしか、出来ない。
 アレクシスの間を、不自然なものと受け止めなかったらしいシアは、きっ、と眉を寄せ、不機嫌そうな声で言う。
「そうよ。あの魔王と切っても切れない縁なんて、我が身を呪いたくなるけどね。おかげで、小さい頃からロクな目に合わなかったわ!」
 言っているうちに、ふつふつと怒りが込み上げてきたのか、シアはぎりり、苦虫を噛み潰したような顔をする。
 彼女の頭の中は今、子供の時からの積もり積もったアレやコレや、涙なしには、とうてい語れない記憶でいっぱいだ。
 何やら、尋常でないシアの様子に、「一体、何が……?」という深い疑問に支配されつつも、アレクシスはそうなのか?と、首をかしげた。
 彼の見たところ、ディークという人は、確かに、えらく突拍子もない登場をしたが、商会の仲間たちからは慕われ、頼りにされているようだった。それに、口では何のかんのと、厳しいことを言いつつも、シアのことを気にかけているようだと、そう思ったのだが……己の見込み違いだっただろうか?
 アレクシスの言葉に、シアはますます渋い顔をすると、重々しい声で答えた。
「そりゃもう、四歳の時、度胸試しとか何とか言って、ひとり夜の墓場に置き去りにされたり……精神力を鍛えるとか何とか理屈をつけて、なんだかよくわかんない、爬虫類の肉を食べさせられたり、ほっんとディー兄には、散々な目に合わされたわ!」
 頬を引きつらせたアレクシスが、「それは、何と言うか……色々と凄いな」と、オブラートに包んだ言葉を返すと、シアはふんっ、と鼻を鳴らして、そんなのはほんの一部よ!と言い切った。
 一緒に勉強すれば、年の差があるにもかかわらず、こんなことも出来ないのかと馬鹿にされたり、甘やかされてばかりでは為にならないと、よく知らない場所に、無理やり連れ出されたり……
 何度、悔し涙で枕を濡らしたことか、数え上げればキリがない。
 タメになることも多かったが、それさえもディー兄の掌で踊らされているようで、気に食わなかった。
 その思いのまま、シアは唇をとがらせて、とにかく、と吠えた。
「とにかく、ディー兄ほど、魔王って言葉が似合う人を、あたしは知らないわ。あの男こそ、キングオブ・魔王よ!」
 世話になった面はあると認めつつも、散々、言いたい放題にいうシアのそれを、アレクシスは否定も肯定もせず、ただ黙って聞いていた。
 あの魔王だの何だの愚痴っているわりに、聞き苦しさを感じないのは、きっと、その言葉の裏に薄暗いものがないからだろう。
 むしろ、言葉の奥には、身内に対する甘えと愛情が透けてみえる。
 彼女の言葉は常に、まっすぐで歪みのないものであると、彼は知っていた。
 シアが一息ついたのを見て、アレクシスは「だが……」と、静かに言葉を重ねる。
 銀髪の少女を見やる、青年の黒い瞳は、穏やかに凪いでいた。
「何?」
 シアが、顔を上げる。
「そうは言うが……本気で嫌っているわけではないのだろう?」
「……」
 アレクシスの問いかけに、シアはふっと真顔になった。
 それは…… と、蚊のなくような声で言った後、だんまり口をつぐむ。
 彼女が唇を閉ざすと、カタカタという馬車の車輪の音が、やけに大きく響いた。
 根は素直な癖に、妙なところで意地っ張りな少女に、軽い苦笑を覚えつつ、アレクシスは「……シア?」と名前を呼ぶ。
「……本気で、嫌いなわけないじゃない。ちっちゃい時から、兄妹みたいに育ってきたんだもの」
 たっぷり一拍おいてから、微かなため息をこぼし、シアは渋々と、本音を口にする。
 わざとらしく、ひそめられた眉や、これみよがしにとがらせた唇さえも、照れ隠しのようにしか思えない。
 そんな彼女の必至さに、微笑ましさすら感じて、アレクシスは我知らず、唇をほころばせる。
 本音をこぼしたことで、踏ん切りがついたのか、シアは膝の上の手を見つめながら、「あたしだって……」と、続けた。
「子供っぽい意地なのは、自覚してるんだけど、ね……」
 何もシアは本気で、ディークのことを嫌っているわけではない。
 むしろ、その能力や人柄については、誰よりも認めている部分もある。
 子供の頃から、自分と同じ商人の道を歩く、ディーク。
 そして、初めて会ったときから変わらず、常に己の一歩先を歩み続ける、追いつけそうで、決して追いつけない存在……。
