女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  絵画と商人 7−7  

 出発の日。
 シアは大きく広げた旅行鞄を前にして、ばたばたと忙しなく、部屋の中を走り回っていた。
 生きる伝説、リーブル商会の初代、実際のところ、ただの不良ジジィ……祖父から譲られた、年季の入った牛革の鞄には、旅の資金、薬の瓶やら下着やら、様々な旅行セットが詰め込まれている。
 入りそうで、入らないそれを、ぎゅぎゅ、と上から押し込むが、入りきらなかった淡いピンクのドレスの裾が、鞄の隙間からはみ出している。
「あーもう、入らない……入らないったら!」
 シアはぎゅむぎゅむ、と荷物を押し込みながら叫ぶと、半ば無理やりフタを閉めようとする。その合間に、旅支度を終えたものの、忘れ物はないかと、必要なものを声に出してみる。
「ええっと、女王陛下の直筆のお手紙に……いざという時のための携帯薬、あとは、櫛と下着……ああ、いけない!肝心の通行書も!」
 確認してみれば、ちゃんと必要な書類の類は揃っていたことに、シアはホッ、と息を吐く。だが、念の為と思って入れた薬瓶の中身が空だったことに、今更ながら気がついて、サーッ、と顔を青ざめさせた。何の為に入れたのだろう。コレ。意味ない!という思いが、ぐるぐると頭の中を支配する。
 ああっ、もぉ―――昨晩、ちゃんとそろえたはずなのに、あたしの馬鹿あああぁぁぁ!
 昨晩の呑気に構えていた己を、言葉の限り罵倒しつつ、綺麗な銀髪を振り乱しながら、少女は半泣きの形相で、閉まれ、閉まれえ、と唱えながら、鞄に体重をのせた。
 その甲斐あってか、今にもはち切れそうな程に、限界ギリギリまで詰め込まれた鞄のフタは、なんとか閉まった。
 いささか不格好にふくらんだそれには見ないフリで、パチンッ、と指の先で金具を止める。
 ようやく、ひと段落ついた彼女が、ふーっと一息ついた時、外から、待ちかねたような「シアー?」という呼び声がした。その声は、魔王……ではなく、ディークである。
「あわわ、今、行くわよー!お願いだから、ちょっと待っていて!」
 旅支度を終えたシアが、窓に向かってそう叫ぶと、それとほぼ同時に、部屋の扉が開いた。
 半開きの扉から顔をのぞかせたのは、メイドのリタだ。
 艶やかな黒髪を揺らしながら、ノブに手をかけた彼女は、
「シアお嬢さま、お支度はもうすんでいらっしゃいますか?外で、馬車と……ディークさんとアレクシスさまが、先程から、お待ちになっていますよ」
と、急ぐように忠告してくる。
 シアはコクコクと振り子のように首を縦に振ると、んしょ、と掛け声と共に鞄を持ち上げ、慌てて部屋を飛び出そうとする。
「ごめんなさい!すぐに行くわ!」
 ――自業自得だが、これ以上、ディー兄を待たせたら、後でどんな陰湿な嫌がらせが待っていることかっ!
