女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  絵画と商人 7−6  

「――シャンゼノワール……」
 死神の接吻を受けた乙女、悲劇の王女との異名を持つ、アンネリーズの肖像画を見たシアはそう呟く。
 そんな彼女に、控えの部屋へと足を踏み入れた女王陛下は、ふふ、と満足気に笑む。
 肖像画と同じく、王族だけがもちうる気品を纏うエミーリアは、優雅な所作で、手にした羽扇を仰ぐ。
 しかし、他者を圧倒するような、睥睨するかのような威厳をまとった、肖像画の姫君と比べると、女王陛下のオリーブ色は、周りを温かく包み込むような、優しい輝きを放っている。
 唇を開いて、凛とした美しい声がこぼれた。
「すぐに気付いてくれて、嬉しいわ。さすがね、シア」
 貴女の言うとおり、これは、あのシャンゼノワールの作品よ、とエミーリアは少女の言を肯定する。
 女王陛下自らのお褒めの言葉に、シアはわずかに喜色をにじませつつも、いえ……と控えめに首を横に振った。
「アンネリーズ王女といえば……シャンゼノワールとの逸話が、有名ですから」
 そう口にしたシアに、隣のアレクシスはそうとわからぬほど、小さく首を捻った。
 苛烈な生き様と、激動の人生で後世に名を遺した、アンネリーズ王女。
 彼とて、その名に聞き覚えと、一般的な程度の知識はあるが、シャンゼノワールという画家との関係……は実のところ、よく知らない。
 けれども、「そうよ、あのシャンゼノワールよ」と応じた女王陛下と、うなずき合うシアにとっては、既に周知のことであるらしい。
 知らないものは知らないと、正直に言う他ないのだが、この状況で口を挟むのは、少々、気まずいものがある。
 戸惑うような、アレクシスの態度を、目に留めたのだろう。
 エミーリアはゆるくオリーブ瞳を細めると、
「その顔だと、貴方は、よく知らないかしら?アレクシス……シャンゼノワール、天才画家と謳われた男について」
と、穏やかな声音で尋ねる。
 その声は優しく、咎めるような響きは一切なかったが、女王陛下の心遣いに、武骨なる騎士はただ、首を縦に振ることしか出来ない。
「はっ……恥ずかしながら、名前以外はよく……」
 知った風を装うでもなく、素直に答えたアレクシスに、女王陛下は好意的な微笑を浮かべて、スッ、と羽扇を閉じる。
 そうして、銀髪の少女へと視線を向けると、閉じた扇で絵画を示し、「シア、説明しておあげなさいな」と促す。
 シアは「はい」といささか、かしこまった声で応えると、コホンッ、と小さく咳払いをし、その逸話とやらを語り始めた。
 ――稀代の天才と謳われた画家の、奇妙で、ねじれた執着に満ちた人生を。
 ある画商の長男として生まれた、シャンゼノワールは、若くして画才を認められ、有力な支援者の後押しもあり、ついには宮廷画家にまで上り詰める。
 魂宿すまで称された、鬼気迫るまでの画才で、天才の名を欲しいままにしていた彼だが、身分違いにも、王女に恋慕したことから、その人生を階段を踏み外していくことになる。
 シャンゼノワールが恋した相手とは、他でもない、かの高名なるアンネリーズ王女であった。
 王女を思慕し、彼女を想って昼も夜も明けぬという、そんな有様であったシャンゼノワールに対し、アンネリーズは路傍の石と同じ一瞥を向け、蔑むように嗤い、嘲りを隠そうともしなかったという。
 恋に溺れるが如き、シャンゼノワールの姿がひどく滑稽であったとも、あるいは、身分違いにも己に想いを寄せる画家が、不快であったとも伝わる。
 それでも、決して振り返ることのない態度が、かえって情熱を煽ったのか、シャンゼノワールはますます深く、王女にのめり込んでいくこととなる。彼が描いたアンネリーズの肖像は、実物以上に本物らしい、と言われた程だ。