 そんな彼を認めることは、己の至らない部分を見せつけられるようで、歯がゆかった。おまけに、いつもかるーく掌であしらわれていれば、尚更、素直になれるはずもない。
 だって、悔しいんだもの、と口に出し、そう言った自分の声が、むくれた子供のようで、シアは目を伏せた。
「ディー兄とは、小さな頃から、何かと張り合ってきて、何をやっても敵わなかったから、つい負けたくないって思っちゃうの……ただ意地を張ってるだけ、って、わかってはいても」
 言えば言うほど、リーブル商会の人間でもないアレクシスに、こんなことを話している自分が、ひどく矮小な存在に思えてきて、シアの声は段々と小さくなる。
 おかしいでしょ?笑ってもいいよ。
 冗談めかしてそう言うが、隣の青年は真摯な眼差しをシアに注いだまま、おかしくない、何もおかしいことなんてない、とキッパリした声音で言い切る。
 その、いつになく強く、断言するような、アレクシスの物言いがめずらしく、シアはうつむいていた顔を上げる。
 不思議そうな顔をして、澄んだ青い目を向けてくる彼女に、己の恋慕を自覚したばかりの青年はやわく目を細め、初雪にも似た白銀の髪に手を伸ばす。
 剣を振るう、武骨で大きな手のひらが、そっと少女の頭に触れた。
 ポンポン、と優しく、励ますようなそれは一瞬で、気づいた時はすでに離れていた。
 頭を撫でられたシアはといえば、何が起こったかわからないような顔で、目を丸くしている。
 ふるると睫毛を震わせるシアに、アレクシスは「コホンッ」と取り繕うような咳をして、訥々とした口調で言った。
「その、俺は余り、こういうのは得意じゃないんだが……」
「……うん?」
「目標があるなら、悔しいと思うのも、負けたくないと思うのも、悪いことではないんじゃないか?だから、頑張れる……と思う」
 自分で言っていても、いささか照れ臭くなったのか、彼の目元は微かに朱を帯びていた。
 知ったような口を聞いて、すまない、と続けたアレクシスに、今度はシアがううん、と首を横に振った。
「ううん……ありがと。ちょっと気が楽になった」
 ありがとね、と言いながら、シアは花がほころぶように、微笑う。
 まっさらな笑顔が、はにかむようなそれが、ことのほか心を揺らして、アレクシスは急に動悸が速くなったような、錯覚を覚える。
 ドクドクと早鐘を打ちそうになる心臓を、何とか誤魔化し、努めて平静を装う。
 そうか、と普段と同じ口調で言った彼の心の揺らぎを、隣の少女は知りはすまい。
 (軟弱だな……笑顔を向けられたくらいで、動揺してどうする?)
 胸に芽生えたそれを、アレクシスはシアを困らせるだけだろうと、無理矢理おしこめた。
 まだ騎士として半人前である己は、まともに恋心を告げることなど出来はしない。
 それに……
 ディークのことがふと、彼の頭をよぎった。
 出会ってから、まださほど経っていない己より、ディー兄と呼ばれていたあの人の方が余程、シアに近い存在だろう。
 まっすぐに、自分を見据えてきたディークの、自信にあふれた横顔を思い出し、アレクシスは焦りにも似た感情に、囚われそうになる。
 強く、賢く、己の力量を疑いもしない男の顔だった。
 磨き抜かれた刃のような、 光輝くものを持つあの人が、もし……。
「……どうしたの?アレクシス」
 急に何事かを考えこむように、黙り込んでしまったアレクシスの顔を、シアが不思議そうにのぞきこむ。
「いや、何でもない」
 首を横に振り、彼は自ら、暗いところへ落ちていきそうになる思考を振り払った。
 その時、御者の鞭がしなり、馬のいななきが聞こえ、車輪の軋む音がする。
 王城に到着しましたよ、という御者の声が、高らかに響いた。


 王城に到着したシアとアレクシスは、まず、女王陛下付きの女官・ルノアに出迎えられた。
 淑やかな物腰の、初老の女官に「こちらでお待ちください」と案内されたのは、謁見の間に繋がる、控えの部屋だった。
 そう広々としているわけではないが、ベージュの落ち着いた色合いでまとめられた室内、高貴なる白で統一された家具、野ばらの壁紙に降り注いだ陽光が、銀の鏡を弾いて……部屋に、明るい印象を与えている。
 部屋に案内されたシアはしばらくの間、その優雅な雰囲気を楽しむように、きょろきょろ、周囲を見回していたが、ふいに、ある一点を凝視しだした。
 少女の青い瞳が、壁の、ただ一点を見つめている。