 アレクシスは鷹揚というか、大概のことは許してくれる所があるが、ディー兄はそうではない。
 あわわ、と意味不明な叫びを漏らしながら、身なりにも構わず、一目散に飛び出していこうとするシアに、リタは頬に手をあて、あらあらと苦笑した。
 おぐしが乱れていますわ、と軽やかな笑みひとつ。
 猫っぽい瞳を和ませて、リタはシアの銀髪に手を伸ばし、緩んでしまった紺色のリボンを結び直す。もういいですよ、とメイドはお嬢様の背中を押した。
「はい、もうよろしいですよ。シアお嬢さま……お役目、頑張ってくださいませね」
「ありがとう――!行ってきます――!」
 くるっ、と一度だけ振り返ると、一括りの髪を尻尾のようになびかせながら、廊下を走り去っていたシアの背中を、リタは「お気をつけて」と、あたたかみのある微笑で見送った。

「ごめんなさい!お待たせ――!」
 息を切らせながら、シアが外へ飛び出すと、リーブル商会の紋がついた馬車の前には、アレクシスとディークが待っていた。
 その後ろでは、見送り、という名のひやかしに来たエルトたち三つ子、何か面白いことは起きないかと、密かにソワソワしているらしいメイドのニーナとべリンダが控えている。
 待たせてごめんなさい、と謝ったシアに、「遅いですよー」と堂々と野次を飛ばしてくるのは、エルトたち三人だ。
 やいのやいの、と姦しく騒ぎ立てる三つ子に、ひくっと口元をひきつらせ、「アンタたちねぇ……」とシアが眦を吊り上げる。
「いや、別にそれほど待っていな……」
 ゆったりと腕組みし、鷹揚にそう答えようとしたアレクシスの台詞を、ディークの一声がさえぎった。
「まったく……僕を待たせるとは、良い度胸だね。シア……しばらく会わないうちに、気がゆるんだみたいだね。どうやら、再教育が必要かな?」
 濃緑の瞳を細め、ねぇ?と話を振られたアレクシスは、とっさに返事に窮した。
 是、否、どちらと答えても、角が立ちそうな気がする。故に、朴念仁らしく、黙るしかない。
 端から、彼の反応は期待していたなかったのだろう。
 アレクシスを困らせたディークはといえば、にこにこと穏やかに、愛想良く笑っている。が、先程の言葉を振り返れば、その内心は明らかで、シアは震え上がった。尻尾を巻いて、逃げ出したいところを、ぐっと我慢する。
 青い瞳に刹那、反抗的な光がよぎり、とはいえ、己が悪かったという自覚はあるので、ついと目が伏せられる。
「悪かったわ。支度に手間取っちゃって……」
 少しばかりシュンと俯いた銀髪の少女に、ディークはふふん、と鼻で笑って、畳み掛けるように言った。
「迅速で、無駄のない支度は、旅の基本だよ。シア……再教育されたくなかったら、よーく覚えておくんだね」
 また例のワサービを食べさせられたくなければね、と良い笑顔で続けたディークに、うがががが、とシアは唸った。
「うるさい!女の支度は、いろいろと手間がかかるのよ!ディー兄なんかと、一緒にしないで!」
「……おや、逆らうのかい?ずいぶんと偉くなったものだ」
「い、いた、痛たた……ディー兄、髪なんか引っ張らないで!うぎゃああああっ、髪が抜ける!ハゲるううううっ!」
「聞こえないなぁ……今、何て言ったんだい?シア」
 ディークは好青年風の爽やかな笑みを浮かべたまま、ギリギリと、少女の頭の上に置いた手に力をこめる。
 シアは目尻にうっすらと涙をためて、悲鳴を上げた。
 なにやら混沌としていく状況に、アレクシスは微かなため息をこぼし、慣れない仲裁に入ろうとする。
 ――こう大騒ぎしていると、何が何だかわからなくなりそうだが、彼ら三人はこれから馬車で、およそ七日の道のり、アインリーフ伯の領地に向かわねばならぬのだ。目的は勿論、件の天才画家、曰くつきのシャンゼノワールの絵である。
「いい加減、そろそろ出立するべきだと思うんだが……」