 しかし、そんな宮廷画家の態度が、目に余らぬはずがない。
 身の程知らずにも、王の娘に邪な念を抱いたとして、画家は王の逆鱗に触れた。
 職を失い、宮廷を追い出せられたのみならず、見せしめとして、左腕を切り落とされたのだという。
 ――かくして、城を追われたシャンゼノワールは、流浪の身となった。
 隻腕の画家は、各地を放浪し、さまざまな場所で作品を描いたという。
 その才を惜しんだ、支援者たちの肖像画を多く描いた一方、彼はまた二度と会えもしない、アンネリーズの絵を描き続けた。
 別れてより、数十年、浮浪者と変わらぬ身なりになりながらも、シャンゼノワールは生涯、麗しの王女殿下、とアンネリーズを思慕し続けた。
 ――というのが、コレクターの間では、よく知られた話だ。
「……というわけで、色々と曰くつきであるのだけど、収集家の間では、シャンゼノワールの作品は、とんでもない高値がつくのよ」
 後半生を、ほぼ流浪の身で過ごしたゆえに、希少な絵の数々は、各地に散逸してしまっているのだと。
 頬を上気させ、シアはやや興奮気味に語る。
 なるほど、と平坦な口調で、相槌を打つアレクシスに、銀髪の少女はムッ、と感動が薄いとでも言いたげな、胡乱な眼差しを向ける。
 軽く睨んでくる少女に、騎士の青年はしょうがないだろう、と肩をすくめた。
 歴史はともかくとしても、絵やら美術品やらは、門外漢だ。
 貴族の子息として、恥かしくない程度の教養はあるにしろ、華やかな芸術の類よりも、彼は剣や盾、そういったものを好んでいた。
「ええ……シアの言うとおりよ」
 少女と青年の無言の攻防を、どこか愉快そうに眺めつつ、肖像画のそばに歩み寄った女王陛下はうなずき、紅唇をひらく。
「シャンゼノワールは王宮を追放された後、支援者の伝手を頼って、各地を放浪したから、絵も散逸してしまったのよ。罪人の烙印を押された身だけに、城にはほとんど残っていないし……」
 惜しいことだわ、と残念そうに言い、エミーリアはため息をこぼした。
 憂いを帯びた姿も麗しいが、その深いため息からは、希少なる絵が紛失してしまったことを、心底、残念がっていることが、うかがえた。
 珍しいものが大好きな女王陛下にとって、数奇なる生涯を送った画家・シャンゼノワールの作品は、収集家魂をウズウズとうずかせるものであるのだろう。
 壁に飾られている、アンネリーズ王女の肖像画、なんとか城の倉庫に残されていたそれを、愛おしげに見つめて、女王陛下はシアへと向き直る。
「シア、貴女、絵を見る目はあるわよね?たしか……前に、クラフトから聞いたわ」
「あ、はい。そこまで仰っていただく程では……それなりの知識はあるつもりですけれど……」
 確信に満ちた女王陛下の問いかけに、シアは一瞬、戸惑ったように青い瞳を瞬かせ、やや慎重な口ぶりで応じる。
 そうなのか、と横にいたアレクシスが、ほぅ、と感心したような表情を浮かべた。
 アルゼンタール国内のみならず、大陸をまたにかけた商売を行っている、リーブル商会。
 その活動は多岐に渡り、扱う品々も、また様々だ。
 中には、美術品の類を専門に扱う部署もあり、先代の孫、当代の一人娘であるシアは、幼い頃から父の後について、ずっと、そこに通ってきた。
 物心ついてからは、そこで働く人々について、美術品の真贋を見極める為の教育を受け、父や祖父には及ばずとも、それなりに目が利くという自負はある。とはいえ、それが、女王陛下の意に添うレベルのものか、までは、いまひとつ自信がない。
 ――そもそも、女王陛下は何の意図があって、このような質問をされるのだろうか?シャンゼノワールの絵と、何か関係が?