 急に身動きひとつしなくなったシアを、不思議に思ってか、アレクシスもまた、「どうした?」という風に、同じ方向に目を向ける。
 淡いベージュ、クリーム色に近い壁を、じーっと見つめていたシアが小さく息を呑んで、一拍遅れ、その唇が音をつむいだ。
「アンネリーズ王女……」
 彼女が見つめる先、その壁からは、煌びやかなドレスをまとった美しい女が、こちらに挑むような、強い眼差しを投げかけている。
 背に流した淡い金髪とは対照的に、その蒼と翠がまじったような瞳は、どこまでも鮮烈な、他者を睥睨するような、圧倒的な輝きを放っていた。
 ひどく抗い難い魅力を持つ、その瞳の前には、身につけたるダイヤモンドの首飾りや、真珠の耳飾りにさえ色あせ、輝きを失うようだ。
 ただ麗しいだけではない、自ら跪くことを当然と思わせるような高貴さを、貴種だけ持ちうる、一種、独特の冷徹さを、その美女からは感じずにはいられない。
 今にも、その瀟洒なフリルを纏った袖が、こちらに伸ばされるのではないか。
 艶めいた唇が動いて、真珠のような歯が、冷ややかな、だが、気品を感じる声がこぼれるのではないか。
 跪いて、頭を垂れねばならぬ、と命じられるのではないか。
 そんな妄想に、囚われそうになる。
 しかし、現実には、そんなことはあり得ない。
 何故なら、その煌びやかながら、どこか冷徹な雰囲気を纏った美女は、絵画の住人であるからだ。
 いかに、その瞳が生きているような輝きを放っていても、肌の色や爪、髪の一本、一本、フリルのひだに至るまで、いかに細やかな描写をされていようとも、彼女が絵から抜け出し、こちらに、その御手を伸ばしてくることはあり得ない。
 けれども、そう錯覚しても、仕方ないような、いっそ鳥肌が立つ程の情念が、その王女の絵から伝わってくる。
 その異様さにあてられたように、とっさに言葉も出ないシアの横から、アレクシスは一歩、絵の側に歩み寄った。
 目をすがめ、その金色のプレートの文字を読む。
「アンネリーズ……クロエ……あの有名な姫君か……」
 金のプレートに刻まれた、今からざっと二百年ほど前の、王族の名前にアレクシスが微妙な顔した。
 その王女の名にまつわる、血なまぐさい逸話の数々を、思い起こしてのことだろう。
 彼の声に、シアもようやく我に返り、冷静に絵のモデルを見ることが出来るようになる。
 ――アンネリーズ王女。
 まだ、この大陸に戦火が絶えぬ時代、アルゼンタールの王の長女として生を受けた彼女は、その生涯で、多くの呼び名を持った。
 曰く、死神の接吻を受けた乙女、曰く、悲劇の王女……。
 それは、五十年余りの生涯で、三度、夫を変えたことに由縁する。ひとりめは病死、ふたりめは戦死、三度目は暗殺……時代背景を考えれば、そう異常なことでもないだろうが、幾度も夫を失い、多くの悲劇に見舞われながら、それでもなお、彼女が同情をもって語られることが少ないのは、その強すぎる瞳と、苛烈な生き様ゆえだろう。
 三番目の夫の死は、自ら手を下したという説もあり、十数年連れ添った男の死にも、落涙すらなかったという逸話も残る……。
 絵画のモデルであるアンネリーズも、様々な逸話をもって、語られることが多い人物だが、シアが驚いたのは、そこではない。
 見る者に恐怖すら抱かせるような、圧倒的なまでの精緻さ、王女の本質が伝わってくるような観察眼、何より、絵筆を握った人物が抱いていたであろう、ドロドロした、目を背けたくなるような情念が、胸をつく。
 嫌悪感を感じつつも、眼を逸らすことが、許されない。
 その半生に渡り、アンネリーズ王女を崇拝し、魂の全てを捧げ、描き続けた画家の名を……。
 シアの唇が動く。
「……シャンゼノワール」
 天才、魂宿す画家、とも評された、その男の名をシアが口にした時だった。
「その通りよ」
 涼やかな声がした。
 重くなった空気を払うように、爽やかな香気を振りまきながら、女王陛下が部屋に入ってくる。
 半歩遅れて、初老の女官が静々と、エミーリアの後に続いた。
 偶然ではあろうが、絵もモデルたる王女と同じ、白いドレスを身に着けた女王陛下は、ちらり、と絵に視線をやり、羽扇を紅唇にあてる。
 そうして、シアとアレクシスを見つめると、オリーブ色の瞳を細め、羽扇の下、麗しの女王陛下は、ひそやかに笑った。
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