 アレクシスが控えめにそう口にすると、ディークは「ああ、そうだね。僕としたことが……」と、大きな声を上げて、ギリギリと爪を立てていた手を引っ込めた。そうして、そのまま何事もなかったように、サッ、と馬車に歩み寄り、御者に何事かを告げ、中に乗り込んだ。
「さっ、行こうか」
 涼しい顔で、そう言ったディークに納まりがつかなかったのは、シアだ。
 心なしか、痛んだ気がする髪の毛を擦り、「ディー兄めぇ……いっそ、髪の毛、全部抜けちゃえばいいのに……」などと、えげつない呪いの言葉を吐く。
 アレクシスはやれやれと肩をすくめ、ぐちゃぐちゃに乱れたシアの銀髪を見かねて、節くれだった手を伸ばし、拙い、いっそ不器用な手つきで、リボンの傾きを直してやる。せっかく綺麗な髪なのだ。映えねば、惜しいというもの。
 青年の手がリボンに触れた瞬間、シアは緊張したように、ビクッと身を震わせた。
 リボンだけを整えて、サッと髪から離れていく、彼の手。
 肌にすら触れぬそれに、切ないような、苦しいような、顔が熱くなるような……どうしようもなく鼓動が速くなるのは、何故なのだろう。
 直ったぞ、気のせいか、満足気な声で言うアレクシスと、照れ臭さから目を合わせる気にもなれず、シアはうつむいて地面を見つめる。顔を見なくても、わかる。きっと、彼は微笑っているのだろう。
 ありがと、と喉元まで出かかったそれは、声にならなかった。
「おふたりとも、あのぅ」
 アルトがかりかりと片手で頭を掻きながら、少々遠慮がちに、そう声をかけてくる。
 何、とシアがそちらに向き直ると、カルトが黙って馬車を指差した。
「馬車、走り出してますよ?ディークさん、シアお嬢さんのこと、置いてく気、満々みたいですけれど……」
「いっ、何ですって―――――!」
 車輪の軋み、馬の蹄の音、ふと気が付けば、じょじょに遠ざかり、小さくなっていく馬車を見て、シアは顔色を変え、「先に行くなあぁぁぁ!」と絶叫した。
「置いて行かれるうぅぅぅ!ディー兄、あの魔王……っ!アレクシス、走るわよ!」
 まさか本気で置いていかれるわけはない、と承知しつつも、顔色を変えて走り出したシアに、やれやれと苦笑じみたものを浮かべ、アレクシスも歩調を合わせつつ、彼女と並んで馬車を追いかけた。
「行ってらっしゃいませー。お気をつけて」
 何とも騒々しい出立を遂げた三人を、エルトたちは芝居じみてハンカチを振りつつ、べリンダとニーナのメイドふたりは、品の良い笑顔で見送る。
 遠くで、馬車が停まり、シアとアレクシスが馬車に乗り込んだのを見届けたところで、彼ら五人はそれぞれの職務に戻るべく、その場に背を向けかけた。が、何かに気がついたのだろう。
 ニーナがふと足を止めて、地面の一点を凝視した。
 きつく眉がひそめられて、愛嬌のある顔が歪む。メイドの顔に、露骨な嫌悪感がよぎった。唇をひらいて、「何、これ……?」と呟く。
 そう言ったニーナの声には、隠しようもない不快感が宿っていた。
 同僚の変化に目を留めて、すぐ横を歩いていたべリンダも足を止め、どうしたの?と首をかしげる。
 ひょい、とニーナの横から、それをのぞき見た瞬間、彼女の顔もまた不快そうな色に塗りつぶされた。何かしら、これ……と出てくる言葉は、まったく同じだ。
「ん、どうしたんだ?」
「何か、変なものが落ちてたのか?」
 急に足を止めた二人のメイドを、不審に思ってだろう。
 ニーナたちの声に引き寄せられるように、先を歩いていたエルトたち三つ子も立ち止まり、メイドたちが指さすそこへと駆け寄った。それを目にした瞬間、三つ子たちもまた不審げに、きつく眉を寄せ、何だこれは、という顔をする。
 アルトが、気味が悪い、と吐き捨てた。
「何だ。これ、イタズラか……?」