 シアは心中、首を傾げずにはいられなった。
 そんな少女の揺れる心すら見透かしたように、エミーリアはふふ、と唇に典雅な微笑をのせると、「貴女に伝えたいのは、ここからよ」と前置きし、ようやく本題を切り出した。
「実は……ある貴族の城に、シャンゼノワールの遺した絵が、存在するそうなの。なんでも、当時の城主夫人の、肖像画らしいのだけれど……」
 女王陛下の言葉に、シアは「シャンゼノワールの絵が……?」と言って、少々、驚いたように目を丸くした。
 シャンゼノワールは、生涯、アンネリーズ王女の肖像画は勿論、数多くの人物の絵を描いたが、折りしも戦乱の時代、その中で現存するものは数えるほどだ。
 ましてや、保存状態の良いものとなれば、その数は更に少なくなくなる。
 実物を見ていない以上、何とも評価のしようがないが、もし、それが本物であれば、収集家にとっては垂涎の的であろう。
 話しこそ、まじめに耳を傾けているものの、いまいち、その価値がピンときていないらしいアレクシスとは対照的に、シアは強く興味を引かれた風だった。
 価値を理解できる同志に、女王陛下は頬をゆるめ、ええ、と心なしか嬉しげに続ける。
「ええ、アインリーフ伯といって、先々々代の時に儀典長を務めた家柄なのだけれど……先祖が、シャンゼノワールの支援者だったおかげで、その城主夫人の肖像画が残っているそうなの」
 その言葉を聞いた瞬間、シアは女王陛下の意図を悟った。
 ちら、と壁に掲げられたシャンゼノワール絵画を見て、顔を上げた少女は、青い瞳をまっすぐにエミーリアを見つめて、
「……女王陛下は、その絵を欲しておられるのですか?」
と、思い切って尋ねる
 是と答える代わりに、女王陛下は唇をほころばせた。
「当代の当主は、あまり、絵画の類を好んでいないらしくて、その絵を手放したがっているそうなの。ならば、元宮廷画家の作品でもあることだし、それ相応の値で、譲ってもらえないかしら……と思って」 
 私が一声かければ、きっと献上されるでしょうけれど、それはしたくないのだと、女王陛下は言う。
 王族たるもの、他国からの貢物や、臣下からの献上品はたびたびあり、特筆すべきことではない。シャンゼノワールの絵とて、例外ではなかろう。だからといって、いたずらにそんな競争心を煽ることは、エミーリアの本意ではなかった。
 これは、女王の商人としての正式な依頼と受け取ってもらって構わないわ、と言った女王陛下の凛とした声音に、シアは表情を引き締めた。
「交渉事は、貴女に任せるわ。シア……王家の威光を表に出さず、お互い、納得いく形で進めてちょうだい」
 凛とした声の裏にひそむ、己への信頼に、シアは久方ぶりに胸が躍るような高揚感を感じて、力強く答えた。
 まだまだ未熟の身なれど、敬愛する女王陛下のお望みとあらば、出来る限り、叶えて差し上げたいと思う。
 麗しく、民から慕われる、そんな女王陛下の商人である、いうことは、少女の誇りだ。
「心得ました。このシア=リーブル、陛下の御心に添いますよう、精一杯、力を尽くします!」
 元気よく答えたシアに目を細め、エミーリアは壁際に、影のように佇んでいるアレクシスへと目線を移した。
「アレクシスも、いつも通りに頼みます……とはいえ、今回は危険なことなど、起きようもないでしょうけど」
 そうそう、危険なことばかりでは困るものね、と幾つかの出来事を振り返り、かすかな苦笑を浮かべた女王陛下に、騎士の青年は「……御意のままに」と言葉少なに、だが、恭しく応じる。
 穏やかに伏せられた瞳からは、その内心は、容易に伺い知ることが叶わない。
 シャンゼノワールという画家の、その数奇なる生涯には、彼はさしたる興味をひかれなかった。が、女王陛下のお望みが何であれ、アレクシスは騎士として、また護衛として、己の本分を果たすのみだ。
 例の、青薔薇との一件の記憶も、いまだ薄れたわけではない。
 (あの時のような思いは、したくない。――もう二度と)
 シアが囚われの身となった時、彼は心臓が凍るような恐怖を、味あわされた。とてつもなく回り道した末に、恋心を自覚した今は、尚更だ。惚れた女を、傷つけさせたい男などいるものか。
 女王陛下のお言葉に、張り切っているらしい少女の背中を見て、アレクシスはいま一度、何が起きようとも、必ず守り抜くという覚悟をする。
 ――たとえ、危険なことなど起きようもないと、そう断言されたとしても、気を抜くつもりは毛頭なかった。
「ふたりとも、頼んだわね」