 リーブル商会の建物のほぼ真横、いつの間にか、“それ”は置かれていた。
 鋭利な刃物でだろう、グチャグチャに切り裂かれた、クマのぬいぐるみ。
 首と腹からましろい綿が飛び出たそれは、さながら臓物をぶちまけたようで、ひどく無残な有様だ。
 そのぬいぐるみを囲うように、地面にばら撒かれた、色とりどりの紙の切れ端。それらもまた、同じく、鋭利な刃物で切り裂かれたようだった。
 意味のわからぬそれは、嫌がらせとも、ただのイタズラとも判然としないそれは、であるだけに、なんとも言えず不気味である。
「誰が置いたんだ、これ……確か、昨日までは、何もなかったよな?べリンダ」
「ええ、一体、誰がこんな真似を……?」
 エルトの問いかけに、べリンダがうなずいて、ぬいぐるみの残骸に痛ましげな目を向ける。
 カルトは膝を折り、身をかがめ、ぬいぐるみの周りにばら撒かれた、紙の切れ端、その一片を拾い上げた。
 拾い上げた紙は、グチャグチャに切り裂かれていたものの、何らかの意図をもって描かれたものなのだと、彩色されたそれが告げている。
 首を捻ったカルトの口から、「絵……?」と不思議そうな声が、こぼれ出た。
「あー、何なんだろうな。これ、わけわかんないけど、気味が悪りぃし……」
 いささか持て余し気味に言い、アルトは苛立ったように頬を掻く。
 首を、腹を、刃物で切り裂かれたのクマのぬいぐるみは、どこか猟奇的なものを感じさせる。
 単なるイタズラ、の一言で片づけるにしては、いささか悪趣味が過ぎた。
 殺されたクマを弔うように、白い花のような紙の切れ端が並ぶ、それはさながら葬儀を想わせ――その薄気味の悪さに、なんとも嫌な気分になる。
 拾い上げた紙きれをじっと見つめて、カルトがもう一度、「元は、何かの絵みたいだけど……」と独り言めいて呟く。
 エルトが、重く淀んでいく空気を振り払うように、大きく首を横に振った。
「考えたところで、わからないさ。リーブル商会への嫌がらせかもしれないし、あるいは、ただの子供のイタズラ……だって、考えられるだろう」
 うなずきつつも、アルトは「ガキのやることにしちゃあ、陰湿すぎるけどな」と、鼻を鳴らした。
「ただのイタズラ……なのかしら?」
 何となく、胸騒ぎに似たものを感じながらも、それを認めたくなくて、ニーナはただのイタズラであって欲しい、と願望をこめた願いを口にする。
 脅迫、嫌がらせ、その他は……考えたくもない。
 たいそう悪趣味ではあるが、ただのイタズラであって欲しい、という気持ちは皆、同じあったので、エルトもふーと深く嘆息しつつ、「そうだといいな」と首を縦に振る。
「旦那様に、報告する?」
 カルトの問いかけに、アルトは肩をすくめ、「……一応な」とうなずいた。


 シャンゼノワールの絵を所有する、アインリーフ伯の領地までは、順調にいって馬車でおよそ七日ほどの道のりである。
 旅慣れていて、移動を苦にしないディーク、騎士として壮健な肉体を誇るアレクシスはともかく、女であるシアや、御者や馬も休ませねばならぬため、折々、宿を取り、小休止を挟みながら、馬車は一路、目的の場所へと進んでいた。
 窓を流れる景色が、華やかな王都の街並みから、橋を渡り、川を越えて、やがて緑豊かなる田園の、牧歌的なものへと移り変わっていく。
 耳を澄ませば、馬の蹄の音や車輪の巡る音と重なり、小川のせせらぎが聞こえてくる。
 それらの風景を横目に眺めながら、さして長くはないが、短いとも言えぬ道中、シア、アレクシス、そして、ディークの三人は他愛もない会話を交わしながら、移動の時間を潰していた。
「――そんなわけで、東国ムメイの民の手先の器用さには、驚きを隠せなかったよ。旅で出会ったソーリョ、という男が教えてくれた通りだった。まるで、お伽噺の魔法使いだね。あれは」
 そうそう、サムライ、って知ってるかい?あれはね……
 柔和な微笑を浮かべ、時折、慣れた風な冗談を挟みながら、ディークは他大陸で見聞した様々な珍しいことを、面白おかしく、彼らしい軽妙な語り口で喋る。
 商人としての生業だけでなく、心から旅を好んでいるのだろう。
 その青年の濃緑の瞳は、揺るがぬ自信と、冒険心に溢れていて、魅力的だった。
 一般人には、半ば夢物語にも近い、生涯、足を踏み入れることのないであろう、東の果て――。
 伝聞ではなく、己が目が耳で見聞きしたことを語るディークのそれは、異郷の文化への興味をかきたるものだった。されど、青い瞳にうずうずと新天地への好奇心を宿し、要所、要所で、問いかけや合いの手を入れるシアとは異なり、アレクシスは訥々と「そうなのですか」などと、面白みのない相槌を打つことしか出来ない。
 歴史ある貴族の生まれ、建国時より続く騎士の家系として、厳しい鍛錬を積んできた彼であったが、その反面、海を隔てた大陸、異国の文化や知識は人並み、ディークやシアと比べれば、乏しいと言っていい。
 麗しき西の覇者、と称された血筋に驕るがゆえか、流行りものに目がない平民とは異なり、アルゼンタール貴族階級は代々、異国の文化に対しては、やや閉鎖的だった。
 育った環境ゆえのそれを、断じて恥とは思わぬが、国境や海を越え、遥か遠くの国々を旅してきたディークと、対等に語り合うこと出来ないのが……哀しいかな、現実だ。
 それがわからぬディークではあるまいに、亜麻色の髪の青年は、あえて、相手がわからぬのを承知の上で、アレクシスに話を振ってきているようなフシがある。
「ああ、勿論、こんな話はご存知でしょうね……アレクシス殿?」
 穏やかな声音、人当りの良い微笑を向けてくるディークからは、他意じみたものは感じられない。
 しかし、一見、友好的に見える濃緑の瞳の奥には、時折、どこか嘲りにも似た、侮るような光がよぎる。
 慇懃無礼、というべきか、丁寧に接しているようで、実際のところは、小馬鹿にしているようですらあった。
「いや、知りませんでした。ディーク殿の異国のお話しは、驚くことばかりですね」
 アレクシスが素直に応じ、首を横に振ると、ディークは「ククッ、ご謙遜を」と小さく喉を鳴らした。
 あまり、良い印象の笑いではない。
 戸惑ったように、アレクシスは微かに眉を寄せる。
 彼としては、正直に答えただけだったのだが、相手はそうと受け取らなかったらしい。
 微妙に、気まずい空気を察してだろう。
 シアがどうしたの?とでも言いたげに、首をかしげ、気遣わしげな視線を向けてくる。青い瞳が揺れて、サラリ、と銀の後れ毛が流れた。
 そんな彼女を心配させたくなくて、アレクシスは何でもない、と目線だけで示す。
「さほど珍しい話でもありませんが……ムメイの騎士は、サムライ、と呼ばれていて、主君を守るために、カターナという武具を使って戦争をするのですよ。ああ、そういえば……貴方の実家は、建国以来の騎士の名門でいらっしゃるのですよね。アレクシス殿」
 言葉を切り、ディークは目を細めた。
 濃緑の瞳が、騎士の青年の姿を映す。
 その後に続けられるであろう言葉を思い、それ程では……と謙遜したアレクシスは、本能的に身構えずにはいられなかった。
 己の矜持を守る為か、反射的に退いた彼の甘さを嘲笑ってだろうか、ディークはあくまでも柔和に、人当りの良い表情を浮かべながら、唇をひらく。その舌がつむぐのは、いっそ辛辣と言っていいそれだ。
「戦争のないこの時代、実より名を守り続けるのは、大変でしょう。それを為さる貴方は、ご立派だ。騎士殿」
 ――この平和な時代に、騎士などという身分を継ぐことに、そのような古臭い伝統を守ることに、一体、何の意義があるのか、と。