 期待と信頼を宿した声で、そう口にした女王陛下だったが、シアたちが控えの部屋を辞そうとした時、「そういえば……」と思い出したように言った。
「エドワードから聞いたのだけれど、そろそろ、彼、ディーク=ルーツ……だったかしら?彼が戻ってくるとか。東国との貿易は、上手くいったのかしらね」
 何気ない、口調。
 しかし、ディーク=ルーツという名が出たことで、シアは近くのアレクシスにも伝わる程、びくっと身を震わせた。
 敬愛する、麗しの女王陛下の唇から、ディー兄、あの魔王の名が紡がれたことに、動揺せずにはいられない。
 けれども、東国との貿易と口にした時の、女王陛下のオリーブ色の瞳に宿るのは、普段の茶目っ気のあるものとは異なり、聡明な、若き女王としてのそれだった。
 議会政治とはいえ、このアルゼンタールにおいて、王は単なるお飾りではない。
 富と文化が流れ込む、異国との貿易は、エミーリアにとっても関心を寄せるものであるようだった。
 それがわからぬ程、幼くはなかったので、シアはしぶしぶ、女王陛下の問いに返事をする。
「はい。ディー……ディーク=ルーツならば、つい数日前に、東国から無事に帰ってまいりました」
 まあ、と女王陛下は声を上げる。
「そうだったの。無事に帰国することが出来て、何よりだわ。ディークとは、数年前、クラフトの供で、王宮に上がった時以来だけれども……いずれ、じっくりと東国の情勢など聞きたいものね」
「女王陛下の御心に留めて頂いて、勿体なくも光栄でございます。魔…お、ディーク=ルーツにも、今の旨、よく伝えさせていただきます」
 胸の前で羽扇をひろげ、満更、社交辞令でもなさそうに、そう言った好奇心旺盛な女王陛下に、シアは淑やかを心がけ、言葉を選んだ。
 まかり間違っても、あの腹黒魔王が……などと、口に出してはいけない。が、しかし、そんな彼女の賢明の努力も虚しく、運命の神はシアに甘くなかった。
 優雅に微笑んだエミーリアが、
「彼は、今、忙しいかしら?」
と尋ねてきた時、シアはとてつもなく嫌な予感を覚えた。
 いえ、今は別に……と、首を横に振った少女に、麗しの女王陛下は、とんでもない提案をする。
「もしも、ディーク=ルーツが良いと言ったなら、今回の依頼、彼にも手伝ってもらえると、嬉しいわ……勿論、お礼は別にすると、約束するわね」
 ――冗談じゃない!
 ――あの魔王と一緒だなんて、考えただけで、背筋が凍る!
 ――心臓が、主に悪い意味でドキドキするが……断じて、恋などではない!
 ぜっーたいに嫌だあああぁぁぁ、叶うなら、そう絶叫したい気持ちにかられたシアだったが、にこやかに笑う女王陛下を前にして、そんな奇行は許されない。
 後ろにいるアレクシスは、シアの気持ちを理解し、事の成り行きを察しているだろうが、彼が口を挟むことでも、挟めるようなことでもない。
 そもそも、父や祖父が知れば、仕事に私情を持ち込むなんて、未熟者の証拠と叱られることだろう。
 ディーク本人が断るならまだしも、女王陛下の申し出を拒む権利は、彼女には全くないのだ。
 心の中で滂沱の涙を流しながら、シアはうなずいた。
「……はい、仰せのままに」
 内心、シアに同情の念を送りながら、アレクシスはやれやれ……と、壁の肖像画へと目を向けた。
 漆黒の瞳に、絵が映り込む。
 稀代の天才画家が描いたという、アンネリーズ王女の。
 絵の住人であるにもかかわらず、蒼と翠が混じりあったような、不思議な色合いの瞳は、圧倒的なまでの強い光を放って、こちらを睥睨しているのだ。
 それを素晴らしい、と称賛する気持ちももっともだが、アレクシスが抱いたのは、言いようのない不快感、本能的な恐怖だった。
 あまりに精緻過ぎるものは、時に現実すら上回り、生者になんとも言えぬ感慨をもたらす。
 その肖像画からは、アンネリーズ王女の、苛烈すぎる内面すら浮かび上がり、こちらに伝わってくるようだ。
 何より、王女に思慕し、腕を切り落とされたという画家の、どろどろと重苦しいまでの情念、尽きることなき執着が、此方にまで纏わりついてくるようである。
 (シャンゼノワールか……凄まじさは認めるが、個人的には、余り好きになれない絵だな)
 そのおどろおどろしいまでの執着心と、王女の厳しく、冷徹な眼差しから逃れるように、アレクシスはマントをひるがえし、踵を返した。
モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2011 Mimori Asaha All rights reserved.