 身分を伝統を、矜持を、あっさり切り捨てるディークのそれは、新しい時代の感覚を持つ者のそれだった。貴族と平民の壁すらも、重んじないそれは、眩しくもあったが、一方で、限りなく残酷な台詞でもある。
 無駄な足掻きよ、時代遅れよと陰口を叩かれようとも、それを守り抜いてきた者にとっては。
「……いいえ。ただ、捨てる勇気がないだけです」
 遠回しな、挑発のようにすら取れるそれに、アレクシスが激することはなかった。闇の如き、静けさをたたえた漆黒の瞳で、ディークを見つめ返すと、穏やかな、だが、どこか凛然とした声音で言い放つ。
 それは、変化を受け入れない頑迷さとも、一種、清々しいまでの誇り高さともいうべきだった。
 一瞬、男たちの視線が交錯し、睨み合いとも言える状況を作り出す。
 が、それは不快そうに眉を寄せた少女の一言によって、脆くも崩れ去った。
「ちょ、ディー兄……」
 黙っている気になれなかったのか、シアはアレクシスを庇うように、窓側から身を乗り出すと、「そんな言い方、失礼でしょ」とディークの耳元に唇を寄せ、抑えた声で叱責する。
 男たちが、何を張り合っていようと、彼女には興味の範囲外であったが、それでも、見過ごせない言動というのはある。
 シアの言葉に心を揺り動かされたわけでもあるまいが、亜麻色の髪の青年は、しょうがない、とでも言いたげに肩をすくめると、小さく吐息を吐き出し、チラッ、と窓の外へ目をやった。遥か遠く、どこまでも広大な畑の広がるそこに、目をすがめ、ディークはようやく話題を変えた。
「もうすぐ到着だけど……このまま、まっすぐで良いのかな」
 そう言われると不安になったのか、シアも首を回し、窓の外の風景をじっと見つめる。
 おそらく、地図の通りに来ていると思うが、アインリーフ伯の領地に来るのは初めてだ。自信はあまりない。
「道は、あっているのだろう?」
 アレクシスの声に、ディークは「さあ、」と首を捻り、御者に確認しないと、と呟いて、馬車を降りる。
 馬車から降りた青年は、遠目に畑にいる農夫の姿を見つけ、そちらに走り寄った。畑を見回る、その格好を見ても、この近隣の住人であろう。
 ディークが、農夫に駆け寄るのを、シアとアレクシスは馬車の中から見守った。
「お邪魔して、すみません。少々、お尋ねしたいのですが……ご領主様のお屋敷へは、この道を真っ直ぐでよろしいですか?」
「んあ」
 突然、声をかけられて驚いたのだろう。
 弾かれたように顔を上げた農夫を安心させるよう、ディークはにこり、と人の警戒を解くような、愛想の良さを発揮する。それが功を奏したのか、中年の農夫は「んん、ああ……」と、少々、言葉を詰まらせながら、うなずいた。
「ご領主様のお屋敷なら、この道をそのまま、真っ直ぐだなあ。お兄さん……ご領主様に、お会いしに行くのかい?」
 道はあっているとうなずきながら、農夫の言葉は、どこか歯切れ悪かった。
 その表情からは、うっすらと陰りが感じられる。
 ええ、とディークは首を縦に振ると、これ以上、農夫の邪魔はしまいと、「ありがとうございます。助かりました」と最後まで愛想良く、柔和な笑みで礼を言い、身をひるがえした。
 早足で馬車に戻ると、御者に何事か話をつけ、馬車は再び、アインリーフ伯の屋敷を目指して走り出す。
 御者の鞭がしなり、宙に砂埃が舞った。
 やがて、影すらも見えなくなる馬車を見送り、額の汗をぬぐった農夫は、はあ、とため息をもらす。
 続けられた声には、若者を案じる、心配げな響きがあった。
「ご領主様のお屋敷には……出るっちゅう噂なんだけども……」
 そんな農夫の声が、耳に届くはずもなく、シア、アレクシス……そして、ディークを乗せた馬車は、迷うことなく、一路、領主の屋敷へと向かっていった。 
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